第26話 副魔王 慰める
夜が明けて、いつもならばトーマが朝食をもって小屋に来るころあいなのだが、今日は一向に現れない。
隣の部屋にあるトーマの気配は動かない。寝ているのだろう。疲労困憊に違いなかった。
窓の下、朝方になってようやく静かになった大通りに、まばらだが人の姿が出始めている。夜とも昼とも違った活気が、再びわき上がりつつあった。
そして朝も終盤。
通りはだいぶ人の数が多くなった。
「おはようございます……サガン様」
扉の向こうからトーマの声がした。
「入ってよいぞ」
「失礼いたします」
現れたトーマの顔は土色だった。
「おはよう。寝ていないのか?」
「……眠ったはずなんですが、……ちょっと、眠りが浅くて」
力なく笑い、肩を少し落とした。
「早く村へ戻り、薬湯を飲んで寝たほうが良いな。朝食は済ませたか? 人間は三食食べねばならぬだろう」
「ああ、あまり食欲が……。あの、サガン様はなにか食べましたか? 今朝は寝坊してしまったので、いつもの時間にお食事を手配できずに申し訳ございませんでした」
「私のことは良い。気にするな。それよりもお前のほうが心配だ。なにかスープでも頼もうか」
「お心遣い……痛み入ります……」
副魔王はトーマをテーブルに着かせると、すぐに温かなスープを注文した。人間は弱るとすぐに死んでしまう。
スープが届くと、トーマは酷く恐縮してそれをちびりちびりと食べ始めた。しかし本当に食欲がないようで、半分も食べる前にスプーンを置いてしまった。
一晩でだいぶやつれたように見える。心配である。
結局トーマはスープを食べきることはできずに、宿を出る時間となった。
その足取りは随分と覚束なく、いつ転ぶかとひやひやした。
「トーマよ、支払いは私がしよう。昨日カードを作ったからな。お前は座って待っていろ」
「いえ、サガン様。それでは経費で落とせなくなってしまいます。ご心配なく」
しかし実際に会計になると、トーマは固まった。
「え、ちょっと待ってください。……この金額、本当ですか?」
「はい。二名様分のご宿泊代と、お召し上がりになりましたお食事代。そして、ワインと軽食分でございます」
「……ワイン、……え、ワインって、こんなにします?」
「はい。年代物のボトルをお出ししておりますので。こちら、記念にラベルをどうぞ」
ホテルの受付は、綺麗にはがして透明な-シートに挟んだワインラベルを数枚出した。
それを見てトーマはヒィッと小さく悲鳴を上げた。そしてガタガタ震えだしたのだった。
「どうしたのだ?」
「ウヒィッ、いえ、だ、大丈夫です。なななななななんとか、なります! 大丈夫!」
そしてトーマは土色の顔を今度は真っ青に変えて、震えながら財布の中身を全部出したのだが、足りなかったようだ。
「すみません、ちょっと銀行に行ってきていいですか……」
「カードのお支払でもいいのですが」
「……上限金額超えそうなんで」
「……かしこまりました。でしたら、当ホテルにも銀行の取引所がございますので、そちらご案内しますね」
「すみません。あと領収書は……、ワイン代別でお願いします……」
トーマは受付の横にいた人間に案内されて取引所に行った。
それを見届けてから、副魔王は先ほどの受付に訊ねた。
「すまぬが、先ほどの支払いの内訳を見せてくれぬか。ワインを飲んだのは私だけなのでな、あとでこっそりとあの者に返したい」
「かしこまりました」
副魔王は受付から内訳の複写を受け取ると、その足で昨日カードを作った銀行へと向かった。
副魔王が建物に入るとすぐに身なりの良い人間がやってきて個室に通される。
そして素早くワイン代分と少しの手持ちを合わせた現金を引き出し、銀行を後にし、買い物などをしつつホテルへ向かった。
ホテルに戻ると、トーマもすでに戻っていて、そばにはロクシャーヌもいた。鞄と鏡を手にし、顔の下半分を隠すように薄い布をかけていた。しかし目元にははっきりとした疲労が見て取れた。
「すまぬ。勝手に動いていた。待たせたかな」
「いえ、こちらこそすみません。お暇でしたよね。通りのマーケットはにぎわってましたか?」
「うむ。なかなか面白い品が並んでいたぞ。もう行くか?」
