二・忍逆深令

 七月十九日(月)


 彼女と出会ったのは夕方。俺がランニングをしている最中のことだった。

 俺はランニングを日課にしている。奇妙な造形をしたマンションを背後に、俺の背丈よりも高い雑草に挟まれた道路をひたすらに走って荒れ地を抜ける。その先にある公園を横目に走り。住宅街の中をくねくねと曲がって。さっきの公園に戻ってまた荒れ地を通り。マンションに帰る。時間帯はいつも決まっている。だいたい午後の六時頃。

 その時間帯、公園には誰もいない。住宅街は近くだし、そして季節は夏なのだし、比較的明るいはずなのに。

 まるでそこには結界が張ってあって、誰も中に入れないようになっているのではないか、とか変な妄想をしたものである。もちろんそれは妄想だった。実際に公園に立ち入ってベンチに座ったこともあるし、身をもって否定できる。

 彼女はそのベンチに座っていた。

 住宅街へと足を進める途中のことで、彼女は俺の方を見ていた。俺が彼女の姿に気づいたときは既に。身を縮めるように座っていて、脚は完全に閉じていて、少し猫背になって、顔だけがこちらを向いて。

「こんな時間に走っているの?」俺が彼女を見ると、彼女は開口一番にそう言った。

 反応のしようはない。なにせ日課のランニングだし。俺だって、君を見るのは初めてだ。

 罵倒とも嘲笑ともつかぬ感じの物言いで、その女の子はダッフルコートのポケットに手を突っ込んだまま、寒そうに座っていた。こぢんまりと丸まったその座り方も、いかにも寒そうにしている動作そのものだ。

「暑くないの?」当然の疑問だ。七月中旬に、この日本でそんなものを着ている人間だなんて、珍しい以外の感想が浮かばない。しかも彼女は暑がるというよりも寒がっている。その動作もまた俺を困惑させる。

「私、極度の冷え性なの」彼女の答えを聞いて、それで納得するべきものなのだろうなと思った。これ以上は訊くまい。

 その姿を見るだけで汗の量が増える。ただでさえランニングで汗だくなのに。

 彼女の隣に座る。

「名前は?」彼女の質問。答える義理なんてないけど、答えない理由もない。「真刈卓」

「まかり? すぐる?」漢字でどう書くかはわからないらしい。「初めて聞く苗字だね」

「こう書くんだ」落ちていた枝で地面に書くには日陰で暗すぎた。俺は携帯を取り出して漢字を打つ。

 真刈卓。

「見ない漢字だね」まあ、一文字一文字はそうでもないけど、こういう組み合わせの名前は見ないだろうな。

「私はこういう名前。こう書くんだよ」ちょっと貸して、と俺から携帯を借りて文字を打つ。時間が結構かかった。文字を打つのに苦労した、と言うよりは、自分の名前に使われている漢字がなかなか出てこないか、変換に手間取っているように見えた。携帯の画面を睨んで、ボタンを連打し悪戦苦闘。

「これ」彼女から携帯を返してもらう。

『忍逆深令(おしさかみれい)』

 ご丁寧に読み仮名まで。彼女も名前を説明するのに苦労しているらしい。

「それで?」と忍逆さん。「どうしてこんな時間にランニングなんか」

「「なんか」、か」部活には入っていない俺だが、それなりに健康志向みたいなものがあるわけでもない。ただなんとなく。なんとなく走ってみる。何故かそれが続いて、それが日課となったわけだが、特に走る時間帯に理由はない。学校から帰ってきてほどよく時間が経ったあとに走ろう、という気分になるから走るだけ。

 だから「特に理由はないよ」と正直に答える。

「そっか」素っ気ない返事だった。反応のしようがないのはわかるけど。考えてみれば確かに理由のない習慣というのも変な感じだ。そういう何気ないことに対して疑問を持てて、しかもそれを相手に訊けるというのも変な感じだ。

 しかし、こんな夏場にコートで寒そうにしてる忍逆を見ると、そんな気持ちは全部吹っ飛ぶ。普通なら疑問しか浮かばない。そのはずなのに俺は「冷え性」という一言の返事だけで納得してしまった。全然何気なくない疑問に対して不自然に素っ気ない回答をされたのに、疑問は特に湧いてこない。俺には好奇心が欠けているらしい。

 まあ全く疑問がないといえばそんなことはないけど。

「忍逆さんは、ここには初めて来たの?」

 彼女は首を横に振る。それだけで何も言わない。初めてではなさそうだと納得してしまいそうになるけど、幸いにも疑問は途切れない。

「ここには何をしに?」首を振る動きだけでは答えられない質問をしてみる。

「理由はないよ」

「俺と同じだ」

「そうだね」笑いながら言う。

 さっきは好奇心だのなんだのと思っていたけど、どうやら俺も忍逆さんもそんなに変わらないらしい。

 と、彼女は立ち上がる。「そろそろ帰るね」

 それに合わせて、俺も帰ろうと思った。

 立ち上がった彼女は意外と背が低くて、しかし柔らかそうなコートは丈が長い。足首の少し上、ちょうどふくらはぎの真ん中あたりまで裾がある。裾から伸びた細い足は黒い。タイツかストッキングを履いているらしい。彼女は顔以外の全身を覆う状態だったことに気がつく。

「意外と、」とまで言いかけて口を閉じる。背が小さいんだなと言おうとした。それをやめたのは、なんとなくだ。

「意外と?」彼女は首を傾げて聞き返す。肩にギリギリ着かないくらいの髪も重力に従って真っ直ぐに傾く。

「意外と、というか……思ったよりも完全防寒だなあって」

「寒くてしょうがないんだもん」俺に携帯を返してからというもの、ポケットから手を出していない。そんなにも冷え性が酷いのかと疑問が生まれたけど、

「じゃあ、また明日ね」

 と、質問する前に別れを告げられた。

 明日も来るらしい。なら、その時にでもこの質問は取っておこうか。

 明日も俺がここをランニングで通ることを見越しての発言だろうか。俺が毎日この付近をランニングルートとして使っていることを知っているのか?

 わからないこと、はっきりさせたいことが、彼女の姿が見えなくなってから沸々と出てきた。授業で「他に質問は?」と問われた時点では何もないのに、授業が終わってから質問するべき内容が出てきてしまうあの感覚に近かった。

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