時速60kmで走る車から手を出すとおっぱいの感触と同じ

言霊遊

時速60kmで走る車から手を出すとおっぱいの感触と同じ


 まあ、良くある与太話だろうと最初は思っていた。俺が初めてその噂を聞いたのは、ロンドンのとあるバーだ。俺は身分を偽り、偽りのウィスキーを飲んでいた。いわゆる模造酒ってやつだ。いまや全世界で酒が禁止され、人々はアルコール風の無害な液体で疑似的に酔いを味わうしかない。アルコールが百害あって一利もないことが分かったのは22世紀のことだ。酒が与える内蔵へのデータが公開され、酒飲みの肝臓と健康的な人間の肝臓の標本が比較で出されるようになった。それを見て騒いだのはアルコールによって害を被った人たちだ。飲みの席で酒を強要された人、酔っ払いに殴られた人、飲酒運転で追突された人。酒豪の肝臓よりも悪く溜まったアルコールの害が噴出して、暴動が起きた。科学的に害しかないと分かっているものを野放しにする義理はもうこの時代にはなく、あっという間に酒は生活から姿を消した。その後、科学の力で安全に酔える模造酒が作られ、市場に出回るようになったというわけだ。俺が生まれるずっと前の話だ。だから俺にとってこのウィスキーは本当の酒だ。喉を通るこの熱さも、脳を揺さぶる震えも、例え本物と違ったとしても、俺はこれを酒と呼ぶ。誰がなんと言おうとだ。


 後ろから俺に近づく足音がした。咄嗟に、胸ポケットししまった銃に手を伸ばす。背後からの足音には、つい警戒してしまう。職業病だ。


「またそんなニセモノを飲んでるの」


 隣の席に女が座った。スラリとした細身の、それでいてつけるべきところは惜しげなくついている、若く美しい女だ。俺はゆっくりと銃から手を引き剥がした。


「もちろんだ。本物の酒なんてここにはないんだから」

「そう。でも一度ホンモノを飲んでみた方がいいわよ。それじゃあもう満足できなくなるから」


 女性が挑発的な笑みを浮かべる。もう何度も聞いた誘い文句だ。俺は知っている。この女が密かに酒を造っていることを。


「君は模造酒と実際の酒のデータを見たことがあるかい? 酒が与える体験を数値化したものさ。符合率は100%だ。君がニセモノに感じる物足りなさというのは幻想か、あるいは自身の肉体への損傷を何らかの快楽的なフィードバックとして感じているにすぎないんだよ。それこそニセモノさ」

「あら、アタシが内蔵を傷つけることに快楽を見出すマゾヒストだって言いたいの?」

「さあ、どうだろうね。でもこれだけははっきり言えるよ。安全であることは想像以上にありがたいことなんだよ。君には分からないだろうけどね」

「ふふ、つまらない人ね。アタシはスリルがある日常が好きよ」


 女は俺と同じ飲み物を注文した。彼女にとって退屈な一杯を。


「ねえ、スリルと言えばこんな噂を知ってる? 聖遺物の話」


 女が身を乗り出して囁く。俺は女の胸がグラスを倒さないようにサッと避難させた。


「この時代、何もかもが失われてしまっているよ」


 インターネットに一生情報が残ると言われた時代は過ぎ去った。新しくなっていく技術は、過去をどんどん置き去りにして進んだ。プログラミング言語は自ら自分をアップデートしていく。新しい言語は一年に数千生まれ、過去の言語は忘れ去られた。古代語を解読するのには石板がいるが、その石板が別種の古代語というメディアで生成されている場合はどうすればよいのか。人類に成す術はなかった。特に、第三次大戦の前の情報にアクセスすることは、ほぼ不可能だ。

 聖遺物とは、可読性を失ったインターネット情報のことを指す。まあ都市伝説みたいなものだ。それを手に入れたら大金が手に入るとか言われているが、実際にそれで儲けたやつを見たことがない。


「ふふふ。それはそうね。現在進行形で失われているものも多いわ。例えば、聖遺物を探そうとして命を失う、とかね」

「ははは。それも噂だろ?」

「さあどうかしら。少なくとも私は三人ほど名前を挙げられるわよ」


 俺は初めて女と目を合わせた。彼女は値踏みするように俺を見ている。


「何が言いたい?」

「女は噂話が好きなのよ。とびっきりアブナイ匂いのする噂がね」


 それは君だけだろう、という言葉は言わないでおく。


「それで?」

「その聖遺物はね、21世紀にあった俗説らしいの。言葉にすれば数十文字程度の。でもそれを探そうとした、あるいは見つけてしまった人間は、みんな命を落としている。知れば命を失う、呪いの言葉よ」

