第5話 ふたたびの花
~ピンポンパンポン ピンポンパンポン~
鳴り響く電話にピクリとも動かず横たわる倉見。すぐ側には空になった酒瓶が転がっていた。
~ピンポンパンポン ピンポンパンポン~
切れては鳴り、また切れる着信音。ひんやりとした空気が背中を抜け、だんだんと瞼は上がって行った。
自宅のリビングの床でスーツのまま目覚めた倉見は、テーブルの上でムズムズと震える電話をどうにか手にした。
倉見「…もし、もし…?」
受話器の声に一気に目が開く。会話も終わらぬ内に電話を切ると、上着だけを引っ掛けて慌ただしく出て行った。
河川敷にはすでに黄色いテープが張られ、鑑識が到着していた。橋の横を大きく囲むブルーシート、その前に立つ警官を押しのけ中に入る。
そのさらに奥へいくと、めくれ上がったままのシートの入り口に屈みこむ女性鑑識官と蟻塚の背中が目に入る。倉見は息を切らしながらゆっくりと近づき、蟻塚の横に立った。
倉見「ジャン哲…!」
そこには、ついこの間誇らしげに見せていたシャツを着たジャン哲が、微かに口を開けたまま横たわっていた。しっかりと閉じた瞼はもう二度と動く事はないと語っているように見える。倉見は崩れるように座り込み、じっとその姿を見ている。
倉見「…お前…」
ガックリと頭を落とし、大きなため息をついた倉見は、昨晩のことでショックを受けていただけの自分を、深く恨んだ。
冷静になって考えていれば、当然わかることだった。ひとりで決着をつけると息込んでいた自分が、唯一巻き込んでいた人物。そして、過去にも中央署に協力し危険にさらされた男を、自分は救うことができなかった。
倉見は震わせながら開いた拳を、うすっぺらな畳の上に押し込むようにつけた。
ふと、なにかに引っ張られるように顔をあげると、シートの奥に転がる傘を見つけた。
鑑識官「あ、まだ触らないでください!」
倉見の背中越しに女性鑑識官の声が響くが、倉見は振り向きもせず、その花柄の傘を手に取った。
鑑識官「ちょっ…」
咄嗟に蟻塚が手を伸ばし鑑識官を制止する。不満気な表情を向けた鑑識官に、蟻塚は黙って首を振り検視に戻るよう促した。
花柄の傘は、留め金が外れた状態で転がっていた。雨が降っていても使う事のなかった傘。
倉見「…返せなかったんだな」
そうポツリとつぶやきながら留め金を巻こうとすると、ひらりと落ちた一枚の紙。
倉見「…?」
傘に挟み込むように入れてあったその紙には、走り書きの様に店の名前がいくつか書いてある。倉見は後ろの鑑識を気にしながら、紙を内ポケットにつっこむと、帰り際にそっと蟻塚に耳打ちをしてからシートを出て行った。
そのまま勢いよく土手を上がり切った所で一度振り返る倉見。橋の先に見える豊かな景色と、真下にあるブルーシートの屋根が、かきむしるような痛みを感じさせた。
権田「倉見」
突然背後から現われた権田に慄く。
倉見「か、課長?…なんで現場に?」
権田は僅かに下を向きながら、ゆっくりと頷く。倉見は唾をごくりと呑み込み、その複雑そうな表情を見つめた。
権田「ああ、神川はどうした?」
話題を変えるように顔を上げた権田に、今度は倉見がその視線を避けるように横を向く。
権田「一緒じゃないのか?」
倉見「…後でお話したい事があります。先に戻ってますんで」
倉見はそれだけ言うと、土手を降りパトカーの並ぶ道を走って行った。
中央署の屋上でこっそりと紙を開く倉見。そこには五つの店らしき名前が書いてあった。
・クラブ イブマブ
・クラブ ディープ
・クラブ オルフェ
・クラブ エルコンド
・クラブ TM
倉見「……これが何だってんだよ…ジャン哲…」
屋上を抜ける風が冷たく吹きすさび、倉見の髪をバサバサと舞い上げる。
とそこに、現場から戻ったパトカーが次々と署内に入って来た。倉見は紙をすぐにポケットに入れると、髪を両手で整えながら、権田のもとへと向かった。
