第2話 ~事件1 天才ハッカーの謎~

一ケ月前、都内区役所のデータベースが何者かに乗っ取られ、サーバーが一時ダウンするという事件が起きた。


捜査の段階で、主に三人の大学生がリレー式にハッキングしていた事がわかり、警察は関わった三人の聴取を行った。どの若者もかなり高度な技術を持っており、またそれぞれが暇を持て余していたと口を揃える。


三人はインターネットのとあるページから、〝データ管理のアルバイト募集〟と謳われた求人を見て応募したと証言。飛びぬけて報酬の高いその仕事は全てメールでやりとりされ、指示された順序で作業を行い翌日には報酬が振り込まれるという流れだったと話す。


指示をしていた山本と名乗る人物とは一切面識はないと言い、当然ながら事件発覚後は跡形もなくネット上から山本の名は消え去ったのだった。

一見EDAとは無関係のような事件に思われたのだが、その後の捜査で大学生の自宅から枝カードが発見され、倉見班も加わり合同捜査を行う事になったのだ。


現場付近の商店街、二人の後ろを少し下がって歩く戸部。来たばかりの転入生は、まだまだ班の空気に馴染もうとはしない。それどころか前を歩く倉見がチラチラと振り返ってくるのが、若干うざったいとさえ感じているようだ。


戸部「…あの、倉見さん…。」

後ろから遠慮がちに話しかける。

倉見「ん?んあ、なんだ?」

すっとぼけたように倉見は答える。


戸部「…あの、大丈夫ですから、ボク…。」

倉見「んあ?」

戸部「…ですから!ボクの事は気に…」

突如、倉見が体ごと後ろを向いた。興奮したように目鼻を全開にしている。

戸部「な、なんですか…!?」

思わず後ずさりをした戸部を、見開くように見つめる。

倉見「メンチカツだろ!」

戸部「…え?」

倉見「匂うんだよ!肉汁滴るメンチだろ!間違いない!」

戸部「…はい??」


戸部は全く理解ができず、頭の中で精一杯事件の概要をおさらいしてみた。すると仁王立ちになって腕を組んだ倉見が、今度は深刻そうな顔で語り始める。


倉見「…さっきからな、焼き鳥だのコロッケだのってオレを誘惑するんだよ嫌というほどな!…でもオレは耐えた…今は勤務中だ、つくねがなんだ、ぼんじりがどうした!カニクリームコロッケなんかクソくらえだと!…しかしな、メンチはだめだダメなんだ!…あのザラザラした表面を割った時の切ない音…そこから漏れる吐息のような湯気立つ肉汁…あなたの横には冷え冷えのビール…あ~神様はなんて残酷なんだ!メンチカツは反則だろ!メンチカツはぁぁぁぁっ…!くぅぅぅっ!」


苦悶の表情を浮かべ、無駄に振り上げた拳で目頭を押さえる倉見。その姿を呆然と見ているしかない戸部の肩から、リュックがずり落ちる。


倉見「…いいか戸部よく聞け。午後の商店街は敵だらけだ!オレのようなベテラン刑事でさえついつい…何て事になりかねない!ヤツらは無防備な鼻を狙ってくる!油断するなよ、例えそれがメンチであっても…お前も気をつけろぉぉぉ!」


そういって倉見はこれでもかと言うほど鼻から息を吸い込んで恍惚の表情を浮かべると、くるりと背を向け勇敢に歩き出した。

先を歩いていた鹿子は、そのおバカな一部始終をいつものように見守ると、首を揉みながらスタスタ進む。


至極無駄な緊張感を、現場に着く前に消費してしまった感が拭えない戸部も、落ちたリュックを背負いなおすと、自分の顔をペチペチとはたいて、また倉見の後ろに続いた。

〝平常心、平常心〟とつぶやきながら…。



倉見「あ」

倉見の足がまたもや止まる。

戸部「…こ、今度は何ですか!?」

戦々恐々とした戸部に、背を向けたまま倉見は続ける。


倉見「お前も今日から仲間だからさ、〝倉見さん〟はやめようぜ。あいつもオレより階級上だけど鹿子だし」

倉見はそう言いながらチョイチョイっと遠慮がちに鹿子の背中を指さした。

戸部「…え?」

倉見は鼻を掻きながら続ける。

倉見「…仲間に上も下もないからよ!」

戸部「…倉見さん……あ、じゃぁ、えとじゃあ…豊(ゆたか)さ…?」

倉見「先輩でいいわ!な?そうしよう!」

戸部「……え?」

倉見「オレちょっと憧れてたのよ、先輩って響き。先輩?先パイ?せんぱぁい?…って、うわっ照れる!まあ慣れだよな!うん慣れる慣れる!という訳でよろしく!」


倉見は遠く離れた鹿子のもとへ、全速力で走って行った。

その姿を呆然と見ているしかない戸部の肩から、再びリュックがずり落ちた。



KEEPOUT KEEPOUT KEEPOUT KEEPOUT KEEPOUT 


黄色の帯が巡るマンションの一室。入り口で背筋を伸ばして立っている警官に軽く敬礼を済ませると早速中へ。

白いタイル張りの玄関には、ボコボコとしたカバーに入れられたゴルフクラブが姿勢よく天井を向き、その傍らには等身大の鏡に映しだされた革靴と、ブランド物のスニーカーがいくつも並ぶ。これだけあっても余裕のスペースだ。


倉見「ここで飯食えるな」

その広さに驚く倉見はぼそっとつぶやく。

戸部は先ほどのやり取りでヤケクソになっているのか、

戸部「どこでも食えるでしょ、せんぱいは。」

とそっけなく返した。すると倉見が玄関の一点を見つめたまま固まりだす。


戸部「何かありましたか?」

その動かない横顔がニタっとくずれると、

倉見「…やっぱり照れるな、クククッ!」

と嬉しそうに目尻が下がる。

戸部「自分が言えって言ったんでしょ!」

玄関先で無意味な盛り上がりを見せる二人を、先に上がった鹿子が廊下の先からじっと見ている。今にも炎を吐きだしそうな雰囲気だ。

倉見「…さ、いくぞ。」

戸部「行きましょう。」


かなり広めの三LDK。八階建ての最上階に位置するこの部屋は、大きく切り取られた

窓から様々なビルが一度に見渡せる。黒を基調としたシックな家具も光沢のある肉厚のソファーも、その開放感を一切邪魔しない。

そんな贅沢な空間の中、唯一の異物といえば床を這いつくばる数名の尻くらいだ。

倉見「あ、いたいた!ブル…蟻塚(ありづか)さん!」

群を抜いて俊敏に動く尻が、虫眼鏡を覗いたまま振り返る。


ギョロっとした目、でんと胡坐(あぐら)をかいた鼻の下には、への字型の口を囲む富士山のようなしわがくっきりと刻まれている。

倉見「きましたよん」

倉見がおどけてみせると蟻塚はムスっとした顔で立ち上がり、外してあったウエストポーチを手に取って中を探りながら近づいてきた。


恐縮したように戸部は頭を下げ、その隣で腕を組んだままの鹿子はポツリとつぶやく。

鹿子「…さすがブルだな」

戸部「失礼ですよっ」

蟻塚がポーチから丁寧に袋を出すと、無言で倉見に差し出した。

倉見「サンキューです」

鹿子と戸部もその袋を覗き込む。

鹿子「…折り目が激しいけど間違いない、枝カードだ」

黒い背景に二本の木の枝を絡ませたような奇妙な絵、それはEDAの犯行現場に必ず残されるカードだった。


倉見「これどこにあったんすか?」

蟻塚はノソノソと廊下にでるとすぐ左手にある寝室のドアを開け、ベッド脇のPCデスクを指さした。


倉見「三人くらい寝れそうなベットだな…で、そのPCデスクにカードが?」

蟻塚は首を横に振りながらデスクに近寄り、キーボードを持ち上げた。

倉見「その下?」

鹿子は唇に人さし指をあて、ピンときたように蟻塚を見る。

鹿子「電池ボックスの中…か。」

蟻塚は大きく頷き正解の表情、戸部も合点がいったようだ。

倉見「電池?なんだそれ?」

ひとり解読できていない倉見に戸部が説明する。

戸部「このキーボード、コードレスだから後ろに電池ボックスがあるんです。そこに小さく折りたたんで入れてたからカードがしわくちゃだったんですね。」

倉見「ふーん。マルサも真っ青だねえ。」


感心したようにデスクの前でキーボードを手に取る倉見を蟻塚が遠慮なく弾き飛ばす。

倉見「おっととぅ!落っことす所だったじゃん!」

蟻塚はパソコンの電源を入れると、画面を見たまま倉見に手を出した。

倉見「あぁ、これね?はいはいどうぞ。」

受け取ったキーボードを手慣れた様子でカチャカチャと押し始めると、画面にはパスワードを求める表示が。

戸部「パスワード…ベタ過ぎる展開ですね。」

倉見「この事件…最後は荒波の崖っぷちで犯人自白ってやつかな。」

蟻塚の横でそうつぶやく二人の背後で、得体の知れてる何かが、殺意を噴きかけているのを感じた。

倉見「…寒っ。」

戸部「…冷えますね…。」

鹿子の視線が容赦なく二人を狙っていた。


そんなやり取りをよそに、蟻塚は考え込む素振りもなく坦々と打ち込んでいく。

ほどなくして画面は切り替わり〝ようこそ!Kさん〟と書かれたトップ画面になった。

倉見「Kさん?ここの住人か?」

鹿子「報告書には、阿納啓太(あのうけいた)二十一歳ってなってる」

倉見「啓太のKね。そんなに若いのか?それにしては随分裕福な生活してんじゃん…親が金持ちなのかな。」

戸部「最初に大学生って言ってたじゃないですか」

少し膨れたような顔を見せた倉見は、

倉見「そうだっけ?…おい、お前そんな事言ってた?」

真剣に画面を見つめる鹿子に振ってみた、が、

鹿子「ブルさん気になるデータはあった?」

倉見の声は秒で抹殺され、蟻塚は黙って頷きマウスを動かした。

 

