三・日常を過ごす

 七月二十日(火)


 学校から帰宅してすぐに大家さんが来た。「天気」と書いて「あまき」と読む大家さんのこの名字も、あまり聞き慣れた苗字ではない。

 一度苗字について話をしたことがあった。俺の「真刈」という苗字を天気さんは珍しく思ったみたいだし、俺もまた「天気」という名字に対して物珍しさを感じた。その話の中では、俺以外の住人の名前についての話題も出てきて、どうやら俺や天気さん以外にも、このマンションの住人の、いわゆる「珍苗字」率というものが異常に高く、テレビで取り上げられそうなくらいの変わった苗字をしている人達が多いらしいと知った。住人が少ないので、今となってはほぼ全員の苗字を知っている。確かに、漢字でどう書くのかを訊いた記憶もあるし、逆に読み方を訊いた苗字もあった。

 天気さんはいつもその日になるとそれぞれの住人の部屋へ直接伺い、家賃を徴収する。今時それを古風だと思う人間もいるらしいし、俺もそんな風に思ってはいるけど、各階に一世帯しか入っていないこんな閑散としたマンションなら、その方が手っ取り早い気もする。エレベーターも駐車場もない不便さ故の閑散さだが、天気さんにとってはその方が逆にやりやすいみたいだ。

 茶封筒に家賃を入れて天気さんに渡す。それだけで家賃の支払いは終了する。月一万。破格の安さだが、その分の不便さと言ったら。加えて、このマンション自体が未だに、デザインした資産家の手にあるから、というのも考えられる。資産家自体は全然ここには来ないが、自分の作品をいつまでも自分のものにしておきたい気持ちはまあ、わかる。

 俺は一階に住んでいるので、同じく一階に住んでいる天気さんは俺の家賃を最初に徴収しに来る。そこから一階ずつ上がって、各階の住人のもとへ行くのだ。

「今月は彫元さん、ちゃんと払いますかね」家賃の遣り取りをする最中にいつも世間話が始まる。話題は決まって、家賃滞納常習者である六階の住人・彫元さんについてだ。

「先月はこれまでの分をきっちりと払ってもらったしねえ、今月もそうそう上手くいくとは思えないかなあ」

「二ヶ月連続で家賃払ったことなんてありましたっけ?」

「ないねえ、まだ」天気さんは片方の口角だけを上げて笑う。嫌味の籠もった笑いだとすぐにわかる。完全に家賃を払ってもらえることを諦めているようだ。「真刈君も大変だねえ、でも偉いわあ。一人暮らしで学校行ってるのに、ちゃんとこうやって家賃払ってるしい」封筒から取り出した家賃を数え終える(と言っても、一万円札で払うから数えるまでもない。要するにただの確認だ)と、天気さんはまた封筒にお金を入れ直す。

「そうは言っても、それ仕送り分ですよ」両親からの仕送りだけで、俺の家計は成り立っている。アルバイトは何度か考えたけど、その度に断念している。そこまで思い入れはないはずの、日課のランニングを諦めるのがなんだか惜しく感じられて、どうにもできないから。

「親に感謝だねえ、それはそれは」と、封筒を片手に「んじゃ、またね」と。

 ドアを閉めようとする直前。あ、そうそう、と俺の方を振り返って、「今夜うちに来なよお。夕飯のメニュー決まってないようならご馳走するよお」と、彼女は手を振る感覚で封筒を振る。その家賃で買った食材で夕飯を作るのだとしたら、俺は何のために家賃を支払っているのかわからなくなる。だからそれは極力やめてほしいと思ったものの、夕飯のメニューが決まっていないのは確かだ。そんなものはいつも決まっていない。それを知ってか知らずか、時々部屋に俺を招いては、料理の腕を振るってくれる。大家さんパワーとでも言えばいいのだろうか。料理はすごく美味しい。

「じゃあ、お伺いします」と、俺はドアを閉めた。時計を見れば、いつものランニングの時間まで少しある。小腹が空いていたし、ランニングでどうせ腹が減るのならと、お茶漬けを食べる。残った時間で学校の課題を済ませた頃には、とっくに時間になっていたので、支度をして家を出る。冷房の掛かった部屋から出ただけで、熱気にやられそうになる。

 このマンションの周りには日光を遮るものが何もない。マンションの周囲一面は荒れ地で何も建っていないし、その荒れ地の更に周辺も住宅街が広がっているだけで、特に高い建物もない。この辺じゃこの建物が一番高いだろう。ドアを出た途端に西日が目を灼く。白かった階段はオレンジ一色。肌にはもう汗。

 感覚としては全然わからないが、夏至はとっくに過ぎたので日の入は確実に早くなっているはずだ。今日の空は雲一つない。藍色とオレンジ色のグラデーションが出来上がっていき、オレンジ色の範囲が狭くなる。ランニングから帰る頃にはそうなるだろう。

 公園に忍逆さんはいなかった。いつも通り、誰もいない。誰もいないのは別に珍しいことではないけど、忍逆さんがいないだけでも随分と違って見える。彼女の存在感はそんなにも大きかったか。

 折り返して帰る頃ならいるだろうかと、そのまま住宅街を通って角を曲がって折り返す。

 公園を見ると、やはり来ていた。昨日と同じベンチに腰掛けて寒そうにしている。昨日と同じダッフルコートに加えて、今日はマフラーまでしている。顔の下半分がすっぽりと収まっている。彼女に近づくうち、彼女が若干震えているのがわかった。

 昨日より寒いのだろうか? 俺はそのままを彼女に訊く。

「昨日より寒い」ニュアンスを変えてそのまま返してきた。声も若干震えているし、彼女の体感温度は相当に低いらしい。

 昨日と同じように隣に座る。

「今日は何をしたの?」彼女は俺の方を見ないまま、何気ない質問を投げかけてきた。今日? 何をしたかって?

