第8話 消えた足跡

深い茂みを避けながら、かすかに付いた轍を頼りにだんだんと細くなる道を歩く。腹も満タンに血流もよくなった戸部は、大きなリュックを背負った野杖の後ろをくっつくように歩いていた。


先導しながらちらちらと振り返る野杖は眉をひそめる。

野杖「それにしても…本当にそのままで良かったんですか?」

制服の上に分厚いジャケットを羽織り長靴を履いた野杖は、元々ムチムチした体形がさらにモチモチとしていたが、それに対し来たままの背広にコートを引っ掛け、草の上を革靴で歩く二人は、平坦な林の中とはいえあまりにも軽装に見える。


倉見「こんなの庭みたいなもんですよ問題なしです!な戸部」

前を歩く戸部は呆れたようにハイハイと頷く。

倉見「スマートに行って…さっさと連れて帰る」

少しトーンの下がった倉見を振り返って見る戸部、複雑な表情でまた前を向きなおした。


野杖「…見つかるといいですね、その売人を追ってた警部補さん」

既に息を切らせながら野杖がポツリとつぶやいた。

戸部「…先輩と鹿子さんて同期ですよね?」

おもむろに話し始める戸部。

倉見「おぉ、警察学校から一緒だ」

戸部「へえ。どんな感じでした?鹿子さん」

倉見「変わんねーよ、あのまんま!可愛げなくてブスッとしてて、妙に冷めててさ」

活き活きと文句を並べる倉見に、戸部の表情も明るくなる。


戸部「昔からあの魔王みたいな迫力があったんですね」

倉見「ありまくりよ!大大大魔王だ!…でも入学して半年くらい経った頃かな、一度だけ魔王じゃない顔を見たことあるな」

ふと思い出したように空を見上げる倉見。

戸部「へえ。すごい興味ある」


倉見「あの日は…朝から嫌な天気でさ、学校に着く直前になって降り出してきて。オレ傘もってなくてさ、もうビッショビショだったんだよ」

戸部「もしかして傘を貸してくれたとか?」

倉見「いやいやいや、あるわけない」

戸部「ですよねー」


倉見「遅刻すれすれで着いて、校舎に入るベーって走ってたら、非常階段の下であいつが立ってたんだ」

戸部「ほうほう」

倉見「雨がじゃんじゃん降ってんのにお構いなしって感じで顔を上げてな、あの鋭い目で空を刺すように眺めてた」

戸部「刺し目って、鹿子さんよくやるじゃないですか…特に先輩には」

倉見「いや、いつもと全然違うんだよ…それを見た時さ、何だかわからんけど動けなくなって、瞬きもできなくて本当に目が乾くぐらい…なんつーか…あいつの横顔が人らしくない不思議な…ま、そういう感じだったんだ!」