膨大な数のファイルの中から、蟻塚は勝手知ったると言わんばかりにその一つを迷わず開いた。日付と時間、三人の名前が代わる代わる記されたページはまるで会社のシフト表のようだ。全三ページに及ぶファイルには、さらにページごとにカテゴリ名がつけられている。


鹿子「①くしゃみ、②は発熱、③が回復…。」

倉見「くしゃみだ熱だって、風邪ひいた時の経過報告みたいだな。」

戸部「あ、ほら、発熱のところに阿納(あのう)ってあります、十一月五日の十時のとこ。」

倉見「本当だ。…お?回復の所にもあるぞ?」

鹿子はその名前と日付けをじっと見つめ、何やら考え込んでいる。すると蟻塚が思い出したように、今度は腹に巻いたウエストポーチを窮屈そうに覗き込み、指先でガサゴソとあさり始めた。


その様子を見た倉見が戸部の耳元でコッソリとささやく。

倉見「…探し物が出てくる前に二重顎が潰れそうだな…。」

戸部「ちょっと!失礼ですよ!」

蟻塚は小さな棘を引っこ抜くように、隙間なく詰まったポーチの中から一枚の紙を取りだし、丁寧に伸ばして鹿子に渡した。


鹿子「…なるほど。」

その紙には、事件の概要とタイムテーブル、ハッキングに関与した三人の名前が記されていた。もちろん阿納啓太(あのうけいた)の名前もある。

鹿子「ブルさんちょっと替わって。」

 蟻塚がパソコンを譲ると鹿子は何かを確認するように、紙と画面の内容を一つ一つ照らし合わせている。横から覗きこんだ倉見は何を見ているのかさっぱりわからない。


鹿子「…やっぱりそうだ。この一覧はハッキングの役割分担を表にしてあるんだ」

倉見「…はぁ…ぜんぜんわかんない」

鹿子「お前に理解を求めてない」


戸部は唇を噛んで笑いを堪える。

鹿子「〝くしゃみ〟は侵入、〝発熱〟はデータの改竄(かいざん)、そして〝回復〟は痕跡を消す係って事だ」

戸部「じゃあ十一月五日なら、阿納の担当は侵入と改竄(かいざん)て事ですね」

鹿子は画面を見ながら頷くと、さらにマウスを動かし今度はメールボックスを開いた。


戸部「山本からの依頼メールですか?」

ズラリと並ぶ山本からの受信メールは、すでに押収された他の二人のPCからも見つかっており、山本に繋がる手がかりは何も出なかったと報告されていた。阿納のメールもやはり宛名以外に変わった所はなく当然鹿子もその事は承知していた。


倉見「とっくに洗った情報だろ?日が暮れるぞボケ」

倉見の呆れた声にも動じずひたすらメールを見る鹿子。戸部の目にも意味のない行動のように映っていたが、その中でただ一人、蟻塚だけはそんな鹿子を感慨深げに後ろから見ていた。


戸部「なんか蟻塚さんが嬉しそうな顔してませんか?」

コソコソと倉見に聞く戸部。

倉見「あぁ、鹿子はブルの弟子みたいなもんだからな。」

戸部「弟子?」

倉見「中央署に来てすぐ、鑑識に入り浸ってずーっとブルに指南を受けてたのよ。あいつ警務課だったのに。」

倉見はそう言いながら〝意味不明〟とばかりに両手を上げた。戸部は頷きながらも、仕事に対する鹿子の貪欲さを見せつけられたような気がしていた。


鹿子「これはどういう意味だ?」

まるで号令を掛けられた幼稚園児のように一斉に食いつく三人。画面上には小さく〝去来〟と書かれた箇所が。それは文面の終わりの後の空白を、しばらく下にスクロールした一番最後に打たれていた。


鹿子「この文字がついたメールは犯行の日だけなんだよな。」

戸部「メール本文じゃなくて空白のさらに下を見てたんですね。」

戸部は改めて感心している。


倉見「去来…去って、来る?」

戸部「去って来るだとしたら、一体何が去って何が来るんだろ?」

鹿子はそのファイルをプリントアウトするよう蟻塚に頼むと、考え込む時間を惜しむようにさっさと寝室を出ていった。


引き継いでパソコンを操作する蟻塚と、ボケっとそれを見ている倉見。戸部はどちらに行くべきなのか迷い部屋の真ん中でウロウロしていた。



 中央署に戻った三人。自分のデスクに頬杖をつく倉見と、その後ろで家庭教師のように立つ鹿子と戸部は、鑑識から渡された紙をじっと見ている。

倉見「去る…来る…さっぱりわかんねえよなぁ…」

鹿子「どのみち明日、阿納に直接聞くしかないよな」

戸部は鹿子の顔を見て頷くと、すぐにデスクの方へと視線を戻した、とその瞬間、


~バン!!~


勢いよくデスクに両手を振り下ろす倉見、驚いた戸部は後ろのデスクにもたれるようにぶつかった。

倉見「あーもうダメ!脳みそ沸いてきた!」

戸部「え?え?え?」

また始まったと言わんばかりにため息をつく鹿子。倉見はそのまま背もたれが折れそうなほど大きく伸びをしながら反り返ると、後ろでキョトンとしている戸部を見た。

倉見「戸部!帰るぞ!」

逆さまになった倉見の顔は目が充血し、声は恐ろしいほどに低い。

戸部「え?か、帰るんですか?」

倉見「終業だ」

壁の時計を見ると、確かに十七時十五分を指している。あまりにも早く過ぎた一日に戸部は驚きを隠せない。倉見はまた勢いをつけて前向きに戻ると、足元から薄っぺらい鞄を出して立ち上がった。



帰り道、何か言いたげにトボトボと歩く戸部の前で、二人がお構いなしに話をしている。

鹿子「またかよ?」

不機嫌そうに鹿子が言う。

倉見「当たり前だろ?オレは一途なの浮気しないの…ってな!アハハハ!」

無駄に格好つけた倉見の頭上では、落ちかける夕陽に対角線を描くカラスが呼び掛けるように鳴いていた。


鹿子「…お前の事呼んでるぞ?」

カラスを見ながらつぶやく鹿子。

倉見「誰の事かな?オレはアホじゃねえし?」

そっぽを向いて大人の対応を見せる倉見。

鹿子「へえ、やっぱり自覚あるんだな。」

倉見「だからアホじゃねえって言ってんだろ!日本語通じますか~?」

一瞬にして童心に帰る。


鹿子「わたしは一言もアホとは言っていない。アホと言ったのはお前自身でそれは自覚しているから自然にアホって出たんだよこのアホ!」

倉見「キー!むかつくー!!」

袖を噛むように悔しがる倉見と、してやったりと満足そうな鹿子の後ろで、大きく息を吸い込んだ戸部。

戸部「…あ、あの…。」

同時に振り向く二人。

戸部「あ、あの、ボク私鉄なんで、ここで失礼します…お疲れ様でした。」

そういって頭を下げると、路線を外れるように斜めに歩き出す戸部。ようやく離れる事が出来たからか安堵のため息がもれる…が、そんなホッとタイムも束の間、突然後ろからガッツリと肩を掴まれた。


戸部「ひぃぇい!」

恐る恐る振り返ると、ニッコリとほほ笑む倉見が。

倉見「これから歓迎会だ、うまいもの食わしてやるから来い。」

口を開けたまま、あうあうと答える戸部に優しく頷いた倉見は、そのまま引きずるように薄暗くなった街へと戸部を連れ去った。



チカチカと目障りなほど自分勝手に光り合う看板、ゾンビのように歩く酔っ払い、兎の耳をつけた多分男性…そんな飲み屋がひしめく通りを避け、ひょいと横に入る三人。道とは言い難いビルの間にできたその隙間は、妙な雰囲気に包まれている。


薄暗い通りをニヤつきながら自分の肩をしっかりと抱く倉見に、戸部の恐怖は膨らむばかり。わずかに動かせる首をそっと回し、後ろを歩く鹿子の姿を確認する動作が止められない。


倉見「なにキョロキョロしてんだ?言っとくけど女の子は居ない店だからな。」

戸部「え!?女の子がいない…?」

戸部の顔色がだんだん青くなっていく。

倉見「お?そんなに悲しむなって!男だらけも悪くないぞ?…ちなみに鹿子は女じゃねぇからな」


倉見はこっそりと耳打ちをし、戸部はさらに近くなった顔に鼓動を早くしていた。まさか倉見は、未知なる世界への扉を開き自分を仲間に引き込もうとしているのではないか?そして鹿子はその門番…浮かんでは消える妄想と戸部はひたすら戦っていた。


行き交う人さえ見なくなった頃、道の先に赤い人魂のような灯りがボワンと浮き上がるのが見えた。近づくにつれ、それが〝うえ口〟と書かれた赤提灯だった事がわかる。


戸部「…うえ口…?」

一見普通の居酒屋に見える小さな店、ちょうちん以外特に怪しい所は見当たらない。

倉見「おし、入れ入れ~」

慣れた様子でガラス戸を引く倉見。やっと解放された戸部の首がびっしょりと汗ばんでいた。

鹿子「早く入れ、寒いんだから」

後ろから押されるように戸部も店の中へ。

 

店内に入るとすぐ、突き出すようなL字型のカウンター席が六席ほど、その後ろに二人掛けのテーブルが二席あるとてもこじんまりとした店だ。先に座った倉見が隣の席をバンバンと叩き戸部を呼ぶ。キョロキョロしながらカウンターに座る戸部、鹿子は自分の鞄を椅子に置き、一つ開けた隣に座る。


シュンシュンと湯が沸く音、グツ…グツ…とじっくり煮こんでいるような音が、腹を揺さぶる匂いと共に狭い店内を満たしている。が、肝心な店主が見当たらない。

戸部「…あの、まさかセルフ居酒屋とかじゃないですよね?」

遠慮がちに聞く戸部を鹿子は鼻で笑った。


倉見「おーい!上田さん、鍋焦げるよー!」

倉見は暖簾が斜めに架かる奥に向かって声をかけた。長い歴史を物語るように褪せた紺色の暖簾には〝飯処うえ田〟の文字が。戸部は頭を傾げた。


上田「はいはーい、おまたせですー。」

その穏やかな声と共に、作務衣に豆絞りを頭に巻いた男が、ニコニコしながら現れた。五十代半ばくらいだろうか、笑いジワが顔の常連のように目尻をピン、ピンと囲んでおり、小柄な体形に人の良さそうな顔は、生きたお地蔵様と表すのがピッタリだろう。