曇り空に覆われた中央署は朝から煌々と照らす蛍光灯が窓ガラスに反射していた。その一角で、入室禁止と書かれた札がぶら下がる人けのない会議室に、二人の姿はあった。
倉見「自分の目で確かめたいんです…それまでは何とか課長の胸に留めといてもらえませんか?」
権田は黙って窓の外を見ている。
倉見「…そうしてもらえるなら、ジャン哲と課長の関係も黙っています」
そう声を絞った倉見の言葉に、権田は動揺した素振りもなく背を向けたままだ。
倉見「…課長!」
痺れをきらしたように声を荒げる倉見に、権田はようやく口を開く。
権田「あいつとは、まだ薬対(銃器薬物対策係)にいた頃に知り合った。当時からジャンキーの代名詞のような奴だったが、捜査で少しずつ話をするうちに信用できる男だと確信した」
じっと黙って倉見は聞いている。
権田「シャブ、大麻、MDMA…数々の売人を摘発した。あいつの情報はいつも正確で決して漏れなかった…最後の仕事を除いては」
倉見「…ヘロインですね?」
権田は大きく頷いた。
権田「あの日、いつも通りチームで現場に入ったが中はもぬけの殻。すぐにジャン哲と連絡をとったが、わからないと繰り返してな。それから奴は姿を消し、再会したのがついさっき…という訳だ」
険しい表情を浮かべる倉見がうつむきながら胸を触った。
権田「当時俺のチームにいた人間、そして今も中央署にいるのは只一人…蟻さんだけだ」
倉見はハっとしたように顔をあげる。
権田「情報が漏れたとすれば…わかるな?」
ゆっくりと頷く倉見。
倉見「…四年前鹿子は警務課で、なぜか鑑識のブルさんにくっついていた…刑事課に異動になった時のためにって…」
権田「現場には来れないにしても鑑識課には顔パス…しょっちゅう空になる部屋で蟻さんのデスクを探るのは訳ないだろう」
会議室の長机がバンッと揺れた。倉見の両腕が机に埋まり、やがて小刻みに震えだした。
警察学校から知っている鹿子。同じ班で相棒になり、衝突しながらも様々な表と裏を共に見てきた鹿子が、今自分の手に届かない場所へ消え去ろうとしている…倉見は恐怖にも似た激しい喪失感に苛まれながら、ぐっと拳を握り振り切るように前を向いた。
倉見「オレが必ず連れ戻します…だからそれまでは…あいつの事は…」
権田は手を後ろに組み、黙って窓を見ている。
倉見「…権田課長!」
倉見は目を血走らせ、唇を強く噛みしめた。そのうち権田はゆっくりと振り返り、そんな倉見の目をしっかりと見つめた。
権田「ジャン哲の件はどのみち報告する事だ、言いたければ言えばいい」
ふっと倉見の唇が緩み、目が大きくなる。
権田「俺が取引するのは信用できる人間だけだ、それは今も昔も変わらない」
倉見「ちょっと待ってください!じゃあオレ達は…」
権田はすっとドアに向かって歩き出す。
倉見「課長!!」
するとドアの前で一瞬止まった権田。
権田「…確か前年度も消化してなかったっけな?」
おもむろにつぶやく権田に倉見は目を細めてその背中をじっと見る。
権田「神川の有給休暇を認める…それまでになんとかしろ」
ワントーン下がった声が、大きく倉見の耳に響きわたる。
倉見「…課長」
権田「四〇日だ、それ以上は待てん」
何度も力強く頷く倉見に僅かな笑みがこぼれる。権田はそのままドアを開け、また一瞬立ち止まると、
権田「ただしわかった事は漏らさず報告しろ、例え小さなことでも逐一だ。それから…絶対に無茶はするな、お前たちは俺の最も信頼する部下だ、それを忘れるなよ」
とそっとつぶやき会議室を後にした。倉見はその後ろ姿にぎゅっと目を縮ませ、閉じたドアに向かって頭を下げた。
その日の夕方、倉見は病室の椅子に座り窓から見える騒がしい景色を見つめていた。すぐ横には長く沈黙している戸部が、白い掛布団をぎゅっと握りつぶしている。
戸部「…すみません、整理がつかない…」
ようやく出た声に振り向いた倉見はとても落ち着いていた。軽く頷きながら椅子に座り直すとふーっと一息つく。
倉見「とにかく今は鹿子を探すしかない。本当かどうかはその後だ」
