おばあちゃまと犬と北の島の話

高秀恵子

おばあちゃまと犬と北の島の話

 これは、いぬ年の年に、天国へ行った、おばあちゃまの思い出話です。


 私が6才のときのいぬ年のお正月に、おばあちゃまは犬のためだという、とてもごうかなパーティをしていました。まるで世界中の犬のしあわせを、お祝いし祈るような、とてもにぎやかなパーティでした。でも、おばあちゃまは犬を飼っていません。

 私にはそれがふしぎでなりませんでした。

 テーブルには、犬のためだという、ごちそうが用意されます。まず、近くの山でとれた《ジビエ》、つまり野生のしかやかもしかのお肉のお料理がありました。

 そしてもっと上等なのは、サケやマスなどお魚のごちそうでした。おばあちゃまは、犬のほんとうの大好物は、マスやサケなどのお魚だと、意見をゆずりませんでした。

 お魚やお肉のお料理のほかに、お菓子もありました。お手製の、近くの山でとれた、コケモモや野イチゴのケーキです。

 おばあちゃまは、いぬ年の生まれでした。   

 いぬ年のお正月にはいつもいつも、ごうかなパーティをひらいていました。でも、おばあちゃまが犬のためのパーティを開いたの は、その理由だけではありません。

 おばあちゃまは、北の島で生まれ育ったのです。


樺太という島を知っていますか? 今は《サハリン島》とも、よばれています。

樺太、つまりサハリン島は、北海道のさらに北にある、細長い島です。よく見ると、お魚の形に似ていませんか?

おばあちゃまは、この島で生まれ育ちました。そして戦争が終わってから、この街でくらすようになりました。

 北の島には、金色のかみの毛で青い目をしたロシア人のほかに、《先住民》という、黒いかみの毛をもつ人々が、大昔から住んでいました。北の島の先住民の姿は、私たち日本人に、似ています。

 先住民は、トナカイを飼い、トナカイといっしょに、生活していました。

 北の島は、島の南半分には、山がたくさんあります。そして島の北のほうは広い森と草原になっています。島には大きくて太く長い河があります。流れはゆるやかで自由に船で上ることも下ることもできました。その河の河上の河岸には、とてつもなく広い、ふわふわとしたミズゴの生えた、ぬかるんだ大湿原がありました。湿原には、野イチゴやコケモモも、いっぱい生えていました。湿原にはたくさんの小川や大きな池があり、魚が豊富にありました。

 先住民が飼っていたトナカイは、湿原で放し飼いにされ、自由に大好物のミズゴケを食べていました。野イチゴやコケモモの実も、先住民の大事な食料です。 

 先住民は、大きな河をのぼって来る、サケやマスなどの魚をとったり、河のほとりに生えている、クルミの実をあつめたり、秋から冬にはシラカバやドングリの森で、クロテンをつかまえたり、クロマイタケという珍しいキノコをさがしたりして、くらしていまし た。

 北の島はとても寒い所です。冬には風が、氷のように冷たくなります。雪がふり、川も湿原のぬかるみもまっ白に凍ります。

 そんな冬にはかならず、島の北のほうか ら、犬ぞりに乗った大きな行列がやって来ました。犬は、黒い犬や白い犬、そしてぶちの犬などいろいろいます。犬ぞりをつれた人たちは、先住民がとりあつめた、クロテンの毛皮や、クロマイタケや魚の干物を、買いもとめました。そして、毛皮や干物と交換に、塩や麦やお米、それに着物などを持って来ました。

 この犬ぞり人たちこそ、おばあちゃまの祖先です。犬は寒さにとても強く、ふぶきの中を大きなそりをひいて、大切なものを運んだのです。おばあちゃまがいぬ年に、世界中の犬のために、大きなパーティを開いたのは、そのときの犬の働きへの、感謝の気持ちを忘れないためだったのです。

ところで私は、この話をはじめておばあちゃまから聞いてから、ずっと、犬ぞりの人たちは日本人だろう、樺太探検へ行った、おさむらいさんの子孫なのだろうと、思っていました。

 本当は犬ぞりの人たちも、同じように、北の島の先住民だったのです。おばあちゃまも、この私も、北の島の先住民の子孫ということになりますね。


 北の島は、今から100年以上前の戦争がきっかけで、島は2つに分けられました。島の北半分は、ロシアのものになり、南のほうは、日本の土地となりました。先住民は、雪の草原をトナカイや犬ぞりで、自由に行き来できなくなりました。   

 やがてロシアは、ソ連と名前をかえました。ソ連という国は、69年間続きました。

 日本の土地にすむことになった先住民たちは、大きな河の川下の、海の近くの野原にある《オタスのもり》で、くらすことになりました。先住民のことを日本人は《土人》とよんでいました。先住民たちは、日本人に、《土人》だとばかにされないよう、先住民の名前とはべつに、日本人の名前にかえるように、役人から言われました。

 大きな河の周りには、工場やビルがたくさん立ち、河には鉄橋こそないものの、渡し船の汽船が走りました。夜の河にはネオンサインの光がうつりました。

 日本人は、野イチゴやコケモモの実る森と湿原を、さとう大根の畑に作りかえました。街には甘い匂いのするさとう工場やお菓子の工場もできました。日本人は鉄の大きな船で、サケやマスを取り、かんづめを作りました。そのころの樺太は、《宝の島》とよばれ、南のほうにくらす日本人のあこがれの島でした。

 

 それでも、おばあちゃまや、その両親であるひいじいさんとひいおばあさん、そしてひいひいじいさんのくらしは、あまり不自由はしなかったと、おばあちゃまは話していました。《オタスのもり》の先住民たちは、自由に《オタスのもり》の外へ行き、魚をとったり働きに行ったり、あるいは買い物に出かけたりができたのです。

