四・事件の話
七月二十一日(水)
終業式だった。前日にも言われていたはずなのに、俺はすっかりそのことを忘れていた。「光陰矢のごとし」という諺を唱える前に一学期は過ぎていった。特に何事もないような日々を無意識に過ごし続けてきたからだろうか。
「真刈君」教室の入口から炉幡さんの顔。彼女とは同じ学校だがクラスが違う。先にホームルームを終えたのだろう。こちらもさっき終わった。
教室は夏休みに浮かれきっているのでかなり騒がしい。俺も近くの席の人と話をしていたところだ。炉幡さんに最初に気づいたのは、俺ではなくてそのクラスメイトだった。
「今日、一緒に帰らない?」炉幡さんはまっすぐに俺の目を見てそう言った。まあ断る理由はない。どうせもう帰るし。
「いいよ」と俺は何の気なしに応えるけど、俺の返答を受けて彼女は「……ありがとう」と、少し変な間を置いて反応した。
鞄を取って「じゃ、良い夏休みを」と、さっきまで話していたクラスメイトにおよそ一ヶ月半の別れを告げる。おう、と普通の反応の後に「真刈、彼女いたっけ?」
「彼女じゃないよ。同じマンションの住人」
「付き合ってないの? 一緒に帰る仲なのに?」
「別に一緒に帰るからってそういう関係にはならないと思うけど」
帰り道がほとんど同じなので、俺の前を彼女が歩いていたり、その逆もある。
しかし、横に並んで一緒に通学路を歩いたことがまだない。つまり、一緒に登校したり下校したりするのは、今日が初めてということになる。もう俺も彼女もあのマンションから二年間も学校に通っているのに、未だに一緒に帰ったことがない。
考えてみれば、僅かな時間差で俺と彼女の通学時間が重なるようになったのはいつだったか。最初は彼女が同じマンションの住人であることすら知らなかった。一緒に帰るどころか、通学時間帯そのものが重なっていなかったような。
「もしかして、一緒に帰るの初めて?」別のクラスメイトが話を聞いていたらしく口を挟んできた。炉幡さんが待っているので、できれば早く切り上げたいところ。
「そうだね、今まで一緒に帰ったことはないな」
「だろうな」
まるでわかっていたかのように言う。
「炉幡さん、陸上部辞めちゃったから、放課後の時間が滅茶苦茶空いたんだと思うよ」
「その空いた時間で、私はますます本を読むようになっちゃった」と、炉幡さん。退部について何気なく触れたらそんな言葉が返ってきた。
「じゃあ、本を読みたいってだけの理由で?」
うーん、と彼女は考えて、「と言うよりは、もともと陸上部の方が合ってなかった、というか。……ほら、どうしても陸上部って、皆たくさん走って、その分を記録しなきゃいけないでしょ? その記録に追われてて、全然本を読めなくて」選手ではなくマネージャーだったらしい。
「部活も終わるのが大分遅いし、かと言えば朝早くから練習始めたりするでしょ、どうしても自分の時間は減るよね、自分のっていうか、趣味の時間っていうか」
通学時間帯が全然重ならなかったのはそういうことか。
「で、今年度初めあたりに辞めた。新入生も入部して何人かマネージャーになってくれたことだし、私の学年には私以外にもマネージャーがいるし」
じゃあ時間帯が近づいたのは今年度からか。自分の記憶もあてにならないものだ。
「辞めてからは時間がたくさんできてもう最高って言うか。本屋だって開いてる時間に行けるし、忙しくて読めなかった本とかもどんどん読めるしで、もう本当に最高なの」かなり活き活きと語る。そんなにも部活が枷になっていたのか、と思えるくらいに十分に伝わった。
「あの……」楽しげに語る彼女の話を遮るのはどうも気が引けるが、色々と聞きたいことが有るのは事実だ。彼女は話を止めて「あ、ごめんごめん、何?」と。
「陸上部に入ろうと思ったきっかけは何だったの?」
「誘われたの。単純よ、それだけ」
「断れないような人間なの?」
「ん、どういう意味?」
