第9話 枯れない嘘

頭の中を浸食していくような頭痛が、倉見の瞼をピクピクと動かし始めた。

遠くの方で誰かの話し声が聞こえる、二人の男の声。


男A「…さあな。どうするつもりなのかはわからん」

男B「こいつら宗雄を追ってたんだろ?尾けられたのか?」

男A「尾けられたのならもうとっくに来てるだろうし、二人だけっていうのも変だろう?」

男B「だったらどうして?上のセンサーも作動しなかったし、あのトンネルまでどう来たっていうんだよ…?」

男A「さあな。とにかく手を出すなって上からのお達しだ、おれたちは従うまでよ」


だんだんと遠ざかる声、倉見は上がりそうになる瞼を必死で潰している。


~ピー…ガチャ…ガシャン~


話し声を吸い込むように扉が閉まり、聞き覚えのある電子音が響く…倉見はそのままじっと耳を澄ませていた。


さっきまで全身麻酔にかけられたように固まっていた手足が、少しずつ動かせるようになった。薄目を開けてさらに詳しい状況を探る。

―拘束はされていない、頭痛は多少残るもののケガもなさそうだ。コンクリートむき出しの壁に六畳ほどの空間、正面には横長の覗き穴がついた鉄のドア、身長一八〇センチの倉見を裕に超える高い天井には特大の蛍光灯がついている―人の気配がないことを確認した倉見はゆっくりと起き上がり、細心の注意を払って靴を脱ぐと、狼煙(のろし)のように立ち上がりコソ泥顔負けの忍び足で一歩ずつドアに近づいた。


倉見「痛って!」

歩き出すとズキンと痛む頭。ムカムカとした気持ち悪さも相まって、だんだん腹が立ってきた倉見。思わず壁を殴りたい衝動に駆られるが拳を握りしめて堪え、深く吸った息を静かに吐き出した。そして今度は、なるべく頭を刺激しないようさらに慎重に、抜くように差すようにと足を出す。

倉見「ここを出たら纏めてぶん殴ってやる!」

拳を磨きながらドアに近づいた…その瞬間、


~ピー…ガチャ…~


突然の開錠音。焦った倉見は巻き戻すように元の位置を目指して下がるが、足が絡まりひっくり返るように後ろに倒れた。


~ピロピロピロ…ピロピロピロ~

男C「もしもし?…はい、いま房に来ました…ええ…」

男は電話をしながらだんだん近づいてくる。もう一度立ち上がって下がる時間はない。倉見はつっかえ棒のように床に立てていた両腕を曲げて静かに尻をおろすと、その場にゆっくりと仰向けになった…足は絡まったまま菱形を描いている。


~ピー…カチャン~

電子音のあとに倉見の真横のドアが開く。

男B「…はい、それも今地下に運んでる所です…ええ異常ありません……ん?…いや、胡坐かいたまま寝てますよ、アハハハ!…ええ、わかりました、すぐに戻ります」

~ピッ~

大きな袋を抱えてきた男は電話をポケットに仕舞うと、袋を倉見の足にどさっと降ろし、慌ただしく出て行った。


廊下の扉が閉まる音を確認すると、倉見はすぐさま起き上がりその袋を放りだした。

倉見「痛ぇなあの野郎……ん?」

モゾっと微かに動いた袋。倉見は目を擦ってもう一度見る。

倉見「……まさか!」

絞られた開け口、そのすぐそばにあるシルエットは間違いなく靴だ。倉見は全体を見回すと、ひもで締められた封をじれったいようにほどき始める。


倉見「…頼む!!」

祈るような気持ちで紐と格闘する倉見。ついには紐に噛みつき、食いちぎるように引っ張った。

~コン~

広がった開け口から、見慣れた靴が踵を向けて飛び出した。

倉見「…戸部!」

袋の中でうつぶせになった状態の戸部を、すぐさま両足を持って引っ張りだす倉見。さっき動いたのは間違いない、息はある、しかし…不安な気持ちを拭えないまま戸部をゆっくりと仰向けにした。


倉見「戸部!」

そこには、この上なく幸せそうに笑う戸部の寝顔があった。

倉見「………お前…お前はよーー!!!」

心配とは、当たれば涙、外れれば怒りに変化するもの。満面の笑みで眠る戸部を倉見はそのまま雑に転がし、耳を引っ張る。

倉見「おい!起きろ!嬉しそうに寝やがってこのくそったれが!」

戸部は耳元でわめく声に反応し始め、猛烈に上がっていた口角が次第に下がっていく。

倉見「コラ戸部!起きろっていってんだろ!」

戸部の眉間にしわが寄り、瞼もビクビクと震えだした。

倉見「戸部ー!!!!」

その瞬間、スパっと開いた目が、倉見の顔をまじまじと見る。少しほっとした倉見はニヤリと笑い

倉見「現実世界にお帰り!」

と声を掛けた。


戸部「…先輩?…あれ、ボクは…?」

倉見「オレもお前もここに連れて来られたんだよ」

戸部は辺りを見回すと手をついて起き上がった。

戸部「あ痛っ!」

倉見「ゆっくり起きないと痛むぞ」

頭を押さえる戸部、片目をつぶって痛みを逃がす。

戸部「…頭も痛いけど、なんか、なんていうか…」

倉見は承知したように何度も頷く。


倉見「吐き気だろ?おそらく眠らされた時の薬の影響だ、すぐ治まるから安心しろ」

しかし何故か戸部は腑に落ちない表情。

戸部「そうじゃなくて…」

倉見「あ?じゃ何だ?」

戸部「…すごーくいい夢を見てたのに目覚めた瞬間先輩の顔、しかもドアップ!…この絶望感、受け入れ難し…」

倉見「……もう一回袋に入れてやろうか?」

戸部「無事でよかったです、先輩!」

切り替えの早い戸部に顔を引きつらせる倉見。


戸部「それより野杖さんには会えましたか?」

倉見はため息をつきながら首を振った。 

戸部「そうですか…。でももし捕まってたら野杖さんもここにいるはずですよね?」

倉見「…そう思うけどな…」

重苦しい空気が、コンクリートの壁を伝って流れこむ。


倉見「とにかく!ここからさっさと脱出して、野杖さんを探す!絶対に!」

戸部「それしかないですね!」

二人は目を合わせて強く頷いた。

戸部「ところで、ここはどこなんですかね?」

窓のない部屋をぐるぐる見回す戸部。


倉見「わかんね。でもあの長いトンネルを抜けてからも車で走ってたから、穴からは結構離れた場所なんじゃないか?」

戸部はキョトンとして倉見を見る。

戸部「トンネル?先輩意識あったんですか?」

倉見「ああ、しばらくはな。暗闇で薬嗅がされて男二人に車に乗せられてよ。そのまま二〇〇メートルくらい走った所で窓の景色がパッて変わってさ…真っ暗だったけど外に出たのはわかったな」


