帰ってきた彼女

 2年前にイギリスに行った彼女が帰って来る。そう聞いて、僕は居ても立っても居られなくなった。真夜中なのに踊り出したい気分だ。

 それからどうにも目が冴えて眠れなくなって、結局一睡もせずに学校に向かった。

 徹夜明けというのもあってテンションがおかしい僕を、友人は訝しげに見る。


「お前、今日変だぞ」

「ちょっと徹夜しちゃって」

「何やってんだよ」

 笑われながら、頭を叩かれた。それが余計に笑えてきて、遂に腹を抱えて笑い出した僕を見て、友人が若干引く。

「本当にどうしたんだよ、お前」

 そんな友人の様子にさえ笑えてきた。きっと今は、箸が転がっただけで笑うだろう。

「気持ち悪っ」

 友人が本当に嫌そうな顔をしている。それでいてどこかに行くことはしないのだから、まあ良いやつなんだろう。

「何でもねぇよ」

 笑いながら肩を組む。そのまま友人を引きずるようにして教室に向かった。

 僕の上機嫌は、一日中続いた。




 授業終了の挨拶をした瞬間、教室から飛び出す。保健室までの道を急ぎ足で歩いた。今日は彼女が帰って来る日だ。

 保健室の階段を降りて、扉の前まで来る。勢いよく開け放ってしまいたいが、そんなことしたら僕の興奮を悟られそうで、一度扉の前で深呼吸をした。いつも通り、いつも通りと心で念じる。