言葉に詰まりながら慌てて話をまとめる倉見に、戸部は呆れている。


戸部「…素直にきれいだったって言えばいいのに」              

倉見「バーカ!そうじゃねんだよバーカバーカバーカ!」

急にペースを上げて追い越していく倉見に、戸部と野杖はやれやれと顔を見合わせる。そんな空気を察知したのか、しばらくするとピタリと急停止して振り返った。


倉見「そうだ!そのあと卒業してからな、中央署で久しぶりに再会した訳だよ!久々の再会だよ?なのにあいつの第一声、なんて言ったと思う?」

戸部は少し考えた後、

戸部「〝おうバカ〟とか?」

と答え倉見は大きく首を振る。

倉見「チだよチ!…〝おうバカ〟ってなんだよ!」

野杖「ち?ちって何ですか?」

意味の解らない野杖に、戸部はビシっと人差し指を立てる。

戸部「多分それはつまり〝チッ〟って舌打ちされたって事ですね」

野杖「なるほど。言葉すらなかったという事ですね」


大きく頷く戸部がL字型にした指を顎に当て得意気に続ける。

戸部「よっぽど嫌だったんでしょう…朝から新橋のリーマンみたいなテンションだし、牛乳飲むとすぐお腹こわすし、恋人は味噌子と塩美だし…」

野杖「え?二人も?モテモテですねえ倉見さん」

驚いて思わず頭を反らす野杖に慌てて近寄る倉見。

倉見「違います!戸部お前な…」

戸部「そうでした、キム子忘れてました」

誤解が解けないまま感心したように頷く野杖。

野杖「…外国の方ですか?」

倉見と戸部が一瞬止まり顔を見合すと、噴き出すように同時に笑い出した。野杖はキョトンとしている。


倉見「本当にあいつは余計な情報ばっか入れるんだよな…重要な事は黙ってるくせによ。…昔から言葉が足らねんだ!大事なことは一っつも言わない…」

戸部「…ですね」

複雑な表情を浮かべる二人を野杖は静かに見つめると、そのまま枯れ枝を一つ一つ踏みしめながら黙々と歩き続けた。



バリケードを越え車両が入るのも限界であろう地点に着くと、すでに辺りは薄暗く一気に風が冷たくなっていった。

戸部「さむっ」

肩に引っ掛けていたコートを羽織る戸部。野杖もジャケットのチャックを顎まで上げる。少し離れて後ろを歩く倉見はスーツのまま、何故か下を向いて歩いている。

戸部「先輩寒くないんですか?」

戸部の問いかけにも顔を上げない。

倉見「寒くない…でも足痛い疲れた眠い」

疲労がピークに達したのか、わかりやすく愚図っている。


戸部「スマホの充電がもうなくなりそう」

倉見の訴えを完全に無視してスマートフォンの画面を見る戸部に、慌てて後ろから声をかける。

倉見「もしもーし!」

戸部「それにしても何もありませんね野杖さん」

野杖はちらっと倉見を気にしつつもそのまま歩き続け、倉見はまたガクっと頭を落とした。


野杖「シンキに入って約…三時間ですねぇ。…そろそろ見えてきそうなんだけどなぁ」

戸部「見えるって何がですか?」

声が届いていないのか、野杖は黙って歩き続ける。戸部は頭を傾げながらも、無くなりかけている充電を気にしながら画面に目をやった。

戸部「電波も悪いな…山の中だから当たり前か。あ、先輩!先輩の充電まだありますー?」


倉見はガクっした頭に加え両手までもをブラブラと落としながら歩いている。戸部は呆れ返った顔をひきつらせた。

戸部「しっかりしてくださいよもうー!」

すると突然、戸部の前にいた野杖が速足で歩き始めた。

戸部「野杖さん?」

野杖は前を見たまま一瞬止まったかと思うと何かを見つけたようにリュックを放り出して走りだした。

戸部「ちょ、野杖さん!」

慌てて呼び止める戸部だったが、野杖はそのまま全速力で走り出し、薄暗くなった雑木林はあっという間にその姿を消してしまう。


戸部は後ろで廃人のように歩く倉見を引っ張りだした。

戸部「先輩!野杖さんが何か見つけたみたいですよ!」

倉見「…着いたのか?竜宮城に?」

戸部「何寝ぼけてんですか!早くしないと見失っ…」

そのときだった。


野杖「うぁぁぁーー!!!!!!!!」

二人の顔を直撃するように野杖の悲鳴が響きわたった。青ざめる戸部の横から有無を言わさず倉見が走り出す。

戸部「あっ待って!」

戸部も慌てて後を追うが、思い出したように一度戻って野杖のリュックをさらい、また全力で走り出した。

声の消えた場所には、鬱蒼とススキが生い茂り、さらに闇を深くしていた。


倉見「野杖さーん!!」

ススキの穂だけが、それに答えるように揺れている。倉見は携帯電話のライトを照らしながら手当たり次第にススキをかき分け、戸部は石橋をたたくように暗闇の地面を這いずり地形を確認していた。


