第二節 前略、水鶴にて
私がこの世界に蘇えって最初の記憶は、孤児院のみすぼらしい離乳食の味だった。転生前、私は東北の生まれだったから、それなりに米や水の味にはうるさい方だったこともあり、あまりいい記憶ではない。
どういうわけか、私はこの以前いた世界と似て非なる世界へと転生してしまったようだ。話している言語、食文化、人種、地理などと言った部分は全くと言っていいほど同じだった。しかし、違う部分も相当あって戸惑っている。まず最初に混乱したのは地名だった。
私がこの世界に来る前の祖国の名前は『日本』と言う名前であったのに対してこの世界での名前は『
その他にもどうやらそれまでにこの国が歩んできた歴史も私のいた世界とは大幅に異なっていた。この世界では、江戸時代の中期にはオランダや清以外の海外との交流が行われていたようだ。そのため、科学・医療技術や産業においては自分のいた世界とは比べ物にならないほど進んでいた。その一方で外交に関しては前の世界と同じように閉鎖的だったこともありこの時代における明治維新に相当する革命もしっかり起きていた。そして、何より大きな歴史の違いは、日清戦争と日露戦争に相当する対外戦争の規模の差である。日清戦争に相当する戦争は私がこの世界に生を受ける十年以上前に起きていたようだが、かなり小規模な武力衝突に過ぎない。しかし、この戦争は史実における日清戦争と同じく大陸における大国・『連』の凋落を示していたようで積極的な領土分割が行われたようである。そのため、『清』王朝に相当する『連』王朝は内乱と革命によって崩壊し、晴華民国政府が誕生していた。また、日露戦争に関してはロシアに相当するロマノア帝国との李半島を巡る外交的な小競り合いはあったものの、現在のところは武力衝突には至っていないというのが現状だった。また欧州を戦場とした世界戦争も起きておらず、西方も危うい均衡を保っている状態である。
ああ、自己紹介が遅れてしまった。私は、豊葦原瑞穂皇国海軍少尉、最上時雨だ。出身地は亰都府水鶴市(私のいた世界における京都府舞鶴市)の生まれで生年月日は一九二二年十月二十五日だ。生まれは水鶴市にあった市と海軍が管理する孤児院だ。孤児院の人間の話によると私の父は海軍の軍人で、従軍看護婦だった母と結婚。しかし、父は演習で訪れた南方の島で熱病にかかり急逝。母も私を産んだ数か月後に産後の肥立ちが悪くそのまま帰らぬ人になったとの事である。父が海軍の人間であったことから、海軍の管理する孤児院に入れられたわけだが、ここでの生活に別に不自由は感じなかった。元々、前の世界において海軍の軍人として日々生活し、その規則正しい生活に慣れていたこともあって体が慣れるのも早かった。その一方でこの身体にはかなりと戸惑ったものだ。少なくとも自分の中に残っている前の世界での記憶で、私は男だった、それも軍人だったはずだ。そのため、かなり禁欲的な生活をしていた。そのため女性というもののことをあまり知らなかったようだ。自分の無知さにほとほとうんざりしていたものだ。
そのように惰性的に生きていた私だったが、生まれ育った場所がこの国の軍港にして瑞穂海(私のいた世界における日本海)に面する鎮守府である水鶴鎮守府のある町だったこと、そして海軍が運営に携わっている孤児院(後に殉職した軍人たちの子供を専門に養う場所であることを知った)であったこともあり、私は自然とこの世界でも海軍に関する仕事をしたいと願うようになった。私の願いは最高の形で叶うことになった。
