第4話 ~事件3 スカイタワーの喪失~

ひっそりと静まる警察病院の前。救急外来を示す赤いランプだけが静かに回っている。そこに、入口に向かって緩い坂になった段差をタイヤが擦る音が響く。車が入口にさしかかると、ブレーキが効く間も待たずに後部座席から飛び出す倉見、運転手に軽く頭を下げて鹿子も続く。


待ち合い室の廊下をうつ向いたままウロウロと歩く権田が、慌ただしく近づいてくる足音に気付き顔を上げた。

権田「おぉ、来たか…」

倉見「戸部は、戸部はどうなってるんですか!?」

権田「いま手術中だ。至近距離で左肩を撃たれたらしい…」

倉見「っ!…」

権田「出血は多いいが、急所は外れてたから命に別状はないそうだ」

倉見「……!…っふー…」

倉見は倒れ込むように、後ろの壁伝いにしゃがみこんだ。鹿子も大きく息をつきもたれる。


その姿をうなずきながら見ていた権田は、長椅子にゆっくりと腰をおろし、手のひらを顔に滑らせながら大きく息をついた。

権田「昼間の件…なんとか取り返そうとしたんだろうな」

倉見「…バカが!」

そのまま手術中のランプが消えるのを待って、権田は病院を後にした。



遠くの空に雲に紛れた赤い帯がすーっと伸びている。そこに少し顔を出した朝陽が、まるでゴールテープを切るようにだんだんと姿を現していく。


そんな静かな朝を、最悪な痛みと共に迎えた戸部。初めに映ったのはじんましんのようなブツブツとした天井。一度瞬きをして今度はすぐ左側に目を動かすと、銀色の棒に吊るされた袋から飛び出たチューブが、自分の腕に繋がっていた。


そのルートを何度も目で追い確認すると、今度はゆっくりと顔を触ってみる。目、鼻、口、耳と順番に触れてホッとする戸部。そして痛みのある肩に顔を近づけ、そうっと細目にして見てみる。


包帯でぐるぐると巻かれた肩は、パッドを入れたように高く盛り上がり少し首を動かすだけでも脳天まで痛みが響く。まるで力強いマッサージ師の指が骨まで貫通したかのような激痛だ。


戸部「っつ…!!」

言葉も出ないまま唯一フリーな右手をバタバタさせて耐える戸部。目覚めてから五分も経たずしてびっしょりと汗をかいた。

戸部「み、みず…」

窓際のサイドテーブルに手探りで指を走らせるが、それらしきものには全く触れない。


体は痛みで動かせない、せめて眼球だけでもと目いっぱい視線を右へ…とその時、わずかに陽の透ける黄色いカーテンの下に、誰かが居る事に気付いた。

戸部「…?」


窓際にピタリとつけた椅子に、倉見と鹿子がぐっすりと眠っている。

戸部「…うそ…。」

腕を組んだまま、無防備に顔を上げている鹿子。その横で、鹿子の右肩に頭を埋め、ぶら下げるように両手を投げ出し無邪気に眠る倉見。一見、電車の中で見かける、向かい側の席の恋人同士のようだが。


戸部「…逆でしょ…」

戸部はしばらく時間が止まったように二人を見つめると、痛みが少しずつ軽くなっていくのを感じた。



~グーグー~

変わったカラスの鳴き声がする。長らく野生を離れ都会にどっぷりと浸かったカラスは、鳴き方も変化していくのだろうか…ぼんやりとそんな事を考えながらうなされる鹿子。


~グーグー~


その不可思議な鳴き声は、自分のすぐ隣で聞こえている。

鹿子「…?」

眠気に捕らわれたまま瞼をわずかに開けて見ると、重くのし掛かる黒い物体が触覚のようなものを出して自分のまつ毛に触れてくる…気味の悪くなった鹿子は、思いきりそれを振り払った。