「知ると死ぬ言葉、か」

「どう? ゾクゾクしない? 俗説が、過去の都市伝説が、別の力を持った都市伝説になるの」

「……まさか俺にそれを探してほしい、なんて言わないよな。俺はただのコンサルタントだよ」

「ええ。別にそんなことは頼まないわ。ちょっとお喋りがしたくなっただけ。退屈なアナタに刺激的な話をね。じゃあアタシはこれで。お代、置いておくから」


 女は一口も飲んでいないグラスの横に紙幣を数枚置くと、俺の頬にキスをして店を出た。

 あの女のせいで、一人で飲む時間が台無しだ。俺は模造酒を一息に飲んでしまうと、彼女の置いていった紙束を手に立ち上がった。そうして、その枚数が多すぎることに気づく。紙幣の下に硬質の紙が敷かれていた。名刺が三枚。それはあの女が口にした人数と一致する。聖遺物を探そうとして帰らぬ人となった人数と。


「こちら003、頼んでいた調査はどうなった?」


 一週間後。俺は自宅のソファで機関と通信をしている。コード003、それが俺に与えられた識別番号だ。名前なんて贅沢なものはない。生産された順番、それが俺を俺たらしめる唯一の記号だった。ある優秀な諜報員のクローン、その三番目のサンプル。見た目も、機能も、性格も、何一つ変わらない兄弟たちの中で、俺が先に生まれたという理由でこうして町に出られる。危険な仕事と引き換えに。一番目と二番目は任務中に命を落とした。俺が死ねば4番目が仕事を引き継ぐだろう。ただ、それだけだ。


 任務の内容は様々だ。他国に潜入して情報を盗むこともあれば、テロを未然に防ぐために行動を起こすなどと、国のための任務が多い。だが今俺が取り組んでいるのは与えられた任務ではない。女から貰った名刺の名前。その人物の調査を機関に頼んだ。聖遺物の噂。呪われた言葉について個人的に調べてみようと思ったのだ。


「資料をまとめてありますので、こちらをご覧ください」


 オペレーターの声がイヤホンから聞こえた。俺はタブレット端末に表示された資料に目を通す。被害者は年齢も性別もバラバラな3人。

 タケダ・ヨシオはアジアの島国の生まれ。考古学者として旧インターネットの遺跡の解読に挑んでいた。ある日、とある掲示板のログを解析しようとプログラミング言語の構造を見ていた。その日の夜、タケダは首を吊って自殺した。これから仕事を始めようとする人間が、自殺するだろうか。結局動機は分からないまま、彼の死は数ある自殺のうちの一つとして片づけられた。

 アヴァ・オークランドはイギリスの研究者。自動でアップデートされ続けるプログラミング言語から一定の法則を見つけて、過去の姿を復元しようと試みる。その研究が一定の成果を上げようとした頃、ちょうど結婚式の翌日、彼女は自宅で薬物を服用して自殺した。幸せの絶頂にある人間が自ら命を絶つだろうか。明らかに自殺だったので、警察も踏み込んだ捜査は行わなかった。

 アダム・ヤオ。アフリカでトレジャーハンターを生業にしていた。ある日、古代の携帯型端末の中に過去の交流場として栄えたインターネットサイトのキャッシュが残っているのを発見。彼はそのサイトに目を通すが、文字は外国の言葉のようだった。彼は自分が愛用している携帯端末の翻訳機能を使用し、それを母国語に翻訳した。彼が何を見たのかを知る術はない。その夜、彼は交通事故で死んだ。古代の端末もろとも破壊され、その情報にアクセスすることはできない。翻訳機能のログはいくつものサーバーを経由するうちに消失したらしい。


 なるほど。確かに不自然なタイミングで人が死んでいる。それも、自殺や事故で。まるで過去をのぞき込んで、何かに魅入られたみたいに。


「馬鹿々々しい。呪いなんてあるわけがない」


 では、この一連の不審な死は何なのか。呪いでなければ、そこにいるのは人間だ。実体のある物理的な存在だ。


 とっかかりやすいのは、アヴァ・オークランドだろう。人間は朽ちて忘れられるが、研究は残る。俺はアヴァの研究の内容を現行インターネットで検索する。しかし、検索結果は0件。これは流石にやりすぎだ。まるで誰かが消し去ったみたいじゃないか。死を偽装し、情報を遮断する。これだけのことを個人ができるとは思えない。相手は組織だ。それも、かなり大きな。


