参
彼女は急いているようだった。病棟の廊下の上を、紺色のスニーカーが踏む。制服のスカートとポニーテールに結い上げられた髪を揺らし、病室へ向かう。
昨夜、親友からこんなメッセージが送られてきた。
『今日から入院する。花咲市立病院 北館五階一〇五号室』
思わず声を上げて、立ち上がった。いきなり、どうして。まるで、会社の上司からメールの様な淡々とした文章だったから、すぐに電話を掛けたが、彼は、取らなかった。詳しく知りたかったが、安静にしないといけないと思い、聞くのは諦めた。それから、一時間後にメッセージが送られた。
『電話出られなくてごめん。しばらく入院しないといけないらしい』
通知が来ると、すぐに返信した。
『大丈夫? 容態は、どんな感じ?』
すると、すぐに既読が付いた。
『大丈夫。一週間入院すれば、大丈夫だって』
『明日、学校終わったらお見舞い行っていい?』
『いいよ。詳しいことは、明日言うよ』
『分かった。お大事にね』
お互いがおやすみ、と返信すると、桃子は、スマホの電源を切った。
それから、全ての授業を受けて、帰宅の準備を三十秒で済まし、六時間目の終了のチャイムの一分後に正門から出た。学校から走って約十分。現時点では、汗が首筋から胸元を辿り、気持ち悪さを感じる。そんな気持ち悪さを払拭し、がむしゃらに走った。
病室の目の前に着くと、足は自然と止まった。肩を上下に上げ、酸素を肺に取り込む。持ってきていたハンドタオルをカバンから取り出し、汗を丁寧に拭き取った。その間に、名前が書かれた小さな看板に、親友の名前があるのを確認する。しかし、他三台の名前は書かれていなかった。タオルをバッグに入れ、病室にゆっくりと足を入れた。
妙に静かで、人の気配がないことに気付く。しかし、右奥のベッドのみ、カーテンで閉められている。まさか、寝ているのか。起こさないように、そっと、カーテンを向こうを覗く。
そこには、何やら考え込む日比野相木が居た。目が死んでいる。腕や額が包帯で巻かれている。何があったのだろうか。
「あれ、来てくれたんだ」先に声を掛けたのは、相木の方だった。
桃子は、カーテンの隙間を開けて、相木のテリトリーに入った。
「これに座りなよ」と相木は、腕を伸ばして、傍にあったパイプ椅子を取り出した。
「ありがとう」それを受け取り、組み立て、腰を掛けた。
桃子の目線より上に、傷だらけの相木が居た。その目は、死んでいた。
「単刀直入に言う。昨日、ニャルラトホテプに会った」
えっ、と驚きの声が漏れる。
「俺は、ある人がニャルラトと繋がってると思って、後をつけた。でも、死んだ」
それから、昨日、何が起こったのか、全てを教えてもらった。淡々と述べる相木。しかし、そこには、憎しみと怒りが込められていた。詩という人が繋がっていたこと、双子が能力者が桃子と同様にニャルラトホテプに狙われていること……。
それを聞き終えた桃子は、息を飲んだ。そして、涙が一粒、頬に流れた。一粒流れると、また一粒流れ、拭うと、また、頬を水が辿る。溢れる涙が止まらない桃子を見て、相木が慌てる。
「ど、どうしたんだよ」
「いや、その……何ていうか……、私、何もできなくて、悔しくてっ」
「そんなこと、気にしてないって」
相木は、困りながら、桃子を慰める。桃子は、涙を拭い、嗚咽しながら、言葉を吐く。
「あの日が訪れてから、君は、ずっと守ってくれてて……。私は、君を傷つけたことさえあるのに、何も言わないで、平気な顔するし」
花の日の次の日、桃子は、暴走をした。その時に、側にいた相木を傷つけてしまった。その罪悪感や傷は消えない。
「だから、俺は、大丈夫だって」
「その体でよく言うよ。ミイラみたいに、包帯巻かれてるじゃん」
相木がニャルラトホテプに会った日から、彼は、傷だらけになる日が増えた。その度に、新しい情報を言って、自分の容態は一切言わなかった。
「こんなの擦り傷だって」
「嘘つかないでよ。明らかに擦り傷じゃない」
