第13話 決別のとき

本殿裏、ならいの門。爆発音が響き渡るこの門には、西の風にはじかれて、まだ火の手は上がっていない。

黒曜石で作られた入り口のすぐ横にある小さな裏戸。鉄の格子になったその扉は中から電子ロックがかけられている。


その隙間に顔をはめこみ様子を窺う倉見。足元では戸部が這いつくばるように、石で格子を削っている。

倉見「どうだ?取れそうか?」

はめ込んだ顔にはギコギコと振動が響く。

戸部「それがなかなか…下の方ならサビがきてるからいけると思ったんですけどね」

尻を突き出したまま、地道に手を動かす戸部。


倉見「ったくあのばあさんがくれたカードは使えねえし、進展なしか…」

静子から渡されたマスターキーを下に投げる倉見。

戸部「いえ、一つわかった事が」

倉見「お?なんだよ。」

戸部「蟻塚さんの、鑑識メンバーの気持ちが」

納得するように格子の間で頷く倉見。

倉見「…地面這って何が何でもって執念か、確かにな」

戸部はゆっくりと体を起こし険しい表情を浮かべる。

戸部「いえこの腰の痛み、半端ないっすよ」

倉見「っは?…ったくお前はよーこんな時までボケんでいいわ!」


戸部「ボケてません!本当に痛いんだから、先輩やってみてくださいよ!さっきからずーっとボクだし!」

倉見「それは下っ端の仕事だろうよ?」

戸部「あー!ボクが入った時〝倉見班には上も下もない…〟って無駄に格好つけて言ってたくせに!うそつきうそつき!詐欺だ!訴えてやる~!」

耳に指を突っ込んだ倉見が振り返る。

倉見「…戸部、いい言葉を教えてやる。…過去は振り返るな!」

戸部「そんな昔じゃありませんよ!」

倉見はかったるそうにぐるっと首を回すと、また格子に顔をはめ、ダランと両手をぶら下げた。戸部は聞こえるように大きくため息をつくと、今度は二つの石で挟むようにゴリゴリと削り始めた。

倉見「…ああああああ…あああああ」

戸部「もう!今度は何ですか!?」

倉見「振動が~顔がほぐれる~あああああ。」


マッサージ機に座るおじさんのような表情の倉見に戸部は呆れかえって声も出ない。すると持っていた石を後ろに放り投げると膝をパタパタと払い始めた。

戸部「…ボクのこぎり探してきます。」

歩き出す戸部を見ようともせず、はめこみ倉見がつぶやく。

倉見「そんなのある訳ねーじゃん。」

戸部「のこぎり…のような物!探してきます!」

くるりと背を向けて歩き出す戸部。


倉見「…おい、」

戸部「もう知りません!」

いじけた戸部は振り返らないで歩き続ける。

倉見「…おい…」

戸部「知りません!」

倉見「…おい!!」

戸部「だから知りませんて…」

イライラが募り振り返った戸部は、前を見てそのまま固まった。


倉見と同じ目線の先には、漆黒の袴を揺らし、左肩に女性を乗せてゆっくりと歩いてくる鹿子の姿が見えたのだ。

倉見「…鹿子!おい!!」

近づく鹿子、ほんの数メートルの距離さえもどかしいと言わんばかりに格子を叩く倉見。戸部も加わる。


鹿子は息を切らせながら、片手でロックを解除する。


~ガッチャン~


隙間のできた鉄格子の扉を倉見が急いで開けた。

倉見「…お前、なんだよびっしょりじゃねえか…」

髪も袴も滴りそうなほど濡れている鹿子を見つめ、倉見は険しくその姿を見つめた。

鹿子は呼吸もおさまらぬまま屈み、肩からずり落とすように女性を下ろそうとしている。すかさず倉見が手を出すと

鹿子「触るな!…ハア、ハア、ハア…いいから…」

倉見は穿った顔をしながらも手を止めた。鹿子はそのまま草むらに寄ると、女性を仰向けにして寝かせた。薄いピンクの着物は帯まで真っ赤になっていた。

倉見「…茜ちゃんか?」

倉見は上着をぬいで茜の上にかけた。戸部も近寄り顔を覗き込むが、茜は目を閉じたまま動く様子はない。戸部もすぐに上着を脱ぐとそれをくるくると丸め、小石の転がる草むらと茜の間に挟んだ。


