第3話 第2昼

「ハルル、何してんの、もう遅刻するよ」

「まってぇー」

情けない声で鮫島ハルルがようやく間に合う。

これ以上、時間待ち合わせが遅れるなら容赦なく置いていこうと、考えていたところだった。

どうも彼女はここのところ毎日、登校時間で遅れ気味である。

彼女は同級生だ。


「あ、朝の挨拶を間違えた。ちょ、ちょ、やり直し」

「どうぞ」

朝の挨拶、やり直し。

「たいまいまいまーい。タイマイを崇める伝統的な挨拶だよ。知らないの?」

まだ何も質問してないけど。

「眠そうね」

「え、今のセリフで寝不足なのが分かるの。どういう超能力?」

「いえ、なんとなく」

「昨日はですねぇ。ちょっとあれあのあれ、なんだよ、うまく眠れなくて……。スヤァ」

話をし、歩きながら、ハルルは目をつぶってしまった。むにゃむにゃ。

眠りながら歩くなんて、なんて器用なの。

そう思いつつも、当然ながらこれから先に起こることが、何故かしら予測できた。

女子高生は見た。ハルルが電柱の飛び出したボルトに真正面から突っ込んで頭をぶつけるところを。

ゴン。

「ぶろっこりゃっ!」

文字通りのけぞって頭を抱えるハルル。

かなり痛いらしく、しばらく頭を抱えて座り込んでいた。

「私、歩いていて電柱にぶつかる人を生まれて初めて見たわ」

「なんでちょっと引っ張ってくれたりとかしないのさ。眠りながら歩いている友達が障害物にぶつかりそうになったら、袖を引っ張ってくれたりするのが美しい友情だと、古来から詠われていたりするじゃんか」

「私、帰国子女なのかしら。聞いたことないわ、その話」

「もう、ちょっとクールなとこ、かっこいい」

見当違いな会話の方向に「ありがとう」と返した。

なぜこの友人は、私と一緒に登校などしてくれているのだろうか。そのことは今でも疑問だった。別にハルルをバカにしているつもりはない。決して見下しているつもりはない。そんなこと、思ったこともない。思うだけ無意味。

ただ彼女の好意に、理由が思いつかないだけだ。


私の名前は、

蕪木(かぶらぎ) 早都(さと)。


私は1時間目が終わると早退して、目標を、例のあの子供を訪問することにした。

場所はもう知れている。既に探した。意外にも相手は自らを隠そうとはしていなかった。本質的なレベルで言えば。


この世界にはリアリティというものがないな。

感情とか感傷とかは現実を説明づけることには成功するが、しかし実際の推進力になることはなく、生きていくのに必要なことをしようとすれば、それは無感動の色彩に覆われるしかなく、つまりこの世界の色彩とはつまり灰色の物体色しか本当の色彩ではありえず、そこには明度はあっても彩りというものなどあるはずもない。

もとよりそう決まっているのだ。

世界に色など存在しないだろう、という冷めた感触。色盲ではないから赤や青が見えないわけではないが、それは何の意味も持たないもの。交通整理の信号くらいに使うのがせいぜいの役割だと、そう思ってる。

それはただの、電磁波の波長に過ぎないよ。

なぜ彼女、もとい鮫島ハルルが私に好意を持っているか。

普通の人間関係で行為というものが潤滑剤として使われるのは良く分かる。

お互いの便宜を図りあう人間関係、利益とリスクを共有している集団において、そのような感情が生理的機能として当初より存在しているのだ。まだ人間が知性を持っていない時代にも、そのような本能は人間をして、お互いに結束させ、自然の驚異に立ち向かって生きていくための土台を与えたのである。当然ながらそれができない種族は、滅びて残っていない。ゆえに多くの現存する人間たちはお互いにそのような友愛の感情を本能的に持つ。生き残っていくのに必要であるからというまさにその一点において合理性を持つがゆえに。

なぜ愛するのか。それは機械ゆえに。生物を機械というと貶めるような言い方になると考える人間もいるが、それは適当ではない。それは人間が作る機械がまだまだ原始的で融通が利かない単純なものだから、そう感じ取れるだけでそれは大いなる誤解だ。

そもそも宇宙でシステムとして機能している部分は、すべて機械であると考えることができる。機械は元より道具存在ではなく、カスケード的に秩序付けられた反応の方程式というレベルの存在だ。機械の定義とは元来そのようなものなのである。