戸部「トンネル…いくら這っても壁に当たらない訳だ。男二人?何でボクのときは四人だったんだろ…?その後どうなったんです?」

倉見「トンネル出てすぐ、頭ボワーってしてきたから…」

戸部「そのまま意識が無くなったと」

倉見「いや、無くなる前にとりあえず一人ボコボコにしてやった」

戸部「さすが!ただでは起きない、いや転ばない…そうか!だからボクのときは人数倍にして来たんだ」

ひとり何度もうなずき納得している戸部。


倉見「あ、そうそう!ここに来てからもう一つ解った事があるわ!」

戸部「何ですか?」

倉見「意識が戻りかけた時に話声が聞こえてな。〝こいつらムネオを追ってきたんだろ〟って」

戸部「ムネオを追って来た…それって趙のことですかね…?」

倉見は大きく頷く。

倉見「趙要徳と奴らが言ったムネオは同一人物」

戸部は頷き、また辺りを見回す。

戸部「つまり趙は日本人だった…って事はですよ?やはりここは…シンキ地区?」

倉見「おそらくな…」

戸部の背中がブルっと震える。


戸部「だとしたら何でボクらは消されないんでしょうね?奴らは侵入者に容赦ないはず…それともこれから…!」

さらにブルブルっと背筋が波打つ戸部。倉見は立ち上がり背を向けた。

倉見「少なくともそれはない。そいつらが〝手を出すな〟って言ってたから…」

戸部「それは有難いけど…何でですかね?」

倉見「…上からのお達しだと…」

戸部の震えが、体から弾き飛ばされるように止まった。


戸部「…上って、それって…」

倉見は振り返り、何事も無かったように戸部の〝抜け殻〟をゴソゴソとあさり始めた。


戸部「…その袋に何かあるんですか?」

倉見「電話、入ってないか?オレのは車で暴れた時にどっか行っちまったからよ」

戸部「ボク持ってますよ?充電ないけど」

戸部はズボンの裾をめくると、靴下の中に手を入れてスマートフォンを取り出した。

倉見「すげーとこに入れてんな」

戸部「落ちたり盗まれたりしないように、いざという時はここに入れるんです」

得意気に話す戸部。

倉見「防犯意識高っ。まぁいいや、とりあえずそのまま持ってろ。どっかで充電できるかもしれないし」

戸部「こんな所にそんなハイテクなものがありますかね?」

倉見「そうでもない。見ろ、あのドア、オートロックだ。」

倉見がドアの横壁にへばりつく小型の装置を指さす。ピコピコと点滅する黄色いランプと、隣には赤いランプが点灯している。


戸部「ブタ箱にオートロック…うちの署だって南京錠なのに…」

倉見「スカイタワーにも同じような電子ロックが使われてた。しかもそれだけじゃない、わかりにくいけどランプの上に小さい穴が二つあるだろ?あれ暗視機能つきのカメラだ」

戸部はじっくりとそのランプを見つめる。


戸部「本当だ。よくゲーム機とかリセットするとき爪楊枝さす穴みたいですね…というか方向&機械音痴の先輩が何故そんなこと?」

倉見「前にブルが読んでた雑誌に載ってた」

戸部「蟻塚さん?あの方が雑誌を読むイメージ全然ないんですけど」

倉見「そうか?〝ザ・サイバー戦隊隠密太郎〟ってブルの愛読書だ」

戸部「…マニアックな名前」

倉見「でもよ、そこには主に軍事施設でのみ使用される最先端機器って書いてあったんだよな」

戸部「一般には出回ってない?」

倉見「おぉ。その記事も袋閉じだったしさ」

戸部「…だから先輩も興味もった訳ですね」

倉見「おぉ、ちょっと期待して…って違うわ!」

戸部「…という事はですよ?ボクたち…国家レベルの軍事施設にいるって事ですか?」

二人は顔を見合わせた。


戸部「…でもボクもさっきから気になる事があって」

倉見「何だよ?」

戸部「ここ、一見古くておんぼろな牢獄だけど全然寒くないですよね?エアコンの吹き出し口もないのにポカポカ…おかしくありませんか?」

倉見「確かに…コンクリートむき出しで、これだけ温かいって気持ち悪いな」

その時、廊下の開錠音が突然響いた。


~ピー…ガチャ…~


倉見「▼□□▼○×○…!!」

戸部「▲□□▲×○×…!!!」

焦った二人は思わず力比べのように両手を取り合い、社交ダンスのようにウロウロしている。

~スッ…スッ…スッ…スッ…~

さっきとは全く違う静かな足音が、だんだんと近付き止まった。


~ピー…ガチャ、キー…~


恐る恐る入り口を見る二人。そこに現れたのは、絣の着物をきっちりと締めた品の良さそうな老婆だった。完璧にまとめられた白髪の下には、鋭い眼光がくっきりと光っている。

静子「畑野静子と申します」

無表情で軽く会釈をした静子がゆっくりと顔を上げると、何ともいえないその迫力に一瞬怯む戸部。倉見は繋いだ手にしっかりとスマートフォンを握らせると、振り払うように戸部を奥へと押しやりドアに近付いた。