「その、「この人の頼みは断れない」みたいな友人がいて、その人の頼みだったのかなって」
彼女は少し目を丸くした。「よくわかったね。さっきの真刈くんのニュアンス、てっきり「私が他人の頼みを断れない人間」みたいに聞こえちゃったから」
なるほど。その一言だけ返す。
炉幡さんとこうやって帰って会話して、そうして今わかっているのは「よく喋る」こと。昨日のあの夕食会の時点で、状態としては割と初対面に近かった。引っ越した当時、各階に挨拶に行った時炉幡さんは確か留守だった。挨拶したかどうかも記憶が曖昧だが、挨拶したという記憶は少なくともない。というかそれよりも、同じ学校の制服を着た女子がこのマンションに住んでいるという事実を知った時の衝撃が、強く印象に残っている。
今まで話したことのなかった人間と新たに話す気分は、当然ながら新鮮なものだけど、第一印象を塗り替える勢いというものがあって、それもまた楽しかったりする。
同じように忍逆さんを思い出す。
多分、今日の夕方もいつもどおり彼女はベンチの上で縮こまっていることだろう。今日は何を話してくれるだろうか。こちらが話す内容は決まった。昨日の時点で、ネタは充填されたようなものだし、何を話そうか迷うことになりそうだ。
通学路の先に俺たちが住むマンションが見えた。立ち上る陽炎で白いマンションはゆらゆらと蠢く。変な造形をしていることなんてとうにわかりきっているので流石に何も思わない。あれはれっきとした俺達の家。それだけ。
だけど、近づくに連れて、俺達の家は少し不穏な空気を纏っていることに気づいた。
「何だろう」炉幡さんがふと呟く。それはまさに独り言で、俺も同じようなことを思っていた。
不思議な空気なら、このマンションはいつも纏っている。
だが不穏な空気については、今まであのマンションから感じたことはない。
端的に言えば、騒がしい。
閑散としていて、耳を澄ませば生活音も若干聞こえてくるぐらいに静かなあのマンションの周りには、何台も車が停まっていて、人が大量にいる。
車は警察車両で、人は警察とその他大勢。
つまり警察が大量に来ている。
押しかけている、の方が表現としては近い?
マンションの入口、つまり最上階へ一直線に続く階段には所々に人が散らばっている。本来ならそれがまずありえない。地上たる一階に至っては床が見えない。人で埋め尽くされてしまっている。なんとか人混みをかき分ける。こんな蒸し暑いのによくもまあそんなに密着していられる。警察以外のその他大勢とは、野次馬と報道機関だ。皆何かを撮っている。野次馬は携帯で。報道機関はカメラで。
かき分けた途端に風通しが良くなって涼しくなった。汗は引かないけど。
目の前には「立入禁止」の黄色いテープが。テープは階段の入り口を塞いでいた。一階への入口までは塞がれていない。階段には多くの警察の人間がいる。
ひとまず一階部分へ避難する。丁度俺の家のドア付近。下手にこのマンションの入口から最寄りの部屋を選んでしまった。部屋に入ってもうるさいんだろうな、これ。
警察の一人がすぐに来た。警官ではなく刑事か。ズボンのポケットから警察手帳を取り出してきた。脱いだ背広を、袖を捲くった腕にかけている。「ここの住人?」俺達はそれぞれ頷く。
「なんとなくわかるとは思うけど」そんな前置きをされてもわからない。俺も炉幡さんも混乱して何がなんだかどうなってるのやら。
「人が死んだ。ここの住人だ」刑事はストレートに告げた。
これといった反応が何もできず、緊張してしまって俺は大きな深呼吸をする。
炉幡さんも何も言わなかった。「絶句」という感じがわかりやすく伝わるくらいに。
「何階のでしょう?」俺は質問する。
「六階だよ」このマンションには一階を除けば各階に一世帯しか入っていない。もっと言えばこのマンションに住んでいる住人は殆ど一人暮らしだ。炉幡さんは、そういえばどうだっけ。