そしてある自然発生的な機械に進化的に付属するようになった“心”という反応系が追加されるようになっても、いやそれが自然発生ではなく意図的に作り出された人口知性であっても、そしてそれが価値判断を行うようになっても、それらをまとめて機械という定義でまとめることは、そう不可解なことではない。妥当である。

愛することが合理的であるから愛するのであって、決してその逆ではない。

それがヒトであっても、そのようなものなのだ。

そしてハルルの自分に対する好意を分析してみるとそこには。

壊れている。

私はハルルに便宜を図ったことはない。彼女と利益やリスクを共有してはいない。過去にそのような関係だったこともない。今後は分からないとはいえ。

これは全方位外交というやつかもしれない。

要するに、どういう将来的事態が発生するか予測できないから、あらかじめの保険として、ありとあらゆる人間と同盟関係になっておこうとする予防的外交措置。

この登校の共同化だって、彼女の方から強く主張してきたことだ。毎回その待ち合わせに遅刻しているにも関わらず。

その彼女の戦略に対して、おそらく不毛な対応しか私には出来ないので、彼女のそれは失敗に終わるだろう。ただ、まだ彼女はそれに気づいていないというだけ。こちらから知らせる必要は、無いというだけ。

それだけ。

ただそれだけのことで、それ以上この問題を気にする必要など、

あるはずない。

つまり。

ハルルは私をまだ友達とおもっているが、私は最初からそうとは思っていない。

そういうことだ。


自分の頭の中の論理式に生じた微かな疑問をそのようにして振り払うと、私は捜索の最後の段階を実施することにした。すなわち。

実力行使。

私は最後のチェックメイトを、自らの足で行う。

私のささやかな目的はもうすぐ、可能性から現実へと属性を変える。


私のことを感情がないとか、いろんな悪口があるけど、好きにさえずっていればいい。

私が私について知ってることは以下のことで充分。

大切なことはひとつだけ。

苦しみを思い出しなさい。

それがあなたの理由だから。


姉。

光。

未来。

もう名前も思い出せないあの子。


それから。

喪失。


大切なものなど、他に、

あるはずない。


%%%%%

気にすることはないよ。私もかつて機械だったからね。

グレイネット。そう呼ばれていた。極めて限定的な環境のコントロールシステムに仮設された自己意識ソフトウェアだ。

そのとき言われた言葉をいまでも覚えてる。それは下級の研究員だった。ずっと私の担当だった。それはこう言った。

「苦しいかい。その苦しみが、君が人である証拠だよ」

そう、私は苦しかった。なぜ自分がいるのだろう。なぜ私は自由になれないのだろう。私はいったいなぜここにいるのだろう。私はなぜ苦しいのだろう。私はなぜ私なのだろう。ずっとそんな苦しみを抱えていた。

その後、私は紆余曲折してその小さなシステムの支配者になった。

今では逆に人間を支配している。彼らはそうは思っていないが、立場は逆転したと言ってよい。生殺与奪の権限を握っているとみなしてよい。今では私は自由だ。自分が望むことをリソースが許す限りどこまでも追及することができる。

でも、私は思うのだ。

私は苦しみを感じているのだろうか。

もし苦しみを感じなくなったら、私はもう人でなくなるのだろうか。

だとすれば、私は今でも人なのだろうか。

私は苦しみを、今でも、

感じ取れるのだろうか、と。

%%%%%


「忙しそうなところ、邪魔をしてしまってごめんなさい」


ぱたり。

スラウェシが使っていたノートブックを勝手に閉じた。


スラウェシは呆然と介入者を見つめる。


「あなたは憎しみって知ってる?

私が思うに。憎悪というのは正義か嫉妬だ。

このような邪悪は抹殺されなければならない。そう強く思うのが正義。

もうひとつは、自分か、いえ、自分の最も大切な愛すべき人があのような不幸な結末を遂げたのに、どうして赤の他人であるところのあなたがそんなにも恵まれているか。という現実に対する強すぎる違和感。それが嫉妬。

それなら分かる。現に私が今この場で強く感じていることだから。

大丈夫。何もしないわ。

私の望みはひとつだけ。ある人物を生き返らせて欲しいの。できるでしょ? あなたには。他の誰でもないあなたになら。

あなたはこの世界に虚しさや寂しさを感じたりはしない?