倉見「ここはどこだ?野杖さんはどこにいる!?」

静子はピクリともせず、倉見の目をじっと見ている。

静子「ここは村の入り口。…お前達以外、誰も来ておらん」

倉見「来てない?…どうなってんだ…?」

静子は黙ったまま動揺する倉見を見ている。そしてふと我に返る倉見。

倉見「村?ここは心己地区なのか?」

静子「…心己ではない」

ロボットのように答える静子。

倉見「じゃぁどこだ?」

静子「どこでもよい、いずれはわかる」

倉見「なんだと…!」


~ガシャン!~


房の奥で、思わず持っていたスマートフォンを落とした戸部が慌ててその上に座り誤魔化している。静子は顔色を変える事もなく中へと入り、戸部の前に立った。

静子「電話は使えん。ここは地図にない村、捜索されることもない」

目に力をこめながら必死で知らない振りを通す戸部。すると後ろにいた倉見が驚いたように口を出した。


倉見「え、電波届かないのか?地図になくてもヘリから見えるだろ?」

戸部は心の中でばかと叫び、静子はあきれたように軽く笑う。

倉見「…何がおかしい?」

倉見は睨みつけるように静子に詰め寄った。戸部はあんたがおかしいんだよと心の中でつぶやいている。

静子「間もなく迎えの者がくる、黙って従うが良いぞ。さもなければお前たちの命も保障できん」

静子はそう言うと、スマートフォンの上に座ったままの戸部に目をやり、また軽く笑って出て行った。


~ピー…ガチャン…~


静子が出て行ったあと、分厚い雨雲が晴れたような開放感を二人は感じた。

倉見「スゲー婆さんだな…」

戸部「えぇ…目からビーム光線が出そう…ボクも出そうだったけど、先輩に」

倉見「あ?何で?」

戸部「何でじゃないでしょ!?ボクが必死でスマホ隠してたのに〝え?電波届かないの?〟って!何であっさり自白しちゃうんですか!」

倉見「あ…しまった!そうか!!」

やっと気が付いた倉見は、致命的なミスに頭を抱えてしゃがみこんだ。

戸部「…どっちみちバレた所で没収されなかった所を見ると、ここでは何の脅威にもならない…つまり役に立たないってことなんでしょうけどね」

倉見はすっと立ち上がる。

倉見「…そういう事だ」

戸部「反省はしてくださいよ!」


~ピー…ピー…~


壁の装置が突然鳴りだした。赤いランプが点滅している。

倉見「なんだ!?」


~ピピピ!…ピー…ガチャン…キー~


ドアが自動で開いた。二人は顔を見合わせる。

戸部「…出ろって事ですかね…?」

倉見「…だよな…」

倉見は転がったままの靴を履き、戸部と同時に生唾を呑み込んでゆっくりとドアに近づく。するとその先の廊下でも、ロックが解除される音が響いた。


~ピピピ!…ピー…ガチャン…キー~


倉見がひょっこりと顔を出すと、廊下の扉の向こう側に階段らしきものが見えた。

倉見「よし、行こう」

倉見のすぐ後ろに続く戸部。なぜか中腰になって廊下をキョロキョロと見渡しながら歩く。

戸部「…うわ、ここと同じ部屋が四つもありますね」

倉見「ここ以外は空室だな」

廊下の突き当たりには、裸電球がぶらりと垂れる真下に、古いコンクリートの階段が見える。

倉見「お化け屋敷にありそうな…まいいや、行こう」


幅の狭い階段は、一人ずつしか昇れそうにない。倉見はすぐに足をかけて二段ほど上がると、そうっと上の状況を窺った…が、なぜか階段の壁に背中をつけ、倉見の肩と壁の間に挟まれるように入ってくる戸部が。

倉見「お前何やってんの?」

戸部「…後ろも嫌だけど前も嫌だから、こんな感じに…」

倉見「…うしろ」

戸部「…ですよね、ハイ」

今度は背後霊のようにピタリとくっつく戸部に呆れながら、ゆっくり階段を昇りきると、狭い踊り場の左側に古びたドアが現れた。


赤茶色に錆びたようなドアは裸電球の余光に照らされ、気味の悪さを一層際立たせている。

倉見「このドアにはロック装置がついてないぞ」

戸部「古すぎて付けられなかったのかな?」

倉見「それはないだろ…よし、開けるぞ」

戸部は頷き、倉見の背中で目を閉じた。


~ギ…ギギギー~


重いドアが開いた瞬間、潰れるような強い光に襲われ二人は思わず目を閉じる。

倉見「なんだ!?投光器か!?」

倉見は光を避けるように下を向き、自分の足元で少しずつ目を開けた。戸部は相変わらず背中にへばりついている。

戸部「先輩!どうしたんですか!?」

倉見「…わかんねえ…けど…」


倉見は細く開けた目に、うっすらと見えた地面が明るいことに気付く。

倉見「…ん?」

手を翳しながらゆっくり顔を上げてみると、目の前には鏡のように磨かれた黒い車のバンパーが、太陽の光を反射させていた。すぐに戸部が背中を叩く。

戸部「どうなんですか!?やばい感じ…?」

倉見「…いや。大丈夫だ、見てみ」

戸部もビクビクしながら目を開けてみると、いつのまにか高々と上がった太陽が、冷や汗で滲む自分の額をテカテカと照らしていた。


戸部「うわっ…え、いつの間に?そんなに時間経ちました?」

倉見「結構眠ってたんだな、オレら。地下は窓もないから外の状況もわかんねえし…」

戸部「スマホは充電切れ…やっぱり腕時計って必要かも」

倉見も激しく頷いた。


倉見「…と。でどうするんだここから…こいつ(車)に乗れってか?」

倉見の声が聞こえたのか、一瞬車が揺れ、ガチャリと重厚な音を立てて左のドアが開いた。二人はじっと見ている。

まず中から出てきたのは男の長い両足。窮屈だと言わんばかりに伸びた足に続き、車の上縁をガッツリと掴む大きな手が現れ、今度は大きく車が揺れたかと思うと、ようやくその本体がお目見えした。サングラスにスキンヘッド、スーツの上からも胸板の厚さが目立つほど筋肉質な大男だ。

倉見「ザ・ボディーガードみたいな奴だな」

戸部「ガードするのはボクらじゃないんでしょうけどね…」


男はおもちゃのように後部ドアを開け、風を起こすうちわのように手招きしている。倉見と戸部はゴクリと唾を飲み込むと、男の顔をジロジロと見ながら車に乗り込んだ。車内はアルミ板で完全に仕切られており、前の様子を窺い知ることはできない。が、後部座席の窓に張られた黒いフィルムは多少の視界を確保できている。

戸部「…やばい人の車みたい…」

倉見「みたいじゃなくて確定だろ…」

~バタンッ!~

ひっくり返りそうな衝撃とは対照的に、その後は音もなく車は走り出した。倉見は目を丸くして戸部に囁く。

倉見「おい、これエンジンかけてないのに走ってるぞ!?未来の車かよ!?」

戸部「…ハイブリッド車ですよ、本当に何にも知らないんだから。…ていうか、まず驚くならこの豪華な内装の方だと思うんだけど」

革の香りが漂う心地良い座席を触りながら戸部が呟く。

倉見「そうなのか?こんなに静かなのか?すげーな、現代化学は!」

戸部「化学とはまた違いますけどね。地球に優しい技術…どうかボクらにも優しくして下さいっ…」

祈る戸部の横で、電車に乗った子どものようにキョロキョロする倉見。後ろを振り返ると、さっき出てきた扉が遠ざかって行くのが見えた。


倉見「おい見ろよ」

コロコロと替わる倉見の好奇心には耐性がついている戸部。母親の様にはいはいと言いながら振り返る。

戸部「…あれ、ボク達が出てきた所ですか?あんな掘っ建て小屋みたいな建物が地下に続いてるなんて想像もつきませんよね」

倉見「こんな山の中だしな。しかもすぐ横は崖だぞ」

小屋のすぐ隣には、かなり傾斜のある崖が見える。扉を開けた時、一瞬でも視界を失った事を戸部はぞっとしながら思い出していた。



走り始めて大よそ五分、小高い丘の上に差し掛かった。

倉見「…ん?…んん!?」

倉見が横の窓に鼻をべったりとくっつけている。

戸部「先輩汚い…」

呆れた戸部が倉見を引きはがすように肩に手をかけた瞬間、信じられないような景色が目に飛び込んできた。二人の眼下に山に囲まれた盆地に広がる町が、真上の太陽に照らされて堂々と姿を現したのである。


