光のどけき春の日に

本編

 五月十六日の朝はゆったりとした日差しが降り注ぐ、穏やかな春の一日だった。

 僕は等身大クマさん人形『熊五郎』の柔らかすぎる感触に違和感を覚え、目を覚ましたのだ。


 自分の腕の中で、見知らぬ女性が眠っていた。

 穏やかな表情で、すやすやと寝息を立てている。

 彼女からはシャンプーの良い匂いがした。


 誰だこいつは。


 僕が上も下も固まっていると不意に彼女がパチリと目を覚ました。

 目のあった僕達は二人して叫んだ。


「母さん! 朝起きたら熊五郎が女の子に!」


「お母さん! 熊花子が男に!」


 もつれ込むようにキッチンに飛び込んだ僕達を見て母は静かに笑った。


「朝から仲良いわねぇ」


 僕たちは顔を見合わせた。

 不可解である。


 

 どうにか気持ちを落ち着けて朝食を食べた。

 見知らぬ人と食べる朝食は居心地が悪い。

 母は彼女の存在について全く疑問を抱いていなかった。


「それで、君は誰なんだ」


 部屋に戻ってきて、ようやく尋ねる。


「あなたこそ誰よ」


 彼女は負けじと言い返す。

 彼女は僕と同じ苗字で同じ名前をしていた。


 仲間なかま まこと


 女の子が名乗っていても特に違和感はない名前である。


「あなた、私と同じ場所にほくろがあるわね。肘のところ」


「ホントだ。ひょっとして、君もそのほくろから毛が生えてたりするのかい?」


「うん。ほら」


 ひょいと肘を突き出してくる彼女のほくろには、僕と同じく細長い毛が生えていた。

 世にも気持ちが悪い。


 調べてみると僕達は他にも体の同じ所にほくろがあり、足の甲にも似た傷を持っていた。

 昔、図工の時間にカッターを誤って落とし、足に刺さってしまった時の傷だ。

 傷が出来る過程も、一致していた。


「なるほど、信じがたい話だけど、君はつまりもう一人の僕。そう考えると納得が行くな」


「つまりあなたは男性ホルモンを注射した私、そう言うことね」


「いや、違う。君がオカマになった僕なんだ」


「その発想はおかしい」


「胸にはシリコンを……入れているのか」


「これでもCはあるんだ」


「女子なのに下ネタに寛容なところまでそっくりだ」


「おっぱいネタは果たして下ネタとして換算して良い物だろうか」


「まて、その議論は長引くぞ」


 閑話休題。


「つまり君は女の子になった僕と言うわけか。僕は男の子になった君だ」


「まぁそう言うことでしょうけど、それにしても君、随分飲み込みがはやいね」


「こう言う展開はアニメでもよくあるからね」


 あのときの彼女の困った様な笑顔を忘れられない。

 多分二十年後に思い出しても死にたくなる、そんな全力の愛想笑いだった。


 僕たちは一緒に家を出た。

 彼女も僕と同じ高校に通っているらしい。


 部屋を出る時に日課として日めくりカレンダーをめくっておいた。

 五月十五日の紙が音を立てて破れる。


 洋服ダンスには何故か彼女の物であろう制服がかかっており、玄関にも彼女の靴があった。

 まるで最初から僕達二人は一緒に生活していたように、世界は僕達を受け入れていた。


 教室に行くと、僕の席の隣に見慣れぬ机があった。


「この席にどちらかが座ることになるみたいだな」


「そうだね。……私、いつもは窓際の席なんだけど」


「君もそうだったのか。残念だけど、僕もなんだ。だから君には今日から窓際隣の席になってもらうよ」


 僕が席に座ると隣から何発も舌打ちが飛んできた。

 いや、おそらく気のせいだろう。

 そう思うことにしておく。


 不思議なことに、クラスの皆も彼女の存在を疑問には思っていないようだった。

 突然増えたクラスメートの存在を、皆は何事もなく受け入れている。

 まるで以前からのクラスメートだった様に彼女の所に多くのクラスメートがやって来ている。


 彼女は朗らかな顔で受け答えをする。僕のところには誰も来ない。不可解である。


「ちょっとSFチックな話になるけど、良いかな」


 昼休み、彼女と食堂で昼食をとった。

 食堂は多くの人でにぎわっており、端の方の席で僕たちは目立たないように会合する。


「言ってごらんよ」


 僕は唐揚げを口に運んだ。


「今のこの状況、私達の本来住んでいた世界がごっちゃになっちゃったんじゃないかな」


「……パラレルワールドってこと?」


「そう、その掘られたらザ・ワールドに私達は迷い込んだの」