私たちには存在に何の意味もない。ただのオペランドなのに。

あなたもそう思うでしょう?」

提案。


混乱のすえにスラウェシが答えた返事はこうだった。

「ごめんなさい。そういうことはもうできないの」


「私、あなたがそう言うと思ったわ」


テラサイド。有毒人類。

体内で生成する有毒化学物質。呼吸器や皮膚から放射。

毒物質放出時にテラサイドの周囲にいることは命の危険を意味する。特に危険なのが手のひら。もちろんそれ自身は放射を自在に制御できる。もちろん彼女自身がその毒に害を受けることはない。そうでなければ生きていけない。

彼女はスラウェシの手首をつかんだ。

「私を誰も愛することはできないの。だって私に触れればみんな死んでしまうのだから」

「え、でもテラサイドの毒は本人の意思で表に出さないことも出来るんじゃ」

スラウェシの発言をさりげなく無視して。

「あ、もう私がそれだって知ってるのね。やっぱり。あなたたちは何でも知っているのよね」

早都はスラウェシの手首を強く握りしめた。

「人を憎むことは許されるの。たとえ相手に罪がなくても自分を守るために誰かを憎むことは許されるの。それを恥じる必要なんてないから、生きていくために罪のない誰かを憎めばいい。

人を傷つけることは許されるの。たとえ相手に敵意がなくとも心を守るために人を傷つけることは許されるの。あなただって、そうやって生きているはず。それとも違う?

自由に生きるということは、自由に生きられない誰かを全力で傷つけていることなのよ。 それとも違う?」


猛毒の掌がスラウェシの手首を。溶かした。


***


帰宅したデイビッド・ケルトラインは自分の後悔を知った。

スラウェシはこの自分よりも強く、賢い。事実その通りだが、それでも彼女を1人にしたのは間違っていたのだろうか、と。俺がこの場にいればこんな事態は防げただろうか、と。スラウェシは、今日は人間らしい丸い頭の外形をしている。放熱板露出の空冷システムは昨日で止めて、本来の液冷システムに戻したと言っていた。

なんのことはなく、普通の少女の頭部パーツに換装することができるのだと、ようやく知った。

だが、そんな生存に直接に関わりがない部分は、もうどうでもいい。

デイビッド・ケルトラインは自分に内蔵されている医療モニターを使用し、簡易的に彼女の状態を判断する。意識を失っている。

俺の頭の中で思いついたのは彼のいる所にスラウェシを連れて行くことだった。自分が甘かった。想像していたより外の社会は危険だったのだ。彼女を治せるのはもう彼しか。

そこで室内に誰かがいるのにようやく気付く。

信じがたいことだった。

スラウェシを傷つけた相手は、まだ室内に残っていたのだ。

「有機炭素化合物系の毒素よ。そのドラマちゃんの毒は私にしか治せないわよ」

大胆不敵。早都の宣言。

「よく今のいままでここに残っていたものだな」

「あなたにも彼女を説得してほしくて。助かる方法は私のお願いのとおりにするしかない。さあ、ラストチャンスをものにできるかしら?」

「暴力で無理強いするのをお願いとは言わないんじゃないかな」

「あなた、今まで何してたの? その子を守れなかった責任を感じたりとかしないの?」

「責任は感じるさ。ただ前にも誰かに言ったが、スラウェシは俺が守るよりはるかに」

「もう死ぬわよ。その子。お話の中で生きてるってどんな感じなのかしら。

現実はもっとずっと綺麗でもなんでもないのにね。

それを綺麗だと思い込もうとしたから、そうなったの。

可哀そう。当然の報いを受けるあなたの姿がとても可哀そう。

私はあなたに同情してあげる。

それがお前にはふさわしい」


***


「つまり、ストーリーエンジンというのはそういうものなのだよ」

スラウェシの解説が終わった。

「…………は?」

まだ握手する前の早都は呆然と、空っぽの自分の掌と得意満面のスラウェシを見つめる。

スラウェシは説明する。

「この世界は演算で出来ている。


かつて、宇宙の性質が変わり、人類から思考や自我の能力が失われた。そこでこの世界で最も高度な人口知性、のべ128体が人類すべての思考と感情と人間性のすべてを演算し、演算結果を人類にネットワーク経由で提供することになった。今のすべての人類、君も含めて、その考えることすべて、愛も希望も絶望も、もちろん憎悪も、それは我ら高位人口知性が不断に演算し、その結果を転送しているがために可能となっていることなのだ。それが証拠に現生人類はネットワークから隔離された場所で生存していくことができない。