戸部「何で?こんな山の中に?」

倉見も呆然とその景色を見ている。

色とりどりの屋根、賽の目のようにきっちりと整備された道路。街灯も信号も当たり前のように設置され数台の車が行き交うのも見える。一見するとごく普通の町並みだが、ちょうどその真ん中で街の半分を覆うように建つ巨大な神社が、強い違和感を漂わせていた。


四階建て、艶のある黒い瓦に鮮やかな朱色の壁、白い格子窓が多くつけられ、入り口までのアプローチには裕に二十人は座れるであろう幅の広い階段が、ちょうどドレスの裾を引きずる様に長く広がっていた。そして外門には、二階まで届くほどの巨大な石柱が対をなして白々と聳え立っている。

倉見「何なんだ…ここは…」

全てに圧倒される倉見。戸部も窓ガラスに顔をうずめたまま動けずにいた。


倉見「…あれ、あれは何だ?あの神社の後ろの山に、ほら、白くてでかいやつ」

倉見が指した方角には、等間隔で設置されている巨大な白いプロペラが村を見下ろすように角度をつけて回っているのが見える。

戸部「…風力発電?ですかね。しかも…一、二、三…八基もある」

倉見「風力はつでん?」

戸部「あ、ほらその隣!あの四つ並んだプールみたいなの、ソーラーパネルじゃないですか!?…こんな山の中で信号が動いてるなんておかしいと思ってたら…風力と太陽光で電力を賄ってるんだ…」

倉見「あ、あぁ、ソーラーね」

興味が失せたようにあしらう倉見に、戸部は興奮したように続ける。

戸部「しかもですよ!?プロペラもパネルも一つ一つが独立して三六〇度角度を調整してるんですよ!ほら!今動いた!あそこ!」

倉見「おーおー、そうだな、うん」

戸部「風を追いかけるプロペラ、太陽を追いかけるパネル。自然の恵みをただ待つのでなく、頂きにいくってすごい技術ですよねえ」


興奮する戸部の隣で、倉見は大きなあくびをした。

倉見「お前そんなのに興味あったの?」

戸部「発電はちょっとかじってて…ボク、車だけじゃなくてヘリとか飛行機のプラモデルも作っててライトがつくんですよ!」

倉見「…随分ちっちゃい電力だな」

呆れた倉見がつきあいきれんと言わんばかりに、反対側の窓に移動した。

そんな二人を乗せた車はいつのまにか平地を走り、だんだんとその町に近づいて行く。


両脇を囲っていた木々が遠くなり始め、ガタガタとしていた車内から振動がなくなった。

倉見「入ったぞ…おい、戸部!」

戸部「ばばっべばぶ」

反対側の窓にこびりついていた戸部。鼻も口もガラスに埋まりきっていた。

倉見「お前汚ねーな!」

戸部「同類でしょ!」

そういって振り返った戸部の鼻は真っ赤になっている。

倉見「アハハハ!お前、鼻がやべぇ事になってるぞ!恥ずかしいやつ!」

大笑いする倉見の鼻もまた十二月のトナカイになっていた。



町に入り、道路の真ん中で止まる車、信号待ちのようだ。

倉見「…栄えてるよな、あれ、コンビニか?あ、ドライブスルー牛丼て書いてある!」

戸部「スーパーやら花屋やら、普通に店がある…。でも、どの看板も見たことない名前ですね。東京にあるようなコンビニの名前も見あたりませんし…」

倉見「都会ってほど人も車も多くないけど、過疎地って感じは全くしないよな」

戸部も頷く。



車は大通りを抜け、やがて住宅地に入った。二台の車が十分すれ違えるほど幅のある道は、すべてレンガのようなタイルが張られ、その道を挟んだ両脇に、様々な家が広々と建てられている。

倉見「家も普通に…いや、結構ご立派な家が多いいな…。」

戸部「田舎とは言い難しですね。ほら、あそこなんてホワイトハウスみたいな豪邸ですよ」

イギリスの伯爵城を思わせる洋風、獅子おどしが鳴りそうな純和風の数寄屋造り、今にもカーボーイが馬に乗って現れそうなウエスタン風と、それぞれが全く違ったデザインで造られていて個性的だ。


倉見「あ、あれはちょっと…」

倉見が指をさした場所には、同じ敷地内に三軒の小屋が並んでいた。茅葺屋根にトタンを張り合わせて作ったような傾きの激しいその小屋は、百坪くらいは有ろうかという広い敷地の中に、なぜかポツンポツンと建っている。


戸部「土地の広さは同じだけど、他の家とは雰囲気が全然違いますねえ、しかも三軒…貧富の差が激しい所なのかな?」

倉見「さあ…?」

不思議な住宅街を通り抜け、また普通の道路に出ると、両脇にある街路樹が真っ直ぐな道を延々と繋いでいた。青々とした葉はきれいに剪定され、木立がどれも見事なもの。


倉見「これケヤキの木か…芸術品だな。」

戸部「先輩に木の良さが判るんですか?」

倉見「バカめ!うちは爺さんの代から植木屋なんだよっ。ガキの頃から植木と…」

倉見がハッとしたように止まった。


戸部「へぇ。植木見て育って何で警察官になったんですか?」

戸部は冷やかすように聞く。

倉見「…おかしいだろ…。」

戸部「おかしいから聞いたんです」

倉見「…違う。ケヤキは落葉樹だ、こんな時期に緑の葉があるわけない!」

戸部「え…?じゃ何でこの木は…?」

倉見「わかんね。作り物にしてはリアル過ぎるしな…樹皮も灰褐色だし雲紋もある…」


珍しく真面目に考え込む倉見。植木屋の跡を継がない息子魂に火が付いたようだ。

戸部「なんか本物の植木職人さんみたいでちょっと感動…」

倉見「…感動してる割には何で半笑いなんだよ。」

あきらかに笑いを堪え、上ずった言い方の戸部を倉見は見逃さない。

戸部「感動…だから笑っちゃう…プップププッ!」

倉見「何だよそれ!!」

倉見に真面目と感動は似合わなかったようだ。


~シュー、シュー~


静かなブレーキ音が微かに聞こえる。リアガラスを覗くと、辿ってきた街路樹が遠くまでずっと続いていた。

戸部「前はどうなってるんですかね?」

倉見「さあな」

横から見える景色も同じ。車はそのまま止まったが、運転席が開いた振動はない。


~ピーピピピ…ガッチャン…ガガガガガ~


戸部「何何何!?何の音ですか!?」

覗いていた窓枠の中に、少しずつ鉄の門扉が姿を現す。

倉見「門だ、でかい門が開いてきてる」

余程大きな門扉なのか、半分も開かないうちに車はまた動きだした。

戸部「入る入る!……うわっ、本当にでかいですね」

倉見「お、もう閉まり始めたぞ!」

二人は再びリアガラスに張り付き、追いかけてくるように戻る巨大な門扉を見ていた…のも束の間


~シュー、シュー……バタン!~


戸部「…降りた!あの大男が降りましたよ!」


~ガチャリ~


倉見が応える間もなく後部席が開けられ、大男の足だけがそこに在った。二人は顔を見合わせ広い後部座席を少しずつ尻をずらしながら出ていくが、その距離は乗り込んだ時よりずっと短く感じている。