作り笑いも増えた。幼馴染だから、作り笑いくらい分かる。無理に作られても、見てるこちらも辛くなるだけだった。
「だから、何でもないんだって」
その言葉を遮って、叫ぶ。
「もう、傷つくのは嫌なの!」
相木が目を丸くした。いきなり、声を上げられて、衝撃的だった。
「何でもない様な顔して、傷付いて……。私、何も知らなくて。そんなの、もう嫌だよ! これ以上、傷つく姿、見たくないの……!」
涙がポロポロ溢れていく。相木は、肩を下ろす。
「……ごめん」何も言わなくて、と小さく呟いた。相木は、左側の首筋を触る。触れた皮膚は、消えない傷が残る場所。隠すように、手を覆い、下を向いた。「心配、掛けたくなかったんだよ」
その言葉に、熱が込み上げる。切なそうに言わないでよ。何も言えなくなるじゃない。桃子は、袖で涙を拭う。相木は、顔をあげて、桃子の眼を喰う。
「だから、これからは言うから」微笑みながら、言う。相木は、手を伸ばし、桃子の頭に乗せた。優しく、でも、しっかりと撫でる。その手は、冷たくて、ゴツゴツとしていた。嫌ではない、むしろ、安堵が身体を包んでいく。
このままじゃ、駄目だ。桃子は、そう思う。いつも守られてばかりで、相木ばかり傷付いて、私が何もできないなんて、嫌だ。私だって、能力を使えないことは、ない。聖書は、何度も開けて読んだ。守るために、技を使ったこともある。
桃子は、拳を強く握った。
「私、決めた」
「決めたって、何を?」
相木は、手を上げ、元の位置に戻す。
「私も、戦う!」
相木は、目を丸くした。まさか、そんな言葉を発するとは、思ってもみなかっただろう。
「お、おい、待てよ」
「何? 質問?」
「本気で言ってるのか? 能力使ったことないのに」
「私だってあるよ! 相木が知らないだけ!」
「どうせ、
「違いますぅー!
「はぁぁ⁉︎お前、それ卑怯だぞ!」
「何が卑怯よ!私は、聖書に書かれてある技を使っただけだしー」
「というか、わざわざ
「罰を行う時は、私自身の力じゃないといけないの。だから、使った」
「あぁ、そうか。お前、昔から弱いからな」
相木が意地悪そうに笑う。久しぶりに見た、相木の笑った顔。
桃子は、やっと笑った、と呟く。何か言った? と相木が聞くが、なんでもない、と桃子は答えた。
「もう私、弱くないよ!」
「嘘つけ。病弱だったくせに」
「昔は昔! 今は、ちゃんと戦えるよ」
「じゃあ、見せてみろよ」
「いいよ。見せてあげる」桃子は立ち上がり、姿勢を構えた。息を静め、握り拳は、腰の横。
「アイゼンルフト」相木は、透明な空気の層を作った。腕力はそこまでないだろうとみて、薄い壁を作った。それが、間違いだった。
息を吐き終え、目をカッと開ける。
「はぁぁッ!」覇気が拳から生まれる。
バキッと、割れる音が鳴る。
「あれ?」桃子は違和感を感じた。当たった感触がない。拳に痛みを感じない。
次いで、また連続して音が割れる。その瞬間、桃子の姿勢が崩れた。相木が作った空気の壁が予想以上に薄く、反動がないため、重心が揺れたからだ。
「うわぁ!」膝下目の前にあった、パイプ椅子が足に引っかかる。挫け、前転する――聖書の中の技を思い出したが、自分を守る技はなかった――もう、手遅れだ。しかし、体が傾いたまま止まる。腹部に、太い腕があった。
「おい、大丈夫か?」相木が咄嗟に腕を出し、桃子を支えたのだった。
言葉にならない熱が込み上げてくる。それは、自分のドジさに恥じているのか、このシチュエーションに恥じているからなのか、それとも……。
すると、とある来客者がカーテンを開ける。
「おっと、お取込み中失礼したな」仕事着で立ち寄った、日向太陽だった。冷静にカーテンを閉じ、立ち去ろうとする。
「違う違う! 太陽兄ぃ!」
「全然! そんなんじゃないです!」
慌てて止めるために、桃子は姿勢を立位に戻し、カーテンを開けた。
「おい、わいせつ行為はしてないだろうな?」
「してないって!」
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