倉見「ほら鍋!オレの彼女が黒くなっちゃうよ~!」

カウンターに身を乗り出し、倉見は鍋を指さした。

上田「大丈夫、超弱火でやってますから。」

そう言いながら上田はガスを覗き込み、さらに火を絞って顔を上げた。


ふと、見慣れない顔と目が合う。戸部は慌てて立ち上がり、

戸部「あ、あの、戸部孝平(とべこうへい)と申します」

と頭を下げた。

倉見「…コイツさ…(コリッコリ)今日からオレらの班に入ったの(カリッコリッ)…だから歓迎会」

口をモゴモゴと動かしながら倉見が補足する。


鹿子「…枝豆食いながら喋んな」

目を細めて怒る鹿子に倉見は口をとがらせた。

倉見「じゃあよ、アタリメならいいんだな?豆じゃなくてイカならいいんだな?」

鹿子「食べながら喋んなって言ってんだよ!あぁ言っとくけどな、飲みながらもダメだぞ。〝ビールならいいのかよ?〟とかメチャクチャ寒い事いうなよ!」


嫌味たらしく言う鹿子に倉見は間髪入れずに反論する。

倉見「何で先に言うんだよ!今言おうとしたのにっ!」

鹿子「お前の脳みそが考える事なんてお見通しなんだよ!どうせならサバ味噌の余った味噌でも貰って足したらどうですかー?」

倉見「ヘっヘーそれならオレのみそで味噌煮にした方がサバも喜ぶってもんよ!」


ヒートアップした二人の言い合いは、あくまでも戸部を挟んで行われている。そんなゲッソリとした戸部の前に上田が小鉢を差し出した。


上田「菜っ葉の辛みそ和え」

顔をあげた戸部に優しく微笑む上田。その小鉢の真ん中には青々とした菜が上品に盛り付けられ、鉢の底に黄色味の強い汁がじわじわと染み出していた。

戸部「…美味しそう」


朝からろくに食事もとっていなかった事に気付いた戸部は、平べったくなった腹を慰めるようにさすりだした。

上田「ほら、次の料理がどんどん出てくるから早く食べな。」

戸部は頷き箸を割った。

 

小さく一口、もう一口。大きく一口、さらに二口とすぐに小鉢は空になる。

戸部「うわ…これすごく美味しいです!水みずしくて柔らかいのに歯ごたえもあって青臭さもない。辛子もきれいに分散してるから、ちゃんと辛みはあるのにツンと来ないです」


箸を持ったまま素直に感激する戸部を、温かく見つめる上田。

上田「それは〝のらぼう〟って菜っ葉なんだよ。炒めても美味しいんだよ。」

戸部「へえ…初めて聞く名前です、のらぼうかぁ…。」

そう言いながら、空になった小鉢を興味深そうに覗く戸部。


上田「戸部君、いろいろ大変かもしれないけど、頑張ってね。」

上田はまた輝くような微笑みで優しく声をかけた。その言葉は、今なお耐え難い汚言葉(おことば)に晒されている戸部を熱く潤ませ、穏やかに笑う上田の背後に後光すら見せた。


上田「ほら倉ちゃんも鹿子ちゃんも、ご飯食べないの?」

倉見「食います!」

鹿子「食べます!」

ようやく戸部の耳から騒音が消えた瞬間だった。


きゅうりとベーコンに彩られたポテトサラダ、照りの強いサバ味噌煮、茄子は素揚げにして出汁にじゅわっと漬け込み、荒くおろした大根としょうがを添える。そしてメインは


倉見「上田さん、そろそろいいんじゃない?」

待ちきれない様子の倉見がカウンターから身を乗り出し催促する。

上田「はいはい、どうぞ。」

両手で丁寧に支えながら出した蓋付きの中鉢は、ゆっくりと戸部の前に降りてきた。

倉見「オレが先だろ!」

上田「戸部君の歓迎会だからね。」

上田のご加護を受けた戸部はそんな倉見をもろともせず、横から刺す視線を跳ね退けるように蓋を開けた。


そこに現れたのは、背中に辛子をちょこんと乗せ、だらだらと煮汁を滴らせた肉の塊。

濃い口醤油にみりん、酒は贅沢に大吟醸を使い弱火でじっくりと煮込まれた分厚い豚肉は、断面から見える層の間に旨みを閉じ込め、良質な脂身と黄金色(こがねいろ)の肉汁が合わさり、ギラギラとした光を放っている。飾りのように乗った辛子が、芯まで温められた肉の上でドロっと佇み今にも崩れてしまいそうだ。その芳醇な香りを顔中に浴び戸部の口はホの字のまま止まっている。


倉見「おい、アホ面こいてねぇで早く食えって。冷めるぞ?」

戸部「は、はい!いただきます」


箸を入れると、それは水面を切るように柔らかく、断面にちょろちょろと流れ出す黄色い滝が鉢底に広がっていく。肉を丁重に挟み、そうっとタレを落として口に頬張ると、濃厚な旨みが鼻から後頭部までを一気に突き抜け、戸部の五感を支配した。


倉見「な?な?うまいだろ?やばいだろ?」

豚の余韻に浸る戸部を急かすように、倉見は肩をぶつけてくる。

戸部「…絶句です。もう言葉がでませんボク…この肉汁が、驚くほど柔らかい塊が、あっさりしてコクのある脂身が、もうどう言ったらいいかわかりません、本当に。」

鹿子「絶句してないじゃん。」


片肘をついて見ていた鹿子が軽く笑いながら突っ込み、倉見は戸部の背中をバーンと叩いて嬉しそうに頷く。そんな空気と温かい料理に満たされた戸部は体の芯までほぐれていくのを感じていた。


倉見「ここの角煮は本っ当にうまいんだよ!教えてやったオレに感謝しろ!アハハハ!」

得意気な倉見の前には、一瞬にして消えた角煮の中鉢がわずかな汁さえ残らない状態で置かれていた。


鹿子「別にお前のお陰じゃないだろ?」

上田「そうだよねえ。倉ちゃん達だって最初は権田さんに連れてきてもらった訳だから」

戸部「え?権田課長もここにいらっしゃるんですか?」

驚いた戸部が目を丸くした。

倉見「おぉ。最近はよくブルさんと一緒に来てるみたいだな。」

戸部「蟻塚さんも!?…中央署御用達じゃないですか。」

また一周り目を大きくした戸部は、尊敬する上司が贔屓にしてる店と知り若干の緊張感が沸いてきた。



倉見「ブルさんなんてよ、食べすぎるから角煮は二皿までって注文制限かけられてんの、アハハハ!」

面白おかしく笑う倉見を、だんだんと険しい目で見つめ始める戸部。


戸部「…ちょっと言わせていただきますけど…来年定年の大ベテランにその呼び方は失礼じゃありませんか?さっきも神川警部補がご本人の前で堂々とブルって言っちゃってたし…ボクひやひやでしたよ。」

倉見「ブルが?何で?あ、上田さんオレ焼酎ね」


カウンターにビールジョッキを返す倉見。そんな軽さにまた不満が募る戸部。

戸部「何でじゃないでしょ!?ブルドッグですよ?いくらお顔立ちが…だからって本人の…」

鹿子「失礼なのはお前だ。」

戸部を遮るように鹿子が一言いうと、それを見た倉見は手を叩きながら大爆笑した。戸部はその意味が全くわからず、眉間にしわを寄せたまま倉見と鹿子を交互に見た。

戸部「何がおかしいんですか!?」

倉見「あー笑ったわ!まぁあるある勘違いかもな…ドッグね、はぁ~おっかしい」

戸部「勘違い??」

目尻の涙を拭きながら、倉見は届いたばかりのグラスに口をつけた。


倉見「ぷはー旨!…あのな、蟻塚さんのブルって愛称は、ブルトーザーからきてるの!」

戸部「…ブルトーザー?」

鹿子「端から端まで徹底的に掘り起こす…あの人の手にかかると一見何もない現場が手掛かりの山になる。他の鑑識がお手上げ状態の時でも必ず拾ってくるからな、それがけっこう重要な手がかりだったり」

倉見「引きが強いっつーの?」

鹿子「運じゃない、執念だ」

戸部「執念?」

鹿子「今日だってそうだっただろ?あの枝カードを見つけたのはブルだからな…あの人の鑑識にかける執念には頭が下がる」


戸部「〝さすがブルだな〟って、そういう意味だったんですか…。」

倉見も大きく頷きながら傾いたグラスの氷で鼻をぶつけている。戸部は耳を真っ赤にして思わずうつむいた。そして何もなかったように上田と話し始めた二人の上司を、少しだけ下からちらりと見た。


鹿子「ところで戸部」

升(ます)の中のグラスに口をつけ、鹿子が改まったように呼ぶ。

戸部「は、はい…」

反省冷めやらぬ戸部にとって、鹿子の低い声は恐怖以外の何者でもない。鹿子はまたグラスを啜ると、残酷なまでにゆっくりと戸部の方を向く。


鹿子「…鹿子でいい。」

そういうと、今度は升からグラスだけを持ち上げ一気に飲み干した。その迫力は今の戸部にとっては一溜りもなく、意味の解らないその言葉に繋がる答えを記憶の中から必死に探すがさっぱり出てこない。このタイミングでハテナマークなど絶対に飛ばせないと焦る戸部。そんな複雑な表情を見ていた上田が助け舟をだした。