降り立ったのは、一見旅館のような和風の建物の前。大男の視線を後ろから感じながらコソコソと見回す二人。

足元は一面白砂利が敷かれ、その上には御影の敷石が庭や玄関までをエスコートしている。壁には立派な二本の松が伝い落ち着いた日本庭園を引き立て、大きく開いた玄関には磨きこまれた板の間がその艶を滴らせていた。

倉見「…温泉、あるかな?」

戸部「あるかも…しれませんね…」


建物の裏は鬱蒼と生い茂る林になっている。近代的な建物が続く中で、やけに不自然な光景に見えた。

戸部「あの林…」

戸部が指さした瞬間、後ろからパタパタと足音が聞こえてくる。

茜「お待たせして申し訳ありません!」

振り返ると、薄いピンクの着物を着た女性が息をきらして近づいて来る。女性は二人の少し後ろにつんのめるようにして止まった。


茜「守野茜と…ハァハァ…申します、お二人のお世話をさせていただきます。よろしく…ハァハァお願いします」

茜はそう言い終えると、苦しそうに両手で膝を押さえた。

まだ二十歳そこそこだろうか、少し汗ばんだ顔はほんのりと色づき、活き活きとした髪を後ろで高くまとめ、その真ん中に留められた赤いかんざしがまだ整わない呼吸に乗ってキラキラと揺れている。二人にとってその鮮やかな色は、殺伐としたこの二日間で初めて人心地のする瞬間であった。


倉見「大丈夫?そんなに慌てなくてもオレら逃げたりしないし…」

茜「そのような事は、ハァハァそのような事は思っておりません…もう大丈夫です、お気遣いありがとうございます」

茜は倉見をしっかりと見つめ、にこやかに答えた。その丁寧な挨拶と礼儀をわきまえた態度は、まだ幼さの残る容姿には似つかわしくない。

茜「さ、お疲れでしょう?こちらへどうぞ」

茜が敷石を渡りながら歩きだし、倉見も後ろに続く。見事な庭園を抜けながら、樹齢不詳という古い二本松に会話も弾む。


間もなく玄関の板の間が見えると、茜は袂をさっとめくり上げ倉見の足元にスリッパを二足並べた。

倉見「ありがとう…ん?」

上がりかけた瞬間、はたと気づく何か。

倉見「あれ?そういえば戸部は?」

振り返ると、すっかり忘れ去られた戸部は未だ松の木の前でぼーっとしていた。

倉見「おい!早く来いよ!」

そう叫ぶ倉見の後ろで、心配そうに見つめる茜の姿だけを見た戸部は、沸騰したやかんのように一気に顔を蒸発させて走ってきた。

倉見「ったく!何やってんだよ!」

戸部「す、すみません…」

茜「お疲れなんですね。お部屋にすぐご案内しますので、ゆっくりお寛ぎくださいね」

茜は優しく声をかけたが戸部は下を向いたまま頷くのが精いっぱい、まだ顔から湯気が沸いている。


板の間を上がると、左右に分かれた廊下を右に。全面が掃出し窓になった長い廊下には先ほどの庭が添うように続いていた。

倉見「あれ?ここって壁じゃなかった?松が伝っててさ」

戸部「あぁ、確かに。外からは窓が一枚も見えなかったですよね?」

頭を傾げる倉見と戸部の前で、茜がクスっと笑った。

茜「切り替え式のマジックミラーになっているんですよ」

目を大きくした戸部が頷きながら倉見を見る。

戸部「素晴らしいですね、客のプライバシー保護と景観を両立させてるわけですね」

倉見は戸部の視線がなぜ自分に向いているのか不思議に思いながらも、納得したように何度も首を振った。


倉見「なるほど、さすが一流旅館!気遣いがパーフェクト!」

盛り上がる二人の前で、首を傾げる茜。

茜「?旅館ではございませんが…」

倉見「いいのいいの!似たようなもんだよ」

庭を眺めながら感心しきりの倉見。

茜「…お二人のお住まいでは収容房を旅館と呼ぶのですね?初めて知りました。」

倉見「そそ!収容房…」

戸部「収容房??ここ収容房なんですか!?」

茜「はい…それが何か…?」

倉見と戸部の目玉からショックがこぼれた。

茜「ですからお二人がお部屋に入られた後は、こちらの窓も反転して壁に変わるんです」

戸部「…つまり中からは見えないけど外から丸見えって事ですか…」

茜「はい…あ、余計なお話でした、ごめんなさい。こちらがお二人のお部屋になります」


茜はそういって、廊下の奥にある木の扉を開けた。すぐ横の壁には、見慣れた赤ランプがしっかりと点滅している。


そこにまた現れる廊下。当然板張りなどではなく無機質な白いタイル張り。そして廊下沿いに並ぶ立派な房が左に三つ、対面の壁には二つのドアがある。コンクリートむき出しの壁にロック装置のついた網状の扉などは、最初に閉じ込められた牢獄とさほど変わらない。


倉見「…ただいま」

戸部「前よりきれいですから…」

倉見と戸部の目が死んでいる。しかし今度の部屋は八畳ほどのスペースに、小さな窓もついている。外側に頑丈そうな格子は付いているものの、外の空気は吸うことができそうだ。


倉見は中に入り、ふてくされたように真ん中にどかっと寝転んだ。戸部は遠慮がちにちょこんと隣に座り、茜は網扉の前で膝をつくと、そんな二人の姿を微笑みながら見つめていた。


キョロキョロと房を見回していた戸部はハタと合ってしまったその優しい笑顔から視線をそらせなくなった。だんだんと速く鳴る鼓動と瞬きが連動し、シャッターを切るカメラマンのようになった戸部の目を、茜もまた首を傾げながら見つめ返した。掃き溜めに鶴とはまさにこの事。明るく可愛らしい茜に見つめられる恥ずかしさと嬉しさを、戸部はこの牢獄の中でひしひしと感じていたのである。


