母の遺産
夏海惺(広瀬勝郎)
母の遺産
「本当にこれで良かったのですか」
「後悔はしていないよ」
背中からの声を掛けられたれ、振り返った男は七十に越していた。
話しかけた男も六十に近かった。
振り返った男の左手はなかった。
戦後の混乱期、不発弾回収作業中に、事故で腕を失ったのである。
痩せていて、まるで子供のような小さい老人だった。
後悔はしていないという彼の言葉に迷いはなかった。
二人の老人の密やかな話に関わらず、披露宴は賑やかに進められていた。
首里の丘に建てられたホテルである。
爽やかに晴れた海の彼方に小さな島が見えた。
川口は彼らと運命をともにすることになった出来事を思い出していた。
昭和二十年四月一日、米軍は沖縄本島の中央部から上陸を開始した。
日本兵は壕や洞窟に立て籠もり応戦した。
日本兵をじわりじわりと南の方へ追い詰められていった。
一度だけ、日本軍は反攻に転じた。
川口は、その最後の攻撃に参加したのである。
だが、攻撃を開始して、三日後の五月七日には、日本軍は南へ壊走を始めたのである。
激しい敵の砲火の合間を縫い、薮や畑の畔道に身を隠しながらの逃避行であった。
敵の地上砲火や艦砲射撃は、傷ついて逃げる者たちを容赦しなかった。
砲弾が周囲に落ちる度に激しい地響と土埃が舞い上がった。
そのたびに連れだって逃げる仲間が、カミソリのように鋭い砲弾の破片で内蔵をえぐられ、頭を割られ、次々と倒れていった。
互いに杖になり、支え会うように逃げ続けていた。
空は、早い梅雨入りを感じさせ、雲がどんよりと垂れ下がっている。
突然、生暖かい雨がスコールのように降り始めた。
逃避行を続ける川口たちにとっても苦痛であった。雨で泥と化した土に足を掬われ、体力を消耗し動けなくなり、そのまま砲弾の餌食になる者もいた。
しかし、その雨に救われた者の方が多かった。雨は敵の戦車の動きも封じてくれたのである。
川口は、右手の上腕に小さな鉄の固まりが入っていることを意識していた。
既に血は固まり、出血は止まっている。
逃げ始めて最初の夜が暮れようとしていた。
三名は身の丈もありそうな高い薮の草を押し分けて、昼間の遅れを取り戻そうと急いだ。
川口は三名の兵士の右端を歩いていた。
右足を踏み出した途端であった。
そこに当然あるべき大地はなかった。
右足が瞬間宙に遊んだかと思うと、彼は微かな悲鳴を残し、そのまま崖下に落ちてしまったのである。
一瞬であるが、疲れた肉体がひどく楽に思えた。
その後、背中や腹を何度も岩にぶっけた。
遠くで、川口上等兵と呼ぶ声が微かに聞いたような気がする。
激痛に意識は次第に遠退いていった。
川口が気付いたのは、明け方に近い頃であった。
まだ雨は降り続けていた。
薄い闇の中から、銀色の雨が迫るように降っていた。
厚い雨雲も低く垂れ下がっていた。
胸を押し付けられるような圧迫感を覚えた。
胸を、ひどく打ったせいである。
淋しかった。
死に対する恐ろしさが身に染みた。
激しい戦闘や、忙しい日常の中で忘れていた感覚であった。一人になり、急に蘇ってきた。
生暖かい風が草のざわめかせ、身体を撫でた。
日本軍の夜襲防止に敵陣地から打ち上げられる照明弾は、五、六分間隔で連続して打ち上げられ、白みかけた空を照らしていた。
明るくなるまでに、何処かに身を隠さねばならない。
川口は探るように周囲の地面に手をはわした。
やせ細った身体がきしむように痛んだ。
節々が油の切れた機械のように音を立てているようだった。
最近、食べたのは、いつのことだろうか。
たしか、攻撃の前に振る舞われたような気がする。
やっと銃を捜し当てた。
弾は、三発しか残っていない筈である。
ポケットの中を捜した。
硬い金属の薬きょうに触った。
「自分は、一体何処にいるのだろうか」
と川口は自問した。
崖の下にいることは間違いない。
だが敵を避けて逃げまどううちに、位置も解らなくなっていた。
ほかの二名を追うために崖の上に登る力は残っていなかった。
このような崖の麓には亀の甲羅に似た墓が多く散在する。そして多くの住民たちが、その墓を隠れ家にしていることは知っていた。