上田「呼び方だよ、神川警部補じゃちょっと長いでしょ?」

戸部「え?いや、そんな」

遠慮を通り越して狼狽する戸部に、今度は倉見が背中を叩く。


倉見「こいつなんてな鹿子でいいんだ、オレが許す!そんで…上田さん、おかわり!」

気が付けば、いつのまにやら二杯目の水割りが空っぽになっている。よく見ると倉見の顔も良い塩梅(あんばい)に紅潮しているようだ。

戸部「…先輩ペース早くないですか?」

倉見「バカ野郎!あいつなんて〝もっきり〟で飲んでんだぞ!?オレなんて可愛いもんよ!ってことで、今日からお前も鹿子と呼べ!…上田さんおかわり~」

戸部「いや、さすがに警部補に向かって…」


~バン!~


鹿子がカウンターをぶっ叩き、升から酒が跳ね上がった。

鹿子「神川警部補じゃ長えんだよ!捜査中に緊急連絡でモタモタ呼んでたら取り逃がすぞ!無線連絡はスピードが命なんだ!わかったか!?」

戸部「は、はい!」

怯えきった戸部の顔を頷きながら冷静に見ると、また何事もなかったように鹿子は酒を啜った。


上田「酔うと狂暴になるタイプだから、気にしないでね。」

上田が拝むようにそう言うと、顔色一つ変わらない鹿子に戸部はさらに驚き、また涼しそうにもっきりを楽しむ横顔をじっと見つめていた。

倉見「上田さ~んおかわりぃ~。」



すっかり夜も更けたうえ田の前で、ふらふらになった倉見を担ぐヨロヨロの戸部。上田は奥から暖簾を持ってきて店前に掛けている。

戸部「今から掛けるんですか?」

上田「うん、今日は倉ちゃんに頼まれて貸切にしてたの。これからまた営業するんだよ。」

不思議そうに頷く戸部が暖簾を見ながらはっと思い出す。


戸部「そういえばこの赤提灯に〝うえ口〟って書いてあって、そういう名前なんだなって思ってたんですけど…」

上田「あはは、その提灯もう古いから、田んぼの中身が消えちゃったんだね」

戸部「そうでしたか。なんか一つなぞが解けました」

上田「それはよかった。またおいでね、戸部くん」

にっこりとほほ笑む上田にまた心が洗われる戸部。


戸部「ごちそう様でした。絶対来ます、毎日でも来たいです!」

鹿子「ここは月火水しかやってない」

鞄を片手に一人身軽そうな鹿子が言う。

戸部「え?そうなんですか?…ていうか重い…」

肩からずり落ちそうになる倉見を背負いなおす戸部。

上田「僕は兼業農家だから、普段は農業してるの」

戸部「あ、だから野菜があんなに美味しいんですね…じゃあ営業日にまた来ます、絶対!」


またニコニコと手を振る上田の顔は、この暗い夜道さえ明るく照らしてしまいそうだ。

絶品料理を堪能し、温かい主人の人柄に触れて最高の気分を味わった戸部は、スタスタと先を行く鹿子を追うように、のし掛かる倉見を抱えながら帰って行った。

戸部「…行きと逆じゃん…そして重い」



翌朝、まだひっそりとした刑事課で一人写真の束を広げデスクに向かう鹿子、一枚一枚を丁寧に確認しているようだ。その背後では、入るタイミングを見計らっているようにモジモジしている戸部が、深呼吸をしては何やらボソボソとつぶやいている。


しばらくすると、覚悟を決めたように姿勢を正し入り口で一投足を振り上げたその瞬間

鹿子「早く入れば?」

慄(おのの)き反り返る戸部、背中にも目があるのかと疑いたくなる鹿子の顔は一度もこちらを向いていない。


戸部「あ、あの、あの、昨日はご馳走様でした…し、鹿子…さん。」

戸部はバツが悪そうに中へ入ると、練習通りに名前を呼んでみた。鹿子は無反応のまま相変わらず写真を見ている。この沈黙が刺されるように辛い戸部は、また記憶を辿り昨晩の出来事から話のネタを探した。


戸部「あぁそういえば!〝もっきり〟って何ですか?先輩が言ってた…」

鹿子「…升の中にグラス入れて酒をなみなみ注いで呑む事」

体の向きも声のトーンも変わらないが、とりあえず応答があったことに安堵する戸部。鹿子は見ていた写真をポンと置くと、今度は捜査資料をパラパラとめくり始めた。


戸部「これ、この間の現場写真…見ていいですか?」

黙って頷く鹿子。戸部は軽く頭を下げながら写真を手に取る。

あの豪華なマンションの玄関や展望の良いリビング、寝室のパソコンにゴルフクラブなど、鮮明に写された写真が八〇枚ほどある。


戸部「へえ、トイレのスリッパまで撮ってるんですねえ。」

感心したようにつぶやく戸部。

鹿子「ブルだからな。そういう細かい物が重要な手掛かりに化けたりする、よく見とけ。」

戸部は大きく頷くと一枚一枚時間をかけて見始めた。

 

だんだんと活気が出始める署内。ふと時計を見るとすでに始業時間を三〇分も過ぎていた。キョロキョロと周りを見渡す戸部はある事に気付いた。

戸部「あの、先輩はどこに?」

鹿子は資料に目を向けたまま、チっと軽く舌打ち。

鹿子「これからハッカー三人の取り調べだってのに!」

そう言いながら腕時計をにらむ。

戸部「そうなんですか?…先輩間に合うのかな?どこ行っちゃったんだろ?」

鹿子「駅だろ」

戸部「え?まだ駅?」


鹿子は見ていた資料をファイルに閉じると、デスクの上で力強くトントン!と整えた。

鹿子「…終電で眠り込んでめでたく終点。着いた駅のベンチでそのまま寝る奴なんだよ」


倉見の日常的な〝二日酔い遅刻〟にうんざりした様子で吐き捨てる鹿子。

戸部「いやいやいや、次の日仕事なんだからさすがにタクシーで帰るでしょう?」

半笑いで突っ込みを入れた戸部をピクリとも笑わず見る鹿子。

鹿子「先月は半日経ってようやく大月のベンチから連絡してきたんだ〝ここはどこですか?〟ってな…居場所を聞いてんのはこっちなんだよっ!」

資料がバシン!と叩きつけられた音が響き、課内の視線が一斉に集中する。

鹿子「…なに?」

白龍(はくりゅう)に睨まれた署員たちは同時に首を振り何も見なかったかのように仕事に戻る。


戸部「大月って…山梨県!?」

不機嫌なまま頷く鹿子は、投げ出した不揃いのファイルを抱えて立ち上がった。

鹿子「寝太郎は放っとけ、行くぞ」

二人は取り調べ室へと向かった。



あきらかに怯えた様子の童顔は、背筋を震わせながら座っていた。痩せぎみの体型にマッシュルームヘア。太いフレームの黒縁メガネは女の子のように大きな目を隠すためだろうか。


鹿子「増須広樹(ますひろき)二一歳、間違いない?」

向かいに座る鹿子がファイルを見ながら坦々と聞く。

増須「はい、はい増須(ます)です。」

きのこヘアの分け目から覗く額がテカテカと反射して、後ろに立つ戸部の目を直撃する。


鹿子「質問が重複するかもしれないけど、山本という人物からどんな形でハッキングの依頼を受けてた?」

増須「メ、メールです。」

流れてくる汗を袖で拭う増須(ます)。

鹿子「どんな?内容は?」

机からガタガタと伝わる振動が、鹿子の肘をくすぐる。


増須「…あのこれからどうなるんでしょうか?…刑務所とか入って、みんなにも知られて、ど、どうなっちゃうんでしょうか!?」

追い詰められた鼠(ねずみ)のように、激しく怯え語気を強める増須。


鹿子「まず質問に答えなさ…」

鹿子が冷静にそう言いかけた瞬間、増須は勢いよく立ち上がり自分の頭をクシャっと掴むと、

増須「わぁぁぁぁぁぁー!!!!」

と叫びながら机に何度も頭を打ち付けた。

増須「やだ!やだ!やだ!」


端に居た存在感のない制服の警官が慌てて止めに入るも、プロペラのように回る長い手に弾き飛ばされ、唸りながらガンガンと打ち付けられた机には血が滲み始めた。


呆然と立ち尽くす戸部の前ですばやくドアを叩き応援を呼ぶ鹿子。間もなく廊下で待機していた警官が入って増須(ます)の腕を掴み、弾かれた警官と共に引きずりながら連れて行った。

 

一気に静まり返った取調室には、滑った赤い手形が机のあちこちに残され、その光景は一歩も動けずにいた戸部の目に強く焼き付けられた。そんな中、倒れた椅子を坦々と片付けながら鹿子はどこかに電話をし始める。チリンチリンと亀のストラップが耳元で揺れている。