そして今、視線の先に居る自分のことを茜はどう思っているだろうか…そんな想いが戸部の心に芽生え始め、点滅から点灯に変わりそうな鼓動を押さえながら、まっすぐに茜の目を見た。すると茜はその熱い目線に答えるように戸部に向かって深く頷き立ち上がった。

茜「すぐにお食事の方お持ちしますね。」


~ガッチャン ピー~


茜はしっかりとロックをかけ、実にあっさりと母屋へ戻って行った。

戸部「…………バタッ」

自分が落ちる音を口にだし突然床に伏せてしまった戸部を、不思議そうに見る倉見。

戸部「…いらない…答えなんて…いらない…!」

伏せたままつぶやく戸部に、なぜか大きくうなずく倉見。

倉見「だよな!?こんな無駄なもの!」

戸部は顔を上げた。

戸部「…へ?無駄?」

倉見「ブタ箱に二本松なんかいらねーだろ」

戸部「…なんだ、そっちか…」

倉見「あ?そっちってどっちのことだ…」

戸部「な(ぬぁぁ)んでもありません!…きっと二本松もいつか必要とされる日がきます!〝二本松さん二本松さん待ってあなたが必要なの…!〟そう!後ろ髪を引かれるようにね!」

いつしか戸部は立ち上がり、固く握りしめた拳を高く掲げ意味の解らない熱弁をふるっていた。


その異様な姿に瞬きが止まらない倉見。

倉見「どしたお前?なんかあったの?」

その一言にハッとした戸部は、一つ咳払いをして静かに座る。

戸部「…ゴホンッ。…最近はトイレもおしゃれにコーディネートするらしいですからね、こんな収容房も有りなのかもしれませんよって事を言いたかっただけです」

倉見「おしゃれなブタ箱?それこそブタに真珠じゃね?」

戸部「…ココロニササル…」


程なくして茜が食事を運んできた。木のトレイを二つ重ねて器用に持ち、扉の横にある小窓から一つずつ手渡す。

倉見「ありが…とう」

ぬくもりのある木のトレイ…の上には、手術室にあるような銀皿に干からびたししゃも、銀小皿にはきゅうりの浅漬け、銀鉢にご飯とみそ汁。そして銀カップには温かいほうじ茶。


倉見「…モノクロ映画なんかに出てくる給食のシーンで、こんな食器使ってたよな…」

戸部「…きゅうりが…二枚…」

茜「ご飯だけはおかわりできますからね、どうぞ遠慮なさらず」

倉見「ご飯だけ…ね」

倉見は作り笑いを浮かべながらそうっと戸部の前にトレイをずらした。バトンを受け取ってしまった戸部もまた、二つのトレイをゆっくりと横にずらす。

倉見「そういえば!そう、そういえば…」

にこやかに見つめる茜の注意をそらすため、話を変えようとする倉見だったが、頭が米白(まっしろ)になって何も浮かばない。


戸部「そう!そういえばですね、ここに来るとき茅葺屋根の家を見たんですよ!珍しいなって…ね、先輩!」

倉見「そそ!それな!からぶき屋根、うん!」

もはや訂正など野暮というもの…戸部は心の中で目を瞑った。


茜「茅葺屋根のお家は川野さんかな?去年までは高床式住居だったんですけどね」

戸部「高床式!?あの、他の家はみんな豪邸なんですよ、それなのにあの家だけっていうのは…あの、ええと、だから…」

慎重に言葉を選ぶ…

倉見「川野さんは貧乏なの?」

一気に戸部の頭が折れた。茜はキョトンとして倉見を見る。

茜「貧乏…とは違いますね。川野さんは大昔の家がお好きなんです」

倉見「好き…ふーん。じゃあ川野さんが城みたいな家を好きになったらそれが建つの?」

茜「もちろん、山野の予定が合えばですけど」

倉見「やまの?金のじゃなくて?」

戸部「ちょっと先輩!さっきからハッキリすぎて失礼ですよ!」

茜「あはは、お金は必要ありません。好みの家を山野の人に建ててもらえばいいだけです。ここの人たちはみんなそうですよ?」


茜のその一言に倉見がハッとする。

倉見「…そうだ、ここの人たち…」

目を合わせて頷く二人。〝ここ〟がどこなのか静子は答えてくれなかったが、茜なら話してくれるかもしれない…そんな期待が膨らんだ。


二人は少し畏まって座ると、小声で囁くように茜に尋ねる。

倉見「…ここは、ここは一体どこなの?」

茜は頭を傾げながら言った。

茜「神川村ですけど?」

倉見「……神川…村…?」

茜「えぇ、それが何か?」

戸部「じゃ、じゃあ、神川鹿子さんて、知ってます?」

茜「…もちろんです。もうすぐ四代目になられるお方ですもの、知らない者などおりません」

戸部「四代目?それは何の…?」

茜「崇守様ですよ。現在の三代目・鹿代子様は鹿子様のお母様なのですが、もう何年も病に伏せられて…ようやく鹿子様が継いでくださるお年になられて皆ホッとしているんですよ」


倉見「崇守て…歴史上の話じゃなかったのか…!?」

茜「歴史は長いですけど…初代の崇守様は心己地区の頃からいらっしゃいましたし」

倉見「じゃあここは、もともと心己地区だった訳?…でもばあさ…畑野静子さんは違うって」


少し困ったように笑う茜。

茜「静子さんに限らずお年寄りは皆そう言うかも。ここが心己と呼ばれていた事を言いたがらないので」

戸部「なぜですか?」

茜「さぁ…私も解らないんです」

倉見「…さっき言ってた四代目って…あの鹿子が…?」

茜「鹿子様は代々続く神川家のご長女。つまり生まれた時から崇守様を継がれる事が決まっているんです」


倉見は呑み込みきれない事実に頭がふらつき、呼吸が乱れた。

戸部「崇守てそもそも何なんです?」

茜「村の守り神…ですかね。崇守様がおられる限りこの村は何に怯える事もなく、豊かに暮らしていける訳ですから」

戸部「そういえばさっき家を建てるのにお金はいらないって…?」

茜「ええ。家だけでなく、この村でお金は必要ありません」

戸部「じゃあどうやって生活を?ここに来るとき色んなお店もあったけど」

茜「店に品物はありますがお金は払いません。神殿から届いた物をそれぞれのお店に分配しています。お肉はお肉屋さん、服は服屋さんにあった方が便利ですからね」

戸部「神殿て…?」

茜「赤い壁の建物が見えませんでした?大きな石柱がある…」

戸部「…あぁ!先輩、あの神社みたいなやつですよ!」

倉見「あれか…」


倉見は肩を落としたまま反応が鈍い。あまりにもショックが大きかったようだ。

茜「神殿は神川家のお住まいでもあるんですよ。村人のありとあらゆる生活の品は、全てあの神殿から頂けるんです」

倉見「あんなばかでかい神社があいつの家?」

さらにがっくりと落ちる倉見。

戸部「でも、じゃあ仕事はどうなるんです?例えば家を建てる場合、材料は無料でもその技術や労力が賃金として貰えないと、いくら生活に困ってないとはいえ不満が出るでしょう?」