戸部「…ある、ありますよ」

倉見「何が?」

倉見はネクタイを鞭のように使いながらススキを払う。

戸部「地面が」

手を止めて眉間にしわを寄せる倉見。

倉見「そりゃあるだろ宇宙じゃねんだから」

戸部「そうじゃなくて。どこかに落ちたかと思ったんですけど、崖どころか斜面もないんですよ」

倉見「じゃあ落とし穴でもあんのか?」

戸部「それもありません…野杖さん、何かを見て走っていったんですよね。何を見たんだろ…」

倉見「あるのはご立派に成長したススキくら…」


~ピーピーピー~


電子音が鳴り、倉見の電話から光が消えた。

戸部「先輩もか…」

倉見は充電の切れた携帯電話をポケットにしまうと、大きく息をついて戸部を見る。

倉見「…どのみちこの暗さじゃ何も見えねえな」

戸部「そうですね…」

戸部もフーっとため息をつくと、片手に持ったままのリュックを背負い、また這いつくばる。


倉見「…なあ、その野杖さんのリュック、懐中電灯とか入ってねーかな?」

戸部「あ、あるかも!ちょっと見てくださいよ!」

戸部が背中を差し出すと、倉見は首を傾げながらリュックを開け始めた。

倉見「……降ろせばよくね?」

戸部「いいえ。いかなる時も置き引きに警戒は必要です」

倉見「…あそ」


パンパンに詰まったリュックには、軍手にロープ、ロウソクとライター、小型のナイフなどが次々と出てくる。

倉見「ジャングルにでも行く気だったのか?」

目の前に並べられた物を見ていた戸部は、目を丸くして思わずリュックを降ろした。

倉見「おっと、懐中電灯発見!」

すぐにカチっとスイッチを入れると、前方を長く照らす光の帯が現れた。

倉見「明るい!!さすがLED!」

初めて火を起こした人類のようにはしゃぐ倉見、その横でさらにリュックをあさる戸部。

戸部「…水筒に敷物にチョコレートが3枚…遠足かって」

早速あたりを照らしてみる。ほんの数分で完全に落ちた陽がうらやむような明るさだ。


倉見は端から端まで丁寧に見ながら、足元で荷物を入れ直す戸部に手をだした。

戸部「?なんですか?」

倉見「チョコチョコ、くれ」

戸部「は?今いれちゃったのにぃ!早く言ってくださいよもう!」

戸部はブツブツ言いながらリュックの底に手を入れる。

倉見「紙、半分破いてな。手が汚れるから」

戸部「もう!わがまま!」

そう言いつつも、チョコレートのパッケージを丁寧に半分剥く戸部。ついでに出てきたライターを念のためにとポケットに仕舞った。


倉見「本当に真っ暗だな…その分星はきれいだけどな…」

見上げると、二人の頭上を覆い尽くす光の粒が波しぶきのように細かく広がっていた。

戸部は圧巻の空を見つめながらチョコレートを倉見に渡すと、ゆっくりと立ち上がった。

戸部「すごいですね、こんなのプラネタリウムでしか見たことない…」

倉見「そうだな…都会は一灯もない場所なんてないからな…」

戸部「…余計な物がなくなると、本当にきれいなものが見えてくるのかもしれませんね」

光の渦を瞳に映す戸部を横目に、倉見はまた懐中電灯を動かしながらチョコレートにかぶりついた。


~シャクッ~


倉見「ペッペッ!おい!」

慌てて吐き出したのはパッケージの紙。

倉見「お前逆に渡したろ!剥いてねーとこ食っちまったじゃねーか!」

戸部「知りませんよそんなの!」

倉見「ったくよ!」

倉見は食べかけのパッケージを…チョコレートを戸部に放り投げると、ススキを踏みつけながら先へ行く。

戸部「こっちのセリフです!」

またリュックを背負い、戸部は不服そうに後に続いた。