きっかけは私が五歳になった時に孤児院の人から教えられたことだった。この国では六歳から士官候補生になるための試験を受けることができる事、それが男女問わず可能であること。そして、この国において男女共に徴兵制度があることを知った。そういったことであるのならば私は、以前と同じように士官教育を受けて海軍人として生きていくことを決めた。そのことを孤児院の人に告げた際に驚かれたのは今でも覚えている。どうやら、女性で徴兵を受ける人もかなり稀有なようだ(後に女性には徴用と言う選択肢があったことを知る)。しかし、私は勉強を進めていた、士官学校への合格を一発で決めたかったのもあるが、日常生活で女性らしさを求められる分勉強の時間が最も気晴らしになっていたこともあるだろう。翌年に行われた入学試験には、事前の予習も功を奏し合格した。これに頭を抱えたのは、恐らく海軍だったのだろう、女性が海軍士官となった例は、皇族や華族の例を参考にするべきかと言うことが議論になったことを後から聞いた。陸軍の方に前例があったことが幸いし、私は正式に海軍士官学校への入学が許された。この少し前に私に驚くことがあった。それは、軍を統括する政治機関である省庁の存在であった。私のいた世界には陸軍省と海軍省と言うものが存在し、それぞれの軍を統括していた。しかし、この世界では軍務省という一つの政治機関により統括されているのだ。そのことから、陸軍と海軍の交流が積極的に行われていたようだ。特に、特に士官学校の最初の二年が顕著だった。前の世界までは士官学校はかなり前から完全分離だった。しかし、この世界では一般教養と専門知識の両方を二年間陸軍・海軍両方の士官候補生が同じ学校で学ぶのだ。そして後半の二年間はそれぞれの軍の専門知識を別々の士官学校(海軍は古鷹島で、陸軍は八ノ谷)で学ぶのだ。
その二年間で私は、もう一人の転生者と出会うことになった。それは私より二歳年上の陸軍士官候補生であった宮上雪乃だった。彼女とは同じ士官学校の同級生であり、陸軍・海軍で唯一の女性士官候補生だったこともあり同室となり意気投合した(雪乃が士官学校への入学が遅れたのは陸軍士官である父が海外のとある大使館で駐在武官を務めていたため)。雪乃とは当初はぎこちなかったが、次第に話の中で自分のいた世界と同じ場所で生きていたこと、軍に身を置いていた子を知る。彼女の身上については省くことにするがとにかく私達はこの偶然を運命と判断し、それからはよくつるむようになった。それぞれである程度の地位を互いに築くようになってからも、変わらない交流を続けている。
士官学校での教育を終えた私は、研修として当時皇国海軍の保有する防護巡洋艦『宮島』への乗り組みが命ぜられ乗艦することになった。私が前の世界で自分の柩とした戦艦『山城』と比較すればお話にならないほど小さかったが、学生時代に資料で見た、日清戦争において活躍した艦船と酷似しており、憧れていたわけではなかったが、とても感慨深いものがあった。
この艦で私は砲術士を担当していた。しかし、人手不足と前任の砲術長が体調不良により退艦を余儀なくされたこともありそのまま私は、一年にも満たずに砲術長へと昇進する羽目になってしまった。とは言ったものの仕事自体は前世で経験した仕事がほとんどであるため、不自由と言ったことはなかった。むしろ、仕事より私的なことの方が不便は大きかった。理由はこの身体だ。今の自分は女体であるが、男性の多い環境で生活してきたこともあってあまりに無頓着な部分があったことは否めない。
海軍の女性士官のことは漣士官と呼ぶそうだが、士官教育をしっかりと受けた女性はほとんどいない。多くは上級華族の令嬢が、名誉と職を得るために筆記及び口述だけで取得できる半ば名誉職のような扱いを受けていたのだ。それにより軍人として経歴を積み上げる人間はいなかったのだ。そのため、私のような漣士官が誕生するということは全くの想定外だったことによよって艦内における私の立ち位置が分からず困るということも多々あったようだ。そのことで私自身も艦長から苦言を呈されたこともあった。
