2-3 女神とのキス
結論から言うと、俺たちは旅の仲間などではなかった。
もちろん、魔王討伐が目標でもないらしい。
「とうわけだけど……。本当に何も覚えてないの?」
無事辿り着いた神殿で、俺は剣士だと思っていた女に詰め寄られていた。
「もう説明しただろ。俺はここにはさっき来たばかりで……」
あまりの迫力に思わず目が泳ぐ。そのついでに建物の中を観察してみた。
一定の間隔を空けて並ぶいくつもの重厚な円柱は、ギリシャ神話に出てくる有名な神殿の作りと似ている。
……にも関わらず、柱と柱の間にガラスが張られているし、天井には古代ギリシャというより故エジプトっぽい文字が刻まれていた。
床なんて中世ヨーロッパの城みたいに真っ赤な絨毯が敷かれている。
色々ちぐはぐなのは、きっと夢を作り出した俺が世界史に疎いせいだろう。
この珍妙な神殿にはてっきり、神様に助けを求めにきたのかと思っていた。
でも違った。
「リオラミトルアルゼ、いけませんよ」
俺の襟首を掴んで柱に押しつけるリオラを、イナノエルタ――もう面倒だからエルでいいか。とにかく彼女が諌める。
「たとえ貴女だとしても、我らが最高神にそのような無礼な振る舞いは許されませんわ」
最高神。
そう、彼女は俺こそが神様だというのだ。
そして彼女らも剣士や僧侶ではなく、同じ神殿に住む女神らしい。
リオラは俺から手を離すと、悔しそうに唇をかんだ。
「こんなの、落ち着いていられる方がおかしいわよ……。記憶がないだなんて、絶対にあの生意気な小娘の仕業に決まってるじゃない! クルヤツァエリストラレナスにしてやられた!」
クルヤ?
またずいぶんと覚えにくい名前が出てきたな。しかしここで聞き返すと話がこじれそうなので黙っておく。
「そうですね。彼女に付き添いを任せたのはたしかに間違いだったかもしれません。でも今はそのことを悔やんでも仕方ないでしょう。シュヤララク様に事情を説明し、共に危機を脱する方法を考えなければ」
透き通るような白い手で奥にある玉座を指し示し、エルは妖艶な声を響かせた。
「ねえシュヤララク様。貴方はあの場所に座り、いつもオルラの平和を願っていたのですよ」
「……オルラ?」
「ええ。この神殿がある島の名前です。我ら十一の神々は最高神である貴方を筆頭に、ゴーツのような魔獣や悪しき存在から人間を守ってきました」
「そう。『約束された破滅』を知らされるまでは、ね」
忌々し気にリオラが吐き捨てる。知らない単語に首をかしげていると、不機嫌顔で黙りこくった彼女に変わってエルが答えた。
「約束された破滅とは、我々が期限付きの守り神だったことを知るきっかけになった、とある占い師の予言です」
「期限付き? 何だそりゃ」
そんな契約社員みたいな神様、聞いたことねーぞ。
「これまで数百の予言を的中させたその占い師によると、このオルラはいずれ消滅する運命にあるということでした。つまり、我ら神がオルラの民を守るのもその時までだと」
「何だそれ。神様なら島の消滅くらい簡単に阻止できるだろ」
俺の言葉を受けて、エルが寂しそうに笑う。
「人間たちの中には我々が何でもできる存在だと思っているものが多いようですが、実際は違います。人の心を操ったり、人間では歯の立たない敵と戦うことはたしかにできます。……けれど、運命に逆らうことはできないのです。人間であるはずの占い師を頼りにしたり、崩壊していく大地を前になすすべなく逃げていたことこそ、オルラの紳が全能ではないという証拠ですわ」
「はあ……」
まあ、言われてみればその通りかもしれない。
「そういやさっき『十一人の神』って言ってたけど、他の奴らはどうした?」
神殿の中に俺たち以外の姿はない。
俺が……シュヤララクが座っていたという玉座へ続く道の両脇に十個の椅子が向き合って並んでいるが、玉座に一番近いふたつの席を除いて埃が積もっていた。
まるで長い時間座られていないのを物語っているようだ。
まさか、皆死んじまったとか?