戸部「…脇腹もすごい出血ですよ…」

戸部の手にはベットリと血がつき、掌が真っ赤に染まっている。

倉見「…生きてるのか…?」

鹿子「…大丈夫だ…ハァ、ハァ…病院に運んでくれ…ハァ、ハァ。」

息が治まらない鹿子。

戸部「大丈夫って量じゃありませんよ!早くしないと間に合わない!」

倉見「…とにかくここから離れるぞ。…鹿子、歩けるか?」

鹿子「…問題ない…ハァ、ハァ…」

倉見「だめならオレがおぶってやる!戸部!」

戸部「はい!茜さんはボクが背負います」


倉見は鹿子の顔色を見ながら、戸部の背中に茜をそっと乗せる。息を切らしたままの鹿子は後ろでほっとした表情を見せていた。倉見は不思議そうに頭を傾げる。

倉見「お前…大丈夫なのか?茜ちゃんに狙われてたって…」

静子の話をこっそりと呟く倉見の声は、荒い息遣いに所々消されて届く。

鹿子「…問題…ない…ハァ、ハァ」

倉見「…そか…。しかしよく担いできたな!さすが警部補だわ!」

鹿子がわずかに笑う。

倉見「よし、急ごう!」


倉見を先頭に、戸部、鹿子と続き歩き出した四人。

鹿子「…そうだ、倉見…ハァ、ハァ…」

倉見「おう?」

鹿子「ハァ、ハァ、石…持ってきたか?」

倉見「あぁ、あれな…って、え?」

倉見は足を止めずに続ける。


倉見「お前が持ってるんだろ?」

鹿子「…ハァ、ハァ…?」

倉見「あの婆さんがお前が持ってるって…茜ちゃんや他の輩がお前の命を狙ってるから助けてくれって…。あの地下の物置にあったダミーを囮にして自分が時間を稼ぐから、お前を助けろって泣いて訴えてたんだぞ?」

鹿子の顔色がみるみる険しくなり、足が止まった。


倉見「まぁ安心しろ。オレらが来たからには石でも何でも全てが無事。そんな事より早くいかねえとこっちもやば…」

戸部「ちょ、ちょっと鹿子さん!?」

倉見が振り返ると、肩を押さえながらならいの門へ戻っていく鹿子の姿が。

倉見「お前何やってんだよ!!」

慌てて走り出した倉見は、茜を背負った戸部の前を通り過ぎると、また戻って一瞬止まった。


戸部「先輩何やってんですか!早く行って!」

倉見「…戸部、このままいけばあの収容房につく。そこを抜ければ電話がつながるからすぐに救援を呼んでくれ」

戸部「わかってますから!」

倉見は固く頷くと、戸部に背を向けた。

倉見「戸部……気を付けろよ」

戸部「……当たり前じゃないですか!そもそもこっちのセリフですよ!」

倉見は口の端を少し上げて走り出した。戸部は視界を邪魔する風に無抵抗なまま、背中で倉見を見送る。


倉見「おい戸部―!茜ちゃん死なせたら承知しねーぞー!!」

走りながらそう叫んだ倉見に、

戸部「…言うと思った」

と戸部は満足そうに一瞬笑い、茜をしっかりと背負いなおして歩き出した。



慌てて追いかける倉見の前には、肩で息をしながら既に門に入りかけている鹿子が鉄格子に手をかけていた。

倉見「ふざけんなって!!!」

閉まりかけた扉に唯一残っていた左袖を倉見は思い切り掴む。


~ガッチャン!~


倉見「……」

掴んだ…掴んだ…が、左袖には在るはずの手ごたえが、ない。

強く握った倉見の拳の中で、くしゃりとはみ出した黒い袖が、まるで絞り出されたざくろの果汁のように、ピタン、ピタンと地面に印を打つ。


倉見「…お前…腕が…!!」

思わず放した袖を、中からするっと引きこむ鹿子。肩を押さえ、治まらない早い呼吸を食い縛って堪える。

倉見「…じゃ、さっきの茜ちゃんの血は…」

鹿子「…」

倉見は頭からグラグラと落ちていく感覚を覚えた。今自分の前で追い詰められた兎のように体中で息をする鹿子を、強烈な光を放つ硬い瞳を、ただ呆然と見つめていた。そんな倉見に神妙な面持ちで鹿子が近づいた。


