六-甲・天気さんの話

 七月二十三日(金)


 インターホンに起こされた。正確には、インターホンを押す指に。引いてはその指を有する忍逆深令に。

 寝惚け眼を擦りつつ、俺はドアを開けて彼女を見る。若干変化の見られるダッフルコートを身に纏って陽気な表情を浮かべていた。玄関先に日差しはまだ差し込んでいないし、日差しに照らされて暖かそうにしている様子でもない。マフラーはしていないし、寒そうにしている動作が一ミリも見られないが、着ているコートの保温性が他のそれよりもずば抜けて優れているからだろうか、と邪推する。

 何よりも、楽しそうな表情がそれを表している。

「犯人を突き止めることができるのかと思うと、つい」絶好調らしい。やっぱり遊び半分にしか見えないのだが、彼女自身はこの表情の綻び具合に気づいているのだろうか。

「今日は比較的暖かい日なのかな」となんとなく俺は呟く。天気予報は見ていないが、要するにいつもよりも猛暑であるということだ。彼女が暖かそうにしているということは、俺達にとっては煉獄のような暑さであるということだ。

 とりあえず上がってもらう。彼女は律儀に、脱いだ靴を外側に揃える。

「寒い」

 夕方に公園のベンチでいつもそうするように、床にうずくまってしまった。

「天気予報はそんなに暖かさ自体は変わらないって言ってたんだけどね、なんでかな」暖かさ、か。彼女と過ごす中でふと思ったが、冬はどう過ごしているのだろう。この真夏の中でコートを羽織るほどに寒さを感じているのだ。俺達が寒いと思う環境で、彼女は果たして生きていけているのだろうか。

 部屋の冷房はとっくに切れているが、カーテンを閉めていることもあって冷気はまだ部屋に残っている。彼女が寒いと感じているのはそのせいだろう。彼女の視点から、一般人の感じる温度の情報が抜け落ちている証左だ。俺には快適だけど、彼女にはやっぱり寒いらしい。仕方なく俺はカーテンを開けて窓を開けて熱気を取り込む。もとい、暖を取る。

「あ、暖かくなってきた」部屋は湿度も一緒に取り込んで蒸し暑くなってきた。汗が湧き出てくる感覚を微妙に感じ取る。汗一つかかない彼女が羨ましくなってくるけど、彼女の体で冬を越せるのか、疑問はまだ消えていない。

 少なくとも、目の前の彼女が実体であり幽霊ではなく、さらに俺が見ている幻覚でもないのなら、彼女は冬を俺と同じ回数だけ乗り越えていることになる。渡り鳥みたいに、冬の期間だけ海外にいるとか?

 麦茶は夏の風物詩みたいなものだけど、彼女は夏の風物詩を受け入れてくれるだろうか。変な疑問が浮かぶけど、温かい麦茶は聞いたことないし、冬に飲む温かいお茶といったらほうじ茶か緑茶ぐらいしか連想できない。だからといって「温かい緑茶がいい」とか言われても、あいにく茶葉は切らしてるから用意できない。

「そんなに気使わなくていいよ、食べたり飲んだりするものまで温かいものじゃないといけないなんてことはないから」というわけでコップ二つにそれぞれ麦茶を注ぐ。

「あ、でも氷を入れるとかいう嫌がらせはさすがにやめてね」釘を刺すように彼女は言う。その発想はなかった。というかそんな嫌がらせをするほど、俺は彼女を厄介だとは思っていない。

「それで?」麦茶を飲む彼女は無責任にもそう訊いた。丸投げに等しい。それで、とは。俺が訊きたい。

「俺が取り仕切るの?」

「だって、私はここの住人を知らないし」突き放された。

 まあ、彼女と住人との仲介役を務めるのはどの道この俺であることはわかっていたし、溜息をつくことすら今更のような気もする。

 仕切り直し。

「誰から訊いていく?」

「とりあえず大家さんからだね。ここの住人についてある程度以上把握している人なんでしょ?」まあ、「ある程度」の度合いにもよるが、間違ってはいない。「それに、死体の第一発見者だし」

 確か、ニュースでもそんなことを言っていた。家賃の催促にやってきた大家さんが偶然にも死体を発見した、と。死体の状態まで詳しくは言っていなかったが、あまりにも状態がひどかったり、酷い殺し方をされていたりすると、詳しく報道しないというのを聞いたことがある。あの刑事も、死体については触れなかった。何らかの検討をつけていたりするのだろうか。

 小説の中じゃ、捜査と推理は分業制なことが多いけど、現実じゃそうもいかない。そう簡単に探偵に捜査を依頼できる世の中じゃあるまいし。負担は大きいが、捜査も推理も警察の仕事だ。

