第6話 副魔王 銀行へ行く

 


 朝が来た。魔王城を出てから丸一日たったのである。副魔王は小屋の外に置いてある樽に腰かけて、朝焼けに染まる水平線を眺めていた。水面に靄が立ちこめている。もしかしたらウィンディーネたちが集まっているのかもしれないが、副魔王はあえて目を向けずにいた。

 今はただただ、解放をかみしめていたいのだ。

 手を太陽にかざせば、ふるりとした輪郭が際立った。

 固い表皮にふしばった関節、鉱石のような長い爪は今やどこにも見られない。触れば薄い皮膚の下に柔らかな肉と通う血を感じられそうだった。青や緑をベースにし寒色の肌をしていたが、今はミルクでうんと薄めたミルクティーさながらの白さだった。

 爪には色を塗っていない。いつも銀や金で色どり、唇も同じ色に染めていた。黒くねじれた角の下に黒銀の髪をたらし、耳には権力の象徴ともいえる宝石をこれでもかとつけていたが、角はなくなり、髪ははるか昔にそうだったような金色に戻った。辛うじて副魔王の名残があるとすれば、とがった耳だろうか。ほんの少しだけ、言われてみればという程度に耳の先がツンとしている。


「ふっふっふ、これだけ変えれば誰も気づくまい……、ふふふ、ふはははははは!」


 副魔王は見た目とは裏腹に実に魔王じみた声で笑った。


「おはようございます」


「おお、来たか」


 昨日の警官があらわれた。

 ちょっと青ざめている。魔王じみた笑い声を聞かれたようだった。


「……小屋の外に出てしまった。許せ」


「大目に見ましょう。ところで、こちら母が作った朝ごはんなのですが、いかがですか」


 警官は携えていた白い袋を少し上げて微笑んだ。

 人間の手作りの食事。

 これは珍しい。


「喜んでいただこう。ありがとう」


「い、いえ。あとポプリも持ってきました。外と中に置きましょう」


「ほう、かわいらしいな」


 小さなツボに乾燥させた花びらが詰められ、きゅっとリボンが結ばれている。警官は小屋の周りに四つ、中に二つを置いた。まるで結界でも張っているかのように、慎重に場所を吟味していた。


「花の香りはお嫌いですか?」


「いや、むしろ好きなほうだな」


「それは良かったです。嫌いな人はポプリも苦手らしいので」


 ちなみに魔王は花の香りが苦手である。憎んでさえいて、執務室を花でいっぱいにしておけば近寄らなかった。花はいい、とてもいい。


「いざという時のためにたくさん用意してくれ。投げつけて退治しよう」


「フナ虫用に超強烈なオイルもしたためておりますから、効きますよ」


「フナ虫にはそれくらいしてやらねばな」


 あのくそフナ虫魔王が。

 むしろ来い。顔面目掛けて投げつけて、その鼻を曲げてくれる。

 いや、このようなことを思っていたら本当に来そうなので、考えるのをやめよう。


「では朝餉をいただこうかな」


 昨日の若い母親からもらったかわいらしい食器に、オレンジがかった白いスープがよそられ、蒸し野菜をなにかの肉で巻いたもの、小さめのパンが皿にのせられた。


「羊肉のシチューと鳥と蕪の菜の蒸したやつと、近所で買ったパンです。この村は小麦の生産が盛んなので、パンは美味しいですよ」


「シチューも美味しそうだぞ。ほほう、これが人間の食事か。いただこう」


 副魔王は初めて人間の作ったものを口にした。なるほど、なんと体に刺激のない味だろうか。舌にも内臓にも刺激がない。


「食べやすいのだな」


「そうっすか? ちょっと塩味がきつくありません?」


「そんなことはないぞ。私が普段食べていたものは、ずいぶんと味が濃いのでな。このような優しい味の料理はめったにないぞ。美味しいな」


「お口にあったのならうれしいです。母にも伝えておきます」


「ああ。なにか礼をしたい。お前にも、お前の母にも、村の人間たちにもずいぶんと世話になっている」


 副魔王はぺろりと料理を平らげた。

 少々物足りなさを感じるものの、細胞が安心感を得られる料理だった。


「外にお散歩にでも行かれますか?」


「いや、外を眺めながらしばらくゆっくり過ごすとしよう。退席してよいぞ」


「では本官は交番に行きます。またお昼辺りに顔を出しますので、出かけたいところなど考えておいてください。あ、あと、もしかしたら今日は部長と預言者がくるかもしれません」