倉見「痛って!」


その声にようやく目は開いたが状況がうまく呑み込めない、隣には苦悶の表情を浮かべる倉見が頭を抱えていた。

鹿子「…都会のカラス…?」

倉見「お前何すんだよ!?いきなり頭はたきやがって!」

倉見は片目を瞑りながら頭をさすっている。

鹿子「…カラスがグーグーって…」

倉見「何いってんの??…痛って…」

そんな二人の横から突如かかる声。


戸部「それ…先輩の…お腹の音で、す」

ベットの上で目線だけを必死に向ける戸部にハッとする二人。すぐにベットサイドに駆け寄る。


倉見「お前意識もどったのかー!そかー!」

鹿子もその後ろでホッとした表情で頷いた。

戸部「すみま、せん…心配、かけて。ずっと…いてくれたんで、すね」

倉見はブンブンと首を振り、そこはかとない笑顔を見せた。


倉見「いい、いいそんなことはよ…ただし!今度死んだらぶっ殺すからな!…たく心臓止まるかと思ったぞお前~!!」

戸部は痛みの隙間で少しずつ笑い、

戸部「死ん…だら殺せ…ないし、そもそも…ボク、死んでない…し」

と呟いた。倉見は耳を全く傾ける事無く自分勝手に頷いている。


倉見「まぁよかった!…そうだ、お前にも伝授しておこう」

戸部が瞬きをして耳を澄ませる。

倉見「〝自信を持って過信はせず〟権田課長の金言だ。自信は進化を招き、過信は破滅を呼ぶってさ。よく覚えとけよ」

戸部は倉見に何度も頷き、今度は鹿子の方をちらりと見た。腕を組んだままじっと戸部を見る鹿子は、大きくため息をつくと、

鹿子「死んだらフォローできないからな」

とさらりと呟いた。



戸部が入院して一週間が過ぎた。その証言をもとに趙の特徴や似顔絵が公開され、指名手配もかけられたが未だ何の手がかりもつかめないまま。現場となったビルには、蟻塚がまさに現場百遍をやり通したがこれといった成果は上がらなかった。


倉見は周辺の店を中心に聞き込みに回り、さらに範囲を広げて日々歩き回っていた。鹿子は資料室に籠り、犯罪者リストから繋がりを探すが全くといっていいほどかすりもしなかった。


外から戻った倉見、溜め込んでいた報告書をデスクに置いてペンをとった。ふと一息つくと、空のままの戸部のデスクに目が留まる…あの日を思い出すたびに湧き上がる激しい怒り。それを放出できないまま倉見は刑事課でもんもんとしていた。


峰藤「お疲れ倉ちゃん」

しばらくすると斜め前に座る峰藤が、相変わらずの艶やかな声でデスクを覗きこむ。真っ白な報告書を黙々と睨みつけていた倉見が応えるように片手を挙げると、その上に重ねるように封筒を置いた。


峰藤「ごめんねぇ、昨日届いてたんだけどすっかり忘れてて。でもちょっと不思議なラブレターよねぇ…?」

倉見はペンをおき、眉間にしわを寄せながらその茶封筒を手にとる。宛名にはミミズが這いつくばったような字で


【新宿中央署 くらみさんへ】


とあり、切手も差出人もない。首を傾げながら封筒を開け始めると、何故か目の前に少し赤みのあるくるんとした髪がちらつく。顔を上げてみると好奇心の塊のような峰藤が身を乗り出してじっと見ていた。


峰藤「あら?ウフフフ、やだ別に覗いてたわけじゃないのよ?ウフフフ」

そういって侵入した体を元の鞘に戻す峰藤を見送ると、改めて封筒の中身を取り出した。


そこには学習塾のチラシを破った紙が一枚、裏面を見ると電話番号と名前のようなものが書かれている。

倉見「〝ひとりででんわして 青空市場〟?なんだこりゃ?」

その不可思議な手紙をポケットに入れると、倉見は携帯電話を出しながら屋上へと上がっていった。



ランナーが行き交う川の下で、突然公衆電話が鳴り響いた。訝しげにそれを見ながら走り去るランナーたち、散歩を楽しむ犬も激しく吠える。そこに、大きなごみ袋を持ち歩く川の清掃員が通りかかり、電話ボックスの折れドアを開けて片耳を塞ぎながら受話器をとった。