茜「賃金はありません。でも、不満を漏らす者もおりません」

戸部「なんで!?」

茜「この村では、それぞれの家によって役割が決まっているんです」

戸部「役割?」

茜「家を建てたり山を管理するのは山野家。逆に建物を撤去したり川の管理…魚の養殖などを担うのは川野家。田畑、農作物の管理や出荷をするのは畑野家というように」

戸部「?畑なんて見なかったけど…」

茜「あるんです、神殿の中に。畑野家は神殿の中で仕事をするので、二十一になる年に家を出て神殿で生活するようになるんです、私もそうなんですけどね」

戸部「茜さんも?」

茜「私は守野なんですけど、守野は崇守様に仕える家なので…今年から神殿に」

茜は満面の笑みを浮かべ誇らしげにそう言うと、すぐに赤くなった顔を手で押さえた。


茜「あ、ごめんなさい、関係ないですよね。ええと…ですから皆そうやって定められた仕事をそれぞれやる事で村全体が回っていくので、誰も不満に思いません」

戸部「それはつまり、儲ける必要がないって事ですよね?儲けがなくても贅沢ができるし、この村の生活費全てを神川家が担ってるからやっていけるって事ですよね?」

茜「ええ、崇守様あってこそです」

戸部「じゃあ神川家は、どうやってその莫大な生活費を賄っているんですか?」

茜「崇守様にはそういうお力があるんです」

戸部「お力?」

茜「はい。どんな事でも願えば叶えられるという〝神の石〟です。代々崇守様にのみ持つことを許されているのだとか」

戸部「神の石…?」


その言葉がぼーっとしていた倉見にようやく精気を取り戻させた。だんだん茜の話が偏っていくのは戸部も感じていた所だが、常に現実の裏側まで見てきた倉見にとってはこれ以上の理解し難い話は限界だったのだ。

どちらにせよ、自分達とこの不可解な世界を唯一繋いでいる人物に、早く会わねばならない。倉見は戸部と顔を見合わせ、目で合図を送る。


戸部「まあ…その神の石は置いといて…ね」

苦笑いを浮かべてなだめるように何度も頷く戸部。茜は不思議そうに首を傾げる。

戸部「あの…鹿子さ…様?は、いまどこにいるんですか?」

茜「神殿にいらっしゃいますけど…明日には継崇典(けいそうてん)が行われますから色々とお忙しいでしょうね…でも」

何か言いかけた茜だったが遮るように戸部が問いかける。

戸部「けいそうてん?て何ですか?」

茜「ええ。正式に四代目に成られるための大事な式典です。各国からお客様もたくさんいらっしゃるんですよ…それになんといっても継崇典で鹿子様がお召しになる黒紋袴(こくもんはかま)、すっごく素敵ですから!」

茜は目を煌めかせる。


戸部「こくもん…?」

茜「黒紋袴ですよ。初代から伝わる崇守様の伝統衣装です。私もお写真でしか拝見したことがないので、もう今からドキドキしちゃって待ち遠しいです!」

まるで大好きなアーティストのコンサートへいく女子高生のようにはしゃぐ茜を見て、戸部はホッとするように微笑んだ。対照的に真剣な顔でそっとため息をつく倉見。

倉見「正式に…ね」


倉見は言葉にならない不快感に襲われていたがそれが何かは解らない。ここに来てから何もかもが解らない事だらけだが、その中でも心の奥底で確実に溜まっていく何か、決して向き合いたくない何かが、先に進もうとする自分を強く引っ張るのだ。それが突然意識上に上がってくる瞬間が、何とも言えない気持ちの悪さだった。


そんな倉見の表情に気付いた茜は、申し訳なさそうに声を掛ける。

茜「お二人は残念ですがご出席は難しいかと…」

倉見「え?…あぁ、そうだよな、囚人だもんな!ハハハ…」

茜「でも、本当にお見せしたかったです…」

戸部「きれいでしょうね…鹿子さん」

単純にその姿を想像する戸部を、腹立たしいい事極まりなしと睨む倉見。思わずふにゃふにゃした戸部の頭を叩く。

倉見「この、バァカ!」

戸部「え?え?何で??」

そのときだった。


~ピーピーピーピー~


突然、母屋の方から電子音が鳴り響いた。

茜「あ、いらっしゃったみたいですね」

慌てて戻ろうとする茜を、倉見が引きとめるように呼んだ。

倉見「茜ちゃん!誰!?誰がくるの!?」

茜「いらっしゃるかもって言ってたんですー!」

茜は早口でそう答えると、襟の合わせを気にしながらパタパタと走って出て行ってしまった。


倉見「…だから誰がだよって…」

後ろから背中を叩く戸部。

戸部「…いらっしゃるってもしかして…?」

倉見は振り向かずに黙って頷いた。

房の中では母屋の様子が全く分からない。二人は網扉にへばりついたまま待つしかなかった。


戸部「…一、二、三、四、五…」

倉見が怪訝そうに戸部を見る。

倉見「何数えてんだよ?」

戸部「八、九、十…時間ですよ。あの穴で先輩を待ってた時も数えて計ってたんです、時計がないから」

倉見「…続けたまえ」

戸部「……いくつまで数えたっけ…」

一瞬の間をおいて、二人は大きくため息をついた。


戸部「そういえばさっきの…神の石でしたっけ?本当にあるんでしょうか…?」

倉見「お前信じてんの?証拠ありきの現役刑事が?そぉんなの信じる?」

呆れたように両手を上げる倉見。

戸部「いや、もちろん無い派ですよボクも…でも、ここに居ること自体信じられない事でしょ?もしかしたらそんなのもあったりして…なんて、ちょっとだけ思ったりもします」

倉見「あ~ダメダメお前は。変な壺とかすぐに買っちゃうタイプだな」

倉見はそう言って腕を組むと、しわを寄せた額に人さし指をあてた。

戸部「先輩だって少しは思ったでしょ?実際この村はメチャクチャ裕福だし、あの最新式の発電所だって自治体にお金がなかったら絶対設置できない代物ですよ?認知さえされてないもぐりの村の、どっからそんなお金が出てくるんですか?」

倉見「…全っ然思いませんねえ。そうやって乗っかってしまう戸部君は本当におバカさん!…こちとら過去の事件で嫌というほど嘘を見てきてんだ、それこそ信じられないような大嘘をな。…打ち出の小槌じゃあるまいしそんなもんがある訳ねえ!もしあるとすれば…」