 聞き間違えが酷すぎる。


「つまり、僕達二人が存在しているのが当然の世界。そこに僕等は迷い込んだ」


「そう、そういうことよ!」


 彼女は興奮したように鼻息を荒くする。

 鼻水が飛び、僕のから揚げにかかった。もう食べられない。


「じゃあどうすれば元の世界に帰れるのだろう」


 僕は唐揚げを皿ごと脇にどけた。


「そうだなぁ。……昨日、何か変わったことはなかった?」


「変わったこと?」


「普段しないような行動をしたとか」


「昨日なら神社に行ったよ」


「神社? なんで?」


「いやぁ、彼女が欲しくてさぁ。お願いをしに、ね」


「それで、なんで相手が私なのよ……」


 彼女に言ったことは嘘だ。

 僕は神社に行った。願いごともした。

 でも恋人が欲しいなどとは願ってはいない。


 放課後になり、僕達は街を練り歩くことにした。

 本当に原因が神社にあるのか調べに行くのだ。


 学校を出て、駅前の栄えた大通りを通る。

 ゲームセンターやボーリング場があり、僕らと同じ高校生らしき姿も多い。

 このあたりの学生はみんなここに集うのだ。


「見てよ、ガラスに私たちが映ってる」


 僕達はショーウィンドウの前で足を止めた。


「美男美女すぎて恐いな……」


「私たちは何でこれほど美しいんだろうね」


「神に愛されているからだよ。初めて君を見たとき、天女かと驚いたもんさ」


「ははっ。よく言うよ。モデルみたいな顔して」


「モデルだなんて。中の上くらいだよ」


「奇遇じゃないか。私も自分の顔はそう評価していたよ」


「君は中の上どころじゃないだろう。上の上の上だ。天井知らずだ」


「あはは、聖ヨハネが何をおっしゃる」


「こやつめ。言いよる」


 この会話が壮大な自画自賛だと気づいて死にたくなるのはもう少し後の話だ。

 彼女は驚くほど話しやすく、会話のリズムも合った。

 性別以外は僕と同一人物なのだから当然なのかもしれないが、僕が求める返答をしてくれ、話していて非常に小気味が良い。


 僕達が大きく異なっているのは性別だけだった。

 それによる多少の言葉遣いや嗜好の違いがあっても、多少の齟齬に他ならない。


 でも、どうしてこれほどまでに違うのだろう。一体僕には何が足りないのだろうか。


「あ、真」


 大通りを抜けた所で不意に誰かが僕達に声をかけてきた。

 中学の同級生だった女子だ。

 同級生は僕を露骨に無視して、女の僕に話かけた。


「久しぶりだね? 元気」


「うん、元気にしてるよー。そっちはどう? 新しい高校」


「まぁまぁかな。結構イケメンも多いし。真はもう彼氏出来たの?」


 突如として始まるガールズトーク。

 なんだか居たたまれなくなり、少し距離を置いた。近くにあるアクセサリショップを眺める。

 それでも話し声は聞こえた。


「ねぇ、あれって……」


「え? ああ、うん。家族だけど」


 女性の僕が言う。うまくごまかしたな、と思う。


「真、あの子とあまり一緒に行動しない方がいいんじゃ……」


「なんで?」


「だってあの子、しゃべり辛いんだもん。意見をはっきり言うから皆に敬遠されてるの、知らなかった? 友達の家族を悪く言うのって嫌だけど、それで真まで悪く言われたら可哀想」


「しゃべり辛い? そんなことないよ」


「それは真が家族だからだよ。とりあえず、忠告はしたからね。それじゃ」


 そう言って同級生は去って行った。

 残されて少し気まずそうな彼女に、僕は何も気付いていないフリをして「もう話は良いの?」と声をかけた。


 ぎこちなく頷く彼女の表情が、その複雑な感情を物語っていた。



 しばらく街を見て回り、僕達は神社にやってきた。

 長く続く石段の上にあるそこからは街を見渡すことができ、夕景の空がよく見える。

 そこから見える景色は昨日までとまるで何も変わっておらず、世界にはまるで一切の悩みや悲しみなど存在しないかのように思えた。


「夕陽が奇麗だねぇ」


 彼女は石段に座る。僕も隣に腰掛けた。

 妙に気まずい沈黙が漂った。

 二人で黙って夕焼けを見る。


「昔からだったんだ」


 こんな事を吐露できるのは、彼女しかいない。


「別に口下手なわけじゃないし、いじめられているわけでもない。でも、友達と呼べる人はいなかった。何を話せば良いか分からないんだ。だからいつも人と距離を感じてる。近付こうとしているのに、近づけない。つまらない人間なんだよ、僕は」