そんな予想をして、無神経な質問をしてしまったと後悔する。
しかしエルは『ああ、彼らでしたら』と、軽い調子で返してきた。
「オルラの民が絶滅したあと、すぐに各々選んだ別の時代に移っていったのでここにはいません」
よかった、死んでなかったのか。って、待て。
「別の時代に移るだって……?」
自分の夢なのに、話の展開があまりに唐突でついていけない。
「提案したのはアナタよ、シュヤララク」
エルの言葉をリオラが受け継ぐ。彼女の眉間にはまだしわが寄ったままで、その顔を見た俺はどうせロクな話じゃないだろうと察してさらに憂鬱になる。
「オルラの神として生まれたのだから、オルラと運命を共にして滅びるべきだと、誰もが自らの死を受け入れていたわ。そんな時、どっかの最高神様がとんでもないことを言い出したの。『皆、神の仕事も飽きただろう。いい機会だからそれぞれ好きな時代で人間として暮らしてみないか』って。……で、まあ面白そうだし、頂点に立つ存在がそう言うんだからありかもってことで意見がまとまって、人として生きることが決定したのよ」
「な……」
ありかもって、何だその軽いノリは。
いくらなんでも無責任すぎやしないか?
現実の世界にも神様がいたとして、自分たちが滅びようって時に、『あいつら死んだら第二の人生はじめようぜ☆』なんて言ってたら嫌だ。というかめちゃめちゃ腹立つ。本気で信仰していた人たちにとってはひどい裏切りだ。
お前ら少しは悲しめよ。もうちょっとオルラの民の絶滅を嘆いてやれよ!
どうやら言い出した張本人が俺らしいけど、考え方があまりにかけ離れすぎているため責めたくもなる。
もし今どうするか選べるなら、俺は自分を信じてくれた人間を見捨てるような真似は絶対にしない。
綺麗ごとかもしれないけど、自分の仕事を簡単に放り投げるような奴にだけはなりたくなかった。
「お前たちはそれでよかったのか?」
リオラとエルを順に見ると、彼女たちは気まずそうに目をそらした。
この顔、絶対に納得してないんだろうな。
「まあ正直、最初は『何馬鹿なこと言ってるの?』って思ったわ」
リオラがため息交じりに言った。
「でもシュヤララク。あたしはアナタを信じて、最終的には賛成したの」
彼女は頬を染めて、俺に熱っぽい視線を向けてくる。
「……愛してるから。どこまでもついて行くって決めたから。神としての使命を捨てることになろうとも、その酔狂な提案を受け入れることにしたのよ」
「え? あ、え? まさか俺たちって……」
深い関係なの?
そう聞こうとした時、今度はエルが俺の両頬に手を添えてきた。
「わたくしも同じですわ」
顔を近づけて、耳元で囁くように言う。
「お慕いする貴方が言うのならば、わたくしはどのような場所にだってお供いたします」
どういうことなんだ、この状況は。
同時に好意を向けてくるってことは、ふたりから片思いをされているのだろうか。
恋愛ゲーム中毒者の吉谷じゃあるまいし、ハーレム願望はないと思っていたんだがな。
こんな夢を見るとは俺も所詮は思春期の高校生だったらしい。
ほんの少し情けない気分になった時、ずどん、と足元から突き上げるような振動が伝わってきた。
凄まじい揺れに、まずエルが後ろ向きに転びかける。
「キャ……ッ」
彼女に服を捕まれた俺の身体も大きく傾いた。
「ぬおッ」
「何してるの! って、わ!」
そして激しい振動に負けたリオラもよろめき――。
気がついたら、エルを下敷きにして、上からリオラにのしかかられるといった見事なラブコメのワンシーンが出来上がっていた。
一度は美女に挟まれてみてぇな~、なんて吉谷は能天気に笑っていたが、実際にはそんなにいいものじゃない。
エルの豊満な胸に肺を圧迫されて苦しいし、背中にあたるリオラの鎧は固くて痛い。
「ぐ、ぐえ……」
ここを変わってくれよ吉谷。どうしてお前の夢じゃないんだ。
「いよいよ神殿も危なくなってきたみたいね……」
リオラのひとことで、夢の内容がただのラブコメじゃないことを思い出す。
そうだ。
これは非常にリアルな感覚を伴う、無駄に小難しい設定が生えまくったサバイバルゲームのようなものだ。