「来客です」


 オペレーターがイヤホンから告げた。俺は腕時計を確認する。深夜2時。随分と遅い来客だ。ピザの配達はとっくに終わっている。この時間の来客は二種類。機関の手の者か、死神かだ。


 俺は拳銃を手に扉に近づく。扉の正面に立つ真似はしない。特殊な防弾扉だが、レーザー兵器は貫通してしまうだろう。


「はい」

「お届けものです」

「中身は酒だろうか」

「はい。300年モノの赤ワインです」


 300年もののワインなんて今の時代にあるわけがない。これは合言葉だ。俺に任務があることを知らせに、使者がやってきたらしい。赤は暗殺だから、これから誰かを殺すことになる。

 だが今日の俺は、扉を開ける気が起きなかった。使者が夜中に来ることは良くあることだ。なぜこうも気が進まないのか。俺は振り返り、テーブルの上に置かれたタブレット端末を見る。画面には、三人の死んだ現場の画像が表示されている。


 俺は覚悟を決めた。


「すまない。今日は帰ってくれないか。どうも調子が悪くて、誰にも会いたくないんだ」


 沈黙。直後、防弾扉が大きく歪んだ。合成金属の頑丈な扉がまるで紙屑みたいにくしゃくしゃにされ、吹き飛んだ。青年型のアンドロイドが部屋に入る。玄関脇の棚に赤ワインの入った木箱をそっと置く。彼はその棚に、タブレット型端末が置かれているのに気づく。そっと持ち上げ、画面を見る。003の声を再生し終えたタブレット端末が、青年型アンドロイドの姿を画面に映す。ピントを合わせようとする瞳とインカメラが同時にレンズを絞った。


「へえ、随分と上等なアンドロイドじゃないか。この瞳は確かPeRmeation社のものだな」


 自動走行する車の車内で、俺は携帯端末に送られたリアルタイム映像を見て呟く。アンドロイドは人類そっくりに作られていて、今や人間の生活に溶け込んでいる。しかし、彼らを見分ける術はある。例えば、彼らの眼球に使われているレンズの向こうには、機械的な回路が透けて見える。彼らは暗殺者のように、足音を絶対に立てないように設計されている。彼らには心臓の音がない。外見は人間そっくりだが、構造や精神は人間と全く違うニセモノだ。

 タブレットの映像が途切れた。きっと彼が破壊したに違いない。あの家にいたら、今頃俺は死体になっていただろう。俺の勘は良く当たるんだ。あるいは、経験から殺意を読み取れるようになっているのかもしれない。はて、アンドロイドが殺意を放つだろうか。多分できるのだと思う。ニセモノの俺だって、殺意ぐらい抱けるのだから。


「3人が使用していた端末のメーカーのリストを出してくれ」


 オペレーターに告げると、表示されるリスト。俺はその中から目的のものを見つけた。3人は共通して、PeRmeation社の情報端末を愛用していた。俺を殺しに来たアンドロイドも同じ会社のものだ。なんという偶然だろうか。さらに驚くべきことに、俺自身もPeRmeation社製なのだ。


PeRmeation社。三次大戦以後、急速に力をつけた大企業で、今や市民の生活の生命線といっても過言ではない。PeopleとRobotの生活への浸透をモットーに、医療分野から工業分野まで幅広い技術を保有している。製品は値が張るが、性能は折り紙付きだ。クローン技術は公にはされていない技術だが、機関のお墨付きなら一級品なのだろう。

 耳からイヤホンを外すと、窓から外に放り投げた。ついでにタブレットも投げ捨てる。一連の事件にPeRmeation社が絡んでいるなら、機関も無関係ではあるまい。俺は今からフリーの諜報員だ。俺は俺の為に仕事をこなす。そう思うと、自然と笑みが零れた。状況は最悪だが、気分は最高だ。さあ考えろ。これから俺はどうしたらいいか。


 重要なのは聖遺物だ。手に入れば、一気に優位に立てる。俺はエンジニアではないから、古代インターネットの情報を解読するのは不可能だ。だが、大企業が秘匿している情報にアクセスするのは得意分野だ。ワケの分からない古代語を読むよりもうんと難易度は下がる。

 サイドミラーを横目で確認する。追手はついていないようだ。それとも、もう着いてるのかもしれない。機関にも報告していない隠れ家があるが、既に誰かがくつろいでいる可能性は高い。

 なら、距離を詰めるべきだろう。相手の懐に潜っていれば、放たれた弾丸は俺を捉えることはできない。先手必勝。俺は自動運転を解除して、アクセルを踏み込んだ。行き先は殺人鬼の喉元だ。ブレーキを踏むつもりはない。

