漆
桃子が眠りに堕ちた後、相木が運び、緊急搬送された。後日、診てもらうと、医者曰く、「左側の胸鎖乳突筋、つまり、首筋の怪我だが、残り数ミリで大動脈を損傷するところだったよ。危なかったね」と。しかし、胸鎖乳突筋を縦断するように五センチ程の抜糸の跡が一生残ることになった。
傷つけた少女は、頬に一粒の線を引き、流れ星の如く、素早く自由落下する。次に、もう片方ら流れ星が降る。そして、また一粒流れれば、流星群となり、涙が止まらなくなった。彼女は言う。「ごめんなさい、傷付けて」拳を握りしめ、袖口で水を拭う。
少年は、少女の流れる涙を見て、鼻腔がむずがゆく、奥がつんと筋が通る感覚を覚える。見られまいと目を逸らそうとするが、堪え、優しく微笑む。「お前は悪くないって」と声を掛ける。しかし、少女は否定する意味で、首を振る。続けて、「だって、あの時、制御できただろ?」と。彼女が顔を上げる。「だって、大動脈が当たるギリギリで止められただろ? それって、お前が制御出来たってことだと、俺は思うよ」
彼女の瞳に、一粒のコンストラクトが円を描く。すぐに揺れ、目を閉じれば、また一筋の線。しかし、暖かく、間接的な包容感を胸の奥で感じる。コクリと頷き、「ありがとう」と彼女は言う。この時、彼女の十年間に及ぶ罪悪感は、これにて払拭することができた。
その後、太陽は、飲み物を買ってくるついでに、双子の様子を見ると言って、病室を後にした。残ったのは、全身包帯に巻かれた少年と、ポニーテールに結い上げられた少女。パイプ椅子に座っている少女は、顔を下げ、溜息を吐いた。
「あーあ、格好悪いな」掠れそうな声で呟く。相木は、「どうして?」と、聞いてみる。「私、今日、泣いてばっかりで、情けないなって」
「そんなことないよ。ただ、俺が……」語尾を濁らせたのは、桃子の真っ赤に目が腫れていたから。見えないように外側から必死で守ろうとしていたのに、僅かしか会話を交わさなかった故に、桃子を泣かせてしまった自分の不甲斐無さが、目頭を熱くさせる。続きの言葉は、「俺の方が、カッコわりぃよ」と、勝手に口が動いた。「お前を守るって決めたのに、結局お前を泣かせてしまった俺の方が、よっぽどカッコ悪い。情けないよな。こんな包帯にグルグル巻きにされて、ミイラみたいで」ポツリ、ポツリ、と生まれる言霊に一つ一つに重みがあった。それを受け止めきれず、桃子は、
「あーもう! うじうじしない! いつまでうじうじとしてるのよ! 私、泣いてスッキリしたのに、逆に弱音吐かれたら泣きそうになったじゃない!」
と、立ち上がって言った。吃驚の故、言葉が出ない。
「普段、そんな素振りを見せないから、分かんないじゃん。だから」
相木は、続きの言葉に被せて、「だ、だから、これからは、ちゃんと言うって」と、引き下がった。
「ホントに? もうこんな思い嫌なんだからね!」
「分かった、分かったから!」
片方の手を上げて、リタイアを示す。これ以上言われると耳が痛い。「っていうか、さっきまで泣いてたじゃん。涙何処行ったんだよ」
「うじうじするの見ると、涙吹っ飛んだ」
何だよそれ、と相木が、吹いて、肩を震わせれば、桃子も笑い始めた。
「ははっ、桃子らしいな」
「えっ、も、桃子?」
相木は我に返る。元々、お互い苗字呼びだったはずだ。「あ、いや、昔の癖で」と言い訳をすると、「ははっ、何だか昔に戻ったみたい!」と案外すんなり受け止めた相木は心の仲でホッとする。
「じゃあ、私も相木って呼ぶ! 実は、苗字呼びに違和感あったんだよね」初めて聞く事実に相木は驚く。そうなの? と質問すると、「うん。そっちが苗字で呼ぶから、私も呼んでたけど、昔みたいに、君付けは面倒だなーとか色々考えてたら、時間経ってた」
「そうだったのか。なんか、すまん」
「大丈夫よ。まぁ、正直スッキリできたから、結果オーライってところかな」
結果オーライって何だよ、と突っ込もうとしたとき、「相木?」と、桃子が目を覗かせて呼ぶ。反射で、「桃子?」と相木は呼んでみる。
「はい、桃子です」目に飛び込む少女の笑顔。その瞬間に、息をする事を忘れさせる。二秒経った時、クスリと桃子が笑いだした。
「何これ、恋人みたい」
「たしかに、どっかのバカップルかよ」相木も同調し、肩を震わせる。
「まぁ、恋人っていうよりは、幼馴染だけどね」と桃子が加えた。
すると、「桃子」と、相木が名前を呼ぶ。
「名前で呼び合う関係になってみないか?」
少女は、目を見開いた。名前で呼び合う仲、つまり、恋人にならないか、ということだろう。その言葉を嚥下するかまでに時間がかかった。さっきまで笑っていた相木が、優しく微笑みながら、少し緊張した様子に変わっている。桃子は、思考を巡らせる。また、胸の奥を突かれた理由を探す。鳴り止まない心臓が思考回路を滞らせる。深く息を吸い、長く吐いて、全呼吸をすれば、溢れる暖かさを胸腔に広げる。その暖かさは、懐かしいあの日、背に手を温もりと変わらない。音波が共鳴するかの如く、少し緊張し、微笑む。
うん、と首を縦に振れば、
「相木」
と、呼ぶ声が届いた時、互いの胸腔に共鳴し、花を咲かせたのであった。
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