戸部「ジャン哲さんが殺されたのは…鹿子さんがいなくなった後だったんですよね?」
すがるような瞳で倉見を見た戸部、その目には今にも転がりそうな大きな粒が揺れている。
倉見「…あいつは…関係ねえよ」
そういって倉見はすっと立ち上がると、また窓の方へ近寄り忙しなく動き回る高速道路をじっと見つめた。
倉見「ここから見えるんだなスカイタワー」
戸部は窓の反対側を見ながら同じように息をついた。
戸部「…昨日鹿子さんもそうやって見てましたよ…」
倉見「…そうか」
屋上の赤い点滅は変わらず同じリズムを刻んでいる。
戸部「…月曜日にうえ田で快気祝いやろうって、言ってたのに…」
そう言いながら戸部は顔を覆い、倉見は驚いたように振り返った。
倉見「月曜日?あいつがそういったのか?」
戸部は泣きながら頷いていた。
戸部「そのあと鹿子さんのスマホが鳴って…例のFXメールの着信音。そしたら大損しそうだから帰ってパソコン見るって帰っちゃって…」
倉見は大きく息を吸い込み吐いたままの口が塞がらない。
倉見「そうか…そうだったんだ…昨日の事はあいつにとって想定外の事だったんだ!」
戸部はサイドテーブルに手を伸ばしテッシュで顔を拭った。
戸部「想定外?取引がある事は知ってたでしょ」
鼻をすする戸部に頷く倉見。
倉見「取引の場所も、突然の時間変更まで知っていた…でも、そこにオレが来ることは知らなかったんだよ!」
戸部は使ったティッシュを持ったまま目を丸くする。
戸部「知らないで来て先輩と鉢合わせしちゃったって事ですか?」
倉見「逆だよ!オレがいたからあいつも来たんだ!…おかしいと思ったんだ、何であそこに来たのか。今までだって取引の現場に来る事はなかったはずだ、警察にいる鹿子が自ら顔を晒せば今後の取引だってやりにくくなるからな…」
戸部「確かにそうですね…何でわざわざ正体を明かすような事をしたんだろ…」
倉見はしばらく考え込んだ後、頭をブルっととふるい立ち上がった。
倉見「考えた所でわかる事じゃない…直接本人に聞けばいい事だ。とにかくオレはジャン哲の残した五軒の店を当たってみる。お前は退院までしっかり体力温存しとけ!」
苦い顔で上着を羽織る倉見。
戸部「あ、あの傘は…ジャン哲さんの」
倉見「鑑識終わったらオレにくれってブルに言っといた、内緒でってな」
ベットの上で座りながら戸部はほっとしたような顔を見せる。
倉見「じゃぁ行くわ…あ、お前点滴早めたりすんなよ!じゃな!」
戸部「あ、先輩気を付けてくださいよ!」
倉見は手を上げて颯爽と病室から出て行った。
一気に静まり返る病室で、戸部は空になった点滴袋をやるせない思いでそっと見つめた。
五軒のクラブは、全て金谷(きんや)と呼ばれる繁華街にあった。ここは倉見にとって管轄外の地域になり、堂々とは捜査ができない。客を装い一軒ずつ回ることにした倉見は、土曜と日曜の夜をフルに使い飲み歩いた。しかしどの店に入ってもこれと言った収穫はなく、新顔の客に群がる美しい名刺と酒の量だけが虚しく増えていった。
そして迎えた月曜日、デスクに顔をべったりと付ける倉見の背中を誰かが叩く。かなり重い平手が、弱り切った胃にドスドスと刺さった。
倉見「…ん…?」
目をこすりながら体を起こし、両手を上げて伸びをするとポヨンと当たる何か。振り返ると真後ろに立つ蟻塚が袋を持って見ていた。
倉見「あぁ、おはようさんです」
蟻塚はその袋をデスクにおくと、さっさと刑事課を出て行った。
大きなあくびを一つして袋を開けてみると、そこには丁寧にビニールに巻かれた傘が入っていた。色褪せた花柄をまじまじと見つめる倉見。
峰藤「やだ倉ちゃん、可愛い趣味してんのね、それとも彼女の?」
斜め向かいから顔を出す峰藤がからかうように言う。
倉見「借り物だよ…大事な人のね」
その傘を握ったまま、またデスクに顔をつけた倉見。
峰藤「ふーん…それにしても朝から魂抜けてるわね、やっぱり神川さんがいないと気合が入らないのかしら」