照明弾が破裂するたびに、動きを止めて進んだ。
周囲は明るくなりかけていた。
やっと身を隠すにふさわしい洞窟を見付けた。
薄暗い洞窟に足を踏み入れる前に、崖から足を踏み外し、墜ちた時の恐怖が蘇った。
小石を一つ拾い投げ込んでみた。
「ポロン」と湿った音を立て、小石が洞窟の床に落ちた。
中からの反応はない。
誰もいないと川口は思った。
ためらいながら、洞窟の中に足を踏み入れた。
「止まれ。入るな」
闇の中から短く鋭い声がした。
短い声であった。
少年の声だったような気もするが、空耳だったような気もする。
こんな所に人が残っている筈はないと信じながら声を掛けた。
「誰かいるのか」
川口は、ささやくように声を掛ける。
夜が明けようとしている。
急がなければならない。
夜が明け、米軍の地上砲が火を吹き始める前に、身を隠さねばならない。
迷っている暇はなかった。
彼は、洞窟の中に、思い切って足を踏み入れた。
「止まれ。入るな」
鋭い少年の声であった。
川口は恐れなかった。
声を無視し、中に入った。
少年の声は次第に小さくなり、力を無くしていった。
奥の深さは解らない。
洞窟の入り口で、どっと腰を下ろした。
次の瞬間には、またまどろみ始めた。
慢性的に疲れがたまっていた。
ガサガサと物を動かす音がして、「どいてよ」という少女の声で川口が目を覚ました。
幼い少女が川口の前に仁王立ちになっていた。
二人の少年が入口を草でふさごうとしている。
「何をしている」
「メリケンに見つからないようにする」
上の少年が答えた。
川口は無視した。
慢性的に疲れていた。
次に彼が目を覚ました時、既に外からの光が差し込み洞窟の奥まで照らしていた。
三名の子供たちは隅の方で抱き会うように集っていた。
彼は頭の中で、それぞれ子供たちの年を勘定した。
上の少年は十五才ほどだろう。
年を見誤ることが多くなった。
戦いが始まって以来、栄養失調のために子供たちも痩せ細り、ふけて見えた。
下の少年は十才、一番下の少女は三才ぐらいと判断した。
洞窟は、七、八メートルほどの奥行があった。
米軍の砲撃が始まり、次第に勢いを増していった。
砲弾の落下位置も近くなっている。
川口は洞窟の奥の彼等の前に一人の大人が横たわっているのに気付いた。
その大人は、まるで岩の一部であるかのようで動く気配がなかった。
だから、それまで気付かなかったのである。
「その人は」
「お母さんよ」
少女が自慢するように応えた。
川口は、黙って横たわる人に目を向けていた。
「寝ているのか」
その一言に、幼い少女が急に人なつこくなった。
「兵隊さん、何処から来たの」
二人の少年は黙っていた。
「名前はなんて言うの」
少女は川口の注意をはずさせようと話しかけてきた。
「君たちの母親か」
幼い兄弟が同時にうなづいた。
上の少年は、目を反らし、遠い洞窟の外を見るような目つきになった。
下の少年は泣き出しそうになった。
「寝ているのよ」
少女が、川口の視線に気付き、あどけなく答えた。
「兵隊さんみたいに疲れているのよ。
だから寝ているの」
少女は上の少年たちに口を挟む隙を与えたくないようだった。
少女と二人の兄との間で激しい言い争いが続いていた。
「埋めなければ」と言う年上の少年の言葉に、少女は激しく反抗した。
「いつから寝ている」
「二日前だ」
年上の少年が応えた。
年上の少年は立ち上がり、川口に背中を向け、母親の胸を探り始めた。
腐乱をしかけているに違いない。
母親の胸から拳大の石のような固まり取り出し、川口に差し出した。
「食べて」
小石の固まりに見えた物はサツマ芋だった。
唾液が口の中に充満した。
子供たちも同じだったにちがいない。
川口はサツマ芋を奪い取り、むさぼり食った。
皮についた泥も歯で咬み砕いた。
黙って見ていた少女が、薄汚れた顔を引きつらせ泣き声を上げた。
真ん中の少年は、ひもじそうに見ていたが、目をそらした。
上の少年は少女を必死になだめようとしていた。
少女は、泣きじゃくりながら言った。
「あのサツマ芋は、絶対に食べていけないって、お母さんが言っていたのに。
お母さんが起きたら、叱られるから」