恐ろしい死の仮想体験をしたくなければ、大地の崩壊などというパニック映画さながらのピンチを脱しなければならない。
とりあえず乗っかったままのリオラをどかして、エルを引き起こした。
「おい、神殿は安全なんじゃないのか!?」
揺れは収まっていない。近くの柱に掴まりながら問いかける。
「オルラではこの神殿が一番安全だけど、崩壊からは逃れられないわ」
「だったらどうすりゃいいんだよ!?」
「時空を超えられる『境界線なき泉』を使って、ここから脱出するしかない!」
同じ柱にしがみつくリオラの返答に絶望感を覚える。
「それって俺が最初にここに来た時にあった噴水のことだよな? あれならもう……」
とっくにひび割れた大地の犠牲になっているはずだ。
「大丈夫です。きっと別の抜け道がありますわ。そして最高神シュヤララク、貴方ならその方法をご存じのはず!」
「いや、知らねーし」
そんな真顔で無茶ぶりされても困る。
「貴重な時間を割いてわざわざ説明したのよ! さっさと記憶取り戻して、脱出の方法教えなさいよ!」
こっちは逆ギレかよ。薄々気づいていたが、こいつら中々に自己中な性格をしている。
「思い出すも何も、最初から知らねえから! 俺は倉良柊矢であって、シュヤララクじゃないんだからな!!」
つい熱くなって怒鳴ると、ふたりの女神はあからさまにドン引きした表情を浮かべた。
え、何その反応。傷つくからやめろよ。
「あのシュヤララク様が子供のように喚くなんて……」
「信じられない。記憶が無いとはいえまるで別人ね」
――いや、実際別人なんですけど。
たとえシュヤララクがクールなキャラだったとしても、現実世界の俺は感情表現が豊かなどこにでもいる高校生だ。
その分、妹はあれだが。
「はあ……。こんなことなら境界線なき泉の水を少しでも汲んでくればよかった」
激しく揺れる床に視線を落として、リオラがぽつりとそんなことを呟いた。
「そうですわね。わたくしもシュヤララク様に期待しすぎていました」
エルも沈んだ声で同意する。
勝手に期待されて勝手にがっかりされる。こんな理不尽な状況、「なんかごめんな」と謝れるほど俺は大人じゃない。
かといってこの程度でふてくされるほど子供でもないので、打開策を考えるべく気になったことを聞いてみた。
「噴水の水が少しでもあったら時空移動が可能なのか?」
「いえ……。本来なら泉――噴水の受け皿にたまった水を、行先を思い浮かべながら覗き込む必要があります」
なるほど分からん。
無言で顔をしかめていると、リオラが苛立ったように説明を始めた。
「あの噴水、一番下の受け皿がやたらと大きな作りになっていたでしょ? 水面を眺めながら行先を強くイメージすることで、好きな場所へと繋がるの」
うーん?
「俺が見た時は底が真っ暗で何も見えなかったんだけど、特にどこへ行きたいとか考えてなかったからか?」
「そういうこと」
大きく頷くリオラ。
相変わらず地面は揺れている。柱と柱を繋ぐガラスのひとつが振動で割れた。
ひいっと悲鳴を上げる俺を何とも言えない表情で見つめながら、彼女は早口で続ける。
「あたしたちオルラ神の意識と、泉の水が持つ力が共鳴した時、どこにでも行ける『門』が生み出されるのよ。だから少しでも泉の水があれば、噴水自体がなくても共鳴を引き起こせるんじゃないかなと思ったのだけど……」
「何だよ、よく分かってないんじゃねーか。ふんわりしてんな」
「うるさいわね! 本当は境界線なき泉が無事なうちにここを去る予定だったんだし、噴水がない状態での移動方法なんて知らなくて当然でしょ」
「だったら何でこうなる前にさっさと逃げなかったんだ!」
もっともな疑問を投げかけると、リオラは勢いを無くして言った。
「アナタを待っていたに決まってるじゃない」
「え?」
「あたしたちを残して新天地へ偵察に向かったきり、まったく連絡がつかなくなったのよ、アナタ。本当はすぐに戻ってきて、連れて行ってくれるはずだったのに……。どこに行ったか分からない以上追いかけることもできないし、仕方ないから泉に向かって呼びかけていたってわけ。意識を送るだけなら、時代と場所が分からなくても、対象となる存在を強く思い浮かべるだけでできるから」