「そうですね。あ、でもサガン様、まだ子馬ちゃんたちへのお土産を買っていませんよね?」
トーマは副魔王がなにも荷物を持っていないことを見て、やや恐縮したように訊ねてきた。
実を言えば客に振る舞うためのぶどう酒や茶などを買っていたのだが、別の空間にしまっている。
だが確かにニンジンは買えていない。めぼしい店がすぐには見つからなかったのだ。
するとロクシャーヌが言った。
「ここに来るとき、もう一本向こうの通りに朝採れ野菜の露店がたくさん出てたの見たよ。それを眺めながら待ち合わせ場所に向かったらいいんじゃない?」
「おお。そうしてくれると嬉しい」
「ではそうしましょうか!」
副魔王が笑うと、トーマもにっこりと笑ってくれた。
たったそれだけのことだが、副魔王は安心した。
「あんたってほんとゲンキンね」
とロクシャーヌがなぜかトーマに悪態をついている。けれど、その目元は笑っていた。
それを見て、副魔王はやはりほっとしたのだった。
今日は一日中薄曇りらしい。
薄い雲を貫いて、眩い日の光が差し込んでいる。街を囲う砦を見上げると、それが目を刺した。
ロクシャーヌの案内による朝のマーケットにて、副魔王は様々な種類の野菜を目にした。
見たことかあるものもあれば、懐かしいものもあるし、初めて見る野菜もあった。ニンジンも種類がたくさんあった。細長いもの、小さいもの、太いもの、色が赤いもの、紫なもの、緑なもの。品種改良や、太古の種を復活させたもの、他の大陸や遠い国のもの。
クーリンとフーリンがいたら、喜びのあまりに発狂していたことだろう。
「サガン様、このニンジン、細くて色が赤っぽいやつ、このままかじってもいけちゃうくらい美味しいんですよ」
トーマが目を輝かせて言った。それに対してロクシャーヌが
「え、トーマって野菜そのままかじる人? ちょっとないわ」
と返している。
「いや、お前に言ってねーし」
「サガンさんだって、ニンジン丸かじりする人間とかドン引きよ?」
「え! そうなんですか、サガン様。嫌いにならないでください!」
「嫌いになどならぬ。私もよく野になっている果実をもいで食べていた」
「で、ですよね! よかった」
「野菜と果物は違くない?」
「お前黙ってろよ」
トーマとロクシャーヌはずいぶんと仲が良くなったようだ。
副魔王はトーマのおすすめのニンジンや、珍しい種類のニンジンを数種類購入した。フーリンとクーリンが気に入ったものがあれば、樽を花壇代わりにして育ててみるのもいい。
品種のタグもついていたので、それをもとに苗を取り寄せてみよう。
「ああ、そうだ。先ほど、飴屋を見つけたのだ」
銀行の行き帰りに、キラキラと光るかわいらしい小物を売っている店があった。屋台ではなく、小さな路面店で、ショーウィンドウの向こうでキラキラと輝ていてた。
ちょっと足を止めてみれば、それは小物でもアクセサリーでもなく、キャンディだった。
まるで小さな鉱石のような飴が、透明の小壜に詰められていたのだ。小壜の形やリボンによって、それらはよりキラキラと魅力的に光り輝いていた。
「飴が欲しいと言っていたな、トーマよ」
副魔王は、その店で群青色の飴が詰まった小壜を買っていた。
小さな銀の砂糖粒も一緒に入っている。まるで夜空と、そこに輝く星たちのような飴だった。
「わずかだが、とても惹かれたのでな、受け取ってくれ」
トーマの手を取り、その手のひらの上に小壜を置いた。
「あ……ありがとうございます……」
「疲れには甘いものが良い。食べてくれ」
「はい! 食べます! 全神経を舌に集中させて舐めさせていただきます!」
トーマは膝を地面につき、飴を高く掲げて、頭を下げた。
「早く元気になるのだぞ」
「ありがたき幸せ!」
その様子を、うわ、と呟きながら眺めているロクシャーヌに、副魔王はくるっと体を向けた。
「ロクシャーヌよ」
「は、はい? なんでしょ」
「お前にもあるぞ」
そう言って、副魔王はロクシャーヌの手を取り、同じように手のひらの上に小壜を乗せた。
薄い紫と、薄いピンクと、薄い黄色に半透明の白。それらの飴が香水壜に似た入れ物に詰められている。
「かわいい……」
