第9話 副魔王 恩返しを思いつく


 平和で平穏で新鮮な時は、過ぎるのが早い。

 副魔王が副魔王を辞めて魔王城を出てから、約一週間が過ぎた。

 長い長い年月を生きてきた副魔王にとって、一年や二年など瞬きをするくらいの短さにしか感じないのだが、この一週間は、過ぎてみれば一瞬であるが非常に満ち足りていた。何も考えずにぼんやりとしている間は、まるで悠久の流れに身を任せているようだった。まさかこれが昼餉と夕餉の間のわずかな時間だったのかと驚くほどに、長い時間が経っているように感じるのだ。

 そしてこのような毎日は決して限定されたものではなく、いつまでも続くのである。

 日が沈み再び日が昇れば、山積みとなった仕事に追われる日常が戻ってくる、という時間制限などないのだ。


「ああ、……幸せだ……」


 副魔王は山影に沈みゆく夕日を眺めながらつぶやいた。幸せであった。この後は風呂桶に湯をはり、花瓶で徐々にしおれはじめた花を浮かべて、星空でも眺めながらゆっくりと体を温めようと思っていた。小さい暮らし。性に合っているようだ。

 しかし満ち足りた毎日でありながら、副魔王には一つだけ気がかりなことがあった。


「……退職金、振り込んでもらえているのだろうか」






 最近、若い警官の様子が少しおかしい。朝と昼と夜に顔を出すのだが、来るときは非常に厳めしい顔で来る。

 すぐににこやかな表情になるのだが、ふとした瞬間に再び厳めしい顔になる。


「トーマよ、この二三日、どうしてそんな難しい顔をしているのだ? なにか問題でも発生しているのだろうか」


 副魔王は訊ねてみた。するとトーマという名の警官は眉間にしわを寄せた。


「ええ……サガン様、実は大問題に直面しているのです」


「なんと。どうしたのだ? 常々言っているが、お前には随分助けられている。なんでも申せ、力になるぞ?」


 するとどうだろう、固い表情は途端に崩れ、今にも泣きそうに目を潤ませたのである。


「サガン様、お願いですから……、もうそんな優しいことを言わないでくださいませんか、本官の精神が崩壊しそうですから!」


 一体どういうことだ。


「な、なんだ。私は知らぬ間にお前になにかつらいことを強いていたのか? もしかして日に三回顔を出すのも、町に行くのに同行させるのも、本当は苦痛だったのか?」


 副魔王もうろたえた。この幸せな日々は自分だけの独りよがりだったのだろうか。


「……なんなら、……別の者に代わってもらってもよいのだが……」


「……そんな……、そんな、サガン様は俺が嫌いだったんすか!」


「いや、気に入っておるが」


 その時のトーマの表情は珍妙だった。苦いものをかみしめたような、しかし甘いものを口に含んだような、相反する味を同時に味わっているようだった。そしてその顔のまましばらく動かなかった。


「っしょぁ!」


 奇怪な声を上げてトーマは息を吹き返した。


「いえ、困っていることはあるんですよ。俗称始まりの砦という街の話しを覚えてますか?」


「ああ、魔王の城に行くために弱い冒険者が集まる初心者の街のことだろう? 覚えておるぞ」


 なんと面白い街だろうか思っていた。そこから旅に出て、魔王城にまでたどり着くのはほんの一握り。というか誰も今のところ辿り着いていないのだが、魔王を目指して世界中から集まるというのは、受け入れる側にいた者としてなかなか興味深い。


「はい、初心者の街っす、ははは。弱い者から強い者まで色々集まるんですが、同じく最高の道具からクズみたいな道具も集まるんですよ。で、この村はそんな初心者の街にいって色々仕入れてくるんすけど、道路が閉鎖されていて、今、なにも仕入れられてないんですよね。預言者も一向に来てくれませんし」


「強い魔物がいるせいか」


「そうっすそうっす。食料なんかは自給自足できてるんですぐには困らないんですが、医薬品だとか燃料の類はそろそろ底が見え始めてるんです」


「それは大問題ではないか」


「本官の実家、魔法薬を扱う魔法薬局なんですが、その材料ももう……」


 トーマの表情がとたんに暗くなった。


「本官も……飲まなきゃいけない薬湯があるんですが、それも飲めないことが多く、ほんと……毎日が……つらくて……」


「なんだと。なぜそれを早く言わない!」


「そ、それは……、い、言えないです……」


「力になると言っているだろう? よし、すぐにその薬を手に入れに行くぞ。始まりの砦だな! 出発だ」


「だ、だめです!」


「なぜだ。辛いのではないのか」


「つ、つらいというか、つらくないというか、すみませんちょっと今自分がよくわかんなくてつらい!」


 そう叫ぶとトーマは小屋を飛び出して行ってしまった。


「……なんなのだ?」


 しかし、この村は危機に瀕しているのが分かった。トーマと同じように、日々の薬がなければ困る人間も多くいるだろう。

 副魔王は思った。

 世話になっている村の人々に恩返しできるチャンスなのではないか、と。

 無一文であり、しかも人々の税金で悠々自適な毎日を送らせてもらっているのだ、ここで力にならなくてどうする。

 強い魔物など、副魔王にとっては吹いて飛ぶくらいの存在でしかなかった。道中悪さをする魔物を蹴散らし、二度とやってこないように脅し、場合によっては灰塵に変えてしまうことも視野に入れ、始まりの砦なる街へ行こうと副魔王はきめた。

 そして、ちょっとだけ、面白そうなその街を見物したいと思った。もしかしたら、魔族の国との取引ができる大きな銀行もあるのではないかと、期待もしていた。




 翌朝、トーマがいつものように朝餉を持って来てくれた。昨夜、変な帰り方をしたので少し気になっていたが、杞憂だったようだ。

 普段であれば小屋の中で仕事に行く背中を見送るのだが、副魔王は


「では、」


 と敬礼する若い警察官を呼び止めた。


「まて。今日はお前とともに交番まで行く。食事を終えるまで少し待っていてくれぬか」


「あ、はい」


 トーマの母の作る優しい味わいの朝餉を食べ終わると、簡単に小屋の中をかたずけてから副魔王は若い警官を引き連れて小屋を出た。


「クーリン、フーリン、出かけるぞ。来い」


 波止場で海鳥を追いかけていた子馬たちも呼び寄せ、交番へと続く道を歩く。


「午前中に出かけるなんて珍しいですね、サガン様。朝市とか行かれますか?」


「ほう、そんなものもあるのか。行ってみたいが、またの機会にしよう。今日は重要な用事がるのだ」


「そうなんですか」


 朝日が昇ってすぐのため、いつものように人だかりができることなく、副魔王はあっという間に交番についた。

 交番にはすでに中年の警官がいる。


「これはこれは、サガン様じゃありませんか。おはようございます」


 中年の警官はにこにこしながら迎えに出て来てくれた。


「うむ、おはよう。しかしお前も早いな。いつ寝ておるのだ?」


「私ですか? これからトーマと引き継いで、家でひと眠りですよ。昼前には再びきますよ。サガン様も午後にもう一度顔を見せに来てくださいよ。はっはっは」


 思ったよりも厳しい勤務時間だった。

 

「うむ、そうしたい」


「うほっ、これは、……不眠でもいけるかもしれないな」


「そのためには、早急にこの村を出発したいと思うのだが、よいだろうか?」


「え?」


「え?」


 二人の警官は鳩が豆鉄砲を食らったように固まった。

 そして


「はぁああああああああ?」

「ええええええええええ?」


 と仲良く悲鳴を上げたのだった。



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