鹿子「……………。」

しばらく耳にあてたまま出ない相手を待っていたが、苛立ちが頂点に達する前に自ら電話を切り、おもむろに戸部を見つめた。

戸部「…な、なんでしょうか?」

慄く(おののく)戸部をじっと見る鹿子。

鹿子「…次、仁志(にし)」

一瞬固まった戸部は少しずつ状況を理解し始め、何度も頷きながら廊下に出た。


数分後、息をきらして戻った戸部、またも電話を手に不機嫌そうな表情を浮かべる鹿子に報告をする。

戸部「仁志篤(にしあつし)はさっき腹痛を訴えて病院に行ったそうです」

頬がピクピクと上がりさらに機嫌が悪くなる鹿子。

鹿子「…は?」

戸部「えと…ストレスによる急性胃腸炎とかで入院に…阿納(あのう)は十分くらいで来れるそうです…」


ボッと発火したような空気が部屋を覆いつくし、今にも爆発しそうな鹿子の顔から緊張感がばらまかれる。わなわなとふるえる手でファイルを机に叩きつけた鹿子は、

鹿子「…ストレスになるなら犯罪者になるな!休憩!」

そう吐き捨てると、バタン!とドアを閉めて出て行った。息を止めて見ていた戸部は、水揚げされた魚のようにパクパクと口を動かし胸を撫でた。



金色のサラリとした髪が、ジャラジャラと騒がしい耳に掛り、所々で絡まる髪をほどく

ようにいじる阿納啓太。無機質な机に肘をつき、正面にある大きな鏡を見ながら鼻ピアスの向きを気にしているようだ。


戸部「こっちで見られてるって知らないのかな?無邪気な学生ですね」

隣室のマジックミラーで、そんな阿納を生体観察のように見る二人。鹿子は腕を組んだまま険しい表情を崩さない。


鹿子「いや、見ろ。」

顔を斜めにしながら相変わらず鼻を見ていた阿納。そのうちゆっくりと正面を向き始めると、ニヤっと不気味に笑いかけた。


戸部「笑った…?」

鹿子「ブタ箱初心者の割には肝が座ってる。さて、行くぞ」

戸部は鹿子の顔を見ながら頷いた。


取調室のドアを開けると、阿納はすぐに二人を見てまた不気味な笑を浮かべた。鹿子は戸部に目線を飛ばし自分の後ろに立つよう指示すると、阿納の前にゆっくりと座る。

阿納「今日は女の刑事さん?マジやば」

まるで音楽でも聞いているかのように、阿納は無駄に体を揺らしながらニヤニヤと笑う。


阿納「刑事さん何歳?結婚してる?」

目に余る阿納の態度を戸部はひやひやしながら見ていたが、背を向けて座る鹿子の表情を窺い知る事はできない。

阿納「ねーぼくいつ釈放される?」

阿納は肘をつくと絡みつくように鹿子に問いかける。が、鹿子は何も答えずただじっと前を向いたままだ。

阿納「あんた何歳?新人?」

しびれを切らしたのか今度は戸部を指さし話しかけるが、鹿子に倣って敢えて答えない戸部に阿納のいらだちが募る。


阿納「あのさー人を呼び出しといてそれはないんじゃない?黙秘権て警察が行使するもんじゃないっしょ?」

無言のまま鹿子が手元のファイルを開き、袋に入った枝カードを縦にして阿納に差し出した。一言も発しない刑事を前に、居心地の悪さを味わっていた阿納は面白いほど食いつく。


阿納「なにこれー。しわしわじゃん」

両端を引っ張るように持ち、頭を傾げる阿納を鹿子は黙って見ている。

阿納「これ何?もしかして心理学的な?嘘ついたらこの木が人の顔に見えるとかさ?」


鹿子「何に見える?」

ようやく口を開いた鹿子。

阿納「やっぱそうじゃん!でも残念!ぼく何も嘘ついてないしー。山本に指示されてよくわかんないデータをちょこっといじって金もらっただけ!はい残念でした!」

鹿子「既に聴取した内容は結構。そこに写っているのは何かと聞いている、答えろ」

ジロリと下から睨みつけていく鹿子は、目の前に置いた獲物をベロリと舐める龍の姿を彷彿させ実にぞっとするものだった。


阿納「な、なにって…木でしょ?盆栽かなんかの…。」

鹿子「盆栽?」

少し前のめりになって更にじっと睨みつける鹿子。

阿納「そうだって言ってるでしょ?だから何だって言うんだよ!」

そう言ってカードを突っ返した阿納が、両手を組んで机から離れた。


すると鹿子は資料を片付け始め、すっと立ち上がって阿納を見る。

鹿子「以上です、ご苦労様」

スタスタとドアに向かう鹿子をあっけにとられたまま追う戸部。呆然と座る阿納が焦ったように声をかける。


阿納「それだけかよ!まだ五分も経ってねーぞ!」

強い口調だが、どこか引き留めているような感じが受け取れる。

阿納「職務怠慢だぞ!いいのかよ!」

そこでひらりと顔だけ向ける鹿子に、なぜかほっとしたような半笑いを浮かべる阿納。


鹿子「〝去来〟とはなんだ?山本のメールの下に隠すように書いてあったが?」

阿納は亀のように突き出していた頭をひっこめ、得意げな顔で笑う。

阿納「ああ、なんだろうね?」

意味深にそっぽを向きながら何かを匂わせる阿納に、鹿子は冷たく頷くと、

鹿子「知らないなら結構」

と言って有無を言わさずドアを閉めた。



そのまま取調室をあとにして刑事課へ向かう鹿子に後ろからついて歩く戸部。

戸部「いいんですか?〝去来〟のこと吐かせなくて?」

鹿子は鼻で笑いながら答える。

鹿子「聞いても無駄だ。枝カードの事も解ってないようだったし〝去来〟に関しては答える気なんてさらさらない、ただの時間稼ぎに付き合ってる暇もないしな」

戸部「時間稼ぎ?」

歩きながら軽く頷く鹿子。


鹿子「ブタ箱生活は暇との戦い…その長い時間をどうにか潰せるのが取調べ。サイ犯(サイバー犯罪対策課)の聴取は終わってるから奴はいま取調べに飢えてる。釈放ギリギリまで〝去来〟を時間稼ぎの切り札にして暇をつぶすつもりだろ」

戸部「でもさっきの増須(ます)みたいに、喋らないと刑務所かも~とか、不安にならないんですかね?」

鹿子「阿納(あのう)は初犯で内容から見ても起訴はされない成金弁護士からそう聞いてるんだろ」


戸部はなるほどと言わんばかりに大きく頷いた。鹿子は溜息をつき視線を天井に向けると、

鹿子「〝去来〟…もう一度頭を白くして考える。」

とつぶやき、戸部も首を縦に振った。


~でんわ でんわ でんわだよ~


そこに鳴り響く着信音。鹿子が内ポケットから出した画面に目を落とすと、一気に不機嫌な表情に変わっていった。戸部がキョトンとして鹿子を見る。

鹿子「…倉見だ。」

鹿子は無表情のまま通話に切り替え、その顔に重々納得する戸部。

鹿子「…はい、どちらさまですか?」



三六〇度畑の広がる無人駅のホーム、所々剥がれて色あせた木のベンチにポツンと座る倉見。

倉見「…ここはどこですか?」



午後三時、重役出勤どころじゃない出署をした倉見を交え、戸部のデスクに集まる三人。

〝去来〟と書かれたメールをパソコン画面にだし頭を抱えている。


倉見「…うぇっぷ、気持ち悪い…」

未だ体調の戻らない倉見は、ひんやりとした隣のデスクに顔をつけてつぶやいた。


とそこへ、両手で菓子箱を持ちご機嫌な様子の峰藤(みねふじ)が現れる。

峰藤「みなさ~ん、三時のおやつですよ~」

そう声を掛けながら、峰藤は窓際の権田のデスクに直行し箱を開けた。中には個別に包装されたハート型のクッキーがびっしりと詰まっている。


権田「お?誰の土産だ?」

手をすり合わせながら目を大きくする権田に、峰藤はにっこりと笑う。

峰藤「暴力犯係の馬場(ばば)さんと剛力(ごうりき)さん、デストニーランドに行ってきたそうですよ」


一番端の席で、見た目もごつい男二人が照れ臭そうに頭を掻いた。権田は早速袋を開け、

権田「遠慮なく頂くよ」

と言って軽く手を上げた。


サクサクと鼻をそそる音が刑事課に響く中、倉見達のデスクにも一つ一つ配られていく。

倉見「…オレ今はパス」


その愛らしいハートを二日酔いが受け付けない倉見の横で、クッキーを持ったままじーっと窓際を見つめる戸部。そこには、小さなクッキーを両手で掴みハートの真ん中にかぶりつく権田の姿があった。戸部はハッとしたように振り返る。


戸部「そうか!サリライですよ!」

倉見「さりらい?」


戸部は慣れた手つきでパソコンをカチャカチャと打ち始めた。画面はどんどん変わっていき、倉見には何が映っているのかさえ確認できない。


戸部「これ、これです、サリライ」

あっという間に辿りついたネットの世界。

画面の左上にはサリライの文字、そしてすぐ下にはひまわりの種を両手で掴み種の真ん中を齧る愛らしいハムスターの写真と【KOKKOたん】と言う文字が表示されている。


倉見「これ何だ?」

戸部「SNSですよ、超マイナーなサイトだからあまり知られてないけど。語源はサリラクゥィ、独り言って意味なんです」


倉見「〝去り(サリ)来(ライ)〟か、なるほど!……じゃあこの【KOKKOたん】て何だ?」

戸部「ボクのアカウント名です。孝平だからKOKKOたん」


水を打ったように静まり返る一同。


鹿子「…このハムスターは?」

戸部「ジャンガリアンの女の子でおじゃ子と言います、現在同棲中です」


捜査報告をするように、真剣に話す戸部。当然のようにその場の空気はキンキンに冷えて行った。


倉見「…ま、あれだ、うん。いい!いいんだ戸部、お前はそれでいい!」

ボンボンと背中を叩かれ訳が解らないまま、戸部は再び画面に向かった。

戸部「ええと、阿納啓太…でしたよね…」


画面上の検索窓に、ローマ字、平仮名、カタカナなど、様々なパターンのアカウント名が戸部の予測によって打ち込まれていく。

倉見「お前すげーな。どこ打ってるか全然わかんね。」

感心した倉見は、キーボードを打つ指さえ追えずにお手上げ状態だ。それを聞いた戸部は手を動かしながら少し得意気に話し始める。


戸部「こう見えてネットは捜査より得意なんです」

鹿子「そんな感じする」

戸部「…ボク、昔いじめられて人間関係が嫌になった時期があって。しばらく誰とも関わらずに引き籠り生活してたんですけど、やっぱりこのままじゃダメだって一念発起して武者修行に出たんです。」

倉見は黙って画面を見ながら聞いている。


鹿子「それで〝やじろべえ〟になった訳か。どんな相手とでもうまくやっていける様に」

戸部は唇を噛みながら、さらにスピードを上げてキーボードを鳴らしている。


倉見「…そうか。うん、誰にでも悩む時期はあるよな。でもお前武者修行ってすげーじゃん、どんな修行したんだ?」

戸部「これですよ」


片手で画面を指さす戸部、倉見と鹿子には通じていない。

戸部「ありとあらゆるSNSをやりまくったんです、最高三十くらいのサイトで一日百回のつぶやきをする!すごいでしょ?」

鹿子「…つぶやく?」

戸部「そうですよ、最高のコミュニケーション訓練ツールでしょ?」


またおかしな静寂がその場を包み、倉見と鹿子は同時に首を傾げた。


戸部「きたー!!ありましたよ!阿納啓太!」

画面にはゴルフ場でピースサインをする阿納の写真と【KEITA・BOB.J】とある。


鹿子「画像は間違いなく阿納啓太だ…でも【BOB.J】って?このアカウント名をどうやって割り出した?」


戸部「阿納のマンションにあったゴルフクラブ、あれは伝説のゴルファー〝ボンド・ジョーダン〟の生誕八十周年を記念して作られた限定品です。いくらお金があっても、クラブの質は同じなのにわざわざ倍の値段をだしてまで買うんだからよほどのファンなんだろうと思ったんです。自分の名前と好きなアーティストなんかをくっつけてアカウント名にする人結構多いんで」