「お前はきっとこのような色合いが好きだと思ってな」
「私のことを考えて……?」
「紫の鬣の白いユニコーンや、薄いピンクの縞が入った真珠貝が好きなようだったからな。それと星」
星はもしかしたら、占い師としての雰囲気づくりのためかもしれないが。
「あ、あ、ありがとう、ございます」
「お前も疲れが取れていないだろう。甘さで癒されてくれ」
「はい! 一刻も早く癒されたいと存じますうううう」
ロクシャーヌも泣くほど喜んでくれた。
喜ばれると嬉しいものだ。
待ち合わせの場所に全員が集まり、そろって第五の層に向かうと、再び外に出るのを止められてしまった。
トーマが衛兵に訊ねた。
「困ります。ちゃんと昨日言われた時間に来たじゃないですか。村へ戻る馬車に乗らなければいけないんです、なんで外に出してくれないんですか?」
「今の時間は外に出れない。馬車はちゃんと出るので、少し待ってくれ」
「理由を教えてください。でなければ納得ができかねます」
トーマは警官然として強気だ。
「……、仕方がない。ちょっとこっちにこい」
トーマだけが呼び寄せられる。そして衛兵と何やらひそひそと話し始めた。
そして驚愕の表情がトーマに浮かんだ。それを隠そうとするも、かわいそうに、失敗している。その顔色は朝よりももっと悪くなってしまった。
話し終えるとトーマは背筋を伸ばして戻ってきて、搭乗を待つ村人たちに向かって説明をした。
「どうやら、……砦の外では今……処刑が行われているようなんですよ」
その言葉は衝撃をもって村人の耳に届いた。ロクシャーヌも、布の上から口元を押さえている。
「ど、どういうことだね、トーマ」
村人の一人が訊ねた。
「ほら、昨日、魔物を呼び寄せた魔女っていうのが捕まったでしょう? それで、……昨晩は魔物の襲撃がなかったので……この魔女が犯人だって決まったようなんです。……処刑が終わって、魔物が報復に来なければ……砦は開くそうです……」
水を打ったように静まり返った。
「……まあ、……これは、……この砦にやっと平和が戻るということだからな……」
そう、誰かがぽつりと言ってやっと緊張が僅かにほぐれた。皆、それに同意するようなことを言い始めて、なんとか良いほうに考えをつなげているが、それもやがてなくなり、無言で時を待った。
その時は、緑の垂れ幕とともにやってきた。
《ヨタルの市民よ。領主クロードの名において告げる》
いっせいに人々が顔を上げた。
《このヨタルに魔物を呼びよせ、あまたの命を奪った極悪人を、先ほど刑に処した》
どよめきが広がった。
《もう、魔女はこの世にはいない。ヨタルに再び安寧が戻ってきた!》
一瞬の間があったかと思うと、轟くような歓喜の声が上がったのだった。
みな手を取り合い、または抱き合い、涙しながら喜び合っている。
けれどもトーマとロクシャーヌの表情は暗く、喜びではない涙が浮かんでいた。こころなしか、馬車に搭乗予定の村人たちの表情もさえなかったが、
「さあ。お前たち待たせたな、馬車が出る。通って良し!」
と、晴れやかな声で衛兵に言われたので、口々に礼を述べながら扉をくぐったのだった。
第五の層は相変わらず死臭のようなものが充満している。けれどもそこには活気もあった。極悪人がいなくなり、もう魔物はこないとなったので気持ちが上がったのだろう。
来たときは徒歩だったが、帰りに荷馬車のような乗り物が用意されていたのでそれに乗り、第五の砦の出入口に送り届けられた。
「これはヒヨリ村の警察官殿、そしてエルフ殿。お待たせいたしました」
昨日迎え入れてくれた衛兵がいて、挨拶をしてくれる。
「今、表に馬車を呼びますので、少しお待ちを」
そう言って、大きな扉の鍵を開けた。なかなか大掛かりな装置である。
ゆっくりと開けられたその向こうには、どこまでも広がる空があった。砦の中も空は広いが、やはり砦の外のほうがもっと解放感があった。
小さく犬の吠える声がして、村人たちが一瞬肩を揺らした。現れたのは馬車犬だった。昨日と同じ犬である。副魔王とトーマを覚えていたのか、しっぽを振りながらてってってと向かってきた。
「なんだ、普通の犬か」
村人がほっとしたように言った。