母親は、既に息を引き取っていた。
食べ終わった川口は確かめようと近づいた。
「駄目」
少女が厳しく拒絶した。幼い兄弟からはまだしも、大人の口から母の死を告げられることは絶対に避けたかった。
二人の少年は黙って川口の行動を見守っていた。
女の口に手をかざした。
呼吸をしていなかった。
「おじいさん、お母さんは生きているでしょう。眠っているだけでしょう。だって、どこにも血は流れていないのよ」
年上の少年は困惑し川口を見ていた。
少女を納得させる方法もないまま、腐乱しかけた母親の死体の処理に途方にくれていたに違いない。
「ああ、寝ているだけだ。
疲れているのだろう。
やがて目を覚ます筈だ」
「ホラ、私が言った通りだ。兄さんたちは、お母さんは死んだって言い張るのよ。だから埋めなければいけないと言うの」
日は高くなっていた。
雨は上がっていた。
久しぶりにつゆ空の雲の隙間から太陽が光が射し込んでいた。
外の砲弾の爆発音が、次第に遠のくのを肌で感じた。
母の死を否定して以来、すっかり少女は川口になつき、彼にもたれて寝ていた。
夕方、川口は上の少年にゆさぶられて目を覚ました。
「メリケンの声がする。すぐそばに来ている」
たしかに人が動く気配を川口も感じた。
先はキャタピラの音も聞こえた。
上の少年が言った。
三名の子供たちが川口に身をすり寄せてきた。三名の子供たちの痩せ細った皮膚のすぐ下に堅い骨の感触を感じた。
「メリケン怖い」と少女が涙声で訴えた。
つえ代わりに使っていた小銃を引き寄せた。
自らで死を選ぶ。
これが選択できる安易な方法だった。
だが三発の弾でどうやって四名が死ぬ。
骨だけになった小さな子供の三人を縦に並べ引金を引けば、銃弾は三人とも貫き通すに違いない。
川口は決心も出来ないまま迷った。
戦車のキャタピラー音に混じり、兵士の声が聞き取れた。
「ボッー」と草を焼き払う火炎放射機の音もした。
自分たちと同じように隠れていた者たちが近くにいたのだろうか。
「ウェイト。ウェイト」
攻撃を制止する声である。
しかし、機械的な声でファィアーという声の後、ボーという火炎放射器の発射音が聞こえた。
「弓野さん急いで」
聞き慣れない奇妙な発音の日本語だった。
「サカモトさん、もう少しを時間を稼いで」
流暢な日本語だった。
外で起きていることは川口には理解出来なかった。
だが確実に米軍は近づいて来ていた。
川口には外の状況が理解できなくなった。
子供たちも戸惑った。
紛れもない日本語である。
「出て来なさい。大丈夫だ。ご飯もあるよ。お菓子もあるよ。出て来て」
「日本がメリケンに勝ったにちがいない」
下の少年が小声で叫んだ。
三名の子供たちの目が一斉に輝いた。
川口も、一瞬、そう信じかけた。
年下の少年が洞窟の入口を隠すために立て掛けた草を掻き分け、光に吸い込まれるように入口から駈け出して行った。
咄嗟の出来事で上がり制止する余裕もなかった。
少女が兄の姿を見失って泣き叫んだ。
外で日本人の声がする。
少年に話し掛けているのである。
「まだ中に残っているか」
「・・・・・・・・」
外に出た少年の声は聞き取れなかった。
「腹はすいているだろう」
「すいている」
無邪気な少年の声が、はっきりと聞こえた。
「これを食べなさい」
「・・・・・・・・」
「大丈夫。最初、おじいさんが食べてみよう」
「・・・・・・・・」
しばらく話声が途切れた。
せき込む音がした。
「そんなにあわてて食べちゃ、駄目だ」
「・・・・・・・・」
「どうだ、おじいさんの言ったとおりだろう」
川口は息を潜めて待った。
洞窟の入口に少年の影が浮かんだ。
「僕だよ。大丈夫」
朝日が差し込む草の隙間に子供が立っていた。
あっけない終わりだった。
「これ大丈夫だよ」
責めるように見つめていた妹に差し出した。
三人は渡された食べ物をむさぼった。
「食べ終わったら、出て来なさい」
先の日本人の声である。
三名の子供たちの視線が、一斉に川口に集中した。
意味の解らないメリケンの声がする。
「黙らせて」
日本人の声である。
「この洞窟を出よう」
食べ物を持ち込んで来た少年が、川口を伺いながら訴える。
