「武州・悪党狩り」土方歳三・商売往来記
橘りゅうせい
第一話 水戸浪人始末
序章 枡形山
津久井道を、生田村から江戸に向かうと、
その枡形山を、疾風のように駆けあがる、ひとりの商人がいた。足腰の鍛練のため、あえて街道を逸れて、山道に踏みこんだのだ。
うっすらと汗を浮かべた整った顔立ちに、疲れた様子は微塵もない。裾を
荒れた山道を、飛ぶように駆けあがる男の腰には、まるで渡世人のような薩摩拵えの長脇差が、ぶちこまれている。
三軒の茶屋があったことから地名がつけられた、渋谷からほど近い三軒茶屋で、矢倉沢往還から分岐していた街道が、津久井道である。
江戸と大山を結ぶ矢倉沢往還は、大山詣での江戸っ子で賑わう脇往還で、津久井道は、その脇街道であった。往還とは、東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中の五街道のことを指し、宿場には伝馬の整備が義務付けられ、道中奉行が管轄していた。
では、それ以外の往還が脇往還かというと、そうではなく、勘定奉行が管轄し、伝馬が整備された街道のほかは、脇往還とはよばれず、単に何々道という、呼称が使われていた。
津久井道は、矢倉沢往還の脇街道であるが、伝馬は整備されていないため脇往還とはよばれず、大きな宿場は、登戸宿ぐらいしかなかった。
山頂に達すると青々とした葉を繁らせる白樫の隙間から、多摩川の向こうにひろがる霞がかった江戸の町が、その手前には、登戸宿の町並みを遠望できるが、男は、ちらりと一瞥をくれただけで、そのままとおりすぎた。
山の頂きから下りに入ると、常人ならば、転倒を怖れて慎重になるが、男の足は鈍らない。
枡形山を下りて、
男が麦畑に、さしかかったときである。
「むっ……」
おもむろに足を止めた男は、あたりをゆっくりと見回した。
(いまのは、たしかに女の悲鳴……)
その首の動きが、ぴたりと止まり、麦畑の向こう側の雑木林に目をとめる。
男の瞳に、冷たい光が宿った。
足音もたてずに、男は足早に麦畑を横切る。手には、いつの間にか、葛籠にくくりつけてあったはずの竹刀が握られていた。
雑木林に足を踏みいれると、人里に近いためか、下草は刈りとられており、落ち葉もきれいに始末されていた。この当時、雑木林は資源でもあったのだ。
枝などに触れないように、男はたくみに雑木林の奥にすすむ。
刈りとられた下草の奥には、三畳ほどの空間が開けており、そこでいま、まさに若い
娘の口には、猿轡のかわりに、汚い手拭いが押しこまれ、苦しそうな呻き声が漏れている。
(ははあ、悲鳴が途絶えたのは、そのせいか)
ひとりの浪人は、袴を脱ぎ捨てると着物の裾を端折り、娘に襲いかかる。浪人の目は欲情で血走っている。かたや、もうひとりの浪人が、それを眺めながら、にやにやと下卑た笑いを浮かべていた。
男は、竹刀を手にしたまましゃがみこむと、
放たれた
「な、なにやつ!」
もうひとりの浪人は、あわてて刀を抜こうとするが、柄に手がかかったときには、男の竹刀が
「ぐうっ」
喉がつかえたような呻き声を発し、浪人の膝が崩れ、身体が倒れこんだ瞬間、鈍い音をたて、竹刀の柄頭がこめかみを撃った。
五つ数え終わらぬうちに、男の足元には、ふたりの浪人が、
「間抜けめ。
不敵な微笑みをうかべ、男がつぶやく。
「おい、大丈夫か? さあ、しっかりしねえ」
娘の口から手拭いを引き抜いて、先ほどの冷然としたつぶやきとは、かけ離れた優しげな声で、男が言った。
「よし。立てるか? ……こいつらが目を覚まさねえうちに、とっとと逃げよう」
衝撃のあまり口がきけない娘が、がくがくと首を縦に振ると、腰に手をまわしながら、手を引いて立たせる。
娘を抱きかかえるように、男が麦畑を抜けて街道に戻ると、
「あ、あの……あ、ありがとうございます。おかげで助かりました……なんとお礼を、申したらよいか……」
ようやく口がきけるようになった娘が、途切れとぎれに礼をのべた。農家の娘にしては、抜けるように肌が白い。
「気にするな。気に入らない連中を、叩きのめしたまでだ」
男がにっこり笑いかけると、娘は、男が並外れて美しい顔立ちであることに気づき、顔を赤くしてうつむいた。
「うちまで送っていこう。こっちでいいのか?」
「はい。宿場の手前の左手に見えている、あの大きな屋根が、私の家です」
「昼間とはいえ近ごろは、ああいう不逞浪人や
「身に沁みました。今後は気をつけます。私は、ときと申します。あの……あなたさまのお名前は?」
顔を赤くしたまま目を合わせようとせずに、うつむき加減に娘がきいた。
「おっと、いけねえ。急いでいたから名乗っていなかったな……俺は歳三。日野本郷石田村の土方歳三だ」
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