まあ、つまり階がわかれば誰かもわかる。わかってしまう。俺はまた大きく深呼吸する。まるで質問をするために深呼吸をしているみたいだ。汗が額から頬を伝って顎から滴り落ちるけど、それを拭う余裕もなかった。
俺は恐る恐る訊く。「彫元さんですか」
「そう……だけど、お知り合い?」刑事は腕にかけた背広を探ってペンと手帳を取り出す。
「このマンションには全然人が住んでいないので大体わかるんです」炉幡さんが質問に答えた。声が震えている。
「なるほどね」メモを取る。「君らは学校帰りかな」
「はい、終業式だったんです」
「そうかいそうかい」メモ。「君らはそれぞれ何階に?」
「僕は一階です」
「私は三階です」
「なるほどなるほど」メモ。「彫元さんとはどんな関係で?」
「同じ住人ってだけですね」炉幡さんも同じように答える。「あの、彫元さんは殺されたんですか?」
刑事はメモをしながらも、目だけがこちらを向く。「どうして?」メモから目を逸らしながらもまだ書いている。「どうして事件だと思った?」目付きが鋭い。
「警察が来てるからです。不審死ならともかく、ここまで大勢が押しかけてくるような出来事がこんな変哲なマンションに起こるとしたら、」
「それは殺人だ、ってか?」
「少なくとも私にはそうとしか」
刑事は鼻で笑う。「まあ、こんな奇妙なマンションで殺人事件が起こったともなりゃ、話題性は抜群だろうさ」
「……誰が見つけたんですか?」
「グイグイ来るね」口でも笑いだした。「大家さんだ」
とすると、家賃の徴収だろうか。先月に滞納分含めて全部払ってもらったと聞いたが、たしかに今月からまた滞納しているらしいし。滞納させまいという意気込みの表れか。だからって、直接部屋に押しかけるものだろうか。
「丁度いいや、昨日の十五時から十八時にかけて、君らが何をしてたか教えてくれるかな」
昨日の十五時から十八時。
「学校から帰ってきて、その時間帯までは家にいました」
忍逆に会いに家を出たのが十八時以降だ。
……いや。学校が終わったのが十六時頃で、それ以降にこの家に帰り着いた。で、その後に天気さんが家賃の徴収に来ている。その正確な時間はわからない。
「……私も同じです」炉幡さんの声は若干ながら音量が下がる。
「それを証明できる人間はいる?」
「「天気さんです」」
俺と彼女の声が重なる。これじゃあ示し合わせているみたいでなんだか不自然だ。
「親御さんは?」
「別居中です。一人は北海道に、もう一人は鹿児島に」俺は部屋に一人だし、その時間帯に親と電話していたわけでもなし。
炉幡さんの答えが少し気になった。自らの不在証明をできる人間が天気さん以外にいないということは、彼女も一人暮らし?
「その日は母が出張でいませんでした」
「そうかい」入念に刑事はメモを取る。「天気さんってのは、ここの大家だよね。じゃあ、その天気さんは昨日の何時頃にそれぞれのお宅へやってきたのかな」
「時刻まではちょっと」俺はそう答えたものの、ちょっと不十分だろうか。
取り繕うように俺は付け加える。「僕ら、同じ学校なんです」
「うん、そうみたいだね」刑事はメモから目を離して、俺と炉幡さんを交互に見る。
「学校が終わったのが十六時頃で、学校からここまではだいたい……どれくらいだっけ」俺は横目で炉幡さんに視線を送る。発言する俺を見ていたらしく目が合った。
「ええと、二十分くらいです」急に視線を送られて焦ったらしい。申し訳ない炉幡さん。
「なので、それ以降ですね。天気さんが来たのは」
「ほうほう、ありがとう」いそいそとメモに書き連ねていく。ちょっと早口だったか?
「二人ともご協力感謝するよ」俺たちには目も暮れずにメモを取りながら礼を告げる。で、ようやくこちらを向いた。三十代くらいか。薄っすらと汗の玉が浮かぶ焦げた肌には、それなりに皺があった。丁度、うちのクラスの担任と同じくらい?
