その2

○静岡県下田市 下田港


 特務艇はしだてが入港した翌日の早朝、07マルナナ42ヨンフタ(午前七時四十二分)。

 雲の量は多いのだが厚さはないようでやや明るく、風もややあるといった程度で、下田港は艦艇公開には支障がない天候である。

 ただ、周囲ではそういった事とは関係なく、いつものようにりょうから戻ってきた漁船が魚を次々に水揚げをしていたり、海上保安庁の巡視艇【PC107いずなみ】が、パトロールのためなのかは定かではないが、港外へと出航している様子も見える。

 そんな港の一角に、一台の車両が停車する。

 車両の後部には『静地本』と書かれ、ナンバープレートも普段見かけるような、平仮名1文字と2桁ー2桁の数字ではなく、『2桁―4桁』のみの表記になっている。

 これらの意味は、『静地本』は静岡地方協力本部を表し、『2桁―4桁』は自衛隊が所有している車両の登録番号で、これは一部の車両を除いて、10式戦車や96式装輪装甲車などのように直接車体に書かれている番号と同じである。

「到着するのが、少し早かったようなのじゃ」

 降りてきた駿河は、そう言いながらはしだてのメインマストを見上げる。

『時刻整合、1分前』

 時刻0744になった時、周囲に配慮してかやや小さな音量で、はしだての艇内外に放送がかかる。

 時刻整合とは、艦艇内の時計や隊員達が着用している腕時計等の時間を合わせる事で、艦艇内の時計を統一した時刻にして、全員の行動がきちんと合わせられるようにするだけでなく、万が一時計が故障していた場合の早期発見にも繋がるため、この時刻整合は特務艇はしだてや海上自衛隊だけではないのだが、とても大切な行動なのである。

 駿河を降ろした車両は少し離れた駐車スペースに移動して止まると、静岡地本の帽子を被った准陸尉と3等陸曹が降りてきて、そのまま駿河の元へ歩いてくる。

「まだ本部や伊藤地域事務所の人達も来てないようですけど、我々の到着はこの時間で良かったのですか?」

 静岡募集案内所副所長である准陸尉からの問い掛けに、駿河は笑顔で「副所長、大丈夫なのじゃ!問題ないのじゃ!」と、どこかで聞いたことがありそうで無いような言い回しで返答する。

『時刻整合15秒前』

 そこへ“はしだて”から再び放送が聞こえると、駿河は腕時計をすぐさま確認し、それを見た副所長と3等陸曹も、慌てて腕時計を確認する。

『5秒前……用意、時間。07マルナナ45ヨンゴォ

 それぞれ腕時計の時刻整合を終えたのか、駿河達は顔を上げると近くの自動販売機まで移動して、各々ジュースやコーヒーを買ってベンチに座る。

 駿河は軽くジュースをあおると一息つけて、この後の予定を話し始める。

08マルハチ00マルマル、自衛艦旗掲揚の時刻を過ぎた後の予定を話しするのじゃ。伊東地域事務所の先行組は11ヒトヒト00マルマル、本部長や募集班と伊東の本隊は12ヒトフタ15ヒトゴォに来る予定なのじゃ。そこに小官達も合流して、準備を手伝うのじゃ」

「早くて11ヒトヒト00マルマル、本隊が12ヒトニィ15ヒトゴォですか?それまで2から3時間ありますが、その間、我々はどうする予定なのですか?」

 3等陸曹の質問に、駿河は自身から見て右横に位置するはしだてを指差す。

08マルハチ30サンマルから、はしだての見学なのじゃ。早くに来たのは、東松原2尉達と被らないように事前見学したかったからなのじゃ。大所帯でぞろぞろと事前見学だと、見たいところも見られないのじゃ」

 准陸尉と3等陸曹は駿河の指差す方を見てから、彼女の方へと視線を戻す。

「という事は駿河1尉?自由に見て回りたいから早く来た訳ですか?」

 准陸尉の言葉に駿河が笑顔で肯定すると、准陸尉と3等陸曹は視線を合わせて呆れたような表情を浮かべる。

「それだけでは無いのじゃ。予め見学ルートを把握しておけば、自衛隊志望者さん達にどこが見所だったり特別公開の部分かも説明出来て、もっと興味も持ってもらえるかもしれないのじゃ。その事は昨日、東松原2尉とも打ち合わせ済みなのじゃ!」

 得意気に語った駿河は残ったジュースを飲み干すと、缶用のゴミ箱に入れて背伸びをする。

『自衛艦旗揚げ方5分前。課業始め5分前』

“はしだて”の艦内放送から聞こえた『自衛艦旗揚げ方』とは、艦尾の旗竿に自衛艦旗を、艦首の旗竿に日本国旗の日章旗を掲げる事で、海上自衛隊の艦艇は港に入港中の午前八時に旗を掲揚する。

