1-3 まさかの『お兄さま』!?

現在時刻、午後四時半。


 数時間前の優しい気持ちはどこか遠くに吹き飛んでいた。

先に家に帰っていた俺は、玲菜がリビングに入ってくるなり神妙な面持ちで口を開いた。


「玲菜。ちょっとそこに座れ」


 できるだけ低い声を心掛ける。いかに真剣かということを分からせるためだ。

 つい甘やかしてばかりだったが、今日こそはきちんと咎めなければいけない。

 何について咎めるだって? こいつのサボり癖についてだ。

 悩みを聞くはずが、どうして説教をはじめることになったのかというと、昼休みに玲菜のクラス担任から留年の危機を知らされたからである。

 校内放送で俺を職員室に呼び出した若い女教師は、疲れ切った顔でこう言った。


『玲菜さん、このままだと出席日数が足りなくなっちゃうわ。数学1と数学A、それから世界史A、あと化学と生物と物理と体育があと一回休んだらアウト。課題もやってこないから、救済措置もできないって先生方がおっしゃってる』


――国語系以外ほとんどイエローカードじゃねーか!


 いくらテストの結果が学年トップでも、決して優等生とは言えない玲菜が授業をサボっていることはよく耳にしていたが、まさかここまでひどい事態だとは思っていなかった。

 唖然とする俺に、先生は眼鏡のフレームを直しながら弱々しい口調で続けた。


『彼女あんな感じでしょう? だから私が何を言っても聞かなくて……。お兄さんから強く注意してくれないかしら?』


 いくら身内とはいえ生徒に指導を丸投げするのはどうかと思うのだが、はじめてクラスを受け持った経験の浅い教師に、玲菜の扱いは荷が重すぎたのだろう。

 顔の前で両手を合わせて可愛らしく頼み込まれては、頷くことしかできなかった。


 そして今に至るというわけである。


「座ればいいの? 分かった」


 畳まれた状態で床に積まれた洗濯物。その前で正座している俺を横目に、玲菜はソファに腰をかけてくつろぎはじめた。


「違う。そこじゃない」


 鞄から本を出して読もうとする玲菜を、指で示して自分の前に座らせる。

 洗濯物を挟んで、向かい合って正座する俺と玲菜。

 そして夕日に染まったリビングに響くカラスの声……。

 あれ、何かこの構図、夕飯の支度前に娘を叱る母親みたいじゃね?

 厳しい親父の一喝をイメージしてたはずなんだが、おかしいな。まあいいか。


「お前、授業サボりまくってるらしいな」


 気を取り直して本題に入る。


「そうだけど、何か問題あるの? 授業なんて受けなくても教科書読んだから全部頭に入ってるよ」


 こてん、と可愛らしく首を傾げてきやがった。悪びれる様子もねえな、こいつ。


「予習したところで授業に出席しないと意味がねーだろ」

「だってつまらないんだもん」


 つまらないときたか!

 授業がつまらないのは俺だって同じだが、単位が足りなくなるほどサボったりはしない。

 頭のいいバカとはこういう奴を言い表すんだろうな、と我が妹ながら呆れた。


「次休んだら留年だって先生が言ってたぞ」

「別にいいよ」

「ぬ……」


 こいつの高すぎる読解力が憎くてたまらなかった。

 もし教科書とか参考書をさらりと眺めただけで授業内容が理解できる才能がなかったら、少しでも知識を吸収しようと授業に出ていたかもしれないのに。


「留年したら、進学するにしても就職するにしても不利になるんだぞ。いいのか?」

「どうだっていいよ、そんなの」


 ため息交じりに言われて、怒りがふつふつと湧いてくる。

 舐めくさった態度に対してじゃない。何だか人生投げやりになっているように見えたからだ。

 誰だって可愛い妹には充実した日々を送って欲しいもんだろ?

