物忘れ

春風月葉

物忘れ

 祖父は何気なく言った。

「最近物忘れが激しくてねぇ。」

 それがどの程度本気で口にした言葉なのかはわからないが、私は祖父が自分の物忘れを自覚していることがたまらなく嫌だった。

 私はどうせなら祖父に忘れてしまったという事実も忘れていて欲しかったのだ。

「ケンちゃんは最近どうだい?仕事は上手くいっているかい?」

 祖父は父の名前を呼んで私に話かける。

 もう慣れたことだ。

 ここにいるのは祖父の孫である私ではないのだ。

 もう随分と前のことに感じるが、幼い頃から頭を撫でて優しくしてくれた祖父が私を忘れてしまった時は辛かった。

「どちら様かな?」

 そう言われた時、胸の奥が締めつけられるように痛くて、その場から逃げ出したかった。

 祖母が亡くなってからというもの、祖父も記憶力が衰えてしまい、数分前のことさえ思い出せなくなってしまった。

「おや、ケンちゃんかよく来たね。」

 祖父が私を若かった頃の父と間違えて呼んだことがあった。

 以来、私は父を演じている。

「なぁケンちゃん、お母さんを見なかったかい?せっかくケンちゃんが遊びに来てくれたのにどこへ行ったんだろうねぇ。」

 呆れたように言う祖父に、祖母は買い物にでも行っているんじゃあないかと私はまた嘘を重ねる。

「ケンちゃん、なぁケンちゃん。」

 祖父はまた父を呼ぶ、私はそれに応える。

 本当は自分を呼んで欲しかった。

 もういない人達の名前なんて聞きたくはなかった。

「なぁ、ケンちゃん。ミチコとは仲良くやれているかい?」

 祖父の口から母の名が溢れた。

 途端に私の瞳からは涙が溢れた。

「はい、お義父さん。」

 それでも私は演技を続けた。

「どうして泣くんだいケンちゃん?」

 祖父は不安そうに私の頭に手を置く。

 私はそれが懐かしくて、孫であるはずの自分を思い出してしまう。

 違う、私は父なのだと自分に言い聞かせる。

 まだ演じなくてはと、また口を開こうとするがもう声は出ない。

「ごめんな、ヨウちゃん。」

 不意に祖父の口から私の名前が溢れた。

 私は祖父の方をゆっくりと見る。

 祖父はいつものようにきょとんとした顔で言った。

「最近物忘れが激しくてねぇ。」

 翌年、祖父はぱたりと亡くなった。

 安らかな表情をして眠る祖父の棺の前には確かに私が立っていた。

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物忘れ 春風月葉 @HarukazeTsukiha

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