 なお海上自衛隊の陸上施設も、艦艇同様に0800に掲揚される。

 それと同時に聞こえた『課業始め』とは、一般の会社でいう業務開始の時間でもある。

 そのため、このような放送がされるのである。

 特務艇はしだてから流された艦内放送が耳に入ると、3人はそれぞれ立ち上がり、駿河を先頭に特務艇はしだての方へと向かう。

 近くまで来た駿河は特務艇はしだての01甲板であるプロムナードデッキを見上げると、常装冬服姿の乗員達が整列している姿が上半身だけだが見えている。

「あと1分程で10秒前なのじゃ」

 桟橋に到着した駿河は、自分の腕時計を見て時間を確認すると、後部に備え付けられた旗竿に正対して休めの姿勢をとる。

 副所長と3等陸曹も駿河と同様に自衛艦旗へと正対し、特務艇はしだての乗員達も、右向け右で艦尾側の旗竿に正対すると休めの姿勢をとっている。

『10秒前』

 艦内放送と同時にラッパが鳴り響き、はしだての乗員と桟橋の駿河達も不動の姿勢をとる。

 不動の姿勢とは、一般で言う所の“気をつけの姿勢”の事で、先程のラッパ譜“気をつけ”が流れるとそれに合わせて号令がかかり、自衛隊員達は姿勢を正す事になっている。

『時間』

「「敬礼!」」

 08マルハチ00マルマル、日本時間午前八時〇〇分。

 特務艇はしだての艦内放送が時刻を知らせると同時に、01甲板のプロムナードデッキからの号令と、駿河の号令の声が同時に重なり、ラッパ譜“君が代”が演奏される。

 挙手敬礼する自衛隊員達が見守る中、艦尾の旗竿に自衛艦旗、同時に艦首の旗竿に日本の国旗である日章旗が掲げられていく。

 ラッパ譜“君が代”の演奏が終わると、『かかれ』と艦内に放送され、ラッパ譜“かかれ”も演奏されて、挙手敬礼を終えた乗員達は各分隊ごとに別れて朝礼を始めている。

 駿河達も行動予定等を確認、と言っても先程話をしてしまったため、簡単に再確認をするだけにとどめ、午前八時三十分まで待機することになった。

 ふと、カメラのシャッター音に気付いた駿河達が背後を見ると、無帽姿の根山が撮影している姿に気付く。

 根山も駿河達が自分の方を見ているのに気付くと、彼女達に近付いて十度の敬礼を行う。

 互いに挨拶を終えると、駿河達は雑談を楽しそうに交わす。

「横須賀だけでなく、呉と佐世保と阪神基地阪基にも行っているとは驚いたのじゃ!」

「最近までは栃木地本にいたので、休みの日に自主的に横監(横須賀地方総監部)や観音崎から艦艇などを撮影練習していたのですよ。それから近々舞鶴と、夏には大湊にも再訪問する予定を立てているのですよ」

「それはいいのじゃ!ぜひ、海自5大基地を制覇するのじゃ!って、再訪問なのじゃ!?」

「既に何度も行っておりましてな。訪問回数が多いのは横須賀、呉、佐世保なのですよ」

「根山2曹、貴官は本当に航空自衛官なのじゃ?」

「よく周りからも言われてましてな。もう一度身分証をお見せした方がよろしいですかな?」

「そ、それは大丈夫なのじゃ!」

 駿河と根山達が会話をしていると、アキラが根山とは違うメーカーの一眼レフカメラを両手で持ちながら、彼女達の方へと近付いてくる。

「おはようございます、駿河1等海尉!今日はよろしくお願いします!」

「アキラ君、おはようなのじゃ!それにしても随分と気が早いようなのじゃ。今日の公開は十三時からと、伝えたと思ったのじゃ」

「時間は聞いていました!でも、どうしても“はしだて”を一眼レフで撮影したくて、父から借りて早めに来たんです!それに、今日ここに向かって来ている小説家さんにも、今のはしだての様子を早く教えてあげようと思ったんです!」