戸部「あるとすれば…?」

真剣な表情を向ける戸部をじっと見つめる倉見。

倉見「…恐ろしく巨大な嘘だけだ」

ガクっと左肩を落とす戸部。

戸部「それ溜めてまで言う答えじゃないでしょ、もう」

倉見「…絶対ある、超ヘビー級の嘘がこの村には…」


~ピー ガチャ~


廊下の扉が開いた。咄嗟に網扉から離れた二人は追い詰められたネズミのように房の隅でじっと構えている。

茜「あ、あちらでございます…どうぞ」

少し上ずったような茜の声がピリピリとした緊張感を一層高くした。

倉見の背中に、生唾をゴクリと呑み込む戸部の鼓動が伝わる。


~カツン、カツン~

足音が間近で響いたその瞬間、扉の前に姿を現したのはスーツを着た男だった。山から下りてくるときに運転していたあの大男だ。

肩を降ろすように息をついた二人。大男は房を向いたまま、相変わらず目線の見えないサングラスに頭をキラつかせ、手を後ろに組んでいる。


―と、そのまま一歩後ろに下がる大男、さっきとは違う微かな足音も聞こえてくる。戸部が倉見の袖をギュッと掴んだ。


そこに現れたのは、あの鋭い目をした老婆、畑野静子。そして間もなく、静子の目線にゆっくりと踏み込むように姿を現したのは、まぎれもなく、あの鹿子だった。


黒髪を白い帯で束ね、光沢のある白の袴に背中が反るほど締められた銀色の後

紐(うしろひも)。透き通るような肌が袴の色にあたり、顔の輪郭をぼやけさせている。大きく開いた目の中には、房の灯りと混ざった紫黒色の瞳が、はっきりと映っていた。在る事さえ信じ難いその姿は、共に現実の世界を駆け抜けてきた仲間の面影を完全に消し去っていた。


二人は房の奥で近寄る事も出来ないまま立ちつくしていたが、そのうち戸部がハっとしたように激しく倉見の背中を叩き始める。何度も何度も、言葉を出せないまま叩き続ける戸部。その振動に揺られながら、倉見はまた意識上に現れたあの不快感と戦っていた。


今この場で鹿子を怒鳴りつけ、中央署に連れて帰り、まずは皆に詫びをさせ、帰りにうえ田で一杯やるーそんな簡単な事を、当たり前の事を、胸に滲みだす不快感がその一歩を奪っていく。


ついに膝を折って座り込んでしまった倉見を、鹿子は微動だにもせず網扉を隔てた先でただじっと見ていた。

戸部「先輩!」

額にびっしょりと汗をかいた倉見に気付き、ようやく声が出た戸部は必死で呼びかける。

戸部「先輩!しっかりしてくださいよ!ボーっとしてる場合じゃないでしょ!?」

目を見開いたまま床を見つめる倉見は、何の反応もできずにいる。

戸部「ほら!やっと鹿子さんと会えたんですよ!先輩!」

戸部はそう言いながら倉見の襟を掴むと、何かを振り払うように重たく沈んだ体を力強くゆすった。

戸部「先輩…!!」


とてつもなく息苦しい空気の中で、戸部もまた、見えない何かと戦っていた。

 一方、まるで檻の中の動物を観察するように冷ややかな目で見ていた静子が、そっと後ろで何かをささやく。鹿子は前を向いたまま軽く頷くと、さらに近づき二人を見た。


戸部「…鹿子さ…」

鹿子「警察はどこまで掴んでいる?」

いつもの無表情とはまるで違う、異様に鋭い目つきで鹿子は言った。倉見の肩を支えながら屈んでいた戸部は、声が出ないまま唇を震わせる。

鹿子「この場所を本部に知らせたか?」

目をそらす事さえできず、ただ頭を横に振る戸部に、鹿子はニヤリと笑うと頷きながら静子をみた。そしてまたゆっくりと房の方に振り返ると、今度は刺すような目を二人に向けた。


鹿子「お前たちはまだ利用価値がある…が、余計な事をすれば生かしておく理由はない」

そう言って肩を切るように横を向くと、鹿子は出口の方へと歩き出した。静子が一歩後ろに続き、大男も追うように動き出す。

鹿子「…そうだ…静子」

帰り際、鹿子が立ち止まり顎を上げた。すると静子は頷きすばやく網扉の前に近寄る。

静子「電話を渡せ」

冷たい視線が戸部を捕らえた。動転している戸部は何を言われているのか呑み込めずにいる。

静子「電話を持っておるじゃろう?」

瞬きを繰り返しながらようやくポケットに手を回す戸部。真っ黒になった画面に自分の情けない顔を映しだすと、震えながら大男にそれを手渡した。そのまま三人は異様な空気を放ちながら茜が控える扉を開けて出て行った。

 


呆然としながらも、ゆっくりと後ろに下がり座り込む倉見を触る戸部。

戸部「先輩、しっかりしてくださいよ!」

強く瞬きをしながら口を押える倉見、だんだんとあの強烈な不快感が引いて行くのがわかった。

戸部「…大丈夫ですか?」

覗き込むように戸部が見ると、険しい表情のまま何度も頷いた。


倉見「…会えたな」

ポツリと呟いた倉見に少しほっとした表情になる戸部。

戸部「とりあえず前進ですよ、ね。」

あの冷たい表情の鹿子を思い出しながらも励ます戸部に、倉見はため息をついて笑顔を見せた。


戸部「それにしても電話は繋がらないって言ってたのに何で持って行ったんでしょうね」

ワイシャツの襟をぐっと下げ、大きく息をつく倉見。

倉見「…おそらく繋がらないんじゃなく、繋げないって事だろ」

戸部「繋げないって…」

そのときだった、


~ピー ガチャ~


またもや開錠音が響き、二人の間に緊張が走る。擦るような足音がゆっくりと網扉に近づき間もなく現れたのは静子だった。

倉見「…電話を返しに来たのか?」

一人きりで房の前に立つ静子に冷やかすように言葉を投げる。

静子「繋がらぬ電話など要らぬじゃろ」

無表情のまま答える静子に軽く笑う倉見。


倉見「妨害電波で通信を遮断してるだけだろ。さらに裏から手を回してこの村の存在すら隠し通す、まったくとんでもない輩だな」

そう言ってつばを吐き捨てた倉見に驚く戸部、静子は目を瞑り首を振った。

静子「神川村は元から存在しない、他村の者たちがそうした」

二人は訝しげに静子を見る。

静子「この土地も村人も美しい川も、在ることすら許されない…それが神川村じゃ」

倉見はバカバカしいと笑う。

倉見「そうしたいのはあんたらだけだろ」

静子はまた強く目を瞑り大きく首を振る。

静子「全ては望まれたこと…ここは今も昔も無であることを強いられた村なのじゃ…」

そういって静かに語り始めた。

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