 少なくとも、彼女のするべきことではないし、俺がすることでもない。

 彼女はいそいそと俺の部屋を出る。乗り気でない俺はその逆だ。部屋の外に出ても、苛烈な暑さが変わらない。部屋と外とでの温度差は、完全になくなってしまっていた。

 天気さんの部屋は俺の部屋と同じ階にある。「コ」の上辺の左端が俺の部屋で、天気さんの部屋は右辺と下辺を共有する右端の部屋だ。所要時間は三十秒とかからない。

 天気さんの部屋の辺りからは、このマンションの階段の裏側を眺めることができる。特に壮観というわけでもないが、一階から十階までの高さは半端ではないことを実感できる。俺がインターホンを押して、彼女は「凄い眺めだね」と感嘆を漏らす。

「おやあ、君からやってくるってのは久しぶりだねえ」語尾の伸びた甘ったるい話し方は変わらない。住人の死体を最初に見つけたとだけあって、そのショックはいかほどのものだろうと思っていたけど。無理していつも通りに見せているだけかもしれないので、慎重な姿勢は崩さずに接する。

「一昨日一日、何をしていましたか」彼女の一言はささやかな俺の努力を無駄にした。まあ、どの道俺が同じ質問をしても同じ結果になるだろうとはいえ。踏むべき段階というものがあると思うのだが、彼女はそういうものを面倒臭がるタイプらしい。

「ふうん、自分たちで解決してやろうって目論見だねえ。いいさ、教えてやろう」割とあっさり許可してくれた。それどころか、天気さんの表情がとても楽しそうなものになっている。乗り気なのがびっくりだ。

「一昨日一日、と言うよりは……あれでしょう、十五時から十八時にかけて何をしていたか、じゃないのかなあ」

「それだけでも十分ありがたいんですけどぉ……」口調が伝染っている。彼女の語尾まで甘ったるく伸びてしまった。「やっぱりぃ、確かに犯行時刻はその時間帯だと思いますけどぉ、犯人のアリバイ工作を手伝うーとかはできるしぃ、犯行の計画自体はあなたにも建てうるわけじゃないですかぁ」天気さん以上に語尾が伸びている。これじゃ天気さんの真似ですらない。既視感こそあれど天気さんのではない。

「ふぅむ」と天気さんは黙る。思い出しているらしい。そして間もなく「よし」と。

「それじゃあ言おうかなぁ、メモとかしなくて大丈夫かい?」

「携帯で録音するので大丈夫です」元の口調に戻った彼女は、コートのポケットから携帯を取り出す。そして録音開始。

「まず七時に起床。そして十一時から角田さんと買い物に行った。七時から十一時までのアリバイ証明は多分誰にもできないだろうね。私は外に出ていないわけだし。特に時刻を記録するような作業もしてないし。それで、帰ってきたのが二時間後の十三時。で、十六時半から家賃徴収開始。あ、買い物をしたっていう証拠になるかはわかんないけど、角田さんがレシート持ってるから見せてもらうといいよお」

 そうして俺のもとにやってきた。些細な時間ではあるが、不在証明はお互いに成立しうる。

「そこから大体十分おきくらいに各階に上がっていくんだけど、彫元さんはやっぱり出てこなかった。あとは、四階の宮城さんが居なかったっけなぁ。あとは皆出てきたよ彫元さんとAさん以外はね」Aさんについてはこの前の晩餐の時に聞いた。ドアに家賃の入った封筒が貼り付けてあったという、いつものパターン。

「で、十八時前ぐらいに、回収が終わって自分の部屋に戻ろうとした時に、真刈くんが外出するのを見たよ」答えている最中、天気さんは顔も目線もずっと忍逆さんの方を向いていたが、ここで目だけが俺の方を向く。てっきりあの時は誰もいないと思っていたが。階段が綺麗なオレンジ色に染まっていたことにばかり気が取られていたらしい。よく見る光景だしそれほど珍しくもない光景のはずなのに。

「部屋に戻ってからは、晩御飯の準備で忙しかったなあ、ラジオ聴きながら料理してたよお。十九時ぐらいに炉幡さんが来たから、真刈君を呼ぶように頼んだっけ。そんで真刈君も交えて晩餐会やって、私がお酒飲んだばっかりにいつの間にか眠っちゃってて、起きたときには全部片付いて毛布まで羽織ってたっていう……情けないったらありゃしなかったねえ、面目ない、ほんと」片手で俺に謝る。「気にしないでください、ご飯美味しかったですし」二日越しに晩飯の感想を述べる。

「作り甲斐があるってもんだねえ、ありがとう、今度振舞う時はまた連絡するよお、君もおいで」天気さんは忍逆さんにも振舞う気らしい。

「ありがとうございますぅ」忍逆さんはまた甘ったるい口調で受け入れた。

「あの、」俺が口を開く。なんだい、と天気さんはそれに応じる。退屈しているようには見えないし、鬱陶しく感じているようにも見えない。やっぱり俺達の、主に忍逆さんがやっていることを、楽しんでいるように見える。