鹿子「…倉見、聞いてくれ」

倉見「………」

首を振りながら目を伏せる倉見。

鹿子「…倉見!」

さらにまた一歩、鹿子は近づく。

鹿子「わたしを見ろ!」

ビクっと反応した倉見はゆっくりと顔を上げ、すぐそばにある鹿子の顔をようやく直視した。


倉見「…早く…」

無意識に発したその言葉で、我に返った倉見は今度は力強く鹿子に目を向けた。

倉見「何してんだ!ぼさっとするな!早くこっちに来い!!」

倉見は格子の隙間から手を伸ばす。鹿子はもう一度口を噛み、湧き上がる呼吸を抑え込む。


鹿子「…倉見、聞いてくれ」

倉見「聞くよ!ここを出たら何でも!だから早く…」

鹿子「いいから!…聞いてくれ!頼む!」

倉見「だから後で…」

伸ばした倉見の腕を掴む鹿子。避けようのない視線が、真っ直ぐ倉見に突き刺さる。


倉見「…わかった、何だよ!」

鹿子「…火がおさまったら、学校の南側にあるプールの水を抜け…排水レバーはプールの真横にある」

倉見「それがなんなんだよ!」

鹿子「プールの下は…シェルターになってる。完全に排水されると、自動的に横のドアが開くから、そこに避難してる人たちを…助けてほしい」

倉見「わかった。必ず助けるから、早くここ開けろ!」

鹿子「…頼む!」


ほっとした表情を浮かべ、倉見の腕を離すと鹿子はゆっくりと後ろに下がりだした。

倉見「…おい!何してんだよ!?」

鹿子「…静子を…探す」

倉見「婆さんならフェラーリの車庫にいる!ここにはいない!」

鹿子は大きく首を振る。

鹿子「静子は本殿にいる、絶対に…必ず見つける…ハァ、ハァ…。」

ゆっくりゆっくり、後ずさりをする鹿子。

倉見「おい!」

倉見は鉄格子を鷲掴みにしてガシャガシャともがきだすが、びくともしない。


倉見「おい!!おいって!」

鹿子「早く…行け。今お前が動かなかったら…誰も…救えないぞ」

倉見「偉そうに言えた立場かよ!お前こそとっととこっちに来い!!…こんな所で無駄死にしてーのか!!」

鉄格子の中で必死にもがき続ける倉見…鹿子はかすかに大きくなった瞳を倉見に向けた。


鹿子「…この日をずっと、見つめてきた、ずっとな。ヘロインで息子を亡くした千藤弥生は、大切なものを失い、これからの人生に生きる意味がないといったが…わたしは失ったものを取り戻すことで、これまでの人生にようやく意味が生まれる」

倉見「…なんだよそれ…なんなんだよ!!」

ガシャーン!と大きな衝撃音を立てて、鉄が叩かれる音が止む。


倉見「いい加減にしろ!!オレはな、お前のそういう勝手すぎる性格が腹立つんだよ!」

鹿子「…お前もな!バカで単純で脳みそ使わないで走り回って…だから…」

倉見「………」

鹿子「…だから、あとは頼んだぞ、倉見」


少し笑みを浮かべた鹿子はそう言い終えると、けたたましい衝撃の渦巻くトンネルの中を、一度も振り向くことなく消えていった。


どこかで、この光景を見るであろうと感じていた倉見は、潰れるほどに目を閉じると、冷たい鉄格子からゆっくりと指を離した。



静子「何をしておる?」

熱せられた階下の温度を感じながら、静子は廊下の先に見えた漆黒の後ろ姿に声を放つ。すぐさま振り返った鹿子、その異様な姿に静子は思わず息を呑む。


窓ガラスに打ち付ける激しい風の音にピクリともせず、鹿子は真っ直ぐに近づいてきた。

鹿子「…石を…渡せ!」

静子はじっと鹿子を見つめ一瞬目を細めると、なぜかニヤリと笑みを浮かべた。

静子「ほぅ、腕を失くしたか」

だらりと垂れる左の袖を伝い、一滴一滴止まることなく落ちていく雫が、袴を縁取る白い襦袢を赤黒く染めている。


鹿子「石を…!」

バランスの取れない右腕は、痛みに反応した体を勢いよく前に倒した。跪

いた鹿子の前に悠々と近寄る静子。

静子「崇守としての努めも果たさず、何を言われるか」

鹿子を見下ろしながらそう言うと、静子は帯に挟んだUSBを取り出し、目の前に見せる。

静子「神の石さえあれば村は死なぬ。お前が死んでも、例えこの地が焼け失せようとも、神川の念を絶やすわけにはいかぬのじゃ」

床についた右手を震わせながら、膝をたてて立ち上がる鹿子が、恐ろしいほどの力で静子を睨む。

鹿子「…まもなく警察も…くる、終わりだ」

静子は動じる事もなく頷いている。


静子「お前が向こうで何をしていたか、全てわかっておるぞ。売買の密告をしたのも、枝カードを置いた事もな…警察に入ったのも初めからそれが目的じゃったのじゃろう」

背中に息を乗せながら、鹿子は少しずつ前にすすむ。

静子「全て無駄になったな…この石をもって抑えられぬ事などない、警察が何百と動いたところで無意味じゃ」


手の中できらりと光る銀色の爪は、力に憑りつかれた老婆の目を映し出している…その瞬間、ふわりと浮いた静子の体が後ろの床へと倒れていった。足元には食い縛りながら片手で足を押さえる鹿子がいる。