 根山は少し興奮気味に駿河と話すアキラを見て、何か考えるような素振りを見せる。

「小説家さん……?」

 そう、小さく呟いた根山の声に駿河は気がついたのか、表情に疑問を浮かべて根山を見やる。

「根山2曹、どうしたのじゃ?何か言ったように聞こえたのじゃ」

「ああ、いえ、ちょっと考え事をしておりましたな。失礼しました、駿河1尉」

 そう言うと根山は、この後どうするのかとアキラに訪ねる。

「寝姿山から撮影出来ると呟きサイトで見たので、登って撮影しようかと思ってました」

 すると根山は自分の一眼レフのスイッチを入れると、昨日撮影した画像を呼び出してアキラに見せる。

「多分自分の呟きを見てだと思うのですけど、今停泊しているバースだと、この写真のように木の枝等が邪魔をして艦尾部分しか撮影が出来ないのでしてな。」

「これは予想外でした。……他に撮影ポイント、あるじゃろか?」

 根山の写真を見て、アキラは表情を曇らせて寝姿山の方を見上げる。

 駿河は思案するように目を瞑っていたが、目をあけると根山達の背後に停泊している、ある一隻の船に注目する。

「そうじゃ!そこの遊覧船から“はしだて”を撮影するのはどうなのじゃ?海から“はしだて”の左舷ひだりげんが撮影出来ると思うのじゃ!」

 駿河は遊覧船サスケハナの方を指さすと、根山とアキラも注目する。

「ここも呉みたいに、港めぐりの船があるんですね!乗ってみようかな!?」

「自分も、駿河1尉の御提案に乗らせていただこうと思います。巡視艇の“しきね”や、民間の“フェリーあぜりあ”も、少々気になっていましたからな」

 そう言いながら根山が駿河に向き直ると、駿河の方は少し申し訳無さそうな表情をしている。

 根山が疑問に思うと、駿河は真剣な表情で彼に対して正対する。

「根山2等空曹、お願いがあるのじゃ。プライベートで来ているのに、こちらの勝手なお願いで申し訳ないのじゃが、船上から撮影した“はしだて”の撮影データを、広報用に静岡地本へ提供してもらえると、その、助かるのじゃ」

 少し躊躇いを見せながらも根山へそう言うと、彼は駿河へ快く提供に応じた。

「ありがとうなのじゃ!とても助かるのじゃ!」

「以前、別の地本さんのイベントでも同様の事がありましたから、こういった撮影時は、提供用に記録媒体の予備をよく持ち歩いているのですよ」

 そしてそれ以外に、前日撮影した画像データのうちSNS等への未発表の分のデータについても、写りの良いデータを提供すると根山は言い添えた。

「それじゃあ、アキラ君。少々時間はありますが、我々は先にサスケハナからの撮影を、楽しむとしましょうかな?」

「は、はい!よろしくお願いします、根山さん!」

 根山とアキラは駿河達に一礼すると、遊覧船のチケット売り場の方へと、アキラのカメラに付けている広角レンズや、二人が持ってきている望遠レンズの話をしながら歩いていった。

「さて、時間は……ちょうど08マルハチ30サンマルなのじゃ。二人とも、ついてくるのじゃ!」

 駿河を先頭に“はしだて”の舷梯の近くまで来ると、足を止めて二人の方へ振り返る。

「さて、清水港に来た“しらせ”の時に教えたから、自衛艦艇乗艦時の所作は覚えていると思うのじゃ。副所長、どうなのじゃ?」

「はい、覚えています。舷梯げんていの中央付近で自衛艦旗へ敬礼してから舷門当直へ挨拶して乗艦し、退艦時は逆に舷門当直に挨拶してから舷梯中央付近で自衛艦旗へ敬礼して降りる、でしたね?」

 艦艇公開において一般の見学者はあまり気にも止めずにそのまま乗退艦する事が多いのだが、礼儀としては副所長の言うとおりであり、これは自衛艦艇だけでなく他国の軍艦艇に対しても同様である。

「その通りなのじゃ!それでは早速、はしだてに乗艦するのじゃ!」

 駿河を先頭に、副所長、3等陸曹の順番で舷梯を渡り始める。

 中央まで来ると、駿河は足を止めて自衛艦旗に対して挙手敬礼し、副所長達も順番に中央で挙手敬礼した。

 終えて歩みを進めると、舷門当直にも挙手敬礼して三人は乗艦していく。

 すると艇内から駿河と同じ常装冬服姿の1等海尉の女性が扉を開けて出てくると、副所長と3等陸曹は即座に挙手敬礼し、出て来た1等海尉は駿河へ挙手敬礼して、駿河が答礼を行った。