 試しに、その翌日の、死体発見時のことについて訊いてみる。「彫元さんはどういう状態で殺されていたんですか?」

 天気さんの表情は一切曇らず笑顔のままだった。「そうねえ、実を言うとさ? 私もあれが彫元さんだと判断できたわけじゃなくってさあ、あの部屋にいたからこそ彫元さんじゃないかって判断したわけなんだよねえ」

「え、つまり」

「つまり頭がなかったのよ。首が切られてて、どうにもあれが彫元さんだと断定しづらかった。そりゃ顔は見たことあるけども……体つきまではねえ……背が高いのはわかるんだけど」天気さんは少し困った表情をした。作ったと言うべきかもしれない。わざとらしさを感じた。

「ドアは開いてたんですか?」

「ドアは開いてたねえ。インターホンを押しても出てこなかったから、なんとなくドアを開けようとしてみたら、あっさり開いちゃってねえ。だから家賃回収のチャンスだと思って飛び込んだんだけど変な臭いがしてねえ、嫌な予感がしたんだよ。廊下を通って部屋を見てみたらその予感通りに死体が転がってたから悲鳴すら出なかった」また何かを思い出すように視線が上を向く。「まあ結局、頭が失くなってるなってることに気づいて、悲鳴あげちゃったけど」恥ずかしそうに微笑む。

 まるで過去の恥ずかしい失敗談を話すみたいに。

「私だけで家賃徴収するのは難しそうだなあと思ってねえ、宮城さんにも来てもらったところだったのよお。私の悲鳴を聞いて駆けつけてきたの。彼も短い悲鳴を上げてた。その後警察呼んで、私たちは部屋から出て警察待ってたっけなあ……とりあえず、私は殺していない、とだけ言って締めくくるとしようかあ」

 お手を拝借、と言わんばかりに一丁締めを静かに行ったところで、大家の供述は終わった。

「あのぅ、もう一つ訊きたいんですけどぉ」忍逆さんは食い下がる。「天気さんは、彫元さんのことどういうふうに思ってたんですかぁ?」少しばかり、あるいは俺の気のせいかもしれないが、彼女の訊き方は煽るような口調に少し、ほんの少しだけ変わっているような気がした。

 天気さんは笑う。「捜査の基本だねえ、動機を探るのに、人間関係は不可欠だ。……ああ、そうだねえ、家賃を滞納ばあっかりしてたのは本当だし事実。だけどねえ、それで困るようなことはなかったんだよ、ほらあ、このマンションって、大金持ちがデザインしたものでしょ? 管理費云々も全部その人が払ってて、実際のところ私のところに来る家賃ってのも、その人にしてみれば端金ってもんでさあ……」

 それを言われてはどうしようもない。けど、確かに天気さんの言っていることは本当だろうと思った。こちらは資産家の名前も知らないけど。

「まあ、その辺は結構緩い感じだったってことよ。だからあの人がいくら家賃を滞納しようとも、こちらとしては構わなかったけど……やっぱり、皆がちゃあんと払ってるのに、あの人だけ払ってない。なのに、それがのうのうと見過ごされてるってのは、ちょっとまずいでしょう? ……つまり、恨みも何もないってことよ」

 天気さんでも世間体は気にするんだなと思った。


「ああいう人なの?」という彼女に疑問に対して、

「陽気な明るい人だよ」と、いまいち噛み合わない感じで答えた。

 あれが天気さんの本性なのだろうか、となんとなく思う。住人の死に対して、やけに淡白だった。家賃を滞納してばかりの、大家からすれば迷惑極まりないタイプの住人だが、あそこまで反応が薄いとは思っていなかったし、その理由もどこか納得しきれないような。死体を見たショックもそれほど受けている様子には見えなかったし、何かがおかしい。警察から何を言われているのかは知らないが、予め「私は殺していない」と釈明したのは本心なのだろうか。

 頭のない死体。

 首を斬ることの利点は何だろうか。天気さんの証言のように、死体の身元確認をややこしくすることだろうか。

 すると、あれが彫元さんではない可能性もあるということだろうか?

 俺達は二階に向かう。階段の入口に張り巡らされた黄色いテープをくぐって、階段を上る。「わざわざこんな入口にテープ貼らなくてもいいのにね」と忍逆さんがテープをくぐるのに苦戦しながら不満をこぼす。俺もそう思う。昨日、階段に上がっていく時の炉幡さんも、このテープの先にどうやって行ったものかと逡巡してたし。

 それにしてもさっきの忍逆さんの口調の変化の仕方がよくわからなかった。

「それよりさっきの話し方は何だったの」

「ん?」自分が何かしたのか、という表情だ。「だって、あの大家さん可愛かったし、私がああ言う話し方になれば、もっと可愛くなるのかなって」

「それにしたって、あんなにオーバーに真似しなくても」

「あれくらいがちょうどいいの。今の私には」

 彼女がますますわからなくなった。

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