「部長とは?」


「昨日、交番で尋問した警察官ですよ」


「ああ。あの人間か。うむ。わかった」


「では、またお昼に」


 若い警察官は敬礼をして出て行った。


 来客があるのか、と副魔王は窓の外を見ながら考えた。考えてみれば、水はあるし食器も火もあるが、食料はもとよりもてなすための葡萄酒や茶葉すらなかった。

 もう料理など何千、いや何万年していないことだろうか。

 思い出すのも難しいほど昔にチーズを作った記憶はあるが、それ以外に食に関する事柄に近づいていない。


「あのチーズは食べたのだったかな?」


 それくらいの勢いで記憶にない。


「ふむ。ではあの人間の母親には質の良い茶でも贈ろうかな。かわいらしいポプリ壺を持っているようだし、入れ物もかわいらしいものを選ぼう。この食器をくれた若い母親もかわいらしいものが好きなようだしな。ふむ、屋根を直してくれた若者や、掃除を手伝ってくれた者たちには何がよいか」


 あれこれと考えていたが、それをすべて手に入れるにはまず元手がいる。

 まずは通貨を両替できる場所に行き、振り込まれているはずの退職金を確かめることにした。



 昼になり、若い警官が来た。

 副魔王はまたもや小屋の外に出ていて、馬たちに飼い葉を与えていた。


「おお、来たか。すまぬな、また外に出ていた」


「大目に見ましょう。お食事はどうします?」


「食事? そんなに頻繁には食わぬ」


「ええ? お腹空きませんか? 一日に三食は食べないと」


「空かぬな。……軽食はとるが」


「なーるほど。お貴族様っぽいですね。本官は腹ペコなので、ランチボックスを買ってきたのですが、いらないですかね?」


「もしや私の物もあるのか?」


「はい」


「ならばいただこう」


 白い紙でできた四角柱の箱。蓋をパカリと開ければ、麺がはいっていた。汁はなく、赤や緑の炒めた野菜と、細切りにした何かの肉が乗っていた。


「ほほう、なにやら奇妙な」


「そうですか? よくあるジャンクフードですけど……。食べたことないですか?」


「ないな」


 油でいためた麺のようだ。少しピリッとしていて、美味しかった。


「むー、ちょっと油がきつかったー」


「私は平気だった。美味しいな」


「小食なのに、胃袋が頑丈ですね」


「そうかもしれんな」


 魔王城で食べる料理に比べれば離乳食のようなものだ。少し物足りないくらいだが、身体が健康になってゆく気がする。


「して、部長と預言者とやらはいつくるのだ?」


「ああ、それが、まだ預言者がこの村に到着しないんですよ」


「遠い場所から来るのか?」


「いや、馬車で二時間くらいですかね。隣の街というか、いわゆる始まりの砦ってところからくるんで、ほぼ一本道のはずです。朝出でたら、途中で休憩しても昼前にはついているはずなんですよ。部長が交番で留守番しながら待っているところです」


「始まりの砦とはなんだ?」


「あ、知らないっすか。んー、正式名称はヨタルの街っていうんですけど、魔王討伐を夢見る冒険者たちが一番最初にくる街なんですよ」


「魔王、討伐?」


「そっす。ぶっちゃけ、めっちゃ弱い冒険者が集まる初心者の街ですね。そこで夢破れて故郷に帰る者もいれば、仲間を見つけて魔族を倒しつつ先に行く者もいますし、人が集まるので商売人も集まりますし、娯楽施設もたくさんあって。この村はその初心者の街のはずれにあるんで、デートにとかは大体ヨタルに行きますね。あはは」


「ここから魔王城は近いのか?」


「いや、すっごい遠いですよ。だって初心者の街ですから」


 副魔王はこの村を選んだ天馬の子たちを心の中で褒め讃えた。


「なんでも、ヨタルで仲間を見つけて魔王城を目指すのが一番楽な道順らしいんでよ。この周りにいる魔物は最弱ですし、レベル上げにはもってこいです。お守りがあれば子供一人でお使いにいくことだってできるくらいの安全な場所です」