ススキの山をつぶし、あたりを照らすがどこもかしこも草だらけで、足元がおぼつかない。

戸部「野杖さーん!!…助さーん!!」

こだますらしない雑木林。倉見の後ろで戸部の声が虚しく響く。

倉見「確かにこの辺だったよな?野杖さんの声がしたの」

草の根をかき分けながら光をあてる倉見。戸部も汗ばむ顔を肩で拭いながらうなずく。

戸部「斜面もないし、落とし穴もないし…この先もずっと平地が続きそうですよね」

倉見は前を照らしてみる…と、十メートルほど先に、膝までかぶる草がへこんでいる箇所が見えた。戸部に声を掛ける間もなく走り出す。


戸部「どうしたんですか!?」

近くまでくると、急ブレーキをかけてしゃがみこんだ倉見の足元に、紺色のジャケットが落ちていた。倉見はすぐさま拾い上げ、まだ追いつかない戸部に見せる。

倉見「これ!野杖さんのジャケットだよな!?」

からみつく草むらを泳ぐように、戸部が向かってきた。

戸部「ハァ、ハァ…間違いありません、ハァ、野杖さんの…ハァハァ。」

息を切らした戸部に、倉見がジャケットを手渡した…その瞬間


倉見「うわぁぁぁぁ!!」


倉見が叫びながら後ろに反り返る。その拍子に懐中電灯も投げ出された。

戸部「どうしたんですか!?先輩!?」

倉見は自分の手をまじまじと見、かなり険しい表情を浮かべている。

戸部「先輩!?」

早くなる呼吸を必死で落ち着かせながら、倉見は何度も大きく息を吸った。

戸部「先輩、しっかりしてください!一体どうしたんですか!?」

倉見「…血…ジャケットに血が…!」

戸部の背中から一斉に汗が引いていく。唇を噛みながらうつむく倉見。


戸部は深呼吸をすると、ポケットに入れたライターをだし、祈るような気持ちで照らして見る。倉見はそれを直視する事もできず、血の付いた手を開いたまま目を閉じた。


ジャケットを裏返し、揺れるライターの火を必死に近づけて照らす戸部。―しばらくすると大きくため息をついて、倉見にジャケットを差し出した。

戸部「…ベタベタしてる…」

倉見「そんなに!?野杖さん…ちきしょう!」

食い縛った目を地面に落とし、崩れるように膝をつく倉見。

戸部「ちがいますよ」

倉見「血がいます!?」

戸部「これ!チョコレート!手見てくださいよ!」


倉見は眉間にしわを寄せ、恐る恐る細目のまま自分の手を見る。

星空の下で、がっつりと掴んでしまったチョコレートの跡が、掌にへばりついていた。

倉見「…なんじゃこりゃ?」

戸部「だーかーらー…」

真横で牙を生やす戸部をよそに、倉見は何事もなかったように立ち上がると、ジャケットを取り上げ手の甲でギュっと抱きしめた。

倉見「よかった、野杖さん!」

開いた口が塞がらない戸部、もはや舌まで落っこちそうだ。


倉見「…しかしだ。これを置いて、落ちるところもない場所で、野杖さんは一体どこへ消えたのかって話だわな」

倉見は押しつけるようにジャケットを戸部に返すと、また草を退けながら空を指したままの懐中電灯を取りに行った。


倉見「よかった、壊れてなく…」

懐中電灯を持ち上げた瞬間、その光が新たに指したもの…それはカマクラの様に高く積まれた草と、すぐ下にある飾りの様な小さな鳥居。

倉見「…戸部!こっちになんかある!」

その声に戸部は全く期待した様子もなく、かったるそうに近づいてきた。倉見が屈みこみ鳥居を照らす。


まるで枯れ草に寄り掛かるように、腰の丈ほどの小さな鳥居は褪せた朱色を所々に残し、ひっそりと佇んでいる。

戸部「…シンキ地区の残骸…ですかね?」

倉見がうなずきながら、その古めかしい鳥居に光をあててみると、傷のような線が縦に並んでいるのが見えた。