清掃員「はいはい?」

電話の向こうに聞こえる見知らぬ男の声に、倉見は戸惑い言葉が出ない。


清掃員「もしもし?どなた?」

黙ったまま何も言わない緑の受話器に苛立つ清掃員。


清掃員「間違い電話?切ります…」

そう言いかけたとき、電話ボックスの真上にあるスピーカーから、言葉を遮るように鳴り響く音。


~ウーーーーーーーーーー~


突然受話器から倉見に届く大きなサイレン、驚く間もなくガチャリと電話が切られた。

全くわからない電話の主、その声に聞き覚えもない。倉見は電話をパタリと閉じると、屋上のドアを開け、階段を降り始めた。


一段、二段、三段と降りた所でふと足が止まる。先程のサイレンの音を、何処かで聞いた覚えがある…尖った唇を人差し指で弾きながらじっと考える倉見…と、その指がぴたりと止まる。ハッとしたようにまた階段をかけあがると、じれったい様にリダイヤルをおした。


放流を知らせるサイレンが消えた川に再度鳴り響く公衆電話。帰り仕度を始めていた清掃員がタメ息をついて仕方なく電話ボックスに戻る。


清掃員「はいはいもしもし?」

倉見「もしもし?」

清掃員「はいどちらさま?」

倉見「聞きたいんだけど、そこはどこですか?」

清掃員「はい?…どこって、中央河川敷の公衆電話だけど?」

倉見「…それって川のどの辺!?」

清掃員「なか橋のちょっと手前かなあ?」

倉見「ありがと!」


倉見は走りながら電話を切ると、すぐに刑事課に戻りデスクの引出しから青い袋を取り出した。

峰藤「どうしたのそんなに慌てて?」

向かいで見ていた峰藤が目を丸くする。

倉見「オレちょっと出るから、鹿子が戻ったらこれ、やらせといて」

空白だらけの報告書を峰藤に投げると、倉見はその袋と上着を掴んで飛び出した。



「領収書要らないんですか?」

運転手に手を振り、タクシーを飛び降りた倉見。その右側にひっそりと立つ電話ボックスには誰もいない。堤防の道に上がると増水した川が軽く波を立て、その上に架かる橋との距離を縮めていた。


倉見はそのまま土手を降り、橋の横に並ぶブルーシートにゆっくりと近づいた。よく見ると、テント状に作られたシートは四つほどに分かれており、それぞれ形も色も微妙に違う。様子を窺おうにもゴーっと鳴る川の音が響き中の気配は聞き取れない。倉見はポケットから手紙をだし読み返してみた。


