バビルサの牙
あすだ
第1話 三人
「うぎぃやぁああああああだああああああああー!!!!!!!!!」
気が狂ったような叫び声が署内を激しく波立たせた。皆の視線だけが発声現場(はっせいげんば)の男便所に集中するが、誰もその扉を開けようとはしない。ただそれを見ながらコソコソと話しているだけだ。
廊下を挟んだ向かい側、刑事課のデスクでラーメンの蓋をペリッと剥いていた倉見豊(くらみ ゆたか)の耳にも当然それは届いており、倉見は慌てて濃厚味噌な湯気を吸い込むと、名残惜しそうに席を離れた。
倉見「どした!?」
便所の前に集まる者を退(の)けドアに手をかけた瞬間、誰かに肩を引っ張られて振り返ると、刑事課長の権田(ごんだ)が首を左右に振っていた。
倉見「あ、お疲れ様です。」
白髪混じりのリーゼントに恰幅のいい体形は何とも言えない圧迫感がある。夜道で会ったら間違いなく逃げだすであろう風貌だ。
権田「ほっとけ、問題ない。」
権田は呆れたように言う。
倉見「誰なんですか?中にいるの。」
権田「戸部(とべ)だよ。さっき戻ってきて辞令でも見たんだろ。」
倉見「戸部?生活安全課の?…異動にでもなったんすか?」
権田はニヤリと笑って倉見を見ると、今度は肩をポンポン と叩いて戻って行った。
滅多に見せない権田の笑顔に、若干の気持ち悪さを感じ首を傾げる倉見だったが、自他ともに認める単純な性格の持ち主は、
倉見「まぁいっか。さて!愛しの味噌子が膨れちゃう~♪」
と歌いながら、開いたままのラーメンのもとへと足早に帰って行った。
付近にいた制服のヤジ馬たちは、まだコソコソと話し込んでいる。
ヤジA「…ほらほら、あれ!」
ヤジB「倉見さんだろ?あの、例の。」
ヤジA「そそ。戸部のやつ今月から倉見班に異動なんだってよ!」
ヤジB「あ、それで~確かにうぎぃゃーってなるわ。」
ヤジA「倉見さんと神川(かみかわ)さんの間で仕事って…戸部も災難だよな。」
ヤジB「いくら〝やじろべえ〟でもなぁ…ご愁傷様!」
ヤジ達は軽く敬礼すると、平和な笑い声を上げながらその場を去って行った。
これから倉見班に加わるその便所の主は、引き続き立て籠る予定だったのだがその後に勢いよく入ってきた清掃員に問答無用で追い出され、仕方なくトボトボと戻って行った。
ほどよく眠気が襲いかかる午後、割り箸の散らかったカップの横に倉見の頭は深く埋まっていた。
峰藤「倉ちゃん」
西日に暖められた背中を揺さぶられ、さらに心地よくなる倉見。
峰藤「倉ちゃんたら、ねえ起きたほうがいいわよお」
同僚の峰藤は困り果てた様子だが、揺らし続けろと言わんばかりにひたすら伏せる倉見。
とそこに、コツコツと緊張をまき散らすような足音を立てて、不機嫌丸出しの女性が峰藤の前でピタリと止まった。いたずらをして逃げる子どものように、そうっと倉見から離れた峰藤を無言で見送ると、その女性は一瞬の躊躇もなく突っ伏した倉見の頭にファイルの束を叩き落とした。
倉見「ふおっ!……!」
峰藤「…ゴツって、いい音したわねえ…」
後ろで峰藤は笑いをこらえ、一気に目が覚めた倉見は違う意味で起き上がれない。
峰藤「あたしはちゃあんと、おこしてあげたんだからねえ」
峰藤は軽く倉見の肩を叩くと、逃げ出すようにデスクへと戻って行った。
後頭部に一撃を放ったこの女性は、倉見班の一人・神川鹿子(かみかわ しかこ)警部補だ。階級は上だが倉見とは同期でもある。背中まで伸びた黒髪を揺らし、雪のような肌の中に筋の通った鼻。パキンと割ったように開いた目はとても鋭く印象深い。その外見と、周りの空気を押し止めるような威圧感は、まるで黒い鬣(たてがみ)をした白龍のようだ。
鹿子「起きろ!出たぞ枝(えだ)カードが、合同捜査になるってよ!」
倉見は顔を上げずにボソっとつぶやく。
倉見「…オレにもまた出たぞ、星3つが…。」
鹿子「それはよかったな。」
倉見「良くないわ!」
鼻面を赤くした顔がようやく浮上し、すぐさま後ろを振り返る。
倉見「そのうち傷害罪で逮捕してやる!」
鹿子は少々間(ま)を置くと、
鹿子「残念だがお前の場合は適用されない。」
