喋る物
きゅう
喋る物
「おい、起きろ。朝だぞ」
耳元の目覚まし時計が喋った。
「起きろだってさ、会社遅刻しちゃうよ」
さらに枕も喋る。もう少し眠っていたかったけれど、周りがやかましくて仕方がない。
「あら、少し寝癖ができてるわよ」
洗面所で顔を洗おうとしたら、鏡が喋った。
「時間もなさそうだし、水でちょっと濡らせば大丈夫さ」
蛇口に言われるがまま、手の平を濡らし、髪型を整えた。
「おい、朝飯食ったら、ちゃんと歯磨けよ?」
歯ブラシが言った。もちろん、歯は大事だ。
「トーストだよな、今日は時間もないしトーストだよな」
トースターにパンをセットすると、トースターが黙った。
「今日は、俺の番だ。ネクタイの色は赤がいいなあ」
ワイシャツの言う通り、ネクタイに赤を合わせる。
「あら、嬉しいわ。またあなたと一緒なのね」
ワイシャツとネクタイがイチャイチャしだした。いつものことだ。
「おい、なにもつけないで食べるのか? 中の牛乳とジャムが文句を言っているぞ」
冷蔵庫に言われ、仕方なく牛乳とジャムを取り出した。彼らが嬉しそうに「わーい」と喜びの声を上げた。時間がない。
「おい、せめてシンクの中に置いていってくれよ。帰ったら洗い忘れないようにさ」
皿の抗議はもっともだったので従った。
「ちょっと待った、歯磨けって!」
急いで洗面所を横切ろうとすると、歯ブラシが叫んだ。しかし、時間がないのだ。仕方なく、歯ブラシと歯磨き粉を専用の容器にいれて、鞄に入れた。
「施錠確認、いってきまーす」
鍵の声に、家の中から「いってらっしゃーい」という声が聞こえてきた。
「えっほ、えっほ」
走る度に、靴がリズムを取っていた。
「ぼくはここだよー」
改札で定期を探していると、スーツのポケットから声が聞こえた。
「絶対置いて行かないでね」
電車内の網棚に置いた鞄が不安そうに呟いた。
いつものことだが、物はよく喋る。小学生の頃以来、彼らの声が聞こえるようになってからというもの、寂しく感じることはないけれど、時々鬱陶しくも感じる。それでもやはり彼らの声に助けられているのは事実だ。
それなりに混んでいる電車内に、一時間ほど揺られれば会社へ到着だ。少しぼーっとしてしまっても、腕時計が時刻を教えてくれるので、遅刻したことはない。今日もまた、いつも通りの生活が始まるのだ。
「ああ……」
どこからか溜息のような声がした。恐らく物の声だが、満員電車なので、出所が分からない。聞いたことのない低い声だったので、自分の物ではないが、他の人が身に着けている物は滅多に喋ることがないので、珍しいなと思った。
「やっと、今日が来た……」
うっとりと、そしてゆったりと語るその声に、僕は思わず興味をそそられた。他の人が反応をしていないところをみると、やはり誰かの私物が喋っているらしい。一体、彼は何をそこまで待ち望んでいるのだろう。
「やっと……、また人を殺せる……」
僕の心臓がドクンと大きく跳ねた。
「人間の肉は柔らかいからな……。楽しみだなあ」
僕は口元に手を当てたまま、そっと辺りを見回したが、スーツ姿のサラリーマン、主婦、子供、派手な化粧の女性、若い学生など、パッと見で怪しい人物は見つからなかった。
「ねえ、次で降車駅だよ。お願いだから置いて行かないでね」
鞄に言われ、焦る。あの言葉を無視していいのだろうか。
「時刻は八時三十分。大丈夫ギリギリ間に合うよ」
腕時計が言った。こんな時、誰かに相談できればいいのに、優柔不断な僕は困ってしまった。
電車が停車し、扉が開いた。鞄を手に取り、人と人の隙間を潜り抜けて扉の外に出た。扉が閉まりますというアナウンスが聞こえる。
「早く切りたいなあ……。楽しみだなあ」
扉が閉まる直前、またあの声が聞こえた。僕は途端に、息苦しさを感じた。
「どうしたの? 早く会社行かないと」
身に着けている自分の物が一斉に「はやく、はやく」と急かす。しかし、僕は彼らの声を無視して再び乗車した。
「次の駅で降りて、また戻ってきても十分の遅刻だ!」
焦ったように腕時計が叫んだ。他の物たちも動揺していた。
「あれ、この人なんで戻ってきたんだろう」
自分を取り囲む他の人の物たちが「なんで、どうして」と呟いた。その中で、やっぱり例の声が聞こえた。
「まずは首がいいなあ。あの血しぶきが堪らない」
それはまるで過去に経験があるかのように喋っていた。そうなると、この中の誰かが、まともな人間のふりをした殺人鬼ということになる。額から滝のような汗が流れた。
「大丈夫? たまにはハンカチを使ったらどう?」
ネクタイに言われ、鞄からハンカチを取り出して汗をぬぐった。
「あれー、トイレの後以外で久しぶりに活躍したかもー」
ハンカチの呑気な声が響く。なんとなく心が落ち着いた。
電車はまた停車した。普段、そこまで降りる人がいない駅だった。しかし、押し出されるようにして僕は外へ出た。目の前を五人の男女が通り過ぎる。その中の一人から声がした。
