第1話


「リアちゃん、ご飯だよ」


 リビングルームのテーブルで、数学の教科書と格闘していた私は、ユウの言葉に顔を上げた。

「もうお昼?」

「そうだよ? ずいぶん熱心にやってたみたいだね。時間が経ったのにも気づかないくらい」

「そう、かも……」

 私は足元の鞄に教科書とノートをしまい、テーブルの上を片付けた。広く空いたスペースに、ミートソースパスタが二皿、ことんと置かれる。

「僕は全然勉強しなかったから、教えてあげたいけど、無理だなあ」

「全然勉強しなかったのに、医者の振りはよくできてたね」

「演技は大事だからねえ……中身なーんにもつまってなくたって、殺し屋やってくには、見かけ倒しで事が済んじゃうわけ」

「ふうん」

 いただきます、とパスタに二人で手を合わせ、フォークを手に取る。穏やかな日だった。天気は快晴で、朝に洗濯をして外にかけた服は、たぶんもう乾いているだろう。暦の上では冬が間近だったが、気温はあまり低くない。今年はまれに見る暖冬だと、テレビでもそう言っていた。

 フォークにスパゲッティをくるくると巻き付けながら、私は言う。

「でも、ユウって、頭が良いよね。なんだなんだ」

「そう? 地頭が良いってやつ? なんだか照れるなぁ」

「否定しないってことは、ちょっと自分でも思ってるんだね」

「まあ僕、基本的には自分のこと大好きだから?」

 あはは、とユウはフォークを口に運ぶ。

「自分のことが好きって、大事だよ。まあ、あんまり度が過ぎて人に迷惑かけるのはダメだけどさ。リアちゃんは自分自身のことどう? 好き?」

「……」

 私は答えられず、パスタを食べた。

「まあでも、自分が好きって、勘違いしてる人もいるよねぇ。何も四六時中じぶんのことばっかり考えてるのがイコール自分好きってことでもない、っていうかさぁ」

「でも、数学は、好き」

「そうなんだ。数学って、面白いの?」

「面白いよ」

「どこらへんが?」

「親切なところ」

「え? 親切?」

「問題文に、裏の意図みたいなのがないから」

 ユウはきょとんとした顔になったが、少ししたら腑に落ちたらしく、激しく頷いた。

「ああ。なるほどね。暗黙の了解みたいなのって、疲れるからね……聞かれたことだけに答えればいいってのは、確かに楽だ」

「教科書は口を利かないから、静かでいい」

「そうそう……ってなんかごめん、僕うるさかったかな?」

「いや、むしろユウは喋ってたほうがいいよ。怖いから。うるさいくらいで、ようやく人並みになるから」

「そ、そう? なら、まあ、いっか」

 私は粉チーズを手にとって、パスタにかけた。


 ユウは、私に黙って何でもやってしまう。


 この間だって、私たちを殺しに来た人間たちを、私に黙って返り討ちにしてしまった。私が計画を知らないままの方が都合が良かったにしても、殺されるかと思ったあの時は、確かに怖かった。今は恐怖も薄れているし、あのチェーンソウを振りかざしていた男の人のことをふと考えることもあるけれど、やはり私はまだまだ、ユウや秘密結社の人たちに信用されてはいないのだろう。彼らが誰かを信用するとしたら、の話だけれど。


 そして私は、どうやら本当に二重人格らしい。

 

 それはここ最近、何の圧力もかからない、規則正しく穏やかな生活をしているうちに、じわじわと理解したことだった。母や父と住んでいた頃は、毎日がただひたすらに忙しく、そんなことを考える余裕すらなかったけれど、こうして必要最低限の生活を過ごすうちに、やはり日付が飛んでいたり、数時間分の記憶が無かったり、そんなことがしばしば起こった。そのことについてユウに聞くと、いつも「もう一人出てきていたよ」と言われる。直前に睡眠薬などを飲まされた記憶もない。やはり、私は二重人格、ということなのだろう。


 そのことについては、少しだけ悲しく、そしてほとんどは、どうでもよかった。


 二重人格となる人間が、どのような家庭環境から生まれてくるのか、大体の知識はあった。ひどい虐待や、ネグレクト……そういった苦痛の記憶から自分を守るために、意識を切り離す。その切り離されたぶんの意識が、蓄積され続けた苦痛が、やがて「もう一つの人格」と呼ばれるまでに成長するのだ。少なくとも、精神学の本にはそう書いてあった。

 でも、だとすれば私は、思い出したくなんてなかった。人の意識を真っ二つに割くのに十分な苦痛なんて、考えただけでぞっとする。そんなものを思い出すくらいなら、時々意識が飛んだり、記憶がなくなる方がましだ。

 そのことをこの前ユウに話したが、やはり彼自身も多重人格であるからか、「それでいいと思うよ」と言った。

「無理に心をいじくり回す必要なんてない。リアちゃんが心底不便に思っていない限りはね。奇跡的なバランスでなりたっている機構を、むざむざ壊すことはないよ」

 そんなわけで私とユウは、この日本の片隅で、しばらくは穏やかに暮らすことになった。私は一応まだ「行方不明」扱いなので、結社の準備が整い次第海外に行って、少しの整形と、戸籍を変える作業をしなくてはならなかったが、それでもまだ数ヶ月の間は、自由に暮らして良いことになった。

「勉強は難しくない?」

「元々、学校でもやってたから、大丈夫。わからないところは、ない」

「そう。でも、無理にやらなくてもいいからね。自分の将来に必要なだけやればいいんだから。大学に入りたいとかなら別だけど」

 ユウの言葉に、思わず動きが止まった。

「将来?」

「うん。将来の夢、とかある?」

「夢も、何も……」

 こんな私が夢を持ってもいいのかという、まずそのあたりからわからなかったのだが、それに加えて「殺し屋」という、この世で最も夢という概念からかけ離れた職業の人間にそれを聞かれたのが、とにかく驚きだった。

 言葉を返せずにいると、ユウは困ったように息を吐いた。

「まあ、そっか。生きていくのが精一杯だよね。わかるわかる。僕もだし。ごめんね、いきなり変なこと聞いちゃって」

「いや、大丈夫」

「でもほら、一応、何が向いてるか考えておくのも、いいんじゃないかなあって。まあリアちゃんのことだから、マイペースにできる仕事がいいと思うけどね」

「マイペース……」

 ますます思いつかない、とパスタを食べてごまかす。

「キャリアウーマンになって、上司にガミガミ言われたり、ペコペコ頭下げたりとかは、嫌なんじゃない?」

「それしかなければ、そうするけど……」

「でも望んでなりたいとは思わない。そうでしょ?」

「望んでそうなりたい人なんて、いるの?」

「いるよ。口では嫌だ嫌だと言ってるかもしれないけど。無意識ではまんざら嫌でもない、そうやって活躍している自分が誇らしい……そう思ってるような人もいるだろうね。本当に不向きな人は、実際やめてしまうから。まあ僕からしたら、そういうのってすごく面倒くさい人だなって感じだけど」

 見ると、ユウがタバスコをかけまくっている。

「それ、辛くないの?」

「大丈夫。僕、割と辛いの好きなんだ」

 ユウはパスタを一口食べると、数秒もたたずに口元を押さえて椅子から立ち、キッチンに消えた。

「大丈夫?」

「ちょっと調子乗った」

「ふふ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る