まるで高度な連想ゲームのように、ふとした手がかりからこの膨大な数の中のたった一人を割り出した戸部に、感心しきりの二人は深く頷いている。


倉見「たった数時間あの現場にいただけでそこまで見てたのか…グッドジョブじゃん!」

戸部「あ、それは違います。さっき鹿子さんが見せてくれた現場写真にあのゴルフクラブの全体写真と、カバーを裏返したタグまで撮ってあって。僕もパソコンとか限定品買ったりするのでピンときたんです…だからこれは、ブルさんのグッドジョブです」


鹿子は何度も頷きながら、心の中で戸部と蟻塚の見事な連携プレーを称賛した。戸部は照れ臭さを隠すようにまたキーボードに視線を落とし、倉見は少し丸くなった戸部の背中をポンと軽く叩いた。



阿納啓太のページには、日々の生活が写真と共に投稿されていた。ゴルフのスコア、大学生活、友人との飲み会など、ほぼ毎日五回ほどのつぶやきがある。倉見はじっと画面に見入ると、上から順に読んでいった。

倉見「〝渋谷でキモイのいたぁ…〟〝イケメンハイスコ軍団!略してイケハイ!〟〝カラオケだよん〟〝鼻ピ開けたマジやば!〟…」


そんなつぶやきと共に投稿された画像には、ハチ公前で待つ人々の横顔や、ゴルフ場で友人らとピースサインをするもの、マイクを持って鼻のピアスを指さすなど面白おかしく撮られたものばかり。


突如さっと画面から離れた倉見は、どうにも険しい顔をして頭を抱えている。鹿子は察したようにそんな倉見を放置したまま、心配そうに振り返った戸部に手払いをして続けるよう促した。


戸部「先輩大丈夫なんですか?」

鹿子「平気だよ。ただの渋谷アレルギーだから」

戸部「渋谷アレルギー?」

鹿子「倉見いわく、派手な服着て複数のピアスに自撮り、何でもネットでつぶやいてカラオケでノリまくる〝きもい~ヤバイ~何でも略す~〟って輩の事だそうだ」


戸部「…なるほど、つまり今どきの若い子たちについていけないって事ですね」

鹿子は非常に残念そうに、けれどどこかバカにしたように目を瞑って頷いた。


しばらく阿納のつぶやきを見ていく鹿子と戸部。特に変わった点は見当たらないが、アカウント名の下にある【オトモ様 現在1796人】に目が留まる。


鹿子「…これって阿納がフォローしてる数の事だよな。約1800人…これ全員を調べるには相当かかるな。」

戸部「全てリア友ってわけじゃありませんけどね…あ、リア友は実際に会って話す友達のことです」


ジロリと睨む鹿子。

鹿子「それくらい解る、アイツと一緒にするな」

戸部はバツが悪そうに首をすぼめた。


鹿子「この中に〝山本〟が…リアルでもネット上だけでも、とにかく怪しい人物を割り出すしかないな」


あまりの人数の多さに思わずため息がでる鹿子…その時、渋谷アレルギーから復活を遂げた倉見が沸いて出てきた。

倉見「オレ様の出番だな、どうした?」

顔を洗ったのか前髪までびっしょりと濡れたまま後ろに立つ倉見。その雫が戸部の頭にポタポタと落ちてくる。


戸部「冷たっ!…もう~!」

ポケットティッシュで頭を拭く戸部に構いもせず、先ほどの不名誉な戦線離脱を取り返すが如く倉見のテンションはいつもより無駄に高くなる。

倉見「誰かしょっ引くのか?」

鹿子「しょっ引けそうな相手をまずは決めてからだな。何しろ人数が…」

倉見「人数?は!お前らは根性がないねえ。100でも200でも片っ端から当たってやろうじゃねぇか!よっしゃ、ここはオレに任せろ!」

戸部「1800人ですよ?」

威勢のいい江戸っ子が、一瞬でペンギンのように固まる。

倉見「……日本語で言えよ…」

戸部「ガッチガチの日本語ですけど?1800人」


ペンギンは一瞬の間を置いて、おもむろに戸部のポケットティッシュを取り上げると、無表情のまま戸部の頭をぐちゃぐちゃと拭きはじめた。

鹿子は呆れたようにため息をつく。


戸部「何するんですか!やめてくださいよもう~!」

両手で頭を抑える戸部、さらにその手もむきになってゴシゴシと擦る倉見。

鹿子「思考停止になると奇行を繰り返すのもコイツの特徴だ」

戸部「そんな他人事みたいに…大丈夫ですよ!この1800人から篩(ふるい)にかければいいんだから!」

倉見の手がピタリと止まる。

倉見「…そんな事できんのか?」

頷きながら戸部はマウスを動かし、【オトモ様一覧】というページを画面に出した。


戸部「【オトモ様】は、阿納と繋がりのあるサリライ利用者のことです。リア友、恋人、ネット上の知人友人…SNSはプロフィールの画像も名前も自由に設定できるから、この一覧を見ただけではどんな繋がりなのかなんてさっぱり判らない」


二人は大きく頷きながら画面を見る。一覧にズラリと並ぶのは画像とアカウント名だけ。確かに戸部のページも、ハムスターの画像とアカウント名だけではそれと気付くのは難しいだろう。


戸部「だからまずは、何の繋がりかを見分けてカテゴライズする事が重要です」

鹿子「カテゴライズ…つまりグループに仕分けするってことか」

戸部はまた阿納啓太のトップ画面に戻すと、今度は投稿された画像一覧を開き順番に見ながらメモを取り始めた。同様に、つぶやきをざっと見直し何かを書き留めている。


戸部「阿納の【オトモ様】をカテゴライズすると、主に学校、ゴルフ、地元、ゲームの四つですね」

倉見「でもよ、グループ分けした所でどれが怪しいかなんてわかんねえだろ?」

戸部は軽く笑って余裕の表情を見せる。


戸部「この四つの中で一番怪しいのは…ズバリ、ゲームです」

鹿子「ゲーム?」

戸部「はい。ゲームのオトモ様数は阿納の大好きなゴルフとほぼ同じ。なのに阿納のつぶやきにも画像にも、一切ゲームが出てこないんです。興味のない分野の人を、こんなに多くフォローするって不自然でしょ?」

倉見「確かに…。」

戸部「それに他の人からオトモ様一覧を見られても、ゲーム繋がりって一番スルーされやすいんですよね。友達とか学校とかスポーツとか、どんな相手とどんな風につきあってるのかは興味があっても、ゲームは所詮ゲームの話だけでマニアック。この一覧の中でまずノーマークになるのがゲーマーのアカウントなんです。」

鹿子「なるほど。隠れ蓑にはもってこいな訳だ」


戸部は大きく頷きながら、また慌ただしくキーボードを打ち始めた。

戸部「つまり狙い目はトップ画面をいかにもゲーマーにしてるやつで、さらに事件前後に阿納と絡みがあった人物…そうなるとかなり絞られます」


そう言いながら今度はマウスを転がしていく戸部。スロットマシンのように激しくスクロールする画面は目にも留まらない。


しばらくぐるぐると回された画面はようやく切り替わり、最後の仕上げと言わんばかりに戸部は人差し指でポンとエンターキーを押した。すると後ろのプリンターが電子音と共に起動し始め、そこに寄り掛かっていた倉見が慌てて離れる。


印刷された二枚の紙。一枚は阿納とのやりとりが、もう一枚には一人のアカウント名が記されている。

倉見「遠畑努(とおはたつとむ)…もろに日本語で大変わかりやすいアカウント名だ」

鹿子が後ろから紙を取り上げる。

鹿子「〝ドラムでワン好き集まれ〟…そういうゲームがあるのか?」

遠畑の自己紹介に書かれた文に首を傾げる鹿子。トップ画面にもドラムを叩く犬のイラストが使われている。

戸部「聞いた事がないですね…」

そう答えると、戸部は何かを思いついたようにまたパソコンに向かった。


阿納と遠畑のやりとりは、ゲームの話のように続いている。


遠畑【引きますよ】

阿納【了解】【上がりました】


倉見「なんだこりゃ?さっぱり解んねえな」

戸部の手がピタっと止まり、鹿子を見る。


戸部「阿納がオトモ様登録しているゲーマーは他に570人、そして阿納とのやり取りは全て最初の登録申請をした時だけ、以降は一度もなし。さらに彼らの推すゲームソフトは全て確認できましたが、遠畑努のトップ画面にある〝ドラムでワン〟なんてゲームは存在しませんでした。」

鹿子「ない?どういう事?」

眉間にしわを寄せて聞き返す鹿子に頷く戸部。


戸部「おそらく遠畑をカモフラージュするために多くのゲーマーを登録して、更に実在しないゲームをトップ画面に出す事で部外者がスルーしていくのを狙ったんだと思います。興味のないゲームのタイトルなんて見向きもされませんから」


非常に迅速な戸部の収集能力と的確な分析力に感嘆しつつも、途端に重要性を帯びた二枚の紙を鹿子と倉見は改めて見直してみる。


阿納【クリア】

遠畑【そのままリセットよろしく】


事件のタイムテーブルと比べてみると、やり取りがあった時間は全てハッキングが行われた前後にあてはまっていた。

鹿子「くしゃみは侵入、発熱はコピーや改竄、回復は痕跡を消す。阿納の担当は〝発熱〟と〝回復〟だ。つまり…」

倉見「そうか!ええと、書き出すとこうなる訳だな!」

倉見は鹿子から紙を取り返すと、そのまま真後ろにあるプリンタの上で書き込み始めた。


遠畑【引きますよ】=侵入した

阿納【了解】【上がりました】=改竄の作業終了

阿納【クリア】=痕跡の消去終了

遠畑【そのままリセットよろしく】=?