「もうちょっと……、もうちょっとの辛抱だ」
僕は二人の男性と、三人の女性の後ろ姿を見つめた。あの中の誰かが誰かを殺そうとしている。
「もうだめだ。今日はどうやっても二十分の遅刻だよ」
腕時計のため息が聞こえた。これまで遅刻なんてしたことも考えたこともなかったけれど、あんまり罪悪感も湧かなかった。
五人の後をつける。声の出所を探そうと思うけれど、それは中々喋らない。きっかけを作るしかないのか……。しかし……、僕の声が届くのだろうか。
「あ……、あうあ……」
失語症の僕は、上手く喋れなかった。母が自殺したあの日から、僕は言葉を出すことが出来なくなっていた。もしもあの時、最後に言った僕の言葉が母を殺したのだとしたら。
前を歩く男女はどんどん散り散りになっていく。僕は、自分の頬を思い切り叩いた。
「あ、ああ、あああうう」
口を開くけれど、声が出ない。どうやって声を出すのか忘れてしまったようだ。人が死ぬ。首を吊った母の姿が脳裏に浮かぶ。吐きそうになる。
「やっと喋る気になったんだ」
胸ポケットのペンが喋った。母の形見だった。
「お前は遺書を見るのが怖くてずっと読まずに仕舞い込んでいるが、俺は遺書の内容を知っている。だから、お前とお前の母親の死に関係がないことを知っている。心配するな。言いたいことがあるなら素直に口にだせ。大丈夫、お前ならできるよ」
すると、僕の身に着けていた物たちが一斉に「がんばれー!」と声援を送ってくれた。僕は一度深呼吸して叫んだ。
「ま、まて! ひ、ひとごろし!」
改札に続く階段に差し掛かっていた五人が何事かと一斉に振り返った。皆一様に、驚愕した表情を浮かべていた。変な奴が何か叫んでいるといった感じだ。
「あれ、なんでこいつ知ってるの?」
小柄な眼鏡男から声が聞こえた。僕は男を指差した。男は目を大きく見開いて、階段を駆けだした。僕は必死に後を追った。
「え、あの人、もしかして……」
追いかけている途中すれ違った女性から声が聞こえた。しかし、僕は無我夢中で階段を上った。改札でまごついている男に僕は抱きついて叫び声をあげた。男から何発か顔を殴られたが、離さなかった。
「おいおい、これじゃあ今日は人を切れないかもしれないじゃないか。そんなあ」
男の鞄から声が聞こえていた。やがて駅員がやってきて僕と男は駅事務所に連れて行かれた。結果的に、男は捕まった。鞄から異様な形をしたナイフが発見され、そしてさらに、男のストーカー被害に逢っていた女性が現れたからだった。その女性はあの時僕の声を聞いた五人のうちの一人だった。
警察の聴取など、色々と時間がとられたが、様々な出来事に興奮していてあっという間に過ぎた気分だった。駅事務所から出る時、ストーカー被害にあっていたという女の人から声をかけられた。
彼女は僕に深くお辞儀をした。
「もしかしたら殺されていたかもしれないと思うと……。命を救っていただいて、本当にありがとうございます」
「ぼ、僕なんか、声を聞いただけですから……」
いつの間にか普通に言葉が出ていた。そして、僕の周りがやけに静かになっていることに気付いた。腕時計を確認すると、会社には二時間の遅刻だ。しかし、腕時計はなにも教えてくれない。
その場で足踏みをしても、靴はリズムを刻まなかった。僕にはもう物の声が聞こえなかった。女性が頭にハテナマークを浮かべている。僕は苦笑してごまかした。
「今度お礼がしたいのですが、良ければお電話番号を教えていただけませんか?」
女性からの申し出に、僕は慌てふためいた。女性から紙を渡され、ペンを探した。ああ、そうだ胸ポケットにあった。僕はペンを取り出し、紙に番号を書いていく。物の言葉は聞こえなくなったが、ペンが今何を言っているのかは分かる。
「おい、もっと堂々とした筆圧で書いたらどうだ」
冷や汗を拭くため、ハンカチを取り出す。彼はこう言っているだろう。
「わーい、今日は何だか出番が多いぞー」
緊張で震える手をどうにか抑えながら、女性に紙を手渡した。すると、彼女が僕の胸元に手を置いて、ネクタイを直した。ネクタイはこう言っているだろう。
「あら、女性の手っていうのはネクタイの扱いが優しくていいわね」
彼女と僕は、それから少し喋って別れた。最後に彼女は笑いながら言った。
「物静かな方かと思ったのですが、意外にもおしゃべりなんですね」
手を振りながら、物静かという言葉にくすりと笑った。物は静かじゃないですよと言ったらおかしい人だと思われただろうか。
今日は会社を休んで、母親のお墓参りに行こう。そしたらちゃんと自分の口で謝ろうと思う。あの日、お母さんなんて嫌いだと言ってしまった事を。
喋る物 きゅう @welder
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