倉見「〝ひとりででんわして…青空市場〟」

倉見は震えたような文字をしばらく見つめると、手紙をしまいながら手前のシートから声を掛け始めた。


倉見「こんにちは」

反応はない。他のシートも同様に声を掛けるが、物音一つ聞こえなかった。

がっくりと肩を落としその場に腰を下ろした途端、ポツン、ポツンと頬に当たる雫。

倉見「あぁ…ったくついてねーな」


しわくちゃになった上着を頭から羽織り、包んであった袋を抱えるように土手へ走ると、堤防に立つ男と目が合った。

倉見「…ん?んん!?」

思わず目を細めて男を見る。そこには、バッサリと髪を切り、白いワイシャツにスーツらしきズボンに身を包んだジャン哲が居た。


ジャン哲「く、くくらみさん」

どこか嬉しそうに目を大きくしながら、土手の上から滑り降りたジャン哲、倉見もすぐに近寄った。


倉見「なんだよ見違えたな!」

倉見は見上げるように言う。

ジャン哲「は、ははい、手紙みてくれま、ましたか?」

倉見は何度も頷き背中を叩く。

倉見「おう、〝青空市場〟でわかったよ…あそうだそうだ」

倉見は胸に抱えていた袋をガサゴソと開け、中からあの花柄の傘を出して手渡した。

倉見「大事なもんだろ?なんで置いてくんだよ、戸部が拾っといてくれたんだぞ?」


ジャン哲はゆっくりとその傘を手にとると、唇を噛みしめながら何度も頷く。

ジャン哲「…ととと戸部さんは、だいだだ大丈夫ですか?」

倉見「…おう!あんなガキ共にやられるほどヤワじゃねえって」

ジャン哲「う、う撃たれたで、ででしょ?」

ジャン哲がしっかりと顔を見上げると、倉見は一瞬目をそらし口をつぐんでから頷いた。


倉見「…知ってたのか」

申し訳なさそうに静かに頭を下げるジャン哲。

倉見「まだ入院してっけど元気だよ。死んだらぶっ殺すって言っといたから…安心しろ」

うつむき加減に答える倉見。そのらしくない表情に居た堪れない気持ちになったジャン哲は、手元に戻って来た傘を見つめた。


ジャン哲「…こ、ここ、この傘、戸部さん、届けけ、に来てくく、くれるとお、思ってましした。で、でもケガ、ケガし、しちゃったから…」

倉見「それでオレに?…戸部に用でもあったのか?」

ジャン哲は頷くと右足をひきずりながら橋の一番奥にあるブルーシートへ倉見を案内した。


倉見「お邪魔します…へえ、意外と広いんだな」

男二人が入っても余裕で足が伸ばせるシートの中を、興味深そうに見回す倉見。畳の上っ面だけを重ねたカーペットも寒さを凌ぐには十分だ。


その畳の端を剥がし下にあった一冊の週刊誌を取り出すジャン哲。ペラペラとめくり真ん中あたりに挟まった一枚の紙を倉見に渡した。訳のわからぬままその紙を見る。


【一七金22 S塔長H】


倉見「なんだこれ?」

ジャン哲は紙を指さしながら、

ジャン哲「ひ、ひひ日にちと、じ、じじ時間。え、えS塔長は、すす、スカイタワーいち、一番う、上…ヘ、ヘヘロイン」

倉見「…一七日の金曜午後十時、スカイタワー最上階…でHはヘロイン?」

ジャン哲は倉見を見て何度も頷く。


倉見「スカイタワーってまだ建設中だよな…こんな情報どこで仕入れた?」

ジャン哲は少し迷ったように顔をこわばらせる。

ジャン哲「…む、昔じょ、情報屋だった…シャブ、コ、コカイン色々、じょ情報売った」

倉見「…お前がか?」

腕を組んで不可思議な表情を浮かべる倉見。確かに誰もが知る麻薬中毒者のジャン哲なら売人から疑われる事もなく情報屋としては打ってつけかもしれない。しかし薬にどっぷりと浸かった人間を雇うには、内容の重さから考えると相当なリスクを背負う事にもなる。


ジャン哲「四年前、は、初めて、ヘ、ヘロインのじょ情報つ、掴んで売った。そ、そしたら、と、取引の夜、い、いきなりねぐらにはは、入って来たお、男に撃たれて、にに逃げた」

裾を捲りあげて右の義足を見せると、倉見は険しい表情で見つめた。

倉見「…それで取引は?」

首を横に振るジャン哲。

ジャン哲「サ、サツ踏み込んだけど、だ、誰もいなかった」


息を大きく吸った倉見。

倉見「…お前の雇い主は誰だったんだ?」

ジャン哲「……」

急に黙りこんでうつむくジャン哲の姿に、だんだんと背筋が冷えていくのを感じた倉見は、また大きく息を吸い静かに吐き出すと、覚悟を決めたように小さく呟いた。


倉見「…中央署か?」

息を荒くしながらジャン哲は頷く。

倉見は頭を抱えて長い長いため息を漏らした。


情報屋と刑事が繋がりを持つ事はさほど珍しい事ではない、捜査に必要なのは何よりも正確な情報だからだ。しかしその関係は時間をかけて作り上げた信用を以って成立しているもの、情報屋の素性が漏れ出す事などありえない事だった。


しかしジャン哲の情報は事前にEDAに漏れ、結果命を狙われるはめになる。その事実は、ジャン哲から情報を得ていた刑事だけではなく、捜査に関わった誰かが内通者であることを示唆しており、それは事実上、戸部を撃った相手とも直結することになるのだ。


