1.私が誰より愛したのは貴女

その日、海が泣いていた。


私達のアパートの、近所の砂浜。

この世界に数少ない海岸のひとつだけれど、今日は誰もいないようだ。私は車椅子を押して、そこに入る。


「ティオ、気分はどう?」


車輪が砂をからませて回りが重いが、気にせずゆっくりと進んでゆく。水平線から溢れたささやかな夕陽が、ティオのやわらかな金色の髪を照らし出し、ちらちらと光って見える。車椅子に腰掛けたティオの口から、真っ赤な舌がてろり、と垂れた。瞳はうつろに空を見つめている。


「今日は涼しいね。お散歩日和だ」


ティオわの髪に挿した、大きな輪っかのかんざしを撫でる。出会った時からつけていたものだ。なんでも思い出の品だそうで、外すのを見るのは、お風呂に入る時と、寝る時だけだ。ティオの豊かな金髪を三つ編みに結い上げて、これを挿すのは、今では私の日課。


——もっとも、全て私が悪いのだけれど。


ハンドルをを握る手に、つい力が籠る。歩みは止めない。

今日は浜を一周して帰ろう。


「エリー」


蚊が鳴くような、かぼそく震えた声がした。聞き間違いようもないほど、懐かしくて、大好きで、ずっと聞きたかったその声は。


「エリー」


私は動揺から思わず車椅子を蹴飛ばしてしまい、そのままバランスを失ってエリーを押し倒すような格好で倒れ込む。

ふたりきりの日没。夜が降りてくる。宵の明星が空の向こうで瞬き始める。


「どうして……?」


ティオの指が小刻みに震えている。私はそっと、そのやせ細った手もろとも、ティオを抱きしめた。砂が全身にまとわりつくのも、もう厭わない。溢れる想いに身を任せ、ぎゅうっと、もっと、どこまでも強く抱きしめる。

ティオの真っ白な瞳に光が差し、そこからぽろりとあたたかい涙が零れた。私は舐める。ティオの口がかすかに開く。私は耳をすませた。


「私は、貴女のことが大好きだから助けた。自分のちからがどういうものかだって、ちゃんと分かってた。それでも、自分の何かを失ってでも、あの日貴女を助けたかった。助けられないなら、死んだってよかったのよ」


私は呆然とする。ティオは続ける。


「なのに、今の貴女が、私のことで悲しんでしまうなら……」

「何、なんなの、ティオ!」


私は叫ぶ。ティオはそんな私の顔をじっと見すえた。


「私を、海に、流して。お願い」


ティオの瞳から、宿った光が失せる。震えていた指も、すぅと抜け落ちるように動かなくなる。絶えず流れていたあたたかい涙も、ガラス玉のようにころりと落ちた、ひと粒のそれきりになった。


「ねぇ、ティオ。ティオ。ティオ」


おぼろげにしていた息の音も、失われた。私はティオの胸に顔を押し付け、咽び泣くようにして、お腹の中にあった全てを吐き出した。誰も見る人はいない。気持ちが止まらない。


——感情は逆流、できないよ!


いつかティオが言っていた言葉を思い出す。私は涙も流れないまま、ただ嗚咽だけを口から溢れさせて、日が完全に沈み、月が私達を照らすまで、ティオにしがみついていた。夜も更け、もう帰ろうと起き上がった私は、ティオを抱え、波打ち際へと向う。満月の夜。潮が引いている。持っていたナイフでティオの髪を切り落とし、かんざしを取ると、残った身体はバラバラに切り裂いて、無造作に海に放り投げた。


「さよなら、ティオ」


二人で生きてきた今日までの、おもいおもい思い出を乗せて、ティオの残骸は波に攫われてゆく。時間がかかったが、私はその姿が掻き消えてしまうまで、眺めていた。


それからしばらくの時が過ぎて、考えた事。

ひとりで暮らし始めてやっと、気付いた事。

私達の紡いだ日々が残した、ただ一つ、確かなことは——愛されていた、ということだ。

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