そういえば、この砦を襲ったのは巨大な犬の魔物だった。
「うむ。これは普通の犬だ。安心してよい。かわいいぞ。頭をなでてやるといい」
副魔王が犬をなでながら言えば、おびえた表情の村人たちも表情を柔らげ、しゃがんで犬の頭をなではじめ、遅れてやってきた馬車に乗り込んでヨタルの街を後にしたのだった。
「なんだか、長かったですね……」
馬車の窓から景色をながめつつ、トーマがぼそりと言った。
「そうだな。しかしこれでやっと薬が手に入った。お前も部長も薬湯を飲める。一安心だな」
「……ははっ」
トーマは乾いた笑い声をあげた。
「なんだか変な鳥がたくさん飛んでますね。……曇り空だし、……異様な雰囲気ですよ、サガン様」
トーマの言う通り、くすんだ空には怪鳥の影がある。
「あれは鳥ではないな」
「え? でも鳥ですよね、あの形」
「魔鳥だな。魔獣の一種だが、巨大で死肉を好む。あの砦にはたくさんの死体が収容されているから、好物の匂いを嗅ぎつけて集まってきたのかもしれぬな」
その副魔王の言葉は馬車の中を戦慄させた。
「そんな、魔物を呼び寄せていた悪者は死んだんじゃ……」
その村人の声に副魔王は答えた。
「魔物を好きに操れる人間がそうそういるわけがない。普通の犬一匹とて、馬車犬にするには訓練が必要だ。魔物を己の意志に従わせるなど、簡単にできるわけがない」
とはいえ、あの魔鏡の預言者なる魔女は、三十年ほど前に魔物の群れを操っていたことがある。人間の中では相当な力を持った術者だっただろう。
「じゃあ、あの預言者は……、やっぱり……濡れ衣を着せられていたの……?」
その村人はガタガタと震えながら口元を覆った。
「なんだ、お前はあの魔女の知り合いか? 捕まったことも知っていたのか?」
副魔王の問いに、他の村人が答えた。
「ええ、村人であの魔女を知らない人なんていませんよ。何度も村に来て、農業の実りの預言や、漁業の漁獲の祈りなんかをしてくれてましたし、子供や店の名づけなんかもしてくれてました。村人の多くはお世話になってるんですよ。……連行されるのを見て、まさかと思ったんです……。あの預言者のばあさんは、嫌な予言もするが誠実な人だった……」
「ヨタルの中じゃ絶対に言えなかったけれど、……あの預言者があんな恐ろしいことをするなんて、信じられない……」
すると、ロクシャーヌがポタポタと涙をこぼし始めた。
「私が、……魔法を使えなったから、全然役に立たなかったから、助けられなかった……、私が弱かったから……」
「そんなことはない。お前は精いっぱい頑張った」
副魔王はハンカチを渡しながら言った。
「泣きたかったら泣け。しかし自分を責めるな」
ロクシャーヌはハンカチを目に当てて、嗚咽をあげはじめた。それにつられて、鼻をすすったり顔を手で覆って肩を震わせるものが出てきた。馬車の中は沈痛そのものといった空気で満たされ、向かいに座るトーマも泣きそうになりながら下唇を噛んでいた。
馬車が進んで行く。
森に入り、空からは魔鳥の姿もなくなった。かわりに他の魔獣の気配が鼻をつく。来た時も感じていた匂いだが、それが昨日よりも濃くなっている気がした。
そして森を抜けた。
「なんだこれ……」
副魔王も異変に気が付いたが、トーマが腰を浮かせて声を上げたことにより、みながそれぞれに近い窓に群がった。
窓の外が、妙に荒れていた。
原っぱや茂み、そして畑に歩道が、なにか大きな生き物に踏み荒らされているかのように荒れている。
「あれ、あそこにあった小屋が……ない。つぶされてる……」
水路が壊れ、水没した畑もあった。
そのような状況の中、ヒヨリ村の方向に幾筋もの煙が見えた。
トーマが御者の後ろの窓を叩いた。
「急いでくれ! 村が変だ! 早く! 頼む!」
途端に馬車が揺れる。スピードが上がった。
一体何が起こったのだ。
もしかしたら、昨夜砦に魔物が来なかったのは、村を襲っていたからなのかもしれない。
トーマも村人たちも副魔王と同じことを考えているのだろう。
ロクシャーヌや行商人も含め、みな絶望に言葉を失っていた。
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