倉見「担当の刑事は誰だった?」

ジャン哲「…権田、さ、さん…」

途端に険しい顔になった倉見は思わず口を覆ったが、同時に、何故ジャン哲が雇われたのかを理解できた。


型にとらわれない権田の大胆な発想は、時にはルールすれすれの線を跨ぎながら数々の事件を解決に導いてきた。さらに権田は、信用に足るか否かの人間性を見抜く能力は抜群だったからだ。

ジャン哲「いつ、いつもし、指示はちゅ中央プラネタリウムのの、な、中で」

懸命に話すジャン哲の声も耳に入らないまま、倉見は一人頷いていた。


権田は以前、刑事課の銃器薬物対策係にいたが、その後異動になり、二年前に刑事課長として中央署に戻って来たのだった。その一年後、EDAの特別捜査チームを立ち上げたのも権田本人だった。倉見はフーっと声をだしてため息をつくと、また何度も頷きながらジャン哲を見た。


倉見「…権田課長が内通者とは言えない…よな。情報をごく少数のチームで共有して捜査になる訳だし…四年前だとオレも鹿子も警務課にいた頃か…」

動揺を必死で隠そうとする倉見に、複雑な表情を浮かべて見つめるジャン哲。そんな視線にふと気づいた倉見は、胡坐を組み直し僅かな笑顔を作った。


倉見「それにしても、何でこっちに戻って来たんだ?それこそ〝裏の指名手配〟じゃねえのか?」

ジャン哲は手に持った傘に目を落とし、ほんのり顔を和らげると、ビニール袋で丁寧に包まれた箱から一枚のチラシをとりだした。

ジャン哲「か傘か貸してく、くれたひと…」


そう指をさしたのは、スーパーの店頭でペイントされた小型トラックの前に写る女性。

倉見「北海道メロンパン三日間限定…この女の人が傘を?」

ジャン哲は嬉しそうに頷いた。

ジャン哲「ぜ、全国まわ回るから、か、返せなか、なかった」

そう言いながら、整えられた髪と服を指し照れ臭そうにはにかんだ。


子どものように笑顔を見せるジャン哲に、なんとも言えない温かさを感じた倉見は一時の和みをしみじみと噛みしめる。そしてまた長いため息をつくと重たくなった紙をじっと見つめ、険しい顔をジャン哲に向けた。


倉見「…情報本当に助かった、これはオレの胸にだけ留めておくから安心しろ。…こいつを獲るのにかなりのリスクを冒したんじゃないか?」

スっと笑顔が消えるジャン哲だったが、しばらくするとしっかりと倉見の目を見つめた。


ジャン哲「お、同じ。と、戸部さんにも、か、返したいだけ。で、でも…くらみさ、さん一人危ない、か、神川さんににも…」

そう言いかけたジャン哲の顔に、手を広げてみせる倉見。

倉見「絶対に神川に言うなよ、絶対にだ!」

押し込むようにそう言い聞かせると、倉見は背を向けて立ち上がった。


不安気な表情で見つめるジャン哲に倉見は顔を綻ばせ、握りしめた傘を指さした。

倉見「返せるといいな、その傘」



雨音の消えたシートを捲り上げると、どんよりとのしかかる雲が暗い影をつくり、走る川面を黒く染めていた。倉見は軽く手を振りジャン哲の元をあとにすると、一気に土手をかけ上がり反対岸に浮かぶビルを睨みつけた。

