バレンタイン

 その日、イチヒメは小さな紙袋をたくさん持って、いつもより少し遅く帰宅した。

「ただいま、ああ疲れた」

 コートを着たまま、ボフンとソファに座る。

 ニタローはちらりと紙袋を見て、ははんデパートのバレンタインフェアだな、とアタリをつけた。

「デパート、混んでた?」

「もうすごい人。みんな冬で着ぶくれしてるのと、女の情念でワサワサしてる感じ」

「それ、買いすぎじゃない」

「会社での付き合いとかいろいろあんのよ。私はちゃんと相手に合わせたチョコをチョイスする気の利いた女なの」

「いったい全部でいくらかかってんの」

「秘密ですー」

「昔は毎年クッキーとか大量に手作りしてたじゃん」

「あれは中高生のときそういう文化だったから。会社に手作りのお菓子なんて持っていったらヤベー奴だと思われるわ」

 その境界線はどこなんだろう、とニタローは思った。

「ばあちゃんはさ、毎年でっかい板チョコ送ってきてたよな」

「そうそう、私とあんたに一枚ずつ。普通の板チョコだったけど、なんせ大きくて、毎日ちょっとずつ食べてた」

 その祖母も、亡くなって数年が経つ。

 イチヒメがニヤニヤして言った。

「そういえば、あんたが家族以外から初めてバレンタインにチョコもらってきたの、高校のときだったっけ。あんたなかなか食べないで、ずっと机の上に飾ってたでしょ。あれ結局食べたの?」

「ちゃんと食べたよ!ホワイトデーの直前くらいだったけど」

「思い出したわ、あんたホワイトデーに自分で手作りしたクッキー返したの」

 イチヒメはくっくっと背中を震わせて笑っている。

「しょーがねーだろ、部活帰りの買い食いとかで小遣いが残ってなかったんだから」

 それで、ニタローはイチヒメがバレンタインに作ったお菓子の材料の残りを使って、クッキーを作ったのである。ラッピング用の袋も、イチヒメの残りを拝借したのだった。

「それでさ、渡したときの相手の子の反応はどうだったのよ」

 イチヒメは笑いすぎてにじんだ涙を拭って言った。

「…まあ普通だったよ」

 ニタローの脳裏には、あのときの女子の困惑した顔が浮かんでいる。

「ふふ、まあ今年会社で誰かからチョコもらっても、手作りのクッキーじゃなくてちゃんと買ったの返しなさいよ」

「言われなくてもわかってるよ」

「どうだかね。あー、まだ化粧落としてない。めんどくさいけどお風呂はいろ」

 立ち上がったイチヒメは、ひょいと一つの紙袋をニタローに差し出した。

「はい、これあんたの」

 不意をつかれたニタローが、少し沈黙してからありがとうと言おうとしたとき、イチヒメがこう続けた。

「あ、半分は私が食べるから、全部食べないでよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る