じっとその様子を見ていた鹿子と戸部だが、最後の一行に詰まる。

倉見「〝リセットよろしく〟っていうのが解んねえんだよな」

戸部も頷く。

戸部「証拠隠滅した後に阿納がやる事って…なんでしょうねえ?」

倉見はもちろんの事、ここまでスイスイと解明してきた戸部でも憶測すら出てこない。それが余計に悔しいのか戸部は何度も読み返しまたパソコンに向かうと、まるでベートーベンを奏でるようにキーボードをバチバチと打ち始めた。


そんな姿に静かなため息を漏らした鹿子が隣のデスクの上に座る。

鹿子「…忘れろって事じゃないのか?」

戸部「忘れろ?」

画面を見たまま耳だけ傾ける戸部と、首を傾げる倉見。


鹿子「全てを消した阿納に、首謀者である遠畑が命じる事といえば…」

戸部「そうか!口止め!」

倉見「…それでリセットよろしく、なるほどな」

戸部に続いて珍しく呑み込みが早かった倉見も、ようやくスッキリとした様子。

倉見「よし、あとは遠畑本人にゆっくり聞くとするか。」

戸部「はい、すぐに身元の割り出しやってみます。」

三人は揃って頷いた。



~石焼きー石焼きーお芋おイモお芋だよん~


都心を少し外れた下町に、狭い通りをゆっくりと走る軽トラック。路地の手前に差し掛かると、運転席からひょいと顔を出す芋屋の店主が後ろを見ながらニコニコと笑顔を振りまいている。


倉見「…おい、あのオヤジこっち見てるぞ?」

遠畑の自宅へ向かう途中、警戒したように倉見が耳打ちをした。

戸部「先輩が追いかけたからでしょ?」

呆れたように戸部はあしらう。


倉見「オレがいつ追いかけたって?駅からずっとお前らと並んで歩いてただろうが」

戸部「あのトラックが通り過ぎてく時、鼻が荷台に付きそうな勢いでクンクンやってたじゃないですか!ほらほら、今だって鼻だけ前向いてる!」

不自然に斜めになる倉見の顔を指さす戸部。


倉見「…ほう!じゃあこれならどうだ!」

くるりと体ごと振り返り、戸部の前に仁王立ちをして見せる倉見はまさかのしたり顔。戸部は一瞬キョトンとしたが、しばらくすると何故か突然耳を塞ぎ深々と頭を下げた。

倉見「ふふ…素直に謝ればいいもの…」


~ガツッ!!~


倉見の後頭部に衝撃が走る。焼き石か?芋屋の親父が催促に来たのか?まさか遠畑努が察知して先制攻撃を?倉見の頭は痛みに侵されながら、背後で何が起きたのか必死で考える。


鹿子「早くしろ!」


その正体は世にも恐ろしい、けれどごく日常的な鹿子の鞄であった。

倉見「…それぐらいで殴らないで下さーい」

さっさと前を行く鹿子に倉見はそっとつぶやいた。



住宅地を抜けると、再び香ばしい臭いが倉見の鼻を突いた。

倉見「…ん?」

目の前でクンクン鼻を動かす倉見を険しい表情で窺う戸部が背中を突く。

倉見「バ、バカ違うって!」

そう言いながら振り返るのと同時に、戸部の鼻にも届いた臭いは、すぐ側から漂ってくる。


戸部「なんだろ?」

辺りを見回すと、いつのまにか丁字路で立ちつくす鹿子が何かを見ながら手を招いている。

鹿子「見ろ。」

すぐに駆け寄ると、ちょうど角を曲がった所に焼け焦げた一軒家が見えた。敷地を丸ごと黄色いテープで囲まれている。


倉見「火事だな…。」

戸部「かろうじて骨組みだけ残ってますけど…延焼は免れたみたいですね」

隣接する家は、少し煤が付いた程度に留まっている…と、そのベランダから中年の女性が窓を開けこちらを見ている。頭を下げる三人を睨むように見た女性は、慌てたようにバタン!と雑に窓を閉めた。

倉見「不審者と思われたかな亀井さんに?」

表札をみながら倉見が言った。

戸部「真昼間から堂々と人の家を見てる不審者は居ないでしょう」


~ガチャ~


間もなく亀井家の玄関が開き、先ほどの女性が興奮した様子で出てきた。三人は驚きながらも頭を下げる。

亀井「あなた達、遠畑さんのご家族!?」

突然亀井から飛び出した遠畑の名前に更に驚く三人だったが、習慣的に警察手帳を出して亀井に見せる。

鹿子「中央署の者です」

三つの手帳に思わずキョロキョロする亀井は恥ずかしそうに口を押さえると、あっという間に笑顔を見せた。


亀井「やだ、ごめんなさいね。てっきりお隣の方かと思って」

鹿子「いえ。…火事があったんですか?」

亀井「そうなんですよ!二週間前の夜中にね!ほら、あそこ見てくださいよ煤けてるでしょ!?臭いも落ちなくて昨日からブラシとバケツに洗剤入れて磨いたんだけど天気も悪くて乾きが悪いし黒くなった壁のせいで家が暗く見え…」


亀井は鹿子の腕を掴むと、自宅の外壁を指さし機関銃の如く喋り始めた。その典型的なパワフルさに、倉見と戸部はそうっと一歩ずつ下がる。

鹿子「大変でしたね!ところでお聞きしたいのですが遠畑さんはお隣にお住まいですか?」

活き活きと喋る亀井の手綱を引くように、鹿子が精いっぱいのブレーキを踏んだ。


亀井「あら遠畑さんの事でいらしたの?まさか火事の事?ね、そうでしょう?事件性があるって事なの?漏電だって言ってたけどやっぱり放火かしら?」

鹿子「その可能性も否めません…どちらにせよ亀井さんのご協力が解決の大きな糸口になるかもしれません…遠畑さんについてお聞かせ頂けませんか?」

亀井は一瞬困ったような素振りを見せつつ、口元には興奮した喜びが溢れていた。後ろで見ていた二人がコソコソと話し始める。


倉見「アイツあんな適当な事言って、また課長に大目玉くらうぞ。」

戸部「奥様のしゃべくり欲求を満たし、思わせぶりな態度でやじ馬根性に火をつけ、とどめに〝あなたが頼りなんですアピール〟で情報を引き出す…実に巧妙な手口ですね。」

戸部は深く何度も頷いた。


亀井「遠畑さんね、半年くらい前にいきなり引っ越してきたのよ。」

鹿子「半年前?」

亀井「この家、焼ける前は平屋の一軒家でね、平瀬(ひらせ)さんておじいちゃんが一人で住んでたんだけど秋に老人ホームに入っちゃって。それからすぐよ遠畑さんが引っ越してきたの」

亀井は招き猫のように、後ろにいる二人に向かって何度も手を振り下ろしている。観念したように亀井ワールドに戻る倉見と戸部。


鹿子「遠畑さんはご家族で引っ越されてきたんですか?」

亀井は苦虫を噛み潰したような顔を見せてオーバーに手を振る。

亀井「わからないのよ全然!挨拶もないんだから!ある日突然、お隣に灯りがついてたから平瀬さんが帰ってきたのかと思ってピンポンしてみたのよね、そしたらインターホンごしに〝自分が住んでます!〟ってそれだけ言って切られちゃったのよ!」

倉見「それは男の声です…」

亀井「男よ男!ちょっと若い感じの!全く今どきの人は礼儀がなってないわよね、そもそもご近所付き合いって言うのは…」

話を遮って答える亀井がさらに怒りをぶちまけ、そのまま倉見に愚痴り始めた。鹿子と戸部は並ぶように一歩下がり苦笑いを浮かべる。


戸部「今度は先輩にロックオンですね」

鹿子「頼んだぞ、倉見」

倉見に向く機関銃を他人事のように眺めながら、二人はしばしの穏やかな時間を噛みしめた。


戸部「あのおばさん、遠畑の顔も知らないってことですかね?」

鹿子「そうみたいだな」

戸部「若い男の声ってだけじゃ…他に手掛かりになるような事ないのかなぁ?」

そう言いながら生贄(いけにえ)となって久しい倉見の方をちらりと見ると、話はゴミの分別から前住民の平瀬の盆栽にまで及んでおり、脱線し続ける亀井の声に戸部はがっくりとうなだれた。


亀井「…なのよ。平瀬さんは身寄りもなくて、もうこの家に戻る事もないから手放したんでしょうけど、見たらがっかりしたでしょうねえ。」

魂を抜かれたようにぼーっと聞いていた倉見が、一瞬正気に戻る。


倉見「手放す?じゃあ遠畑さんがこの家を買ったって事ですか?」

亀井「えぇそうみたいよ。消防の人に〝持家です〟って答えてたから。」

鹿子と戸部も思わず前に出る。

鹿子「答えてた?それ見てたんですか?」

亀井「そりゃそうよ火事のときだもの、大騒ぎだったのよ?ボーボー燃え…」

鹿子「どんな人物でしたか!?」


語気を強める鹿子に、瞬きをして驚く亀井。

亀井「どんなって…夜中だったしあの騒ぎの最中だったからはっきりとはわからないけど…そう、メガネをかけてたわね黒っぽい大きいメガネ。それとキノコみたいな頭、痩せてて背が高いから遠目で見ると本当に黒いキノコが生えてるみたいだった!アハハハ!」

思い出して笑う亀井とは対照的に、静かに見つめ合った鹿子と戸部はゆっくりと頷いた。


鹿子「亀井さんありがとうございました、これで失礼します。」

鹿子は事務的にそう言うと、軽く頭を下げて倉見を引っ張るように歩き始めた。

亀井「あ、ら…?」

呆然とする亀井に戸部は名刺を差し出し、

戸部「他に気付いた事があればご連絡お願いします。」

と早口でいうと、返事を待たずに二人の後を追った。



早足で大通りまで戻る三人、状況が呑み込めない倉見が歩きながら鹿子を呼ぶ。

倉見「何がどうなったんだよ?」

鹿子「既に逮捕されてる増須(ます)はキノコ頭…つまり増須が〝山本〟になりすまして自分を含む三人に指示メールを送っていたって事だ。とにかく課長に連絡しろ、すぐに聴取する」