一瞬ピクリと動く頭。
峰藤「でも神川さんも大変よね…実家のお母さん倒れちゃったんでしょう?アタシみたいに有給使い果たしてたら親の看病もできないわよねえ…アタシも少し貯めなきゃ」
倉見は笑いながら顔を上げた。
倉見「へ~峰藤も親の事考えたりするんだ」
峰藤「いいえ、うちの親は兄貴が看てるから問題なし!今年海外に行きたいの、どばっと一か月くらい休んでバカンス、アタシの目標よ~!」
倉見は引きつり笑いを浮かべながら、またバタンとデスクに突っ伏した。あと三九日…それまでに鹿子を連れ戻す事ができなければ、警視庁を挙げての大捜索が始まってしまうだろう。そうなればもう向かい合って話す事もできなくなる…倉見はそんな焦りと、目の前に広がる名刺の山を見つめながらぶつけようのない拳を固く握りしめた。
午後三時、遅めの昼食をとった倉見は空になったカップに箸をぶっ差したまま屋上のベンチで寝転ぶ。重たい瞼にポカポカと注がれる日差しがやがてチクチクとした痛みに変わり、耐えかねた倉見は諦めたように起き上がり、カップを持って歩き出した――そのとき、
戸部「今日はキム子ですか?」
屋上の入り口でニコニコしながら戸部が立っている。
倉見「…お前今日は休みになってるだろ?」
戸部「休む暇なんてありませんよ。病院から直行しちゃったから鞄がパンパンですけど…っていうか先輩メチャクチャ顔色悪いですよ?なんか…トイレの洗剤みたいな色」
倉見「お前の例えの方がメチャクチャだぞ」
そういって倉見はカップのゴミを戸部に押し付けると、にやつきながらドアに向かった。
戸部「ボクさっきまで病人だったのに~!」
途中で落っことした箸を拾いながら戸部も慌てて後を追った。
翌日、二人はとあるスーパーの前にいた。すぐ側ではつらつとした女性の声が響いている。
「はい焼き立て二つ、ありがとうね」
小型トラックの中から出てきた中年の女性は、親子連れの子どもにほんのりと湯気の立つ紙袋を丁寧に手渡している。
戸部「あの人ですよね?」
倉見はその姿をじっと見ながら頷くと、戸部と二人でゆっくりと近づいた。すぐに気付いた女性がニコニコと二人を見る。
戸部「あ、あの…」
少し緊張した戸部が声をかけると、女性はさらに大きな笑顔を向け優しく首を傾げた。倉見が後ろから背中を突く。
戸部「あ、えーと…えーボクも二つで…」
女性「はい、ありがとうございます」
女性はすぐにトラックの中へ回ると大きなメロンパンを袋に詰めはじめた。倉見から口パクで〝バカ〟と言い渡される戸部。
女性「はいどうぞ」
引き寄せられる甘い香りとともに戻った女性。戸部は慌ててリュックから傘をだし、上に小銭を乗せて一緒に渡した。キョトンとした女性はしばらくその傘を見つめてから、思い出したように目を大きくする。
女性「これサンキューさんに貸した傘!」
嬉しそうに戸部を見た女性。
戸部「サンキューさん?」
女性は照れ臭そうに笑う。
女性「これを渡した時にずっとありがとうって繰り返してたものだから勝手にサンキューさんて…ご家族の方?」
戸部が迷ったように後ろを見ると、倉見は一度瞬きをして返した。
戸部「ボクたちは中央署の者です」
驚いたように口を覆う女性。差し出された警察手帳をまじまじ見ると、大きく開いた目でパチパチと何度も瞬きをした。
戸部「…大丈夫ですか?」
その様子を気にした戸部が声をかけると、女性はハッとしたように頷く。
女性「…ごめんなさい、ちょっとびっくりしちゃって…。サンキューさん…何かあったんですか?」
倉見は険しい顔で女性を見つめた。
倉見「…亡くなりました」
一瞬絶句したあと、半開きになった口を震わせボロボロと泣き出す女性。通りかかる人の目も憚らず、ただただその場で泣き崩れてしまった。
ひとしきり泣いた後、少し落ち着いてきたのか、一人で頷きながら女性はハアっとため息をついた。
