陸
「田中が施設を出て行った後、俺は、後を追いかけたんだ。でも、何処に向かったか検討がつかなくて、走り周ってた。周辺を走っても、中々居なかった。体力が限界に達するギリギリの時に、『コスモス畑の公園に行ってきた』って言っていた事を思い出したんだ。それで、地震で倒れた案内板を頼りに向かったんだ」
この連なる
「桃子ちゃん、どこ行ったんだ……!」
何度も浅い呼吸を繰り返し、相木は、ぶら下がった青い看板と、倒れた矢印の看板を目印にあの公園へと向かった。瓦礫が転がり、目の前を塞ぐ。しかし、それに躊躇している暇は一切ない。手足を器用に使い、腕に擦過傷が付いても、包帯で巻くことをせず、ひたすら前へ進んだ。
コスモス畑の公園の入口の前の道路に桃子は、横たわっていた。何度も肩を揺らし、声を掛けても応答しなかった。魂が抜けた人形のような軽い体を背負い、耳にかかる僅かな吐息を感じながら相木は、施設に帰った。
施設に戻り、仮の玄関に入る時には、既に体はクタクタだった。先生が集まり、桃子と相木を寝室に運び、
「どうしたの⁉︎ こんなに怪我して!」
「よく帰って来たね」
と声を掛けてくれたが、布団に入れば、それら遠くなり、意識が薄れていく。先生達が、ゆっくり休んでね、と部屋を出た。相木は、隣で寝ている桃子の顔が見えるように寝がえりをした。そんなことより、桃子の方が心配だった。ふと、こう呟く。
「心臓弱いくせに」
相木は、知っていた。桃子は、心臓に負担を掛けてはいけないこと。その病気が母親を苦しめている事に本人には、幼いながらも気付いていたこと。幼い頃から、相木とは腹を割って話せる関係だった。
翌日、夜が更けて、真っ黒なキャンバスに数粒の星が飾られる。こんな時間になっても桃子は、目を覚まさなかった。あれからもう、約一日経つのに、目が覚めないということは、何かの病気になったのかと、相木は時計の針を目で追いながらそう思った。前日と同じように、桃子は相木の隣で寝ていた。死んだ様にビクともしない。少しだけ突いてみようと、いたずら心が相木に降る。頬をちょんちょんと指で押してみる。相変わらず目が覚めない。もう一度、頬を突いてみる。目が覚めない。よし、もっとやろう。相木は、調子に乗って頬を押す。少し奥に突くと、弾力があって柔らかい。連続で突いてみる。んっ、目を強く閉じる。と相木が見た限り初めて桃子が動いた。相木が手を引く時、目が覚めた。
「桃子ちゃん、目、覚めたんだね!」
半開きに開いた目が虚ろだった。力無く、よろよろと体を起こし、ふらっと揺れながら立ち上がる。
「桃子ちゃん?」
相木は、顔を上げて、桃子の横顔を眺める。無機物の様にぬるくゆっくりと首を横に曲げる。開眼した白と黒のオッドアイ。綺麗な茶色の目が、今まで見たことが無い色に変わっていた。これは、もう桃子ではない、と相木は悟った。
「桃子ちゃん!」
何度も振り向き、名前を呼ぶ。目を覚まして、早く。明らかに違う人格であるが、真逆、自分の存在を敵だと認知されるなんて、思ってもみなかった。相木は、施設内を駆け回る。一室だけドアが開いていたので、そこに入ることにした。直ぐにドアを閉めて、冷たい板にに背を付ける。拍動が速まる。肩を上下させ、冷たい酸素を肺胞に送り届ける。冷や汗が皮膚を湿らせていたから、体力の消費が著しいのだろう。
ドンドンドンッ! ドアを容赦なく殴る。七歳児とは思えない程の強さ。今にもドアが壊れそうだ。このままでは、確実に殴られる。何か打開策を考えないと。まずは、防御出来る武器。相木は、足元に何があるか探る。地震で散らばった本がフローリングの模様替えを済まさせた。右足の小指側に分厚い辞書。それを取り、背筋を伸ばす。いつでも壊れていいように構える。
バンッと最後の一撃で背に衝撃が当たる。開きドアの向きのドアに隠れ、桃子、いや、オッドアイの
「ごめん」
そう、言った。しかし、伸ばした手が蔓を伸ばし、鋭く左首を切る。血が肩を伝う。
桃子が掌で目を押さえ、指で額を掴む。片方の白色の目は鋭く、眉を寄せ、苦しんでいる事が分かった。
「桃子ちゃん、どうしたの」
「私、何を、し、たのッ」アッと吐くと、膝を降る。その時。
「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
殺伐、いや、悲痛な叫びが外周を包む。痛みと、葛藤、そして、本来の自己に戻りたい欲望だったと、後に少女は言う。つまり、暴走状態から元の人格に戻す代わりに、壮絶な痛みと戦っていたのだ。すると、桃子は、背を逸らし、雄叫びを上げた。語尾になるにつれ徐々に、声は掠れててゆく。そして、引っ張った糸が一瞬で途切れてしまうかのように、顎を上げ、ゆらりと地面に横たわった。
「桃子ちゃん!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった相木が側に駆け付ける。
体を上半身のみ起こし、片腕で背中側の両肩を支え、もう片方で肩を揺らした。体が酷く冷たく、ぐったりと力が入っていないことが皮膚に伝わる。
「ごめ、ん、日比野、くん……」
まだ微かに白色が残る目の色の瞳孔には、相木の泣き顔が映る。こんなに泣かなくていいのに、と桃子は呟いたつもりだったが、相木には掠れ声として鼓膜に届いていた。何を言ったか聞き取る相木。
「私は、大丈夫、だ、から」
左の黒と化した目がズキズキと痛む。痛みが脳に侵食していく。やがて、自分の人格を奪ってしまうのだろうか、と桃子は、直感でそう思った。残りわずかな体力で、相木に縋ろうとする。腕を伸ばし、相木の肩に腕を巻く。泣いているからだろうか、相木の体温はとても暖かく、身にしみる。相木の左側の首の横に顎を乗せると、顔にべったりとした何かが顔に付く。相木が背中に指先を付けたことを確認して、桃子は、意識を手放した。
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