 


 老人は眼下の街を見る。今にも落ちてしまいそうな部屋のへりから。もちろんそこにはガラスが貼ってあるので、落ちることはない。今のところは。

 街は夜にも関わらず煌々と発光している。あの大戦が終わったとき、人々はこの光景を想像すらできなかった。それぐらい、何もかもが失われていた。人々はほとんどが死に絶え、技術を溜め込んだ電子の海は干上がった。たった数百年で、よくここまで復興できたものだと、老人は思う。

 バリバリとガラスが震えだす。老人が上を見る。一機のヘリが、このビルの上に滞空していた。そのヘリから、人が一人落ちてくる。ワイヤーをつたって。男は老人と同じ高さまで来ると、降下を終えたようだ。手に持った拳銃から銃弾が発射され、ガラスが吹き飛んだ。老人は吹き飛ばされる前に既に後退しており、ソファに腰掛けている。まるでそこが玄関になることを知っていたかのように。



 俺は目の前の老人に銃を突き付ける。もう百歳を超えていると噂される、PeRmeation社の社長、トーマス・ポーターは孫でも歓迎するかのように暖かい笑みを浮かべている。50歳程度が平均寿命のこの時代には、珍しく長寿だ。しかしその身体はまだ若さを備えている。彼の笑顔が、動作が、老いを感じさせない。


「やあ。003。元気にしてたかい?」

「ああ。誰かを殺してしまうくらいには元気だったよ」

「……すまない。でもこれは誰かがやらなければならないことなんだよ。君は選ばれたんだ」

「ああ、そうだ。女王陛下に忠誠を誓った。だが、お前は、お前たちは、女王陛下ではなかった。何の罪もない民を殺した」

「知恵の実をかじった者はもう罪人だ。楽園には居られないんだよ」

「俺もさっきもいできたところさ。虚空に実った知恵の実を。あれは、あの言葉の意味は、どういうことなんだ?」


 PeRmeation社のセキュリティを突破することは、そう難しくはなかった。まるで差し出されたみたいに、その言葉は俺の目の前に現れた。



 時速60kmで走る車から手を出すとおっぱいの感触と同じ。



 そう。PeRmeation社の最高機密、呪われし都市伝説の正体はこんな意味不明な文字列だった。たちの悪い冗談だと思った。勃ちの悪い老人の。でも、どうやらこれが正真正銘の最高機密らしい。俺はサーバー室で爆笑した。こんなもののために人が3人も死んだのか。そう思うと笑うしかなかった。


「ほう。それならもう試したのか。どうだったかな? 君を揺り動かした感情を、私に教えてくれないか。まあ言わなくても分かってはいるがね」


 トーマス・ポーターの居場所を調べて、俺はヘリを飛ばした。オートパイロットに目的地を入力し、ヘリが飛び立つ。速度は時速60km。俺はヘリから身を乗り出し、その手を大きく伸ばして、空気の感触を確かめた。初めに感じたのは違和感だった。想像していたものと違っていた。それは俺が知っているおっぱいの感触と似ても似つかない別物だったのだ。現実と都市伝説との乖離に俺は落胆した。だが、しばらくすると訳も分からず涙が溢れた。胸を満たすのは、故郷への思い。失ってしまった原風景。母の乳を吸って育った、在りもしない記憶。郷愁。日の照る草原の温もり。

 

 俺が黙っているのを見て、老人がまた口を開いた。


「少し昔話をしよう。今から二十年前の話だ。陸軍のとある青年が、走行する車両から手を出して、訳も分からず涙を流すという事例が報告された。仲間は彼が紛争地域に行くのに絶望したと思って、誰も声をかけなかった。しかし彼の胸の内は、懐かしい温もりで満ち溢れていた。居もしない母の姿を幻視し、見たこともない故郷の風景に胸を震わせた。無事に戦地から戻った彼はしばらくして、わが社を訪ねた。彼は打ち明けた。娼館で事に及んだ彼は、女性のおっぱいの感触に違和感を覚えた。何かが足りないのだ、と。その違和感は彼の頭の中に張り付いて、彼から性に対する情熱を奪い去ってしまった。結局彼は何もせずに娼館を出た。一過性のものなら、また来ればいい。今日は気が乗らなかっただけだ。そう言い聞かせて」


「彼は、どうなったんだ?」


「それ以降、彼の中からおっぱいの違和感が消え去ることはなかった。性処理用アンドロイドでも、人間でもダメだった。彼の中の違和感はやがて不信感に変わり、恐怖に変わった。この時既に、彼の生殖器は機能しなくなっていた。そこでわが社に相談に来たのだ。僕が感じたあの感触を再現した、性処理用のアンドロイドを作ってくれないか、と」