女性「…あの時もこうして店を出していたんですけど…サンキューさん、道路を挟んだ所からずっとこっちを見ていてね。ちょうど店じまいの時間でパンも余ったから、持っていったんですよ」
二人はじっと聞いている。
女性「そうしたら〝いりません〟て。余りものだからお金はいらないですよって言っても絶対受け取らないんですよ」
戸部「欲しくて見てたんじゃないのかな?」
女性は首を振る。
女性「私せっかくあげるって言ってるのにってちょっとカチンときてね。どうして?って聞いたんですよ、そしたら〝有難くないから〟って」
戸部「どういう意味ですか?」
女性はフフっと笑う。
女性「余ったパンをあげても、私は痛くもかゆくもないでしょ?どうせ廃棄するわけだから。要らない物をもらうのに、ありがとうは言えないって」
倉見は頭を傾げた。腹を減らしている時、おいしそうなパンを差し出されたのに何故その親切に甘えないのか。やせ我慢の哲学としか思えなかったからだ。
女性「それを聞いて何だか急に恥ずかしくなって…でもすごく納得してね。自分も痛みを伴って初めて〝してあげる〟って言えるんだなって。それから店を出してた七日間、ちょこちょこ話をしたんですよ、同じ独身だとか、年も一緒だとか」
ジャン哲の不器用に喋る姿が、容易に思い浮かぶ。
女性「そこでの営業が最後っていう日に、雨が降ってきてね、この傘を渡したの」
戸部「それは素直に受け取ったんですか?」
女性は首を横に振り、子どもの様に笑う。
女性「もちろん受け取らないって解ってたから、〝この傘は私がとっても大事にしている傘だから必ず返しに来てね〟って言ったの、実際これは亡くなった母の形見だったから」
そういって両手で握った傘を見つめた。
戸部「そうだったんですか…」
女性「すごくうれしそうに何度もありがとうありがとうって…」
ふと、瞬きをして戸部の顔を見る女性、ためらいがちに口を開いた。
女性「…サンキューさんはどうして亡くなったんですか?」
うつむき加減に振り返った戸部に、倉見は浅く何度も頷いてから女性に言う。
倉見「病死です、駅で亡くなっていた所を見回りの警官が…」
それを聞いた途端、女性は目を瞑りエプロンにすがり付くように静かに涙した。
女性「本当の名前、教えてもらえませんか?」
倉見は少し迷ったように黙ったのち、
倉見「…名前は青川哲男です」
と答えた。
背中からいつまでも匂う甘い香り。リュックの中で程よく揺れるメロンパンが土手を降りる二人を包む。
誰もいない河川敷には黄色いテープだけが侘しく揺れている。あの騒ぎで他のホームレスたちも追い出され、ブルーシートは全て撤去されていた。
戸部「さてと…はい先輩」
袋から出したパンを半分に割り倉見に手渡す戸部。残りの一つはジャン哲のシートが在った場所に供える。その前にゆっくりと屈んだ倉見は献杯するかのように自分のパンをさっと挙げると、パクリとかぶりついた。戸部はパンを挟んだままそっと手を合わせている。
戸部「傘はちゃんと返しましたからね…青川哲男さん」
隣にいた倉見がバツが悪そうに戸部を見ると、
戸部「先輩、名付けのセンスありますよ」
と珍しく戸部が褒める。
倉見「…ふん」
川の上には重みのある雲がスッパリと破れ、空に隠れた陽の色が、真っ直ぐな線になって差し込み始める。
戸部「あの人、明日から東北の方回るって言ってましたね」
倉見「おお、晴れて来たからよかったよな」
川辺に立ち空を見る二人。そのうち倉見が思い出したように呟く。
倉見「どうしても理解できねえんだけどよ、パンくれるって言われたのに何で断ったんだ?ありがとうがどうのって、こだわる必要あんのかね?」
戸部は大きく伸びをした。
戸部「あんなに美味しいメロンパンより、本当の優しさを求めてたって事ですよ」
何故か満足げに微笑む戸部を、じとっと横目で見た。
倉見「…何かお前、ムカつくな」
戸部はまた満足げに頷き、二人は河川敷を後にした。
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