「最高の立地ではないか」


「ほんと、そう思います。この村に生まれてラッキーでした。犯罪もないし、交番勤務もとっても楽」


「人々はみないい者ばかりだしな」


「それ! それが一番の自慢!」


 若い警官は心の芯からこの村が好きなのだろう。表情がどんどんにこやかになってゆく。


「では、預言者とやらもそのうち到着するだろう。きっと寝坊でもしたに違いない」


「ですね」


「遅れているのであれば好都合だ。ちょっと買い物がしたい。部長と預言者とやらが来たらもてなすために葡萄酒や茶を出したいのだが、ないのでな。マーケットまでゆきたい」


「わかりました。じゃあ行きましょうか。あの子馬たちも一緒に連れてゆきますか?」


「無論だ」


 副魔王は子馬たちを呼びよせ、警官を従えて町へと向かった。




 町に姿を見せると、すぐに人々が近寄ってきて、みなにこやかに挨拶をしてくれる。こんなに親しみのこもった挨拶をされることなどこれまでになかった気がする。魔王城でもどこでもされる挨拶はどれも畏まったり機械的過ぎたりしたものばかりだった。

 しかも、子供にいたってが嬉しそうにかけてきて、副魔王の足に抱き着いて


「こんにちは、おにいさん」


 と照れ臭そうに微笑んでくれるのだ。

 良い。

 これは良い。

 癒される。


「こんにちは、子供よ。元気そうだな」


 思わずこちらも笑みがこぼれるというもの。副魔王の時など、幼い魔族の子の頭をなでようとしたら、その親がすっ飛んできて「無礼な!」と、その子供を殺すといった惨劇となった。そしてその親さえも、目の前で自害した。

 ここではそのようなことはない。

 子供はにこにこと抱き着いてくるし、母親は


「こらこら、お兄さんが困っているわよ。すみませんね、うちの子が」


 と、やはり笑顔でやってきて、子供を引き離すだけだった。


「この子ってばお兄さんのことが好きみたいで」


「それは嬉しいな」


 そんな平和な会話ができる。幸せだ。癒される。周りに花でも飛んでいそうな平穏な世界がここにある。

 副魔王、辞めてよかった。


「こほん。買い物に行きますよ」


 警官が咳ばらいをした。


「おお、そうであった。留守の間に客が来るかもしれぬしな。急がねば。では両替はどこだろうか」


「両替なら、銀行でできるはずですよ。あちらです」


「では、ごきげんよう」


 副魔王は子供と母親に挨拶をして銀行に向かった。



 そこは非常に小さな銀行で、窓口は一つしかなく、自動引き出しのできる機械もなかった。入り口も頭をぶつけそうになるくらい低い。いや、もともと人間が背が低いのだ。それにしてもこの入り口は低い。

 銀行の窓口を見て理由が分かった。そこにいたのはゴブリンであった。


「おお、ゴブリン」


 思わずつぶやいてしまった。魔族でありながら、人間の世界で生きるゴブリンはなかなかお目にかかれない。もちろん、魔族の中で生きるゴブリンもいるのだが、だいぶ進化の違いが出ている。