いじけたようなリオラの声を聞いて、彼女たちが「シュヤララクを信じて待つ」と言っていたことを思い出す。
「お前ら、それでずっと必死こいて『シュヤララク』のことを呼んでたのか? 迎えに来るのをひたすら待って」
もう一度彼女を見ると、こっちを睨んでいた。
鋭い目つきはこれまでと変わらないが、横にまっすぐ結んだ口が子供っぽさを醸し出しているせいで今はあまり怖いと感じない。
「おっしゃる通りですわ」
押し黙ったリオラの代わりにエルが答える。
これまで無表情のみが感情を隠せると思っていたが、笑顔でも可能だということを実感した。
場違いな微笑みは、ある意味で玲菜の能面以上に考えていることを俺に悟らせない。
ふふっ、とさらに目を細め、彼女はもう一度ゆっくりと口を開いた。
「何度呼んでも、ずーーーっと無視されていたのでもう無理なんじゃないかとあきらめそうになっていましたけど、最後の最後にちゃんと来てくれてよかったです」
訂正しよう。
こいつめちゃくちゃ分かりやすい。刺々しい口調が怒りをまったく隠しきれていない。
無理やり怒りを抑え込もうとする奴ほど、キレた時に大変だと聞いたことがある。
「あ、あの。俺、来たくて来たんじゃないですけど」
思わず敬語になってしまった。
「そんなはずありませんわ。貴方がここに辿りついた時、目の前に“境界線なき泉”があったでしょう? それは貴方が“境界線なき泉”を使ってオルラにやってきた証拠です。無意識のうちにわたくしたちの呼びかけに応じて帰ってきてくれたのですよ」
エルの声をかき消すように、一段と地響きが大きくなった。
「わ……っ」
残っていたガラスが一斉に割れ、いかにも頑丈そうな柱も次々に派手な音を立てて崩れていく。掴まっている柱を見上げると大きな亀裂が走っていた。
「ふたりとも離れて!」
リオラが叫ぶ。
崩れる柱から逃れるように、俺たちは部屋の中央へ移動した。全員で向き合うようにしてしゃがみ、同じポーズで頭を抱え込む。
こんな情けない三人組が、神様であってたまるものか。
「どうやらここまでのようね……。さようなら、シュヤララク。アナタと出会えてよかった。我が生涯に一片の悔いなしよ」
「おいこら辞世の句を詠むな。簡単にあきらめるんじゃねぇ! 頼む、お前からも何か言ってやってくれエル」
期待を込めてエルを見ると、悟ったような顔の彼女と目が合った。
「是非に及ばず……。これもわたくしに定められた運命なのでしょう」
お前もかよ!
「何なの? オルラの神ってどっかで聞いたような遺言残すのが決まりなの!? まったく、ネガティブになってる暇があるなら少しは解決法を考え…………あっ」
ふと、重要なことを思い出す。
「なあ。泉の水が少しでもあれば時空移動ができるかもしれないんだよな?」
「そうだけど。急にどうしたのよ」
「実は泉の水を飲んだんだが……。体内にあるというだけでは意味ないだろうか」
告げるなり、リオラとエルは同時に顔を上げ、
「神聖な水を飲むとかアナタ正気!?」
「警戒心がなさ過ぎます! 毒でもあったらどうするのです」
と、もの凄い勢いで責め立ててきた。
「し、知らなかったんだからしょうがねーだろ。水は本来飲むものであって時空移動の道具じゃないし! で、どうだ。使えそうか?」
ほんの短い沈黙のあと、
「まあやってみるだけやってみましょう」
覚悟を決めたようにエルが目を閉じた。たぶん、俺の中に流れている『境界線なき泉』の力と彼女の力を共鳴させようと試みているのだろう。
「アナタはもといた場所を強く思い浮かべて。シュヤララク」
リオラも瞑想を始めながら、催眠術師のように俺の意識をいざなう。
「どんな景色が見える? 匂いは? 肌に感じる気温は?」
言われるまま、日常の風景を思い描いた。
真っ先に頭に浮かんだのは、見慣れた自分の部屋。机のまわりは整頓されていて布団やカーテンからはほんのりファブリッシュの香りが漂ってくる。最近ちょっと寒いから、そろそろ毛布を追加した方がいいかもしれない。