倉見「なあ、これなんかの模様に見えないか?」

戸部もじっくりと顔を近づけて見る。

戸部「…文字?文字に見えません?…ほら、ここ。カタカナの〝ワ〟こっちは…〝レ〟あとは……ダメだ、劣化が激しくて彫りの境目がわからなくなってますね」

倉見「確かに……」


何か思い出したように、倉見は戸部のリュックをあさり始めた。

戸部「重い重い!何探してるんですか?」

倉見「んー…あった!」

荷物をバラバラにしながら取り出したのはロウソク。

戸部「もう!また仕舞わなきゃなんない」

そんな戸部の声を放置したまま、倉見は鳥居の文字の上にロウソクを擦り付け始めた。


褪せた朱色のうえに、だんだんと浮かび上がる白いカタカナ。最後にふーっとロウを吹き飛ばすと、鳥居の両側に刻まれた一文が姿を現した。


戸部「……どういう意味なんでしょうか?これ」


【ワレラシロサトニカエル】


倉見「…なんだかわかんねえけど、相当古いもんだな。これ以外になにか…」

そういいながら、鳥居の裏側を見ようと立てかけられていた枯草にさらに近づく。


~ゴオオオオ~


その奥から、かすかに風の音が聞こえてきた。倉見は懐中電灯を戸部に渡すと、四つん這いになって鳥居をくぐり、壁のように積まれた草を掻きだし始めた、すると

倉見「…見ろ、穴だ」

戸部が覗き込むと、ちょうど鳥居がすっぽり入るほどの穴が、木の板で立てかけるように塞がれていた。


倉見はさらに板を取り、中へすすむ。


~ゴオオオオ~


風の音は一層近くなり倉見の顔をすり抜ける。

戸部「さすがに危険ですよ、応援呼びましょう」

倉見は頭を突っ込んだまま、早くしろと言わんばかりに手を出した。

戸部「…ハイハイ」

戸部は持っていた懐中電灯を倉見に渡した。所詮言って聞くような男ではない事は百も承知だ。


ゴソゴソと懐中電灯を照らしながら、さらに奥へと進む倉見の両足を、戸部はせめてもの保険と言わんばかりに外から掴む。

倉見「おい!離せよ!」

倉見の声が中でこだまする。

戸部「嫌です。何かあった時は全力で引っぱりますから!」

倉見「ったく!…言っとくけど結構微妙な体勢してっから、引っ張るときは声かけろよ?」

戸部「わかりました…というか、もう限界近いですよ、あと三センチくらい。それ以上いくと引っ張れないんで」

倉見「バカ!それじゃあ入れねえって…あ!」


~コロコロコロ…カーンカーンカーン~


中で響く音に驚いた戸部は、予告通り倉見を引っ張り出した。

倉見「いてててててて!!痛ぇーよ!!」

生まれたての赤ん坊のようにスルっとゴツっと出てきた倉見。

戸部「何かあったんですか!?」

素早く起き上がった倉見は、すぐさまズボンの右裾をめくり、擦れた膝をフウフウと息で冷やし始めた。


倉見「順番が逆!先に声かけろって言ったろ!?…あーあ、オレの小僧が…」

戸部「安産で何より…で、どうだったんですか?今の音は?」

倉見の横で前のめりに正座をした戸部が唾を呑んで聞く。

倉見「懐中電灯落っことした…落っこちたんだ、七、八メートル転がってからな」

戸部「…ということは?」

倉見「あぁ、あのまま地下に繋がってるな。音の響き方からして、かなり広い空間があると思う」

戸部「…ということは?」

倉見は摩擦の熱が治まった膝を痛々しく眺めると、覚悟を決めたように立ち上がった。


倉見「大昔に廃区になった所に、ましてや地図にも載らないような土地に排水管が通る訳がない…つまりこれは、どこかにつながる地下道と考えるべきだろう。実際、野杖さんもいなくなってるわけだしな」