「特に何もしてないよ。普通に高校に行って、帰ってきて、それから家賃を支払った。……それぐらいかな」

「ほとんど一緒だね」震えた笑い声。マフラーのせいでくぐもっている。口元は見えないけど、多分笑っているのだろう。「私も高校行って、家に帰って、ここに来たの。唯一違うとしたら、家賃を払ってないこと。かな」

「高校、行ってたんだね」彼女を俺の高校で見かけたことはない。なくてもこの格好じゃ噂になっているはずだ。コートで隠れてわからないが、多分別の高校か。昨日までは顔をそんなに見ていないこともあって、彼女が高校生なのか中学生なのかどうかもわからなかった。逆に言えば、それは彼女の顔が少し幼さを残している、と言い表すことになる。

「人並みには勉強するよ、私だって」

「学校にもその格好で?」

「だって寒いんだもん」彼女はこちらを向いて反論した。「許可取ってもらったから大丈夫だよ」

「許可まで取ったんだ」

「そうでもしないと認めてくれなかったし。おかげで私も学校七不思議の一つに数えられたり数えられなかったりしてる」楽しそうに話すけど、卒業する前から七不思議扱いされるのかと思うと笑って良いのやら悪いのやら。

「なるほど……」とだけ返事をして、学校七不思議についての話題発展を妨げる。そうまでして俺が聞きたいと思ったのは、どうやって許可を取ったのかだ。極度の冷え性というだけでそんな特別措置を許してもらえるのか。

「そうだね、お母さんもだいぶ苦労したって言ってたよ、一応、病院の診断書も幾つか見せたけど、なかなか受け入れてくれなかったな」

「学校側って、得てしてそういうものだよね、風紀が乱れるとか何とか理由つけて、なかなか認めようとしない」

「そうそう! ほんと困るんだよね」かなり共感してくれたらしい。それはそれで嬉しい。「入学してから認めてもらえるまで、私ロクに学校に行けなかったんだから! いくら入学時は冬服だからって、私あれだけじゃまだまだ足りないくらいだもん」隠れた口元は多分ふくれっ面になってるだろう。脚をバタバタと上下に動かしている。バランスを取っているためか、彼女の猫背は更に丸まった。

 そしてすぐに両脚を上げて反動をつけて立ち上がる。脚は相変わらず真っ黒。

 彼女はこちらを向いて、「また明日ね」と言う。

「ああ、また明日ね」咄嗟の反応で俺は応える。「……何なら、連絡先とか交換しとく? 携帯、持ってるならの話だけど……」

「持ってるよ、ちゃんと」彼女も携帯を取り出して、お互いに連絡先を交換する。女の子の連絡先は数少ない、ある意味貴重なものだけど、彼女のは少し特殊なものになる予感がした。恋愛とか、そういう意味ではなくて、何だか得体の知れない不思議な関係性になるような気がして。

 他愛のない話で終わり、今日は別れた。

 帰る頃には天気さんのご飯も出来上がっているだろう。口の中が自然に潤ってしまう。


 しかし料理よりも先に、俺の機嫌を確実に変えてしまう物が現れた。

 天気さんの料理は気分を上々にさせる。

 しかし目の前の郵便受けにあるそれは、俺の機嫌を損ねてしまう。

 手紙が二通。定期的に届くから送り先は見なくてもわかる。何なら手紙の内容も大体わかる。溜息が自然に漏れる。読みたくないという気持ちが当然のようにある。しかし読まないわけにはいかない手紙なので、さっさと封を開けてその二通を同時に読む。同時に読むのにはちゃんとわけがあって、それは「同時に読める」ということの理由にもなっている。

『お元気ですか。母方の家で一緒に暮らす気はありませんか?』

『お元気ですか。父方の家で一緒に暮らす気はありませんか?』

 やっぱり内容は同じだった。別居中のはずなのに文面が九九パーセント一致している。同じと言っても差し支えない。一文字しか違わないのだから。

 読む度に俺はこの手紙を破いて捨てて、返事としてそれぞれの携帯にメールを送る。いつものことだ。向こうだって当然ながら俺の携帯へ連絡を取ることができる。なのにそうはせず、何故かこうして手紙という形式で自分たちの家への移住を打診してくる。別居は果たして本当なのだろうかと疑いたくなるし、ここまで一致した文面の手紙を送ってくる辺り、そもそもそれほど仲が悪いわけでもないはずなのに。何がしたいのかわからない。