倉見「…一人で十分だ。」

そう小さく呟くと、握りしめた紙を内ポケットの奥深くに沈めた。



終業後の刑事課のデスクには、一人黙々と書類を整理する鹿子がいた。入り口に立ったままその後ろ姿をじっと見ている倉見。


鹿子「遅かったな」


相変わらず背中の目は鋭く光る。

倉見「まだ残ってたのか、お疲れ」

軽いノリで入ってきた倉見は鞄と上着を机に置き、もたれるように椅子に座った。

鹿子「お前のせいで帰れなかったんだよ!ったく!」

端から端まできっちりと書かれた報告書を机に投げると、鹿子は椅子にかけたコートに袖を通した。


倉見「ハハ、それはご苦労さん助かった」

背もたれに寄り掛かり天井を向きながら倉見が笑う。

鹿子「五〇〇倍にして返せ」

さっさと出口に向かう鹿子の背中を目で追う。


倉見「鹿子」

座ったまま声をかけると、イラついた様子の鹿子が振り返った。

倉見「…また頼むな」

鹿子「二度と頼まれるか!…お前も早く帰れ、頭がカッパだぞ」

そういうと、鹿子はカツカツと大きい足音をたてながら帰って行った。


倉見は雨に濡れてペタンとなった頭を触りながら軽く笑うと、窓際の権田のデスクをじっと見つめた。



一七日(金)。その日の夕方、倉見はいつも通りの業務を終えると慌ただしく帰り仕度を始めた。


倉見「お先~!」

最後に椅子をバンと引っ込めると、鼻唄を歌いながら刑事課を出ていく。そんな様子を見ていた鹿子が首を傾げながら倉見を追った。


鹿子「倉見」

廊下に出た所で呼び止められた倉見は、一瞬肩をピクっと動かし、また鼻唄を口ずさみながら振り返った。

鹿子「これから病院行くけどお前は?」

倉見「あぁ…今日はパスだ。来週退院だろ?戸部によろしく言ってくれ」

鹿子が何か言いたげに頷くと、倉見はそのまま手を振りご機嫌な様子で帰っていった。


いつもと変わらない軽いノリ、けれど何かが引っ掛かる…鹿子は釈然としないまま自分のデスクへ戻って行った。

 


高速道路に挟まれるように建つスカイタワー。その裾野に広がる森林公園に倉見の姿はあった。昼間は散歩コースとして人も多いいが夜になると一転、緑の暗幕に覆われた場所に訪れる者はほとんどいない。


建設中のタワーの下は二メートルほどのボードで囲まれており、上階はすべて真っ暗だが屋上にだけゆっくりと点滅する赤い光が、まるで灯台のようにみえる。倉見は植え込みに隠れながらボードの切れ目を探すが、入り口らしき箇所は見当たらない。少ない街灯の側で不気味に浮き上がる時計は、午後七時を指していた。


倉見「とりあえず待つしかねえか。」

時計から一番離れた草むらに腰を下ろすと、木々の隙間から見える空が目に入る。木の葉が切り取る都会の空は、青いのか白いのか、その色さえはっきりしない。絶え間なく走る車の音が、小さな空をさらに遠ざけているような気がした。


そんな景色を見ているうち、河川敷で見た厚い雲が頭に浮かんできた。

(くらみさ、さん一人危ない、か、神川さんににも…)

心配そうなジャン哲の顔が倉見の心をよぎる。

約束通り誰にも伝えずに来た倉見は当然何の装備もしていない。権田の許可さえあれば銃の携帯も出来るのだが、どうしても話す気にはなれなかった。

倉見「ま、なんとかなるべ」

そう言いながらごろんと寝転がると、今頃病院にいるであろう鹿子と戸部の顔を思い浮かべ、また小さな木々の窓から見えない空の色を探した。



夕食を終えた病院は、面会客もまばら。六階の病室には誰もいない大部屋に移った戸部が、ベットで上半身を起こしたまま点滴の管をいじっていた。鹿子は訝しげにそれを見ている。