戸部は座ったまま倉見を見上げる。


倉見「オレは行く…お前は戻って課長に連絡しろ」

戸部は黙りこみ、倉見の足元に視線を移した。

倉見「…さすがにこの先はどうなるか読めないからな。部下のお前を危険な目にさらす訳にはいかねえんだ」

戸部はじっとしたまま動かない。倉見は拗ねた子どもを励ますように屈むと、柔らかく言葉をかけた。


倉見「何しみったれた顔してんだよ。お前はここまでよくやったって!…それに、オレに何かあってもお前が無事でいてくれれば…オレは上司として満足だ!」

ドラマのワンシーンのようなセリフを言い切り実に満足そうな倉見を、吹き飛ばすかのように大きくため息をついた戸部。


戸部「勝手に決めないでください…鹿子さん不在のいま、先輩の勘違いのぶっとび大暴走を止められるのは倉見班のボク以外いません」

倉見「戸部…お前…」

戸部「ボクも同行します…課長には戻ってきたら三人で報告しましょ」

倉見「…戸部!」

倉見の目に熱いものがこみあげてくる。それを誤魔化すように頭をブルブルっと振りきると、勇ましく立ち上がった。


倉見「よし!お前の事は何があってもオレが必ず守ってやる!行くぞ戸部!」

戸部「その前に!」

早速ブレーキをかけた戸部。

倉見「おお!どした!?」

戸部「ズボンの右裾、めくれたままです!」

倉見は自分の足元をゆっくりと見下ろす。右足のみ膝までめくれた裾は、足首まで伸びる靴下との間に微妙な間(ま)をつくり無駄にスネを露出させていた。倉見は慌てて裾を引っ張る。