 彼女は何も言わない。


「神社で恋人が欲しいって願ったのは嘘なんだ。本当は、友達が欲しかった」


「そっか」


「学校での君を見て驚いたよ。よく似てるはずの僕達だけど、君は僕よりもずっとクラスに溶け込んでいたし人望もあった。一体僕に何が足りていないのか、さっぱり分からないんだ」


 彼女はぐっと伸びをすると、立ち上がった。風が吹き、彼女の髪が揺れる。

 そして彼女は「ちょっと待ってて」と神社へ歩を進めると、神主らしき人に声をかけた。

 しばらくやり取りし、戻ってきた彼女は僕の手の平に何か握らせる。


 見れば、お守りだった。


「君にこれをやろうではないか。これを持っていたらもう安心だよ」


「気休めでしかないな」


「気休めの効果がどれだけ大きいかを、これから君は知ることになるであろう」


 僕たちは互いの顔を見て笑った。

 安産祈願のお守りだったことはあえて突っ込まないでおく。

 帰る前に、もう一度神社で拝むことにした。

 元の世界に戻れますように。


 そして。僕は思う。

 彼女がずっと幸せでありますように。


 その日の夜。お風呂に入って部屋に戻ってくると、彼女が窓から空を眺めていた。

 彼女は僕の気配に気付くと、優しく微笑む。


「結局、戻る方法分からなかったね」


「神社は関係なかったのかもしれないな」


「でも、このまま君と過ごすのも悪くないと思っている私がいるのだよ」


「実を言うと僕もだ」


 月明かりが静かに室内を照らす。

 蛍光灯をつけていないのに影が出来る。

 彼女の表情がよく見える。


「君は、つまらない人間なんかじゃないよ」


 彼女は急に真面目な表情で口を開く。


「実を言うと私もね、昨日神社に行ったんだよ。願い事もした。内容は、多分君と同じ」


「どうして? あれだけ多くの友達がいるのに」


「だから、だよ。人と過ごすと言う事は時折私に辛い経験をさせるんだ。聞きたくもない言葉が不意に飛び込んでくる事もある。彼らを友達と呼んでいいのか、分からなくなったんだ。心から安堵できる友達と一緒に過ごしたい。それだけなんだ」


 僕は、同級生と遭遇した時の事を思い出した。

 あの時の彼女の表情の意味。

 僕に対する気まずさと憐憫の意がこもっていると思っていた。


 でも、それだけじゃなかったのかもしれない。


「君は不思議だね。今日初めて会ったのに、君と会話しているとすごく落ち着いた。会話を楽しいと思ったのは、久しぶりだよ」


「そんなの、君が言ったってただの自画自賛にしかならないだろ」


「自画自賛でもいいじゃない、人気者の私が言うんだから。君は間違いなく面白い奴だよ」


 彼女はそう言うとニッと力強く笑った。その笑顔は僕の心を揺らめかせる。勇気付ける。

 僕は、静かに空を見上げた。月がぽっかりと夜を切り取ったように浮かんでいる。


「そう言うことにしておこう」

 



 朝、目が覚める。熊五郎のごわごわした感触に目を覚ます。


「真?」


 名前を呼んだが、返事はない。

 部屋を見渡す。

 彼女の姿はない。


 ふと、昨日めくった日めくりカレンダーが目に入る。

 そこには五月十五日と表記されている。

 昨日確かにめくったはずだ。


 でも戻っている。何故か。

 僕はそこで不意に悟った。


 悲しみが、静かに胸に押し寄せてくる。

 全部、僕の夢だったのだ。


 もう一人の僕などはじめから存在していなかった。

 全て空想の産物でしかなかったのだ。


 僕はしばらく唇を噛んで呼吸を調えた。

 そうしないと今にも涙が零れ落ちそうな気がしたからだ。


 立ち上がろうとしたけれど、体がよろめく。

 耐え切れず、近くにあった机にもたれかかった。

 そこで、何かが手に触れた。


 机の上には安産祈願のお守りが乗っていた。


 瞬間、鼓動が止まる。息が詰まる。

 あぁ、そうか。

 彼女は確かにここにいたんだ。


 僕はカーテンを開けると、空を仰いだ。

 深い感謝の念を抱いて、深呼吸をする。

 その日はゆったりとした日差しが降り注ぐ、穏やかな春の一日だった。

 五月の風は温かく、空には青空が広がっている。


 大丈夫。僕はまだやれる。

 たった一日の相方に、僕は「ありがとう」と呟いた。

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