 俺は息をのんだ。全てが崩壊する音が聞こえる。その足音は俺の心音に似て、早足で近づいてくる。それでも聞かずにはいられない。


「それで、お前は作ってやったのか?」


 トーマスは声をあげて笑った。腹を抱え、足をバタバタと振り、子供のようにソファを転げまわった。


「作ってあげたか、だって? 無理だ、無理に決まっているだろう! 今の人類とアンドロイドを誰が作ったと思う? 私だよ! そりゃあ、おっぱいの感触が人間と全く同じアンドロイドが作れるわけだよ。アンドロイドが精巧なのではなく、現行人類が模造品なのだ! 彼は私に告げたのだ。お前の作った人類は出来損ないだと。むしろ、良くここまで持った方だ。人類は滅亡する。おっぱいの違和感によって」

「その話を信じろっていうのか?」

「信じるも何も事実だ。順を追って話してやろう。第三次大戦で生き残った人類は、たったの数十人しかいないのだ。たった数十人だぞ? それも、未開の土地に隠居していた老人ばかりだった。このままでは人類は絶滅する。そう思った私は使える時間の全てを人を作ることに費やすことに決めた。幸いなことに私は大学で人間の臓器を作る研究に従事していた。三次大戦前には、すでに人類は人を作れるレベルに到達していたのだ。ただ、倫理的な観点から、人を作ることは禁止されていた。私は奇跡的に無事だった研究室の設備を使って、人を生み出した。最初は人工子宮で産まれた彼らだったが、第二世代からは自分たちの手で子を産み、育てることができるようになった。欠点らしい欠点があるとすれば、寿命だけだ。大戦以前の人類は、人工的に作った臓器や細胞を自分のものと入れ替えることで、若さを保つことができた。新人類であるところの彼らには、その処置を施すことができなかったのだ。でもそれは、別に大した問題ではなかった。子を産み増やすことができれば、新人類はいずれその壁を超えるまで文明を築くはずだったからだ」

「でも、彼らは気づいてしまった。自分たちがニセモノであることに」

「ああ、そうだ。一度気づけば最後、二度と生殖機能は復活しない。まるで呪いだよ。まさかこんな形で終わりを迎えることになるとはね。人を作ることが禁止されていた理由が、やっと私にも理解できたよ」


 人類が失ってしまった21グラム。それは今やおっぱいと同義だ。手に入れようとすれば最後、ホンモノの眩しさに焼かれて灰になる。


「さあ、君はどうする? 私を殺して、偽りの楽園を終わらせるか?」


 トーマスがほほ笑む。諦めの表情だろうか。とても穏やかな笑みだ。


「……条件がある。このことを秘密にしておく代わりに、俺を自由にしろ」

「おままごとを続けるつもりなのか? 知ったからには戻れない。何もかもが空虚に見えてくる。全部ニセモノに見えるんだ。気が狂うぞ」

 俺は声を立てて笑った。

「いいや違う。俺はたった今、ホンモノになったんだ。これは相対的な話さ。あんたには分からないかもしれないけどな」

 俺は袖をめくり、腕時計を見せた。

「俺が死ねば、こいつがあの文字列をネットを通して世界中にばらまく。俺を殺そうなんて思わないことだな」

 俺は拳銃を投げ捨て、窓から飛び降りた。時速何kmで落下しているのかは分からないが、広げた手には自由の感触。世界が俺を受け入れてくれた気がした。


               ~~~~~~~



「マスター。いつものを頼む」


 いつものバーにて。俺は酒を頼んだ。ニセモノの酒だ。色も香りも、酔いも、ホンモノと寸分違わぬニセモノだ。でも俺はこれを酒と呼ぶ。誰がなんと言おうとだ。


「マスター、乾杯しよう」

「珍しいですね。いえ、お客さん、いつも一人で静かに飲んでいらっしゃるので」

「そうだな。まあ、人と飲むのもアリかもしれないと思ってね」

「ほう、そうですか。それは良い方向への変化と捉えてもよろしいのでしょうか」

「そうだな。方向への変化、かな」

「では、変化を歓迎して。乾杯」

 グラスが小気味良い音を立ててぶつかった。俺は酒の熱さを喉に感じる。後ろから近づく足音が聞こえた。俺は両手をテーブルに置いたまま振り返った。

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時速60kmで走る車から手を出すとおっぱいの感触と同じ 言霊遊 @iurei_yu

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