倉見「お前、そこ見てたのかよ!」

戸部「当然です。オトコのたしなみ!先輩はなってない!」

びしっと指をさされ、今度は顔が熱くなった倉見はさっさと鳥居の中に頭を突っ込んだ。戸部もスッキリした顔で後に続く。


真っ暗な穴の道を、四つん這いのまま進む二人。前に進んでいる事さえ分からなくなりそうな闇の中で、戸部がはっとする。

戸部「そうだ、ボクライター持ってますよ」

倉見はすぐに後ろを振り返った。

倉見「ダメだ!こういう穴は天然のガスが出てる可能性もある。下手に火は点けられねえ」

戸部「そっかぁ…」


妙な沈黙を置いた後、瞬きを連発した戸部。

戸部「…万が一ガスが出てたらボクら…」

倉見「爆死より中毒死の方がマシだろ?」

戸部「なるほど…いやなるほどじゃないわ!」

狭い穴の中で精いっぱいの突っ込みをする。


倉見「野杖リュックにガスマスク入ってねーか?」

戸部「かさ張るから置いてきましたよ!というかさすがにガスマスクはないでしょ!」

倉見「そうかぁ?何でも出てきそうなリュックだっ…おわぁ!!」

戸部「何何何!?」

突然がくっとなった倉見の左手は、地面に着かず冷たい空気の中をブラブラしていた。


倉見「あった!ここだ!下に通じる穴!」

倉見はそのまま手探りで下穴の形状を辿ってみる。人一人が入れそうな大きさだ。何も状況が見えない戸部は、耳を澄ませてひたすら倉見の声を待つ。

その穴を少しずつ下へと移動する倉見の指先に、細い鉄骨を横にしたような物が触れた。さらに辿ってみると、それは三〇センチほどの間隔で下へと続いている。

倉見「これ梯子か…?」

戸部「梯子?」

倉見「横にした鉄骨みたいなのが壁にくっついて下に続いてる…とりあえず降りてみる」

戸部「気を付けてくださいよ!」

倉見「おう。オレがいいって言うまでお前は待機してろ。」

戸部「了解です!」

倉見はいったんその穴を跨いで通り過ぎ、足からゆっくりと降りはじめた。


~ゴオオオオオオン~


何も見えない足元からすれ違うように風が上がってくる。どこまで続くのか解らない闇の中で、唯一確かな鉄骨の感触をしっかりと握りしめながら倉見は一歩ずつ降りていった。



戸部「…二九七、二九八、二九九、三〇〇!先輩ー!どうですかー?」

カンカンと鉄骨に当たる音も途絶えた五分後、穴の真上から戸部が呼びかける。

戸部「…先輩―?無事ですかー?」

耳を澄ませても戸部の声が虚しく響くだけだ。さっきまで吹いてた風の音も気配すら感じなくなった。


穴の中に耳を入れたまま、自分の鼓動が速くなっていくのを感じた戸部は、大きく深呼吸をしてそれを鎮めると、倉見と同じように梯子に足をかけた。

戸部「先輩、行きますよ」

囁くように声をかけると、深い海に潜るようにもう一度息を大きく吸って降りはじめる。

戸部「一、二、三、四、五、六、七、八…」



戸部「…一六七、一六八、一六九、一七…!」

足がようやく地面についた。しかしほっとしたのも束の間、新たな不安が襲いかかる。同じ闇の中でも、梯子以外に触れるものがないのだ。肌で感じるのはひんやりとした空気と、どこか閉塞感のある気配だけ。戸部は梯子に片手をかけたまま、届く範囲の地面をそっと触ってみる。

戸部「…コンクリート…?」

そこはさっきまでいた雑木林からは想像もできない平らなアスファルトだった。自分の声が予想以上に響いたことにも驚く。


首をかしげながら戸部はさらに手を伸ばし、梯子を軸に一通り触っていくが同じ感触が続くだけ。

戸部「…もういいや!」

しびれを切らした戸部は、梯子から手を離して徐々に両膝を落とすと、地面を叩くように少しずつ進み始めた。


冷たいアスファルトは、戸部の手をすぐに凍えさせた。這っては座り感覚を失う手を素早く擦る…それを何度も繰り返すが、いつまでたっても壁には当たらない。四方も八方も見えないまま、戸部はまるで遭難しかけた船のように深い闇の海を彷徨っていた。


どれぐらい進んだのか、どの方向を向いているのか、もはや梯子の元へ戻る事さえ叶わない闇…戸部はまた座り込み、吐いた息で手を温め始めた。しかし手足を伝って徐々に冷やされた体は、何度息を吐いても体温が行き渡らない。


震えが止まらぬまま目を閉じた戸部はふと倉見の顔を思い浮かべ、あの暑苦しく無駄に高いテンションが、今はなんだか恋しいと感じていた。

戸部「…そういえば先輩、コート着てなかったな…」

戸部はパッと目を開けると手を強く擦りつけ、アスファルトを掴むように動き始めた。それから何度指が固まっても止まる事なく、ただひたすら壁を探して這いまわった。


ふと、何かがズボンの中で楯突く感触が。ポケットに手を突っ込んでみると、それは入れたままのライターだった。倉見に使うなと言われそのまますっかり忘れていたのだ。

戸部はすぐにポケットに戻した…が、目の前に続く闇と悴む手が、もう一度それを握らせる。


そんな戸部の前で突然、前後左右から微かな風がふわりと流れ込んできた。さっきまでとは違う、生暖かい風だった。

戸部「…風?外気が入ってるのか…?それなら問題ないかな…?」

戸部は唾をごくりと飲み込むと、顔から遠ざけるようにライターを構え、そっと親指を乗せた。

戸部「大丈夫…大丈夫…神様仏様…!」

そして五秒のカウントダウンの後、目をつぶったままスイッチを押しこんだ。


~カチッ~


強く閉じた瞼に染みる灯り。恐る恐るゆっくりと目を開けていく…すると、

戸部「!?」

小さな炎の向こう側には、四人の男が戸部を囲むように悠然と立っていた。驚きのあまりライターを落とした戸部はまた暗闇に戻されそのまま口を塞がれる。

戸部「!!!!!…………」

抵抗する間もなく、戸部の意識は遠退いていった。

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