と答え、倉見は鼻を押さえながらキョトンとした顔を見せる。
鹿子「強いて言えば…器物破損罪かな。」
倉見「物かよ!」
鹿子「いや、それ以下の物体に対して罰する法律がないだけだ、今のところ。」
怒りを通り越しクラクラとうなだれる背中。
倉見「…あ、だめ。お前と話してると余計に頭が痛くなる。」
そういって倉見は鼻を押さえた。
鹿子「そこ鼻だけど…とにかく行くぞほら!」
有無を言わさず、雑に倉見の襟を引っ張り始めた時だった。
権田「おーい倉見班、ちょっと来ーい。」
二人の後ろから声がかかった。権田が廊下から顔をだし手招きしている姿に固まる二人。
鹿子「…お前、また何かやったな?」
倉見「何でオレなんだよ、お前がまた許可取らねぇで現場入ったとかじゃねーの?」
鹿子「それは一昨日始末書出したわ!」
倉見「やってんじゃん!」
途方もない二人の言い合いは日常茶飯事。権田はやれやれとため息をつくと、気を取り直すように咳払いを一つ、今度は目を座らせてゆっくり手招きした。すると瞬間移動の如く権田の前に揃う二人、姿勢もすごぶる良い。
権田「今日から倉見班に加わる戸部だ、仲良くやってくれ。」
権田に摘(つ)ままれるように、下を向いた戸部が倉見と鹿子の前に差し出された。
戸部「あ、あの、戸部です、よろしくお願いします!」
ギュっと目を瞑ったまま深々と頭を下げる戸部。嫌味のないグレーのスーツは痩せた体を型取るようにピタリと馴染み、その上を少しクセのある髪がふわふわと浮遊している。
倉見「あぁ、さっき便所で叫んでた戸部?」
鹿子「叫んでた?」
戸部はますます頭が垂れて暗い表情だ。
倉見「うちに異動だったのか!そっかそっかよろしくな!」
権田「まぁ、本人希望の異動じゃないが、猫の手も借りたい状況だろ?可愛がってやれよ。じゃぁそういう事でよろしく!」
倉見「もちろん!よろしくな戸部!」
戸部「あ、はい、よろしくお願いします…。」
消え入る声で青くなる戸部に対し、無駄にテンションが上がる倉見を見て、何となく戸部の心情を察した鹿子だった。
もともと倉見班は〝EDA(枝)〟と呼ばれる組織を追うため、特別捜査チームとして倉見・鹿子を含む5人から発足されたものだった。しかし二人の濃(こ)ゆ(ゆ)過(す)ぎる性格により、半年という短い期間で一人去り、二人去り、三人目もつい先月長期休暇という形で逃げるように去っていったばかり。それでも倉見と鹿子の能力を高く買っていた権田は、うまく二人の緩衝剤に成りうる人材は居ないかと探し求めていたのである。
戸部は若手ながら〝やじろべえ〟と異名をとるほどバランスを取る能力に長けており、これまでにも数々の微妙な人間関係を、絶妙な立ち回りで取りまとめるという実績を持っていた。結果的にはそれが仇となり、権田に目をつけられてしまったという訳だ。
戸部「あ、あの…。」
鹿子「…なに。」
戸部「ボク、じゃ、お役にたてないような気がしますけど…。」
容赦なく不機嫌な鹿子に、懸命に自身の離脱を促す戸部。
鹿子「あきらめろ、辞令なんだから。」
腕を組みそっけなく吐き捨てる鹿子の姿は、戸部の目にまるで龍の尾が床を叩きつけているように映る。
戸部「そ、そうですね、はい、よろしくお願いします!」
倉見「おう!わかんねえ事はオレが教えてやるから!問題ない!」
戸部「あ、はい、よろしくお願いします…。」
恐怖と絶望で完全にひきつった戸部の顔に、周囲の誰もが同情を禁じ得ない。
鹿子「さ、行くぞ。」
そんな空気をもろともせず、またコツコツと歩き出す鹿子、戸部もカクカクと続く。
倉見「あ!ところでさ、さっき何で叫んでたの?」
戸部はパチクリと音が聞こえそうなほど瞬きを繰り返したのち、
戸部「…それは叫びの中に…いえ何でもありません。」
と下を向いて答えた。
倉見「声の中?何だそれ。面白い事言う奴だなアハハハ!」
鹿子は眉間にしわを寄せ、無邪気に笑う倉見をじっと見つめる…大きく開いた瞳の中に
〝バカ〟の二文字を浮かべながら。
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