 《オタスのもり》の湿地には、ミズゴケやコケモモや野イチゴがたくさん生えていて、そこでくらす先住民たちは昔どおり、トナカイを放し飼いにしたり野イチゴやコケモモを取ってくらしていました。

そして《オタスのもり》には、《土人》の神さまを祭る《オタス神社》がありました。

 《オタスのもり》の子どもたちも、そして日本人も《オタス神社》に熱心におまいりしました。しかし《オタスのもり》の大人たち は、神社のお祭りは楽しみましたが。あまり神社を信じていないようでした。

 おばあちゃまのお父さんやお母さんである、ひいじいさんとひいばあさんによれば、神さまというものは、家の中にいたり、あるいは遠い海のかなたや森の奥にいるというのです。特に深く信じていたのは、海のかなたや森の奥に人間と同じよう家族を作ってくら す、《海のぬし》や《山のぬし》でした。

 なのでおばあちゃまは、街の遠くにある森や鉄の船もうかんでいない海のかなたを見るたびに《山のぬし》や《海のぬし》のことを思い出しました。天然に育つ食べられる野草やくだもの、そして海や河でとれる魚などはすべて、《山のぬし》や《海のぬし》から の、人間へのおくりものだと聞いていたからです。


 一家は、ひいじいさんは、河で魚をとりながら、丸太で小屋を立てる仕事をしたり、日本人に弟子入りをして、たるの作り方を教わったりしました。ひいおばあさんは、むかしながらの方法で、毛皮の手入れや魚の干物作りの仕事をしていました。

 まだ子どもだったおばあちゃまは、《土人》のための学校に通いました。そこでは国語や算数の勉強のほかに、女の子は、先住民に伝わる刺しゅうを習いました。男の子は、やはり先住民の昔からの仕事である、彫刻の練習をしました。

 ひいひいじいさんは、昔と同じように、たくさんの犬たちを飼いました。

 犬は、北の島の街の人たちの人気ものでし た。街には自動車や馬車も走っていました。犬は大きな車輪がついた車をひいて、街の人の大切なものを運びました。 犬たちは、牛乳を運んだり、手紙を届けたりしたのです。

 そして犬たちは、おなかがすくと、おやつに河の魚を食べるため、河に飛びこんで泳 ぎ、魚を自分でつかまえました。じつは河には、犬よりも大きくて、どうもうな魚がいたので、おばあちゃまは心配して、河のそばで見守りました。でも犬は自分の体の大きさにあった魚だけを、上手に取ったのです。


 そのころ日本は、中国やアメリカと戦争をしていました。おばあちゃまの学校でも、刺しゅうや彫刻にかわり、女の子は兵隊さんのきずの手当ての練習や、男の子なら兵隊さんみたいな訓練がはじまりました。

 おばあちゃまのお兄さんも、《土人》の学校をそつぎょうすると、兵隊さんのためのクリーニング屋で働きました。

 さらに先住民の飼っていたトナカイは荷物を運ぶため軍隊へ行きました。先住民の若い男の人も、兵隊さんになりました。

 ひいひいじいさんは犬たちに、「お前らは戦争に行かなくてよかったなあ」と、ひっそりと言いました。

 

 ある夏のことです。クリーニングの仕事をしている、おばあちゃまのお兄さんが夏休みで帰って来ました。

 お兄さんの話によれば、ソ連と日本の間で戦争が始まっているというのです。

 それを聞いて、ひいひいおじいさんは、天をあおいでこう言いました。

「人間は、大きな鉄の船や汽車や自動車を走らせ、森の木をたおし、大地をよごしている。その上、戦争だと? きっと《海のぬし》や《山のぬし》は、戦争のため生活にこまるだろう」と。

 ひいひいじいさんたち大人は、そうだんして、大切にしている犬の一頭のたましいを、《海のぬし》と《山のぬし》に、おくることにきめました。

 太った大きな犬がえらばれ、その犬の周りには、ささやかながら、おくりものが、集められました。そして犬はていねいに、殺されました。

「さあ、犬のお肉を近所の人にもって行っておやり。こんなおいしいお肉を、私たちだけで食べると、ばちがあたるよ」

 お母さんであるひいおばあさんは、子どもだったおばあちゃまに言いました。

 

やがて本当に戦争がはじまりました。

 ソ連の飛行機は空襲で街をやきました。《オタスのもり》も、もえてきえました。

 家族も、ばらばらになりました。

 お父さんであるひいじいさんは、ソ連人の役人につかまえられました。先住民の男の人は皆、敵である日本へ協力をした犯罪人として、とおくのほうに連れていかれました。ひいおばあさんも、ソ連の工場で働きました。 

 おばあちゃまはソ連の寄宿舎つき学校へ入れられました。そこでは先住民に伝わる刺しゅうの授業はありませんでした。

 おばあちゃまは、悲しいときは、残された犬の毛皮をだいて、家族がもどってくることを祈ったといいます。

 戦争が終わって2年後、家族はそろって会うことができました。ひいじいさんとその家族は、仕事をもとめて、日本に行くことにきめました。だけど、ひいひいじいさんは、ソ連にのこり、ゆくえ知れずになりました。


 こうしておばあちゃまたちは、大きな川こそないものの、シラカバ林があって、野生のコケモモのみのる、この街でくらすことにしたのです。おばあちゃまは、やがて犬のために、いぬ年に大きなパーティを開くようになりました。

 

私はおばあちゃまから、犬ぞりや、およぐ犬や、牛乳をはこぶ犬の話を、おとぎ話のように聞いて育ちました。しかしおばあちゃま は、戦争のつらい話は、なくなる直前まで、しませんでした。    


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