ワンテンポ遅れて合点のいった倉見は、慌てて権田に連絡を入れる。

倉見「詳しい事は後で説明しますけどこれから増須(ます)の聴取をしますから…だから山本の正体は遠畑でそれは増須だった訳で…え?釈放!?」

鹿子が電話を取り上げる。

鹿子「神川です…はい、わかりました。増須の住所メールに送ってください、はい」

素早く電話を切ると、鹿子は通りに手を上げてタクシーを止めた。戸部は何が何だかわからない様子。


戸部「一体どうしたんですか!?」

車のドアが開き、ガードレールを跨ぐ鹿子が振り返る。

鹿子「増須は勾留期限切れで今朝釈放になった。」

切った電話を倉見に放り投げ、険しい顔つきの鹿子。

戸部「だって勾留延長するでしょう!?」

鹿子「申請したが裁判所で撥(は)ねられたそうだ…とにかく増須を確保するのが先決だ。わたしは増須のアパートへ向かうからお前らは法務局へ行け」

戸部「法務局?」


倉見「一人はだめだオレも行く!」

そう言ってガードレールに手をかけた倉見。

鹿子「お前は写真でしか顔しらないだろ?…部屋に居たら外で待機する、無茶はしない、頼んだぞ倉見」


~バタン!~


倉見を押しのけるように、有無を言わさず鹿子はそのまま走り去った。倉見は大きくため息をつくと、意外にもあっさりと駅の方へ歩き始める。

戸部「…いいんですか?行かせちゃって…?」

倉見「放っとけ、言って聞くような奴じゃない」


独善的に動く鹿子と倉見、その間になぜか見えてくる一本の線。戸部はそんな不可思議な感覚を覚えながらさっさと歩き出す倉見の背中を追った。


戸部「法務局でしたよね?最寄駅はどこだったかな…ちょっと待ってくださいね。」

スマートフォンを出して地図を見る戸部の前で、ゆっくりと倉見の足が止まる。

倉見「…オレらもタクシーで行っちゃうか?」

戸部「え?いいんですか?」

決して緊急とは言えない調査にタクシー代は支給されない。倉見は自分の胸をドンと叩くと、すぐに車道に向かって手を上げた。


戸部「車の方が早いですもんね。すみません先輩。」

戸部は倉見の懐を気遣った。

倉見「案ずるな、戸腹じゃ」

戸部「とばら?とばらって何ですか?」

間もなくハザードを点滅させたタクシーが横付けされ、倉見は戸部を押し込むようにすばやく乗り込む。

倉見「法務局まで」


走り出す車内で慌ただしくメモを出す倉見、遠畑努の住所が記されている。

戸部「法務局で何をするんですか?」

倉見「登記簿謄本をとってどんな契約になってるか見るんだよ。平瀬ってじいさんからいつ家を買ったのか、遠畑の元の住所はどこなのかもわかるだろ?」

戸部「住所だけなら役所で十分ですけどね。」

倉見「役所はそのあと。住民票動かさない奴なんて五万といるし、個人情報云々でとるのも面倒くさいしな」

戸部は大きく頷いた。


戸部「確かに同じ個人情報でも謄本取る方が簡単ですね。ローンを組んだ銀行も金額も、場合によっては家族の名前から差し押さえなんて事まで記載されてるのに…なんでだろ?」

そんな疑問も吹き飛ばされるかのように、二人を乗せたタクシーは着々とメーターを上げて走っていった。



運転手「四三八〇円です」

倉見「はいはいどうも!」


戸部に手を上げさっさと降りる倉見にキョトンとしつつ、領収書を出しながら待つ運転手に慌てて金を払う戸部。財布をしまいながら降りてくると、すでに法務局の入り口に立つ倉見を小走りで追う。


戸部「ひどいじゃないですか!先輩の自腹だって言うからタクシーにしたんでしょ!?」

倉見「はぁ?オレは〝戸腹〟って言ったんだよ?…人の話はよく聞きなさい戸部君!アハハハ!」

ようやく〝とばら〟の意味を理解した戸部は、奥に乗せられた事を不審に思わなかった自分を激しく悔やんだ。



閑散とした局内で、さらさらと申請書を書き込みながら倉見はポツリとつぶやいた。

倉見「印紙代一二〇〇円はオレが出すから」

戸部は一瞬驚いたような顔をしてから大きく頷き、それを横切るように紙を窓口へ出した倉見、局員が受け取ると印紙の上にポンと判を押した。

倉見「あ、領収書くださいね」



~ピンポンパンポン ピンポンパンポン~


法務局の前で謄本をみていた二人、突然倉見の電話が鳴る。

倉見「もしもし!?何やってたんだよ!何度も掛けたんだぞ!」

先ほどからずっと繋がらなかった鹿子からようやくきた電話だった。

倉見「…いない?もぬけの空?…こっちもおかしな事になってんだよ!」

戸部が謄本を大きく広げて倉見に見せる。


倉見「謄本には昭和四一年に平瀬のじいさんがあの土地と家を買って、平成元年にはローンも完済してる。その後に抵当入れただの売買だのは一切ない、きれいなもんだ。遠畑の名前もどこにもなかった」

倉見は険しい表情のまま電話を続けている。

倉見「わかった。課長には連絡しといてくれ…おう、了解」

すばやく電話を切ると、またすぐにどこかへ掛け始めた。


戸部「どうなったんですか?」

電話を耳に当てたままイライラした様子の倉見。

倉見「増須のアパートは空っぽだと、塵一つ落ちてなかったそうだ…とりあえずオレらはこれから役所にいって住民票を…もしもし?法務局まで一台まわしてください、大至急よろしく!」

二人はまた慌ただしくタクシーに乗り込んだ。



中央署に戻った鹿子は、権田に報告を済ませると、勾留期間の延長が認められた阿納と仁志の面会を求めた。


権田「構わんが、何も出てこないだろうな。」

固い表情で首を横に振る権田。

鹿子「なぜですか?」

真っ直ぐに見つめる鹿子の目を、ため息をつきながら視線を逸らす権田。


権田「増須は三人の中でも一番下っ端的な役割しかしていなかった…だから勾留延長の許可も下りずに釈放された。」

鹿子は静かに頷く。

権田「しかし実際は、指示を出していたのは増須自身だった事がわかり、そのあとすぐに姿を消した…随分タイミングが良すぎると思わないか?」

鹿子「……どういう意味ですか?」


権田はまた大きく息をつくと、腕を組んで後ろの窓に寄り掛かった。

権田「俺もわからん…ただ、残った二人は何も知らないからここに居るって事だけは確かだろう」

うつ向きぐっと歯を食い縛る鹿子を、権田は何度も頷きながら見守っていた。



夕方、署に戻った倉見と戸部。上着を肩に引っ掛け袖を捲りあげたたまま鹿子の待つ刑事課へ直行する。

倉見「わかったぞ!」

倉見が鹿子のデスクに書類を投げると、後から入ってきた戸部が手でストップをかける。

戸部「先輩違うでしょ、遠畑の素性は解ってないですよ」

倉見「あ、それは解んねえけどわかったんだよ!」

鹿子は眉間にしわを寄せながら書類に目を通した。それは初めに取った謄本と二枚の住民票、一枚目は新川区役所のものだ。


【遠畑努 本籍地 立上市○○○町○○○】

【    現住所 新川区○○○町○○○】

【    前住所 中尾区○○○町○○○】


そして二枚目は中尾区役所のもの。


【遠畑努 本籍地 立上市○○○町○○○】

【    現住所 中尾区○○○町○○○】

【    前住所 杉滑区○○○町○○○】


鹿子「これによれば遠畑が間違いなくあの家に住民票を置いてる事はわかる」

権田「同じ住所なのに謄本に名前はないが住民票にはある…。しかしよく引っ越しをしてるな、これ以前の住所は辿れないのか?」

倉見は人差し指をたてて権田の前に立ち、後ろにいる戸部に首を振って合図をした。


戸部「五年が経過しているので住民票ではここまでが限界ですが、本籍地の役所で〝戸籍の附票(ふひょう)〟を取れば住所の移転履歴が全てわかります」

権田「戸籍の附票?」

鹿子「それはどこにあるんだ?」

鹿子が書類をめくってみるが見当たらない。


倉見「ないんだよ、どこにも。本籍地の立上市役所に遠畑努の附票は存在しなかった」

権田「どういう事だ?住民票はあるんだろ?」

権田も鹿子も理解に苦しんでいる。


倉見「では問題です。法務局にも市役所にも無くて、区役所にあるものなーんだ?」

倉見はまるで子どもに訊ねるように鹿子を見る。ピクピクと顔を引きつらせた鹿子だったが、睨みつけながら大きく頷くと住民票を手に取り倉見の顔にバシンと押しつけた。


鹿子「…ハッキングか」

倉見「…びんぼんびんぼん」


紙越しに正解音が響く。権田は納得したように目を大きくし、また腕を組み直した。

戸部「そうなんです、ハッキングの被害を受けた区役所だけが遠畑努の存在を示しているんです…あこれ、ボクが気付いたんですけどね」

戸部は小さく補足する。


鹿子「つまりハッキングの目的は、情報を盗むためではなく、無いものを在るように見せかけるための工作だった…」

戸部が何度も頷く。


戸部「もちろん、他の改竄(かいざん)も行われてる可能性はありますけどね。遠畑一人のためにこれだけ大掛かりな仕掛けをするとは考えにくいですから。…これもボクが気付いたんですけどね」


くしゃりと張り付く紙を吹き飛ばす倉見。ヒラヒラと床に落ちた住民票には良い具合に顔型がついている。

倉見「ぺっ!…まあどっちにしても遠畑は見つからずだ。おそらく増須の名前も同様の手口で住民票を取ってるだろ」

鹿子「振り出しに戻ったって事だな」

三人は深くため息をついた。

そんな三人の後ろで、権田はモヤっとした大きな雲がゆっくりと被さっていくのを感じていた。


後日、増須の身元もやはり改竄されたものだった事がわかり、共犯とされた阿納と仁志は約一〇日間の勾留延長を経て釈放となった。その後も遠畑努(増須)の消息はまったく掴めないまま捜査本部は解散、事実上の打ち切りとなった。




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