静子「放せ…!」

容赦なく蹴りあげながら、脱げた草履を残し立ち上がった静子、鹿子もゆっくりと立ち上がるが、その瞳にはかろうじて残る、小さな灯だけだった。

二人は互いに目をそむける事なく、息を切らせたまま向かい合っていた。


~ギギギギギギ…ゴーーーーー~


その間を裂くように鳴り響く音、今までとは明らかに違う異音が真上に響いた。

鹿子「…?」

すると間もなく、ガラスに打ち付けていた風の音が遠くなり、やがて本殿の揺れが収まり始めた。


鹿子はすぐさま廊下の窓を叩くように開け放すが、外の風は鹿子の肌を叩くこともなく、逆に髪を前に引っ張るように吹きすさんでいた。

鹿子「…風が、変わった…?」

炎のたてがみをまとった風は、あきらかに勢いを増して本殿の裏へと流れを変える。


鹿子「なぜ…急に…!?」

息を吸い込んだまま動揺する鹿子を、静子は怪しい笑みを浮かべて見ている。

鹿子「…静子…?でもどうやって…!」

なにかに気付いたように、窓を辿りながら廊下の突き当たりへと必死に動く鹿子。落ちていた瓦を拾い一番奥の窓ガラスを叩き割る。


ギザギザになったその窓枠を覗いてみると、すぐ裏の山で止まっていたはずの八基の大きなプロペラが、西を向き速度を上げながら回り始めていた。

鹿子「………!!!」

静子はその背中をじっと見ている…だんだんと鹿子の肩が逆立っていくのを、今にも割れそうな赤い目が目線の先にいる自分をしっかりと捕らえていく姿を。


鹿子「…静子…!」

静子「…風力塔の配線は山のはるか地中に埋まっている…この熱風が客人に追い付くのも時間の問題であろう」

鹿子「…お前…!!」

今にも襲い掛からんばかりの鹿子に、静子は小さく人さし指をたて、そのまま続けた。


静子「一つ、良い事を教えてやろう…風力塔を止める緊急スイッチはすでに破壊した」

鹿子「!」

静子「…塔の地下にある電子盤を切る以外方法はない」

鹿子「…!」

目を大きく広げた静子は、一瞬の怯みを見せた鹿子に少しずつ近寄っていく。

鹿子「…電子盤…」

静子「…じゃが、お前には今更不要であろう」

ますます笑いの止まらない静子に燃え上がる興奮が纏わりつく。


静子「…全ての罪を晒し、この村を正しい道へ導くのじゃろう?例え全てを失おうとも、誰を犠牲にしようとも、それがお前の正義なのじゃろう?ならば見届けるがよい、灰となる者の最後を…!」

鹿子「………くっ…!」

鹿子は見えない何かを掴むように、逆立つ肩を抑えながら強く目を細める。

静子「さぁ…!お前にとっての善を、選ぶがよい」

そういって静子はUSBを自分の後ろに投げ、寄り掛かる鹿子をじっと見つめた。


鹿子は右側の壁を伝いながら、一歩ずつ静子の元へと戻っていく。すでに赤みを失いつつある顔を前に向けた。

ズルズルと幾度となく左に傾く袴の後には、隙間のない黒い足跡が床を染めていた。じっと動かない静子の横を通り過ぎ、間もなく光る銀の爪が鹿子の目に反射すると、その姿を見届けるように静子が振り返った。