 なのに、こいつは夢も希望もないみたいな顔で「どうでもいい」だなんて宣う。そのことが俺を無性にイライラさせたのである。


 このまま続けても感情的になりそうだし、いったん話を切り上げることにした。


「……分かった。もういい、勝手にしろ」


 予想以上に冷めきった声が出て、自分でも驚く。

 ハッとして玲菜を見やると、大きな瞳をさらに大きくして固まっていた。


「あ、いや」


 今のはまずい。あれじゃまるで本気で突き放したみたいな言い方だ。

 もちろんそんなつもりはなかったのだが、玲菜はひどくショックを受けたようだった。

 見開いたままの瞳に涙をためている。

 いつもの無表情からは想像できないほどの悲しそうな顔に、怒りを忘れて焦りを覚えた。


「ち、違うからな!? 今のはただ……」

「やっぱり、私のことが邪魔なんだ」

そんなことを呟いて、玲菜がゆらりと立ち上がる。

「はぁ? 何でそうなる!? 邪魔なわけねーだろ!」


 慌てて否定するも、いやいやと首を横に振って俺の話を聞こうともしない。


「嘘。いつだってそんな風に私を遠ざけてた」


 はらはらと零れ落ちる涙を、動揺するあまり拭ってやることもできなかった。


「遠ざけてたって、どういう意味だよ?」


 毎日一緒に学校行ったり、家ではあれこれ面倒見たり、うっとうしいくらいに構ってたじゃないか。

 何だか一人称もいつもと違うし変だぞ?


「やっぱり私のことが嫌いなんだ。……お兄様の、お兄様の馬鹿ぁっ!」


 震えた声で言うと、玲菜はリビングのドアを乱暴に開けて出ていった。


「へ?」


 ぽつんと残された俺の口から、間の抜けた音が漏れる。

 何て言った?

 あいつ今、俺のことお兄様とか言わなかったか?


「……………ん?」


 ん、んんんん!?


 どうなってんだ。

 めったに感情を見せないあいつが急に泣き出したと思ったら、今度はお兄様呼びだと!?

 もしかしてからかわれた?

 いや、冗談を言えるような奴ではないのは、俺が一番よく知っている。


「ただの聞き間違いだよな……はは」


 自分に言い聞かせるように呟いたものの、かつてない状況によっぽど混乱していたらしい。

 俺は畳んだ状態で積んである洗濯物をかごに入れると、タンスへと運ばず洗濯機の中に戻すという謎の行動に出た。

 心を落ち着けようとでもしたのか、水槽で泳ぐ熱帯魚を眺めるように、ドラム式洗濯機の中でぐるぐる回る洋服を意味もなく見つめる。

 ガタガタと唸る洗濯機の騒音が、だんだん『お兄様』に聞こえてきた。


 ガタンガタン、お兄様、お兄様、ガタン、お兄様、ガタンガタン、お兄様。ガタンお兄様――。


 ヤバい。このままじゃ頭がおかしくなりそうだ。落ち着け。ってか、ガタンお兄様って誰だよ? いいから落ち着け。あれ? 俺今落ち着けって二回言った?


 幻聴のせいで訳が分からなくなってきたぞ。そうだ、ひとまず洗濯機から離れよう。そうしよう。

 そう思ってリビングに戻ったのだが、気づいたら今度は一心不乱に掃除機をかけていた。


「…………って、何してんだ俺は!?」


 家事は俺にとって精神統一の手段だとでもいうのか。

 絶対に嫌だぞ、そんなくそダサい精神統一の方法なんて。

 よし決めた! 

 今度寺に行って座禅をしよう。

 胡坐をかいて瞑想とか、ちょっとかっこいいもんな。

 掃除機のスイッチをオフにして充電スタンドに戻す。静かになったリビングのソファに腰をおろし、両手で顔を覆った。


「はあ」


 深いため息をついてから顔を上げる。時計を見ると十八時近くになっていた。どうやら一時間以上も掃除機をかけていたらしい。

 自分のおかしな行動に突っ込みたいところは沢山あるが、今はいったん置いておこう。

 優先すべきはなのは玲菜のことだ。

 あいつはいったいどうしてしまったというのか。

 おかしくなった原因が、俺が発した冷たいひとことだというのはハッキリしている。

 そう、それは分かってるのだが……。


『勝手にしろ』


 たったそれだけの言葉で急に泣き出して、口調まで変になるなんて、いくらなんでも情緒不安定すぎやしないか?

 これはもう病気を疑うしかなさそうだ。


「玲菜が壊れてしまった……」


 そのままソファに倒れて込んで頭を抱え、


「あああああ、うそだろぉぉどうしよううう俺の玲菜がぁぁぁ」


 近所迷惑を忘れて思い切り叫んだ。


 どうやら俺も壊れたらしい。

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