「詳しい話を、また聞かせてもらえるかな。彫元さんとの君らの関係とかも後で訊きに行くよ。今日中だ。申し訳ないんだが、それまではこのマンションからの外出は控えてくれると助かるよ、じゃあね」そうして刑事は去っていった。実に一方的に。
彫元さんが殺された。
というか死んだらしい。
「真刈君……」炉幡さんは呆然としたように俺を呼ぶ。刑事が去って緊張が緩んだ俺も、そんな感じで頭を垂れて炉幡さんに応答した。「何……?」
「誰が殺したんだろう?」
「さあ……ね……」互いに気の抜けた応酬をしているような気がしている。いつもより度を越した暑さで頭が働かないのと、このマンションから死人が出てきた、ということに対するショックとで、上手く考えがまとまらない。
マンションの入口付近にはまだ沢山の人がいる。いつからいるんだろうか。よくもまあこんな無茶苦茶に暑い炎天下の中で犇めき合っていられる。このマンションの周りには本当に何もないから、風が遮られることはない。いつもなら俺達が今いる玄関前も涼しいはずなのだ。
だが今に限って言えば、人混みがその風を遮っている。このマンションでこんなにも暑い思いをしたのは久々だ。このマンションにおける日常とは、かなり静かで平穏だったのだな、と今更しみじみと思う。
何かに気付く。思わず顔を上げて、隣にいる炉幡さんを見る。彼女はどこも見ていなかった。焦点が合っていない。宙を見つめているみたいだ。
誰が殺したのか。炉幡さんはそう言った。
誰が殺したか。それを一番気にしているのだろうか。
「犯人が気になる?」
彼女は無言で頷いた。
「まあ、俺達、彫元さんとはそんなに親しくなかったもんな」
「うん、それもあるんだけどね」
「けど?」
「彫元さんが死んだってことよりも、誰が彫元さんを殺したのかってことの方が気になってしまうの。真刈君も、私の今の言葉に気づいたみたいだけど、どうしてそう思ってしまうのか自分でもわからない」
勘付かれてたか。でも、確かにそうだ。
俺達は彫元さんについてよく知らない。
だから、同じマンションの住人が死んだ、という話にしか受け取れず、そこまでの悲しみは湧いてこない。彼女はそれを不自然だと思っているらしい。
そして俺も彼女の言動に対して違和感を持った。人の死を悼む前に、殺した犯人を考える。被害者を思うよりも加害者を思う。抽象化してしまえば、確かに疑問の残る思考だ。
普通のマンションならどうなのだろう。ここみたいに、全室に人が住んでいて満室状態のマンションなら。ここみたいに、住人すべての顔と名前を把握しているなんてことは流石にないような気がする。クラスメイトに、このマンションの住人の関係について話をした時、心底驚いていた。その友人はマンション住まいだが、隣人の顔すら知らないという。知らない人間が死のうと生きようと、ましてや殺されようとお構いなしだろう。関わり合いのない人間の死に対して、人は残酷だ。残酷というよりは、そこまで思慮を広げられないというか。
このマンションは異常なほどに住人が少ない。だから嫌でも人間関係は濃密になりやすい。おまけに大家さんが直々に家賃を集めて、更に世間話を繰り広げ、挙句には俺や炉幡さんを夕食に招いて、世間話の内容を俺達に吹聴したりする。どうしたって情報は広まるし俺や炉幡さんの耳に入る。
人が多ければ希薄になって、少なければ濃密になる。それが人間関係ってものだし、そういうものを利用したのが、クラス分けであり班分けである。
俺は炉幡さんの言葉に何も返さず、そのまま考え込んでしまっていた。
我に返って炉幡さんを見ると、彼女も未だに何かを考えているようだった。
「帰ろうか」声をかけると、炉幡さんもまた我を取り戻したように慌てふためき、「じゃあ、またね」と、黄色いテープをくぐって一直線の階段を上がっていった。
俺も野次馬を横目に帰宅した。
警察は、今日はもう外出を控えてくれと言っていたっけ。
俺が習慣を敢行できないのはいつぶりだろう。雨の日は合羽を着て走ったりした。梅雨の時期は大変だった。何もかも濡れる度に乾かした。その繰り返しで辟易した記憶はまだ新しい。当然だ、あれから一ヶ月くらいしか経っていない。
いつもランニングから帰ってシャワーを浴びたあとは冷房をつけるが、昼間は窓を開けて風に頼る。玄関のドアを開けておけば尚良い。それなりに涼しい。だが今日は……。
ドアを閉めても窓を閉めても、野次馬の犇く呻きは聞こえてくる。携帯のシャッター音もまばらに聞こえる。人が殺されたぐらいでここまで野次馬が集まるものなのか。こんなにもうるさいくらいに。閉めるだけでは飽き足らず窓にもドアにも鍵をかけて、遂に冷房をつける。昼間から贅沢だ、と思うだろう。騒音被害を受けるくらいなら電気代を払って快適に過ごす。誰だってそうする。
……普通のマンションであればこんなことにもならなかったのだろうか。こんな、野次馬が必要以上に集まるような状況に。
こんな変哲なマンションで起こった殺人だから野次馬が多いのか。それは刑事も言っていた気がする。話題性ならマンションの紹介だけで十分だろう。それで住人が増えれば御の字だけど。殺人事件の「ついで」みたいな感じで話題になったマンションに、誰か住みたいという人間が出てくるだろうか?
忍逆さんに連絡をしなければならない。
『今日は行けない。ごめんなさい』と簡素に打つ。送る。終わり。完了。
すぐに返信が来た。
『残念』
簡素なメールだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます