五・忍逆深令と話をする

 七月二十二日(木)


「で?」忍逆さんは問い詰めた。「その先は?」

 俺は要望通りその先を言う。「夕方頃に警察がやってきて色々と訊かれたよ。殺された彫元さんとはどういう関係にあったのか、とか」

「なんて答えた?」

「同じマンションの住人、ぐらいかな。大家さんからは家賃をいつも滞納してるってのは聞いてたし」

 事ある毎に家賃の催促に来る大家さんから逃れるためか知らないが、いつも家にいなかった。深夜になってから帰ってくることが多くて、行き先を訊くといつもこう答える。「サイクリングだよ」

「深夜にその彫元さんって人と会ったりしてたの?」警察が訊いたことと同じことを彼女は質問した。

「時々だけど、夜にふと目が覚めちゃうんだよ。深夜の三時くらいが一番多い。それぐらいの時間に、ドアの外で足音がするから見てみたら彫元さんだったってわけ」

 彼は自転車を押しながら、眠れない俺と世間話をしたりした。俺より背が高くて、細長い男だった。そんな細い足で自転車漕いだりするんですねと話して笑った記憶がある。だが結局それ以外は何一つ接点がないし、そもそも深夜に話したのも数回程度だ。不眠症がある程度改善されてからはタイミングが合わず、深夜に目覚めても彫元さんはいないし、彫元さんが帰宅した時間帯に、俺はぐっすり眠っていたりしたから。

 彼女は相変わらず震えていた。赤いマフラーと黒いダッフルコート。今が夏じゃなければ、俺も同じように着込んでぬくぬくと過ごすだろうさ。

 警察が来てから一日が経ち、俺は夏休み初日の明るい時間帯を部屋の中で過ごした。野次馬は昨日に比べてある程度減ったものの、騒がしさが全く変わらないのが不思議だ。俺は部屋の何もかもを閉めてカーテンも閉めて、薄暗い部屋の中で冷房をつけて過ごしていた。その夕方になって、俺は昨日敢行できなかった分を取り戻すかのように走った。走距離的にはそれほど変わりがないのだが、精神的にも肉体的にも、二日分の疲れがやってきた気がした。

 忍逆さんはいつものように座っていたし、俺もいつものように彼女の元へ行った。実に一日ぶりの彼女が発した言葉は「昨日の事件」。俺は最初何を言われたか理解するのに時間がかかってしまい反応できなかった。咄嗟に「え」とだけ発すると、「聞かせて」と付け加えてきたので事件の概要を話したのである。

 目を丸くして瞳を輝かせて、まるで無邪気で好奇心旺盛な子供のように彼女が俺に問いつめてきた。その勢いに気圧されてしまったせいだろう。俺はやっぱり、数秒間ほど何も言えなかった。

 そして今に至る。

 すべての話を俺から聞き終えた彼女はまた退屈そうな態度に戻ってしまった。ベンチから垂れ下がる足を交互に上下させる。

「まあその、大体の話はニュースで知ったけどさ」

 俺もニュースは見てたし、自分が住んでいるマンションの奇妙さを公の元に晒される様を目の当たりにしていた。俺が説明した部分の殆どは、確かそのニュースで言ってた気がするけど。何で俺に説明させたんだ。

「真刈君の主観でその事件を聞きたかったんだよ。こっちはテレビだから細かい部分までは伝わってこないでしょ、ほら、臨場感とかさ」

「殺人現場の臨場感とか味わいたいの?」変な趣味をしてる。

「だって、私、巫女だったじゃん」

 俺は何も言えずただ彼女を見る。

「それは聞いてない」

「言ってなかったっけ。ああ、確かに言ってなかったかも。昨日くれたメールにそのことを書いて返信しようと思ったんだけど、消しちゃったんだっけな」彼女は空を見上げながら力を込めて目を瞑る。額を隠していた前髪が左右に垂れ下がる。眉間にしわが寄っているのがわかった。必死に思い出そうとしているらしい。そんな些末なことを?

 結局その大部分を消したから「残念」という簡素な内容だけが残って、返信が来たわけか。

 だが、その「巫女だった」という情報を返信内容の中に加えようとしたのか? 俺は確か「今日は行けない。ごめんなさい」という簡単なメールをしただけだ。

「だから、それは私も変かなと思って書かなかったの」

「なるほど」そもそも俺が簡単なメールを、

 あれ?

 俺は携帯で送信済みのメールを見る。忍逆さん宛て。やっぱり記憶通り、二言しかないメールを俺は送っていた。

「俺さ、」

 忍逆さんの視線を感じて、俺も忍逆さんを見る。

 彼女は笑みを浮かべていた。何やら勝ち誇ったような得意げな笑み。「なあに?」わざと語調を伸ばして彼女は応答した。俺の言わんとしていることはもうわかっているらしい。

「住んでるマンションのこと言ったっけ?」

「言ってない」彼女はその笑みのまま答えた。相手の知らないことを知っているときの優越感に浸っている顔だ。俺はそう思う。

「殺人事件に出くわしたって言ったっけ?」正確に言えば、俺の住んでるマンションで殺人事件が起きたってだけで、俺自身が出くわした訳じゃないけど、まあ。

「言ってない」わざとらしく首を横に振る。「真刈君の住んでるマンションで殺人事件が起きたんでしょ」

「何で知ってるの?」

「巫女だったから」彼女の答えもまた、予想できるものだった。

 彼女は既に知っていたから「その先は?」と執拗に訊いてきたわけか。

 ……いや。

「待って」反論が頭の中で形成されていく感覚がする。もう少しで口に出せる。

「忍逆さんは記憶力とかどうなの」

「人並みかな」

「そう……」まあいい。俺は強引に推理する。「忍逆さんはニュースを一通り覚えてた。当然殺人事件のことも覚えてて、俺が話す事件の内容を聞きながら自分の中のニュースの記憶と照らし合わせて記憶を強固なものにした。その前に、昨日俺が何らかの理由で来ることができなかったことを思い出し、そのニュースを見た時点で、その事件に俺が関係しているのではないかと考えた。結果として、俺の住んでるマンションで殺人事件が起きたのではないかと推理した」

 彼女は笑った。声を出して笑った。

「いい線行ってるっぽいけど、違うよそれ」

 腹を抱えて笑う。

「記憶力は人並みって言ったばっかりじゃん」

 そのままうずくまって尚も笑う。

「それに、真刈君がマンションに住んでるなんて、真刈君は一言も私に言ってないんだよ。私が、真刈君が一人暮らしだと考えない可能性だってあるし、真刈君が一軒家に暮らしてるかも、なんて考えるかもしれないのに」

 引き笑いもまた豪快なものだった。そんな小さ体からそんなにも大きな声が出せるのか。

「あと、補足しておくね。私、あんまり推理って得意じゃないんだ。私にとって、真刈君はまだ結構謎な存在なんだよ。一昨日もその前も、私が一方的に私自身のことばっかり喋ってるおかげで、あんまり真刈君のこと知らないんだよね」

 笑いが落ち着いてきたらしく、彼女は姿勢を整えた。

「だから当然、私は真刈君がマンション住まいなんて知らなかったし、一人暮らしなんて知らなかったし、よりにもよってあの奇妙な形のマンションに住んでるなんて微塵にも思わなかったし、しかもそのマンションで殺人事件が起きたなんて、ニュースを見てもないのにわかりっこないよ」

 笑い転げて乱れてしまった髪を整えている時に、彼女が泣き笑いまでしていることに気がついた。もうすっかり冷静さを取り戻しかけていて、また寒そうに凍え始める。

 彼女はひとしきり笑い終えて、大きなため息を。

「だから、私はまだ真刈君のことを何も知らない」

 嘘をつけ。

 怖いくらいに知っているじゃないか。

 彼女が今やったことは、俺の推理を笑いながら否定し、その果てに俺の生活の様子を文字通り見透かしておきながら、自分自身は俺のことを何一つとして知らないと白を切ったのだ。いや、白を切ったのか? 彼女は本気で俺のことを知らないと言い張るつもりだろうか。

 ……彼女がやったことを頭の中で整理した途端に寒気が走った。実際に寒さを感じたのかもしれない。冷え性が感染ったか。涼を求めるにはあまりにも度の過ぎた怪談だったと言わざるをえない。

 俺は彼女を見る。寒そうにしながらも顔だけは得意げだった。

「ど」最初の文字を発した時点で、俺の声が震えていることにも気がついた。「どうしてそんな、一人暮らしだなんてそんな、あのマンションに住んでいるとか、」

「もちろん、真刈君の口から直々には聞いてない」猫背になっている忍逆さんは下から俺の顔をのぞき込んでくる。普通に座っても、座高は全然違う。なのに彼女はよりにもよって猫背なので、なおのこと、彼女の顔が下にあるように見える。

「それは私が巫女だったから、全部わかるんだよ」彼女はその殊勝な表情を見せ、元の姿勢に戻った。

 さっきから「だった」と、過去形なのが気になる。

「巫女自体はもうやってないよ」

「巫女じゃないのに俺のことがわかるの?」

「ぶっちゃけると、巫女は後付け設定なんだよ」種明かしをするのは問題ないらしい。「私のお母さんも、他人の色々なことがわかっちゃう性質を持っててね。親譲りってわけ」

「家は神社なの?」

「そうそう。代々神社を営んでるんだけど、寂れてるよ。私達もまた代々巫術を生まれつき持ってて、まあだから巫女になったんだけど。「休業」って言ったほうが早いのかなあ、お参り自体はできるようにしてるけど、御神籤とか御守とか、そういうものは売ってないし、厄払いも受け付けてないし、実質何もやらないようになったんだ。巫女装束も私には薄着過ぎて凍えちゃうものだから神楽なんてできたもんじゃない」

「だから「元」巫女なわけだ」

「そういうこと」

 で、その巫術を悪用して俺の個人情報を抜き取ったわけか。

「悪用とは人聞きの悪い」

「実際人聞きの悪い事やってるだろ」

「悪いように利用はしてないよ。どうして昨日は来なかったのかなぁって単純な疑問から始まったんだから」

「動機はどうあれ……」諭す気にはならなかった。彼女は少なくともわかっててやってる。俺のプライバシー云々とか情報リテラシーの何とやらを理解した上で行動している。

 そうであってほしい。。

「どうあれ?」律儀にも彼女は聞き返してきた。動機はどうあれ、無暗に人を詮索をするのはよくない。

「なんでもないよ」

 そう、とあっさり引き下がった。「無暗に人のことを詮索するのはよくないって、そんなことは十分わかりきってるから心配しないでね」

 怖い。完全に読心術の類だ。何が巫術だ。

「忍逆さんは、人の心が読めるの?」

「まあ、人並みには」

 全ての人間が読心術を併せ持っていたら、世界もまた今と違った作りになっているんだろうさ。そうじゃないから訊いたのに。

「嘘嘘。人の心を読むのはそんなに得意じゃないんだよね」

「さっき、俺が思ったその通りを文章にして喋った以上、その弁解に説得力はないと思うけどな」

「偶然だよ偶然。時々そういう偶然性を味方に付けちゃったりするんだよね。実際は心なんて読めないんだけどね。ただ、なんとなく口に出してみたら、近くにいた人の思っていたことと一致しちゃう、ってのはよくあるかな。あれだよあれ。シンクロニシティ」

 そんな咄嗟に思いついたように言い訳されても。

「まあとにかく」俺の思案を断ち切るように彼女は更に弁解する。「サイコメトリーとかそんな感じだよ」

「サイコメトリーは触れないとダメなんじゃなかったっけ?」

「そうだっけ? 私は触らなくてもできるけど」右手をコートのポケットから出してそれとなく眺める。冷える手を暖めんとするかのように、すぐにまたポケットへ手を入れた。

「そもそもサイコメトリーだったとして、それは巫女と関係あるのか?」

「あるとも言えないし、ないとも言い切れないよね」

 どちらかにしてほしい。

「まあとにかく」彼女はまた話を断ち切る。いちいち話題が逸れてばっかりだ。「その殺人事件の犯人を突き止めてみようか、ってことを、今日は言いたかったのですよ真刈君」

 犯人か。

 確かに不審死で他殺とも知らされてはいないものの、「一応」という名目で俺たちにアリバイを聞いてきたのは本当だし。殺人事件という方向で捜査を進めているようには見えた。