「君達、三名は出て行きなさい」
「おじさんは」
川口は、頭を横に振った。
「残る」
「駄目、一緒でなければ駄目」
少女が泣き叫び駄々をこねた。
幼い子供たちにも川口が考えていることは十分分かった。
三名の子供たちと同じように手を上げて、最後に洞窟から出た。
外は眩しかった。
梅雨の合間の晴れ間から、沖縄特有の暑い太陽が大地を照らしていた。
片足の痩せ細った男が立っていた。
二人の背後には、銃を持った六名ほどの米兵が立っていた。
「本当に後悔をしていませんか」
と先の男は、同じ質問を繰り返した。
川口という男に比べると背も高い。体つきもしっかりした紳士であった。
聞かれた川口という男の頭には白髪が混じっていた。
着ている服も華やかな披露宴の席には、そぐわなかった。
近づいて来た男は、洞窟の中で出会った年上の少年の方であった。
「あなたの人生を犠牲にしてしまった」
「そんなことはない。君たちと一緒に生きてきて楽しかった」
振り返ると、すべて夢だったような気がする
「あの子には申し訳ないことをした」
「エ。?」
男には川口の言葉が、すぐには理解出来なかった。
「私に甲斐性があったら、死なせずに済んだ」
川口は、下の少年を失った時のことを思い出していたのである。
「薬さえ手に入れば」
「そんなことを気にしていたのですか。
あなたのお陰で妹と私はこうやって年を成長することが出来た。
妹は娘の結婚式まで見ることが出来た。妹も片腕を失ったあなたが私たち三名のために苦労したことをよく知っています」
「自分こそあの戦争で生き残れたのは君たちの御陰だと思っている」
洞窟で味わったサツマイモの味や、そこをを三名の子供を手を取り出て行った時の気持ちを思い出した。
川口と別れて南へ逃げて行った二人の仲間の消息ははっきりしない。恐らく戦死したに違いない。
戦争が終わってからの混乱期の生活の苦しさはも言葉に言い尽くせない。
「随分、二人で危ないこともしたな」
川口は言って笑った。
密貿易や金属を回収するための不発弾集めのことである。
「生きるのに必死でしたから」
男も思い出して笑った。
少し間をおいて男が言葉を続けた。
「母はこのサツマ芋を絶対に食べるなと言い残して息を引き取りましたが、あのサツマ芋は彼女が私たちに残した遺産だったような気がします」
川口も彼の意見に同意してうなづいた。
「君たちの母は賢い女だったに違いない」
「それがあなたの人生を縛ってしまったような気がしていました」
「縛られていたとも、無駄な人生を送ったとも思っていない」
「君たちの母も生きていたかったろう。そして君たちの行く末を見届けたかったに違いない」
そう言い終わると、川口は夕陽に染まりつつある窓の外の町の景色に視線を移した。
遠くに海が見える。
二人が休憩するロビーからは穏やかに凪いだ海が見え、その海面には夕陽までの赤い線が真っ直ぐに伸び、まるで太陽までの道ができたようである。
「私は妹をあなたの嫁に思っていた。妹も、その気になっていたが、あなたが断った」
「それ以上は言わない方がよい」
川口は男の言葉を制した。
五十を過ぎた婦人が傍に立っていたのである。あの洞窟にいた幼い少女である。
二人の会話に関わらず、式は進んでいった。
男が川口に耳打ちした。
川口が、一瞬、困惑する表情を顔に浮かべて、しきりに断り続けたが、男は無理に手を引いて式場に戻って行った。
やがて披露宴は終わろうとしていた。
「最後に新郎、新婦からそれぞれの御両親に花束を贈ります」
司会者は、タイミングを図るように少し言葉を止めた。彼には事情が理解できず、困っているようにも見えた。
「それから新婦側のおじさんにも花束を贈りたいということですが。おじいさんも台の上にお上がり頂けますか」
司会は、おじさんの姿を探すように会場を見回した。
ロビーに通ずる入り口から二人の男が姿を現し、年取った男が促されるまま正面の台の方に不安げにゆっくりと歩いて行った。
母の遺産 夏海惺(広瀬勝郎) @natumi-satoru
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