このようにして、私の漣士官としての毎日はかなり惰性的に過ぎて行った。しかし、その状況が一変したのは、一九三二年の年明けであった。かねてから政治的緊張が高まっていた、晴華民国政府との間で再び李半島の独立を巡る政治的な対立が再燃したのだ。これにより、端的に言えば戦争をする可能性が高まったのだ。当時の晴華民国は欧州からの援助(という名の国土と財産の買いたたき)によりかなり発展していた。人口・国土などあらゆる面で我が国は劣っていた。しかし、我が国にはこのまま晴華民国政府の行動を容認することは出来なかったのだ。なぜならその北方にあるロマノア帝国の存在あったからだ。ロマノアはかなりの量の租借地を晴華民国の北方に所有し南下政策を取っていた。これでは我が国もロマノア帝国に押しつぶされる可能性もあった。しかし、晴華民国政府や李半島の朴氏王朝の事大主義のせいで変革が一向に進まない状況だった。その理由としては晴華民国の李半島属国思想が未だに根付いていることだった。そのため、晴華民国の意向が無ければ動けない状況にあったのだ。それにより、様々なすり寄りを我が国は民国と行なおうとしたが交渉は決裂し、開戦止む無しと言う意見が大半を占め、結果的に我が国にとって最初の対外戦争、瑞晴戦争の幕は切って落とされたのだった。しかしながら、我が国としてはいくつかの幸運が重なった。まず一つ目は、晴華民国が列強諸国からの支援を受けなかったことだ。これは単純に大国である晴華民国が皇国が勝つことはないであろうという読みであった。わが国からしてみればかなり不本意だったがこれは結果的には良好に働いた。そして二つ目は晴華民国の軍部内の制度改革の失敗だった。晴華民国は装備面では我が国をはるかに凌いでいたにも拘らず兵士たちの選定などといった制度に関してはかなり後れを取っていた。そのため、一度は制度改革に踏み切る動きもあったようだが結果的には失敗している。このことも我が国にとっては優位に働いた。この結果、海軍は朱海海戦に大勝することができ、全体的に見ても勝利することができたわけである。私も防護巡洋艦『宮島』へ砲術長として乗艦し、朱海海戦に参加している。その時の私の身の振る舞いに関しては今は割愛することにするが、とにかくその時の戦果により色々と優遇はさせてもらった。この時に『現代の神瀬皇后』という名を上官たちから貰ったのが私にとって最初の二つ名だった。それから、しばらくして当時大尉だった私は少佐へと上り詰めた。
しかし、次なる騒乱の足音は再び忍び寄っていたのだ。それは北方のロマノア帝国の李半島への介入だった。その時、陸軍が李半島の朴氏王朝の王妃である玖明王妃がロマノア帝国との密通の情報を掴み、反王妃派の官僚らに流したことから露見し、これを襲撃・暗殺したのである。
しかし、情勢は一向に好転せず、二年たらずで我が国は再び戦争へと足を踏み入れていくことになるのだ。恐らくこれが、私のいたあの世界における日露戦争なのだろう。だが、決定的に違っていたのは戦争の間であろう。特に陸上戦に置いては、前世界で要塞攻略に半年以上の時間がかかったにもかかわらず、この戦争ではほぼ二ヶ月半で要塞の一部を最小限に攻略することが出来たのである。また
そして私が、最後に提案したのは、対レーダー型長距離爆撃機及び対ソナー型潜水空母だった。いわゆる隠密兵器と言われるものの開発を進言する事であった。さすがにその場での両名の反応はイマイチであったが、戦略上、航空母艦だけでなく潜水空母の必要性があるということを徹底的に説明した、その上で連衆国を始めとした科学技術の高さに対抗できる兵器として隠密兵器を開発することを進言したのだった。これは、私が前世界において体験したことをそのまま述べた。前世界で学んだことの一つは「艦艇は航空機からの攻撃と潜水艦からの攻撃に弱い」ということだ。そのため、双方の開発と弱点を補う隠密技術の開発が急務だと説得した。その後、私は海軍の将官たちから広崎県の佐瀬部海軍工廠へと案内された。その時のことは今でも覚えている。
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