第4話
翌日の美香は朝から一段と不機嫌だった。
原因は陰口ウォッチャーだ。
吹き込みは一見すると本音を言い合える優れた機能であるが……詰まるところ美香にとっては勝ち眼のない口喧嘩でしかないのだ。
罵倒すれば当然相手も反論してくる。加えて吹き込みは心が抱いた感情そのものを言葉にし、間髪入れずに剥き出しの本心が返ってくるため尚のこと厄介なのだ。
決して言い負かす事は不可能だというのに美香は意固地になって罵り合いを止めようとせず、最後は寝落ちという形で幕を下ろすことになった。
(もう最悪!思い出すだけでイライラする!)
授業中に昨夜のやり取りが頭を過ぎり美香は髪を掻き乱す。
だっとに騙された思いだった。気分が晴れるどころか腹が立つばかりで、なのに当の千夏は何事もない様子でけろりとしていて、それが余計に彼女を苛立たせていた。
今にも憤怒しかねない美香はその捌け口として放課後、清羅を校舎裏へ引っ張っていた。
「あいつばっかり幸せで!なんでこんな思いしなきゃならないの!」
身体を丸める清羅に鞄を投げつけ、見当違いの行き場に恨みの念を押し付ける美香。
何の解決にもならないことは本人も理解していた。それでも胸の
美香にとって気持ちを静める手段はこれしか知らないからだ。
「あんたも黙ってないで何とか言ってみなさいよ!」
声すら上げず為すがままの清羅を叱責する。
これまで彼女に対して何とも思わなかったというのに。
きっと黙って感情を伏せ続ける態度に強い憤りを覚えたのだろう。これほど激昂するにも拘わらず、アプリに頼るだけで千夏本人に何も言えずにいた自分自身と重ね合わせてしまったのかもしれない。
「美香ぁ」
そんな時、後ろから千夏の声がした。
「うるさいっ、邪魔しないで!」
「交代の時間だよ」
「そんなの関係ない」
「ねー美香ってばー」
「もうっ!放っとい――っきゃあ!」
振り返ろうとした瞬間、突如千夏に背中を突き飛ばされた。
「もう終わりなんだってば」
掌を擦り剥き、痛みで濡れた瞳には気怠げに自分を見つめる千夏が映っている。
「何がよ……何を言って……」
千夏を睨みつけ強がって見せる美香。だがその声は震えている。ただならぬ気配に心臓が早鐘を打つ。
「何がって……あたし達の関係がだよ」
千夏は足元にあったバケツを持ち上げ美香に中身をぶちまけた。
水道水を足した泥土だ。教室からわざわざ持ってきたのか生ゴミも混ざっている。
染みつくような寒さと異臭を全身に浴び、
「やっぱりあんた昨日のこと覚えてんじゃん!」
遂に千夏に噛みついた。
だっとの嘘つき!記憶に残らないとか言っといて……。
「どうせあいつともグルだったんでしょ!私のこと騙してたのね!」
「はあ?あいつって誰?」
「だっとよ!陰口とか言っといて結局通話やメッセしてただけなんでしょ!」
「何言ってんの?転んで頭でも打った?」
「だったら何でこんなことするのよ!」
「んー、なんとなく?」
「ふざけるなーっ!」
美香が千夏に飛び掛かる。
だが半歩反応が早かった千夏に蹴られて、再び地面に倒れ込む。
千夏と背後にいた佳奈実らはケラケラと美香を笑い、虐めを開始した。
「なんでこんな眼に合わなきゃなんないのよ。何も悪くないのに……私じゃなくて千夏が、みんなが……」
千夏達が去って行くと美香は報われない胸中を地面に吐露していた。
すると。
「ふふっ……あはは、アハハハハハ――」
突然、清羅が笑い出したのだ。
「笑うなっ!」
惨めな自分を嘲笑されたと怒りを露わにする美香。
「何様よ!なんでゴミなんかに笑われなきゃなんないのよ!」
「そのゴミに美香ちゃんもなったんだよ」
「馴れ馴れしく呼ばないで!あんたなんかと一緒に――」
「陰口ウォッチャー。使ったんだよね?」
時間が止まったのかと思った。
動かなくなった世界の中で自分の思考だけが目まぐるしく回転するように、美香は恐怖を感じた。
「なんで知ってるの?」
「悪口をいっぱい書いて喋って、吹き込んだ」
「なんで知ってるのかって聞いてるのよ!!」
美香は吼えた。
「あんたがどうして私の秘密を知ってるの!」
美香は威勢よく清羅に言葉をぶつけた。だがそれは弱さを見せまいとする虚勢でしかない。本心は長い髪で顔が隠れた清羅への恐怖と不安が募るばかりで、気を抜けば身体が震えだしてしまいそうなほどであった。
「そっか。本当に何も覚えてないんだね」
そんな美香に対して清羅は溜息をつくとふらふらと上体を起こしていく。
「中学からの付き合いだった事も……一番の親友だった事も……」
髪を掻き上げ、泥塗れな美香を見つめた。
清羅の表情は優しく遠い昔を思い出しているかのようだった。
美香ですら心を奪われそうになった。
だが続く言葉で瞬時に現実に引き戻される。
「私から潤くんを奪った事も……」
「えっ……?」