戸部「鼻唄?なんか良いことでもあったのかなあ?」

そう言いながら管の中間をしつこく回す戸部。

戸部「もしかして美味しいラーメン屋でも見つけたんじゃないですか?味噌子にも塩美にも飽きてきて、ついにノーカップラーメンに走った…先輩ならあり得る!」


椅子の上で腕組みをしたまま、鹿子は呆れたようにため息をついた。

鹿子「…発想が似てきたな」

戸部「な…!ボクは冷静に先輩の思考を分析しただけですよ」

口を尖らせて反論する戸部から、すっと立ち上がって点滴の管を取り上げる鹿子。

鹿子「早く落とそうとする発想が同じだと言ったんだよ」

いたずらがばれた子どものように戸部は作り笑いを浮かべる。

鹿子「笑って誤魔化す所もな」

慌てて口を押える戸部をジロっと見ながら、鹿子はベットの横にある窓枠に腰かけた。


夜の病室からは明りの落ちないビル群がよく見える。首都高を埋める無数の光は、まるで地上に流れる天の川のようにビルの合間で不自然な星空を作っていた。


そんな景色の中で一際目立っていたのが屋上だけが赤く点滅する尖った建物。それを避けるように道路は湾曲している。

鹿子「退院いつだっけ?」

窓を眺めながら鹿子が聞く。

戸部「二〇日です、長かったですよもう」

ふとテーブルに置かれたカレンダーに目をやる鹿子。

鹿子「二〇日…月曜日か、ちょうどいいな」

戸部が首を傾げる。

鹿子「快気祝い、うえ田でいいな?」

ニコリともしない鹿子が、サラリと流す言葉は何故かいつも温かい。戸部は未だ包帯の取れない肩に、じんとしみてくるものを感じた。


戸部「はい!うえ田の味が恋しくて恋しくて夢に角煮が出てきましたよ」

また呆れたように頷く鹿子に、戸部はハっとして口を覆う。

戸部「似てきましたね…」

鹿子はその通りと言わんばかりに頷いて見せた。


~モウカリマッカ?モウカリマッカ?~



公園の時計は午後八時を指そうとしていたが、相変わらず車の音は絶え間なく、植え込みに寝転がる倉見の耳を突いていた。

倉見「金曜の夜だもんなぁ…あー腹減った、角煮食いてぇ」


~ピー…ガチャ、ギリギリギリ~


突然の電子音と壁が動くような音が聞こえ倉見はゆっくりと起き上がり、生い茂る葉の間からそっと様子を窺う。

男「ちゃんと閉めとけよ。」

そこには作業着を着た男が二人、囲いのボードを横にずらし中へ入って行く姿が見えた。


しばらく息をひそめて動かない倉見。周りをじっくりと確認している。

倉見「まだ二時間もある…」

取引の一〇時には余裕がありすぎる。通常売買の現場はリスクになる長居は避けるため早目に来る事も考えにくい。そんな経験から倉見は少し考えたあと、注意深く辺りを見まわしながらタワーに近づいた。


戻されたボードの下にはライターのような電子機器が落ちている。小さな画面に示された数字を見ながらポケットに入れた倉見は、そのまま中へと入って行った。


男たちの声が微かにこだまする一階には、動いていないエレベーターが二機、その裏側には狭い階段が隠れるように作られていた。外のボードだけで囲われている一階には、まだ多少の光も入り視界はなんとか守られている。


地上一〇階建てのスカイタワーは二階から九階までをショッピングモール、一〇階を展望室という計画になっていたが、業者とオーナーとの間で揉め、昨年から作業が止まったままになっていた。


~カンカンカンカン~


階段を上がっていく男たちの足音が響いてくる。

倉見「一〇階かよ…そこまでして売りたいかって…!」

一人で突っ込みながらため息をつくと、倉見は一段一段そうっと踏み込みながら男たちの後を追った。


板とシートで覆われた窓は光を一切通さない。一フロアに着くたびに広がっているであろう黒い空間が、気味の悪さを一層引き立てる。何も見えない階段をひたすら壁を辿って昇る倉見は、片手に指を立てながらその階数を確認していた。

倉見「あと…長ぇな…」

と、先を行く男たちの足音が突然止まった。


倉見はピタリと階段に這い、耳を立てる。絨毯の上を歩くような音が聞こえた後にまた止まる男たち。

男「全部で五箱か、さっさとやるぞ」


~ピー…ガチャ カチャン~


さっきと同じ電子音と共にドアの音が響く。倉見はゆっくりと這い上がり、最後の一段から顔を出す。真っ暗なフロアから一〇mほど先に光が見える。一端下がった倉見は、壁に沿って立ち上がり今度は入り口から顔を出す。それはフロアに建てつけられた店舗のドアから漏れた灯りだった。中で作業を始める男たちの姿が僅かに開いた隙間から見える。