「駿河1尉、おはようございます。昨日は直ぐに気付かず、失礼いたしましたわね?」

 敬礼を終えて直ぐにそう言った1等海尉の女性は、駿河へ正対すると制帽を脱いで頭を下げ、謝罪の意を示した。

「気にしなくて大丈夫なのじゃ!全然問題は無かったのじゃ!それより貴官は何方どなたなのじゃ?」

わたくしは、横須賀警備隊の大江山おおえやま郁野いくのと申しますの。よろしくお願いいたしますわね、駿河1尉?」

 頭を上げて制帽を被り直した大江山は、そう自己紹介すると、もう一度挙手敬礼する。

「こちらこそよろしくお願いするのじゃ!」

 答礼した駿河は、背後に控えていた副所長と3等陸曹を紹介すると雑談を始めた。

「大江山1尉は、随分と古風な話し方をするのじゃ。少し珍しいのじゃ」

「普段はこの話し方ですの。駿河1尉も、少し特徴的な話し方をされますのね?」

「小官も大江山1尉と同じように、普段からこのような話し方なのじゃ!そう言えばこの前、船越地区に来た“やまぎり”に小官の知り合いが……」

 ほのぼのとした雰囲気で駿河と大江山の雑談が進んでいたのだが、会話が途切れたタイミングで副所長が小声で駿河に耳打ちをしてきた。

「駿河1尉、お話が弾んでいる所申し訳ありません。そろそろ公開場所の確認をされた方が、よろしいかと思うのですが……」

 言われて時計を見ると、もうすぐ午前八時四十五分になろうとしていて、十五分近くも駿河は大江山と雑談していた事になる。

「あら?もう、こんな時間ですの?申し訳ございませんけれども、わたくし、今から十五分後に用事が御座いますの。艦橋まででしたら御案内いたしますが、いかがなさいますかしら?」

「大江山1尉がよければ、是非よろしくお願いするのじゃ!」

 大江山は自分が出て来た扉を大きく開けると、三人を艇内へと招き入れる。

 四人は扉から中へ入ると、そこから一番近い、七十度はあろうかという角度の階段と言うよりは梯子はしごと言った方がよさそうである“ラッタル”まで来ると、駿河はその横の壁に掛かった一枚の写真と、一枚の絵に目を留める。

「これは特務艇はしだてを空から撮影した写真、それから正面から見た所を描いた絵画なのじゃ。絵画の方は忠実に描かれていて、とても見事なのじゃ!」

「駿河1尉の言うとおり、とても細かいところまで描かれていますね」

「こちらの絵画は、寄贈されたものですの。わたくしのお気に入りですのよ?」

 駿河と副所長が感心していると、3等陸曹が絵を指差して駿河に質問する。

「駿河1尉、この絵の四枚の旗はなんでしょうか?」

 副所長も、絵画の“はしだて”マスト右舷側に掲げられているその旗を見ると、首を傾げる。

「確か文字を表していたと思ったが……駿河1尉、これは4枚ですから、以前聞いた航海の安全を祈るような意味の組み合わせではないですよね?」

 困ったような表情の副所長を見てから、駿河に微笑みかけた大江山は「お分かりになりまして?」と、問い掛ける。

 駿河は絵から視線を外さずに、一番上の旗を指差す。

「副所長の言った航海の安全、『ご安航を』を意味するのは【ユニフォームウィスキー】の国際信号旗の組み合わせなのじゃ。けれども、この絵の一番上の国際信号旗はジュリエットなのじゃ」

 駿河の言う「ジュリエット」とは、無線等での聞き間違いを防止するために使われる“フォネティックコード”又は“欧文通話表”での『ジェイ』の表現の仕方で、他に『アルファブラボーチャーリー……』といった具合に割り振られている。

 次に駿河は二番目の旗を指差すと、大江山に向かって不敵な笑みをこぼしながら続けて答える。

「次はシエラ、そしてオスカー、最後にケベックなのじゃ。これは特務艇“はしだて”のコールサイン、信号符字の“JSOQ”の事なのじゃ!」

 どうだと言わんばかりの表情をした駿河に、大江山は拍手を贈る。

「駿河1尉には、これは簡単すぎた問題でしたわね?」

 それを聞いて、副所長と3等陸曹も駿河へ拍手を送った。

「いやあ、なんか照れてしまうのじゃ!」

 頬を少し赤く染めて頭に手を当てると、駿河は照れ隠しなのか笑顔を浮かべている。

 そこへ下からラッタルを登ってきた、給養員の女性1士が声をかけてくる。

「あれ?大江山1尉、お時間は大丈夫ですか?」

 大江山は給養員の言葉に、はっとした表情を浮かべ、腕時計を急いで確認すると目を見開く。

「あらまあ!もうそろそろ、行かないといけない時間ですわ!駿河1尉、大変申し訳ありませんけれども、わたくしはここで失礼しなければなりませんの。大して案内も出来ず本当に申し訳ありません」

「小官達の事は気にしなくて良いのじゃ!それより大江山1尉は、用事を優先させた方が良いのじゃ!」

 大江山は給養員に艦橋まで案内するよう指示を出すと、駿河へ挙手敬礼してから通路の奥へと歩いていった。

 引き継いだ給養員は駿河達を艦橋まで案内すると、一番近くにいた航海員で2等海曹の男性に引き継いで、下へと降りていった。

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