 人間世界で暮らすゴブリンは小柄で、ちょっとずる賢いが、計算などには非常に細かいのだという。それゆえ、銀行や金融にかかわる職に多くいるらしい。


「本物とは。初めて見たぞ」


 しつらえの良い黒い服を着て、金のモノクルをかけていた。いかめしい顔やごつごつした肌はいかにも魔族であるが、浮かべる表情は人間の穏やかなそれそのものだった。


「いらっしゃいま……」


 小柄なゴブリンは先に入ってきた警官をみて笑顔を作ったが、副魔王を見て固まった。


「どうしたのだ?」


「……」


 そして目にもとまらぬ動きで椅子から飛びのき、背後の棚と棚の間に挟まると稼働式の書架を引き寄せて姿を隠した。


「ちょ、銀行員さん?」


 警官がびっくりしてゴブリンを呼んだ。


「いない、私はいない、ここには誰もいない、臨時休業、臨時休業!」


「ちょ、ちょっと! なにいってるんすか困りますよ!」


 もしやあのゴブリンは魔王城にいたのだろうか。

 副魔王はわずかな可能性を考えた。

 そしてはっと気が付いた。


「お前も転職したのか?」


 そうだ、そうに違いない。

 あの魔王城を辞め、この平和な村にやってきて、平和に暮らしているのだ。


「仲間だな!」


「違います!」


 思い切り否定されてしまった。

 少し凹んだ。

 しょげていると、警官がカウンターの向こうに行って書架をよけた。今にも泣きだしそうな顔で縮こまっているゴブリンがそこにいた。


「困りますって。両替希望なので、手続きをお願いしますね」


「は、はぃ……」


 ゴブリンはカウンターに戻ってきて、副魔王はその正面の椅子に座った。


「退職金が振り込まれているはずなのだ。それを人間の国で使える貨幣に両替したい」


「か、かしこまりました。ええと、ええと、……まず、どちらの金融機関でございますか」


「金融機関……はて、どこであろうな。前はそんなのなくとも引き出せたのだが」


「ま、前と申しますと……? いつ頃……」


「うーん、よく覚えておらぬ。そうだな、振込先から調べられるか?」


「あ、登録されている機関であれば可能かもしれませんが……。どちらでしょうか?」


「大きな声では言えぬ」


「ひ、……ど、どこぉお……」


 ゴブリンは副魔王の一挙一動にいちいちおびえる。面白かった。

 正体が副魔王とは分からぬとも、魔族ゆえに、本能的になにかを感じ取り畏怖しているのかもしれない。


「ふむ、耳を貸せ」


 ビクビクしながら耳を差し出してくるゴブリンに、副魔王は口元に手を添え、そっと告げた。


「魔王城だ」


「ひ、ひぃいいいい! まおうじょうーーーー」


「さあ、調べろ」


「ひぃいいい、な、ないですうううう、魔王城とかないですうううう!」


「なんと。では送り主で調べろ」


「だ、だれぇ?」


「大きな声では言えぬ。耳を貸せ」


 ゴブリンは耳を寄せる。


「魔王だ」


「ひぃいいいいいいい! まおおおおおおおおおお」


「さあ調べろ」


「な、ないですうぅううう、まおうとかないですうううう」


「なんだと。では受け取り主で調べろ」


「な、なにぃい?」


「大きな声では言えぬ。耳を貸せ」


 ゴブリンは耳を寄せた。


「副魔王だ」


「な、ないですううううううう、ないですうう、ふくまおうとかないですううーーーーー」


「なんだと」


「もうやめてあげてください!」


 警官が腹を抑えながら叫んだ。涙を流しながら笑っている。


「それ以上やったら、銀行員さん死んじゃうから、死んじゃうから!」


 さも心配している風を装っているが、腹を抱えて爆笑している。しかも


「で、実際のところあるんすかね? 魔王と副魔王の口座って。銀行員さん、どうなの?」


 と面白そうに窓口に顔を突っ込んだ。


「ないです、ほんとにないです、ほんとにないですから助けて……」


 ゴブリンは泡を吹きながら消え入りそうな声で答えた。


「あ、ほんとだ。検索結果に該当なしって出てる。つーか、冗談にちゃんと付き合って調べてあげるとか優しすぎるでしょ。銀行員ってほんと真面目」


「冗談だったんですか? ほんとに? 本当ですか?」


 ゴブリンはぶるぶると震えている。


「いや、普通に考えて、無いでしょう。魔王と副魔王が銀行口座もってるってとこでギャグだって気づかなきゃ。それを敵対国で両替できるって、普通ないっしょ」


「……」


「……」


 いや、できる。

 副魔王も銀行員のゴブリンも、この平和な村で育った人間に対し、おそらく世界の闇を知らせるような事実を伝えることはしなかった。

 しかし、このような小さな村では両替は難しいのかもしれない。取り扱っている機関がそもそも少ない可能性がある。


「ふむ、冗談はさておいてだ、心当たりのある金融機関に問い合わせをしたい。音声連絡はできるか?」


「はい、こちらの金融機関でしたら連絡が取れます」


 そういってリストを見せてくれたのだが、見覚えのある名は載っていなかった。


「これ以外となりますと、ちょっと難しいですね」


「むむ、そうか。大きな街に行けばどうだろう?」


「大きな営業所であれば、もっと自由がききます」


 自由がきくということは、世界の金融機関とつながりがあるということだろう。魔族の国とも。


「わかった。無理を言ってすまない」


「いえ、お力になれず申し訳ございません」


「いや、ありがとう」


 副魔王は礼を言って銀行を出た。引き出しも両替もできないとなれば、無一文である。

 持ってきた金品は没収されてしまった、それを換金することはできない。


「ふーむ、どうしようか」



 副魔王は無一文という状況に生まれて初めて直面していた。なかなか面白い状況であった。

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