ゆっくりと、確実に、石へ近づく鹿子、ようやく手を伸ばせば届くという瞬間に、鹿子はもたれていた壁をそのまま伝い、階段を下りて行った。

カタン…カタンとおぼつかない足音を見送りながら、静子は残されたUSBを拾い上げると、同じ階段を静かに上がって行った。


荒れ狂う炎は風を生み、さらに勢いを増して瓦礫を巻き付け駆け巡る。ケシ畑に円を描きながら北上していく火は、その花に導かれるように、高台に建つ香鹿の病院に到達した。

一瞬にして赤い輪に取り囲まれた院内。その奥にはあの重厚な鉄の扉を開け放し、窓辺に立つ香鹿の姿があった。


香鹿はいつものように、コーヒーをすすりながら外を見ている。…ユラユラと真っ赤に染まるケシの花が音を立てて落ちていく姿をただじっと見つめていた。


香鹿の背でわめく炎が、一歩一歩そのガラス越しの花を目指して手を伸ばす―まるで離れ離れになった子を迎えに来た母親のように、震えた火の先は遮るものを焼き払い、それを全て巻き込みながらズルズルと向かっていく。そしてとうとうガラスを突き破ると、吐き出すように花畑に流れ込み、一際大きな渦となって交わった。



空に向かって無数の爆発音が轟き、間もなく炎に呑み込まれようとしている本殿の最上階。その中で、静子はひっそりと座っていた。


おもむろに、懐から携帯電話を取り出すと、一つ一つ、噛みしめるようにボタンを押し、そっと耳にあてた。

静子「………久しぶりだな、助……」


~!!ドドドドン!ドン!ドン!!~


柱が一つ二つと倒れだし、激しい振動が続く。少し曲がった静子の背中で、ユラユラと揺れる赤い模様が、真っ白な障子を染め始めている。

静子「…ああ…お前が手引きしたあの刑事は無事じゃ」


~!!ガラガラガラガラ!!ドドーン!!~


赤い風が激しく吹き荒れた。

静子「……まさかお前が、鹿子様に手を貸すとはな…夢にも思わんかった。……断る!この石はわしが持っていく」


~!グッシャー!!!ガッシャガシャ!!ゴゴゴゴゴー!!!!ドドドドン!ドン!!

静子「…そんなもの微塵もない。…この道しかなかった…それだけのこと……」


~!!ガラガラガラガラ!!ドドーーン!~


静子「…もう仕舞いじゃ……お前には見えぬだろう本殿にそそぐこの光が…選ばれた者だけが見る事を許される、神聖な空じゃ。…お前には決して見せぬ!決してな!…」


~プツッ~。


…暴れ狂う炎の波は、ついにその背中へと迫る。静子は電話と石をきつく抱きしめると、柔らかに微笑み目を閉じた。間もなく、腹を鷲掴みにするような激しい地鳴りが響きわたると、火はその小さくなった背中を包み込み、きらびやかな神殿と共に大地の底へと沈んでいった。


…プツッ…

携帯電話をあてたまま、草むらに立ちつくす男。遠くに黒い煙が立ち昇り、その下には夕焼けのような炎の帯。

「お母さん…」


次々と崩れていく建物、容赦なくかき乱す火の嵐を唇をかみしめて見つめている。遠目に見える空はまるで墨壺をひっくり返したかのように、じわじわと黒煙が広がっていた。

…ふと、上着の胸ポケットから手帳を出してみる。最後のページに一枚の古びた写真。

そこには、柔らかい微笑みを浮かべた静子と、その真っ白な手にぶら下がる無邪気な男の子の姿があった。


男はじっとその写真を見つめる。しかし、見れば見るほど写真ははぶれて、輪郭をぼやかし見えなくなる。必死で手を抑えても、何度目を拭っても、手は震え、目はにじむ…写真が、見えない…。

男は頭をくしゃくしゃと引っ掻きながら、落ちるように膝をつき、掌に触れた土を握りつぶした。


強く瞼を閉じると、遠くに聞こえる木々の鳴く声。山から染み出る水はゆっくりと川に注がれ、水面を跳ねる細やかな光を小さな手が掬い、また空へと帰していく。

そんな記憶に思いを馳せていた男の瞼にふと、話しかけるようにゆらゆらと障るもの。


目を開けてみると、それは地面にのびる自分の影だった。男は瞬きをしながら顔を上げる。自分の真上には雲一つない、澄んだ青空が広がっていた。

ここにはあの黒煙は届かない。母が決して見せぬと言った空は、確かに見えなかった。


沈黙を打ち砕くように、後方でけたたましくサイレンが鳴り響き、それに続く何台ものパトカー。そのうち一台が急ブレーキとともに止まり、一人の警官が降りてくる。


警官「野杖さん!?一ノ前駐在の野杖さんですよね!?無事だったんですか!?」

野杖は携帯電話をパタンと畳み一呼吸置くと、モコモコとした白い封筒をズボンのポケットに忍ばせながら、しっかりと、そしてゆっくりと振り返って頷いた。

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