 ドアを開けると、保健室の先生と談笑している彼女の姿。ドアの音に、みんなの視線が集まった。

「お疲れ」

 彼女が笑う。

「久しぶり」

 少し声が強張った。

「久しぶり。一年ぶりくらい? 」

「いや、もっとだよ」

 2年ぶりだ、と言いそうになって止めた。具体的な数を出すと、どれだけ彼女のことを考えていたのかバレそうだ。

「とりあえず座りなよ」彼女は椅子に目を向けた。

「まるでお前の部屋みたいに…」

「私の部屋みたいなもんだよ」ニヤッと笑う彼女は、僕の記憶にあるままだ。2年も空いていたなんて、信じられない。

 僕も苦笑しながら指された椅子に座ると、それまで静観していた保健室の先生が口を挟んだ。

「そうよ。あの頃はその椅子に座ってよく寝てたわ」

 彼女の専用チェアだったんだから、と先生は笑う。

「二人が知り合いだったなんて、知らなかったわ」

「同じ中学なんです。小学校も同じで」

 彼女が答えた。

「何気に長い付き合いだよな」

「確かに」

 全然そんな気しないけど、と彼女は笑う。

「じゃあ、幼馴染なのね」

 納得したように言われた先生の声に、胸が軽くざわめく。幼馴染か。



「学校どうだった? 」

 話題を変えたのは彼女だった。

「普通だよ」

 僕は適当に答える。彼女は笑って、普通ってなんだよ、と言った。

「そっちのこと教えてよ」

「こっちも普通だよ」

「普通ってなんだよ」

 国が違うのに、何も変わらなかったなんてこともないだろう。

 訝しげな顔をした僕に彼女が少し笑って、「思ったより、何も変わらないよ」と溢した。

 ああ、その目だ。僕は思った。

 いつも、何も悩みはありませんとばかりに笑っているくせに、時折見せる、興奮を捨てた目。ここではないどこかを見ているような、焦点の合っていない目。

 昔から見ているからこそわかる、「何も変わらない」という言葉に隠された意味。僕は押し黙った。彼女はいつも、こういう風にしか本音を伝えてこない。

「何も変わらないわけないでしょう」

 先生の笑い声が救いだった。

「やっぱり文化とかは違いますよ。特に食文化とか」

 そう返す彼女の明るい声。

「服の趣味もあまり合わないし、食べ物も満足いかないし」

 不満げな彼女に、先生が笑って答える。

「向こうに行くと、太って帰ってくる子が多いんだけど」

「私は逆ですね。食が合わなくてちょっと体重減りました」

「髪とか化粧を派手にする子も多いから、前会った時と全然違ってたらどうしようかと思ってたのよ」

「化粧はしますけど、髪は染めないですね。私、自分の髪好きなので」

 そうなんだ。

 ポンポンと続く会話に、やはりどこにいっても彼女変わらないなと思った。それが彼女にとって喜ばしいことなのかは置いておいて。

「英語は喋れるようになったのか」

 僕は漸く口を挟む。

 彼女は先生に向けていた顔を僕に向けて、少し口端を歪めた。

「当たり前でしょ。論文も読めるよ」

「論文は日本にいた時から読んでたじゃない」

 あんなに難しい論文読んでたから、すごいと思ってたのよ。先生が言う。

 知らなかった。彼女が論文を読んでいたなんて。いろいろなことを知っているのは知っていたけど。

「やっぱり読むスピードが全然変わりました。前は一つ読むのにも時間がかかりましたから」

「じゃあ、日常会話はもう簡単か?」

「まぁね」

 そうニヤニヤと笑う彼女は、どこか憎たらしい。羨ましいだろ、とでも言いたいのだろう。

「羨ましいな」

 僕は素直に肯定してやる。

「まさかこの年で英語がしゃべれるようになるとは、考えてなかったよ」

 そう告げる彼女は、どこか得意げだ。

「でも議論とかはまだ難しいね。単語が瞬発的に出てこないから」

「そういうもんなんだ」

 もっと頑張らないと。そう呟く彼女は、先程していた得意げな顔を忘れて、もっと先を見ている。こういうところも変わらない。

「ストイックだね」

 そう零す先生に僕も同意するけど、目の前の彼女は「そんなことないですよ」と笑っている。その強さを、彼女がもう少し捨てられていたのなら。そう思ってしまう僕は、彼女に何を望んでいるのだろう。

「でも、もう映画とかは字幕なしで見られるんでしょう?」

「まぁ、そうですね」

「いつから見られるようになった?」

 目の前で再び会話が始まっていく。懐かしい彼女の、懐かしい話し方。

 先生は「変わったね」というけれど、僕の目には、入学前の彼女に戻っただけのようにも見える。それが、今はこんなにも怖い。



 留学中の話もひと段落したところで、彼女がまだ日本にいた頃の話になる。

「本当にもう、そんなに元気になっちゃって」

 先生が面映ゆそう目を細めながら、嬉しそうに言葉を紡ぐ。彼女も嬉しそうな笑みを返している。が、

「何がダメだったの」

 と先生が聞いた瞬間に、彼女の笑顔が固まったのを感じた。

「何が……何がって…、えー」

 突っ込んだなと思った。先生が彼女の問題を軽視しているのか、それともそれもわかった上で言っているのか、僕にはわからない。だけど、確実に突っ込んだ質問をした。だからこそ、彼女が困った顔をしている。

 僕が、触りを伝えられただけで聞きたくても聞けなかった質問を、先生は平然と問いかけた。

「まぁ、いろいろですよ。いろいろ」

「色々って、例えば?」

 言葉を濁した彼女に、先生がさらに切り込む。

 僕は息を飲んだ。言葉が濁流のように脳内に押し寄せてきて、真っ白になっている。普段より速い鼓動の音だけが、耳に響いていた。

「まぁ、ただ単に、環境が合っていなかったですね」

「イギリスは合ってるの?」

「日本よりは、過ごしやすいです」

「何が違うの?」

 グイグイいくな、と僕は思った。

「んー」と呻く彼女の頭が、必死で答えを導き出そうとしているのがわかる。

「日本よりも、自由かな」

 暫しの照準の後そう答えた彼女の顔は、とても綺麗な笑みをしていた。

 普段くしゃりと顔面を崩すように笑う彼女が、綺麗な笑みを浮かべている時は、何かを隠している時だと、僕は彼女が消えてから気がついた。


 尚も質問を重ねる先生に、彼女は淡々と返していく。

 彼女の言葉は、きっと嘘ではない。彼女は嘘を吐かない。隠すだけなのだ。本当に言いたいことを。

 僕は、実際何がダメだったのだろうと考える。だけど答えを出すには、あまりにも情報が少ない。

 彼女は、言葉の端端に本音を隠すようにして会話をする。普通に聞いていたらわからないものに気がついて、それを一生懸命繋ぎ合わせようとしても、それでも彼女の本音は掴めないままだ。


「あなたが失踪した時は、本当に心配したわ」

 考え事をしながら聞いていた会話が、唐突に思考を遮った。その話まで振るのか。

 彼女を見やると、案の定心底困ったような笑みを浮かべている。

「あの時は、まさかあんなに早く見つかるとは思いませんでした」

 少なくともあと数時間は大丈夫だと思っていたので。彼女は返した。

「校長先生が、あなたのいる場所を見つけたのよ」

「入学時の小論文を読んでたんですよね。そんなこと書いたか、本人も覚えてないのに」

 すごいな。

 ポツリと落とされた言葉に惹かれるように彼女の顔を見ると、またあの目をしていた。

 もし、あんなに早く見つけられなかったら。

 もし、校長先生が小論文を読んでいなかったら。

 もし、君が小論文にあの場所のことを書いていなかったら。

 もし、見つけるのがあと数時間後だったら。


 君は死んでいたの。


 怖くて、聞けなかった。

 否定してほしいけれど、君はきっと「さぁ」と誤魔化すだけだろうから。


 当時の君が言っていた。

「きっと心の整理をつけに行ったんだねって、カウンセラーの人に言われたの」

 それは何のための心の整理だったのだろう。生きるためだろうか、それとも、


「本当に見つかってよかったわ」

 空気の読めない先生が彼女に告げる。彼女は、

「そうですね」

 と笑う。


 君は、あの日死ねなかったことを後悔しているのだろうか。

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彼女。 桜染 @sakura_zome

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