 けど、彼女はあのマンションに住んでさえいないのに、言うなれば当事者でも何でもないのだが、自らその渦中に飛び込もうとしている。

「止めても無駄だよ」まだ止めてすらいない。

「やめといたら?」タイムラグよろしく俺は彼女を止める。だいたい、警察はまだ捜査途中だろうし、そう易々と捜査に加え入れてもらえるとはとても思えない。

 それに。「推理は不得意だってさっき言ってたよな」

「言葉の綾」と彼女はあっさりと弁解する。言葉の綾。便利な言葉だよな。

「事件現場には入れないだろうけど、警察の真似事ならできるでしょ」

「真似事?」

「住人たちに話を聞くの。根掘り葉掘り聞くの」

「あのな、遊びじゃないんだよこれは」仮にも人が死んでいる。そんな中でこういうことをするのは不謹慎というか。

「誰が遊びだって?」彼女はこちらを睨んできた。「私が遊びでやると思った?」その睨んだ顔から冷気が流れ込んでくるような感覚がした。彼女の表情を窺う俺の眼が、少し冷たさを感じたほどに。

 俺は頷く。睨んだとはいっても、それほど鬼気迫る表情でもないので怖くはない。というか、不思議な感覚が恐怖心よりも先行して働いていた。

「私の何を見て何を聞いてそう判断したの?」声のトーンも低い。

 俺はそんなにも気に障ることを言っただろうか?

「「警察の真似事」って部分だよ。そこだけ妙に楽しそうに話してたから」

 正直に答えると、彼女の目が丸くなった。

「私そんなに楽しそうに話してた?」

 さっきは自信を持って頷いたけど、今度は若干所在なさげに頷く。

「そっか。私楽しそうにしてるんだね」

 自分で自分の感情に気づいていないらしい。それほど落ち込んでいない様子を見ると、「またやってしまった」みたいなニュアンスにも受け取れるし、よくあるのだろうか。自分が思っていた感情とは違う表情を浮かべていることが。「警察の真似事」に関しては、それこそ言葉の綾、と判断するのがいいか。

「真剣だよ。これでもね。変に言葉を選んじゃったのもあるけど。犯人は突き止めたいと思ってる」

 彼女の言葉を信じるしかないらしい。彼女が絶対に嘘をつかないという保証はないけど、だからといって信じないことには何も進まないだろうし。

 めまぐるしい彼女の反応及び挙動は、やっぱり俺には不思議なもので、戸惑いを隠せない。だから、「じゃあ、明日はよろしくね」と、忍逆さんがベンチから立ち上がる動作に対して、すぐに反応できなかった。

「ここで待ち合わせようか」慌てる自分自身を繕いつつも何の気なしに俺は言ったのだが、

「それには及ばないよ。とっくに場所はわかってるから」笑顔で彼女は突っぱねた。

「それもサイコメトリーってやつ?」

「違う違う。厳密な話、私のはサイコメトリーですらないけど……。まあ単純な話だよ、私はニュースを見て、あのマンションで事件が起こったことを知ったけど、あんな変なマンション、この辺の人たちはみんな知ってる。私も含めてね。軽く名所みたいなものになってるよ。それじゃまた明日ね」そそくさと帰っていった。考えてみればそれもそうか。この辺に住んでて、あんな奇妙なマンションを知らない人間の方が少数派だろう。

 すっかり辺りは暗くなってしまった。街灯を飛び回る虫が俺の顔にまでやってくる。暖簾に腕押し糠に釘、とはわかってはいるけど、やっぱり鬱陶しいので振り払ってしまう。その腕をすり抜けて虫達は俺の顔に飛び込んでくる。埒が明かないと思いながら、そんな滑稽な自分がおかしくなってしまって独りで笑いながら、自宅である奇妙なマンションへと帰った。

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