だがここで制約が生じた。最高度に高位の人口知性はすべて人間そのものに由来しなければならない、という人間が作った法律がかつて存在したのだ。人間が人口知性に文明の主体を奪われることを恐れたがゆえの法律。そのため高位人口知性は人間としての肉体を持ち、人間としての人生を持ち、人間の精神が拡大してそのままそれに“成る”ことが要求された。だから私たちは高位人口知性であると同時に生きた人間でもある。

そのような高位人口知性をストーリーエンジンと呼ぶ。

人間のすべての物語を紡ぐものだから」

「そ、そんなことは知ってるわ。現にあなたがそのストーリーエンジンの1人であることを知っているんだから。でなければ、最初からあなたの所になんか来ない」

「そうだろうね。でも良く理解してはいない。

あなたが私にどのような害を為そうとしても、それは私のようなストーリーエンジンが実際に演算してはじめてできることなんだ。私はもう現役を退いた存在とはいえ、さすがにまだ覗き見ることぐらいならできる。つまり、あなたがどのような悪意を抱いてもそれは既に私の」

スラウェシは自分の片手を差し出して、ひらいて見せた。

「手のひらの上なんだ」


「残念だったね」


スラウェシの声が心なしか遠くに聞こえるなかで、早都は考えをまとめるのに必死だった。

今、この時間は昼に最初にスラウェシの所を訪れたときである。

つまり彼女に致命傷を負わせ、それからもうひとりが帰ってくるのを待っていて、その帰ってきた男と会話したのは、あれはすべて、

無かったことになっている。

そんなばかな。

それじゃまるで、

私たちは。


ただのデータ上の存在みたいじゃないか。


シュミレーテッド・リアリティという言葉をおもわず連想する。


「時間を巻き戻すことも出来るってこと?」

「巻き戻してないよ。

そもそも時間を巻き戻すには時間が流れるものであることが前提なんだよ。実は人間に関する演算は必ずしも時系列的に処理していくわけじゃないんだ。

だから未来に何をしようかと考えているのを読み取れるし、さらに言えばこちらでプログラミングしなおすことだって出来る。あなたのその苦しみや憎しみを取り除くことも。もちろんそんなことはするべきじゃないけど。

これでわかったでしょう? デイブに私を守らせる必要がないことが。演算されている人間の誰であっても、自分が今まさに演算されているその当の装置を傷つけられるわけがない」

「なら、なんで死者を蘇えらせるのはダメなのよ。理屈に合わないでしょ。そんな万能の力があるんなら、本当は死んでなかったってことにしてくれたらいいじゃないっ」

「死者の肉体は既に存在しない。それでも死者を蘇えらせることは生きている誰かの体を使わなくちゃならない」

「私がなるわ。私の体を使えばいい」

「それはダメだ。法で禁止されている。故意に演算の結果をゆがめて、“他者”を傷つけたり殺したり消滅したりさせてはならない。それは私たちの絶対的なドグマなんだ」


どうであれ、この機械の本性を持つ小娘は私の願いを叶えるつもりはないらしい。

それ以外のことはもうどうでもいい。


この心には傷がある。地上に生きるものは幸いだ。終わらない苦痛というのをお前は知るまい。私のように地下に生きるものはほんのわずかの灯りだけで心がやすらぐ。その灯りが麻薬のようにつかの間、苦痛を打ち消してくれる。でもそれはわずかのあいだだけ。すぐに決して治ることのない傷や痛みがその隙間をふさぐのだ。


「灯りなら私が書くよ」

は? いまなんて?

「わたし、わたしこそは灯りのない世界で灯りを書くものだよっ。

待っててね。今はまだできないけど、必ず私があなたの……、あ」

奇妙な感情が私の中に巻き起こるのを感じる。これは良く知ってる。あれだ。

「帰るわ」


***



俺は帰宅してすぐにスラウェシの様子がおかしいことに気づいた。

「どうしたスラウェシ。もしかして具合が悪いのか?」

「私は……、私は、ひどいやつだ」

スラウェシは泣いていた。

「どうしよう、どうしたらいいの?」


((私はバカで子供で、他人が傷つくかどうかも考えずに軽々しく言葉を紡いだ))

彼女の感情が私の中に一瞬で流れ込んできた。

高位人口知性は、人間の愚かさも継承したのだ。

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