言葉の意味が分からなかった。幾度か反芻させるもやはり巧くいかない。
そんな時、美香のスマホが震えた。
「見てみなよ」と言う清羅の言葉。
美香は促されるままスマホを手に取る……だっとからだった。
「どう?楽しんでるかい?」
アプリを開くとだっとが話し掛けてきた。快活に。
「何が楽しんでる、よ。そんな訳ないじゃない。あんたのせいで私……わた、し……」
途端に涙が溢れ出した。
自分の身に起きている事なのに理解ができず膨らむ不安と、ようやく事情を知りかつ事の発端である相手を見つけたという安堵と怒りからのものだ。
「あんたがおかしなアプリ使わせるから……ひっく、千夏らに、陰口バラすから。こんな、こんな……」
「彼女たちは陰口なんて知らないよ」
「嘘よっ!昨日の事があったから私、こんな眼に合って――ぅあぁぁぁぁああん」
そこで美香は堪えきれず泣き出してしまった。これまで溜め込んできた想いを涙として声として一気に開放させる。
「なんでっ!どうして私ばっかり辛い思い――ゲホッゲホッ、しなきゃならないのっ!……潤と付き合ってたのは私なのに、ひっく……私は悪くないのに……なんで誰も味方してくれないのよっ!」
嗚咽を漏らし耳を刺すほどに喚き散らす。そんな美香を清羅は至極興味のない様子で眺める。
そしてだっとはにこやかに、この異様な空気を斬り捨てる。
「千夏達は本当に陰口の内容を知らないんだ。言ったでしょ、生の声をって。ボクは彼女たちの心の声を君に届けたのさ。陰口を心に直接吹き込み、そこから生まれた感情を言葉という形に変質させる。それが君に返信されてきたメッセージの正体。だから彼女たちには悪口を言われた記憶はないんだ」
「だったらどうしてこんな事になるのよっ!」
「心が覚えてるからさ。記憶に残らずとも想いは忘れない。恨み妬み怒り……負の感情はね、何処までいっても終わりがなくそして無くならないんだ。たとえ出来事を覚えてなくても心にできた疵はいつまで経っても治ることはない――ううん、覚えてないからこそ疵は深く根付いていく。そうして人間は痛みを鎮めたいが故にその原因を攻撃するんだ。理由も分からずにね」
それまで静かに聞いていた清羅が美香に尋ねる。
「どうして私を虐めるようになったか覚えてる?」
「それは……」
清羅が虐めの対象になった理由。
初めてアプリに触れたあの日、美香が気になったことだった。
彼氏だった潤、その潤を奪った千夏。理由があるからこそ名前を覚えているはずなのに……美香は清羅を虐めるようになった原因に心当たりがなかったのだ。
(虐めの発端は私だ。だけどその理由が分からない。それまで虐めなんてしたことなかったし、そもそも誰かに嫌がらせをするような陰湿な人間でもなかった……分からない。覚えていない)
「……なんとなく」
クラスが同じというだけで清羅とは接点がなかった。だがある日を境に現在の関係になっていたのだ。
明確な理由などない。今しがた千夏に言われたのと同じく、“なんとなく”美香も清羅を虐めの対象に選んだ……はずだ。
「そう、なんとなく……それが答えだよ美香ちゃん」
清羅は異様な程に落ち着いていた。
理由もなく日々疵付けられていたと知れば、憎しみは膨らめど納得などできるとは思えないのだが……。
清羅はポケットに手を入れるとスマホを取り出した。
土で汚れた指先で操作をし、美香に投げ渡す。
「どうして……」
スマホを受け取った美香は画面を見て驚いた。
そこにはすっかり見慣れたものとなった、あのアプリが表示されていたのだ。
「最初の履歴を見て」
美香は一度清羅を見て、スマホに視線を戻すと目元を拭い言われるがままに履歴の頭に遡っていく。
『今日、潤くんにフラれた。他に好きな子ができたって』
『相手は誰って聞いたら美香ちゃんだった。紹介なんてしなければ良かった』
『違う、そうじゃないよね。悪いのは美香ちゃんだ。私の彼氏だって知ってたのに付き合ったんだから。親友だって思ってたのに。信じてたのに。絶対に許せない』
そこに書かれていたのは陰口というよりも恨みの念に近いものだった。以降の履歴を読み返していくも、どれも美香に向けられた怨嗟の声ばかり。
「何よ、これ……」
美香は理解できずにいた。
履歴にあった最初の日付は今年の五月――清羅を虐め始める少し前のことだ。
つまり潤は美香と付き合う以前に清羅の彼氏であり、美香と清羅は親しい間柄だったという事を意味する。
「あり得ない」
清羅の事など美香はこれっぽっちも知らないのだ。なのに履歴には自分に関して事細かく綴られており、読み進めるほど彼女との関係が確かなものだと感じられてくる……。
「潤くんを取った罰だよ」清羅が言う。「次は美香ちゃんがこうなるんだから」
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