 それぞれにメールを送る。一斉送信で送るそのメールの文面はいつも決まっている。

『遠過ぎる』

 これだけ。ずっとこうしている。時々手紙と一緒に仕送りという名のお金が届くので、手紙を必ず開けなければならない理由がそれだ。

 父は鹿児島に、母は北海道に住んでいる。送り主の住所もそれぞれそうなっている。

 俺はその中間あたりに住んでいるけど、いずれにしたって遠いのは変わらない。

 手紙を捨てた後、シャワーを浴びて汗を流した。

 シャワーを浴びた後の冷房はやはり格別の心地よさを誇る。

 と、ノックがした。天気さんだろうと思ってドアを開けたら違った。

 三階に住んでいる炉幡さん。同じ学校の同級生だ。

「天気さんが呼んできてくれって」

「ああ、ありがとう、今行くよ」鍵を持ってきて部屋を出る。時々だけど、天気さんの宴に招かれるのは俺だけではない。俺だけの時もあるし、炉幡さんだけの時もあるらしいし、。

 俺も天気さんも、住んでいる部屋はそれぞれ両端にある。俺の部屋は「コ」の上辺の左端、つまり階段の手前で、天気さんの部屋は対角線上、つまり下辺の右端にある。いわば角部屋。端から端への大移動だ。所要時間は三十秒もかからない。

 炉幡さんとは特に何を話すでもなく、天気さんの部屋へお邪魔する。「よく来たね。さ、早く食べよう」と、早々に俺たちを部屋に上げる。

 料理がテーブル中に所狭しと並んでいた。多分、全部食べようと思えば食べられる。ランニング前に食べたお茶漬けは完全に消失していて、腹の中には空気の感触すら無い。シャワーを浴びた時に見た自分の腹はかなり凹んでいた。

「いただきます」という三人同時の合掌によって遊宴が始まった。「ふたりとも最近はどうなのよ」と、まるで俺たちが恋人同士であるかのように話を振ってきたけど、別に仲良しですらないし、それぞれの近況を報告するにとどまった。天気さんは結構残念そうにしていた。読書家の炉幡さんは自分が最近読んだ本についての説明と感想を話した。

 俺も学校で起きたこととかを中心に近況を話したけど、忍逆さんのことについては話さなかった。なんとなく話すのが躊躇われた理由は、自分でもよくわからない。単純に恋人の話だと思われたくなかったからかもしれない。けどそれもちょっと怪しい。やっぱりよくわからない。

 そのあとはこのマンションに住む住人たちの話になった。丁度家賃を徴収したこともあって、天気さんは各住人の最近の状況について、色々と話し始めた。その時はもう既に俺も炉幡さんも聞き役に徹していて、ところどころ質問や相槌を挟みながら、話は進んだ。

 二階に住むサラリーマンの乾さんには最近恋人ができたらしい。

 四階に住んでいるホストの宮城さんは留守だったそうだ。

 五階に住む毒島さんは炉幡さんと同じく読書家で、最近小説を書き始めたという。

 六階に住む家賃滞納者・彫元さんは相変わらず不在で、家賃徴収は叶わなかったと。

 七階に住む、名前も年齢も何もかもが不詳な通称・Aさんのドアには、いつも通り家賃の入った封筒が貼り付けられていて、相変わらずの無防備さを、天気さんは嘆いていた。

 八階のオカルトマニア・我賀祓さんからはどこで手に入れたか推測しようもない奇妙なオカルトグッズをもらい、それは物置場と化したテレビの裏に置かれている。

 九階の主婦・角田さんとは料理の献立の話で盛り上がった。今夜の夕飯の中には、教えてもらったメニューが早速取り入れられている。

 十階のモノ好きな淀河さんは、我賀祓さんから、自分がもらったものと全く同じオカルトグッズをもらったらしく、それを大層喜んでいた。自分の反応とは正反対のテンションと反応で、久々に困惑したと。

 以上、天気さんの近況報告。

 殆どは今日起きた出来事だ。

 全てを話し終えた天気さんは完全に酒に酔ってしまい、フラフラとしか動けなくなってしまった。だから後片付けは俺がして、炉幡さんは天気さんを介抱した。部屋の中の大体を元通りにした辺りで、俺達は部屋を出る。絶対に聞こえてはいないだろう、というくらいの小声で「おじゃましました」と。鍵をかけて、その鍵を郵便受けへ。郵便受けは部屋と繋がっているので、実質鍵を部屋に入れたも同然。

 あとはそれぞれの部屋に戻るだけ。三十秒足らずで、俺は自分の家の前にたどり着く。

「あの、」俺がドアを開ける間際、炉幡さんが口を開いた。

「いろいろとありがとう、お疲れ様」

「うん……お疲れ様」俺は半ば呆然と返事をする。こんなことを言われるとは思ってもいなかったから。

「それじゃあ、また明日ね」彼女はそうして階段を上がり、踊り場を通って三階に消えた。

 また明日、か。

 忍逆さん以外の人間からその言葉を聞いたのはいつぶりだろう。

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