フロアの反対側を見ると、上階へ続く階段に立ち入り禁止の札がたてられ、作業用の工具が天井付近まで積みあげられていた。つまりスカイタワーの最上階とは昇れる限界である四階のことだったのだ。


しばらくすると中のドアもバタンと閉まり、再び訪れた暗闇の中を幸いに倉見はゆっくりとフロアに入り始めた。壁の薄い店舗用の部屋は、男たちの声が漏れてくる。

男「そこにあるだろ?冷蔵室。このケースに全部入れ替えろ」

男「ロックキーは一階のと同じか?」

男「いやこっちは…五八七六だ」


ふと、ポケットに入れたままの電子機器を出してみると画面に出ている数字は五八七五と表示されていた。初めて見る簡易式の電子キーに驚く倉見。


男「いま何時だ?」

男「八時三〇分」

男「予定通り九時には渡せるな」


取引時刻に変更があったのか、そんな会話に耳を立てながら、少しずつ近づく倉見。店舗の裏側へ回り込もうと忍び寄る。


~ガチャリ~


突然、倉見の耳もとで、固くなったゼンマイをひと巻きしたような音が重く響いた。倉見はゆっくりと両手を上げると、唇を噛みながら目の前のドアをじっと見つめた。


「これ以上は遠慮してもらおう」


暗闇の中から聞こえた低い声、それが耳を通り抜けた瞬間、倉見の口は一気に渇き力を失った。

額にはじわりと滲む汗、早くなる鼓動、真っ白になる頭はグラリと揺れ、横を向けない体に逆らい眼球だけが慌ただしく動き始める。


そんな倉見のこめかみで、鉛の口は動かず留まっている。

倉見「…冗談…だろ?」

そう呟いた瞬間、今度は背後に迫る気配。


男「ここはお任せください」

畏まったような男の声だ。男もまた銃を向けながら倉見に近づいた。

「警察が来るのは時間の問題だ。ここはどうにかする、お前達は早く戻れ」

闇に慣れてきた倉見の目が、少しずつその声の主を捉える。

男「わかりました」


男はすぐに店舗のドアを開けると、中にいた男たちに鞄を担がせ、固まる倉見の前を悠然と走り去った。倉見はゆっくりと両手を降ろし、一呼吸おくと前を見たまま声を掛ける。


倉見「…作戦か?そうだろ?泳がして後を追うんだろ?」

「…」

鉛の口は、何も言わない。

倉見「…早くしないと見失うぜ?なぁ?」

どちらからともなく、息を呑む音が聞こえる。倉見は強く目を瞑った後に大きく息を吸うと、下から狙う銃口にゆっくりと顔を向けた。


この小さなトンネルの奥で、弾は押し出されるのをじっと待っているのだろう。その号令を掛ける人さし指が、細くて白いその指が、微動だにしない瞳の前で折れている。


倉見「なあ、鹿子…。」


倉見の額に移った銃口は、震えすらないまま止まっている。真正面で見る鹿子は全く温度を感じられない、重く無機質な表情だった。


倉見「ちゃんと話せよ、なぁ?」

そう問いかける倉見に、瞬きすらしない鹿子。

倉見「冗談にもほどがあるだろ!いい加減に…」

そう言いかけた瞬間、ひんやりとした感触が額にピタリと付いた。


鹿子「すぐに死にたいのか?」

銃口が額の骨に当たる。倉見は目を見開き、鹿子をじっと見た。

鹿子「わたしなら外さない…戸部はラッキーだったな」

そういってニヤリと笑うと、後ろから手錠を出し開いたドアの取っ手と倉見を繋いだ。


鹿子「…忠告しておく、わたしたちを追っても無駄だ。早死にしたくなきゃとっとと忘れるんだな」

そう言うと、うなだれたまま固まる倉見を残し、鹿子はその場を去って行った。


倉見は、何も頭に浮かばないまま座り込んでいる。慣れてきたはずの目には新たな暗闇がひしめき、もう誰もいない場所に鹿子の声だけがこだましている。


そして唯一、額に残った冷たい感覚だけが、これを現実だと理解させた。

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