そんなことを考えていると、身体に異変が現れた。
微弱な電気が身体中に走る。
全身をくすぐるような感覚に、たまらず身をよじった。
「ぷっくくく、ははは! やめっ」
「ちょっと、こんな時に何を笑っているの!」
目を瞑ったまま、額に青筋を一本立てるリオラ。
お怒りはごもっともだ。誰がどう見たって笑っていい状況じゃない。
天井からパラパラと破片が落ちてくる。わりと大きな瓦礫が頭を直撃しても俺の笑いは収まらなかった。
生理現象とは実に恐ろしいものである。
「わ、悪い……弱い電気みたいのがくすぐったくて……ぷはっ、ふははは」
「弱い電気?」
エルが反応した。
「刺激を感じているということは、体内に取り込んだ泉の水がわたくしたちの力に反応しているようですね」
「でも一向に『門』が現れる気配がないのはどうしてかしら」
「お前らの力とやらが弱いんじゃないか? もっと強くできねえのかよ……く、ははっ」
爆笑しながらさらなる刺激を求める自分が恐ろしい。どこの上級マゾだ。
すると思いついたように、エルが俺の肩に触れてきた。
「少しでも体を近づけたら、送る力を増幅できるかもしれません」
「なるほど!」
いい考えね、とリオラも右に倣う。
「どう? シュヤララク、何か変わった?」
「さっきよりも電気っぽいのが強くなった気がする」
少なくとも笑いがおさまる程度には変化があった。くすぐるような刺激が、ピリピリとした痛みに変わっている。
「効果はあるみたいですね。もう少し頑張ってみましょう」
「ええ」
両側から寄り添うように肩に縋られる状態が一分くらい続いただろうか。
「……う、もう限界ですわ!」
「あたしも……っ」
ふたりの顔は真っ赤に染まっていて、息がだんだんと荒くなっている。
「いいところまでは、いってると、思うんだけど……っ」
激しく肩を上下させ、青色の瞳にうっすらと涙で潤ませるといった痛々しい姿を前にしては、さすがに『まだまだ気合いが足りないんじゃねーの』みたいな軽口は叩けない。
「もっと近づく必要があるようですわね」
はあはあと息を切らせるエルが俺の頬に両手を添える。
その顔はやたらと真剣で、さっきまでの男を翻弄するような余裕のある笑みはすっかり消えていた。
「ちょっと、彼に何する気!」
「初心な貴女には決してできないことです」
血相を変えたリオラに向かって言い放つと、エルは俺に顔を近づけてきた。
「おい、ちょ……っ」
唇と唇が触れる直前、彼女は念を押すように囁く。
「貴方がいた場所をしっかり思い出してください。そして、今度こそわたくしたちを置いて行かないでください……約束ですよ、愛しいシュヤララク様」
もはや拒める雰囲気ではなかった。
ぎゅっと目を瞑って、もう一度現実の風景を頭に浮かべる。
こうなったらヤケクソだ!
そう、これは夢。
たかがキスのひとつやふたつで騒ぐ方が馬鹿らしい。男ならむしろ喜ぶべきシチュエーションだろう。
それに『俺のいた世界に向かう』とは、すなわち現実世界への移動であり、目が覚めるということに繋がるんじゃないだろうか?
よく分からないが、そういうことにしておこう。
次の瞬間――。
暖かくて柔らかいものが唇に触れた。
それから集中力を欠くような激しいキスがはじまる。
真っ白になりそうな頭を働かせて、必死に自分の部屋を思い出した。
瞼の向こう側が急に明るくなったのが分かった。
それを合図に、全身を流れる電気の刺激が強烈なものに変わる。
あまりの衝撃に意識が飛びそうになったが、どうにか耐えた。
何となくここで気絶したらダメな気がしたからだ。ただひたすらに自分の部屋を思い描く。
やがて眩しさが薄れていって、全身を襲った強烈な痛みも嘘のように消えた。
唇に触れていた感触も気がついたらなくなっている。
名残惜しいはずもない。
悪い夢から抜け出せたことにただただ安堵しながら、俺はゆっくりと目を開けた。
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