驚きはしたものの、失望とかそんな感情はじぶんでも不思議なくらいまったくなかった。

あろうことかおれは、彼女と男が手をふりあって別れるのを見届けたあと、


「さくら、」


彼女の名を呼んだ。


ゆっくりと振り返った彼女は一瞬目を見開いたけれど、すぐに、夜の闇に映える真っ赤なくちびるの端をおれの知らない妖艶な動きでゆったりと上げた。


「奇遇ね、しろくん」


発された声はおれの知っている音色なのに、おれの知らないベールを纏ってまるで初めて聞いた声のようだった。

彼女は悪びれる様子もまったく見せず、コツコツとパンプスを地面に押し付けながらおれの方に歩み寄ってきた。


いつもは穏やかにおれに向けるまなざしとはまったくべつの、射抜くようなそれに、おれは目が離せなくなってそれから――からだの芯からなにかがせりあがってくるのを、感じた。

彼女は、それをいともたやすく見抜いたようだった。


「なにしてるの」


艶かしい色気を漂わせているくせに、無邪気な口調でおれに尋ねる彼女の口からは、ほんのりと煙草の匂いがした。


「いや、べつに」


道を間違えて迷いこんだだけ、という言葉は呑み込んだ。

この状況に流されてしまいたいと思っているおれがいるのを、そのときおれは気付いた。

こんなところに来るのはなれているのだという雰囲気がでるように、努めて冷静に振る舞うけれど、やはりおれの心臓は加速するのをやめない。


「吸ってもいい?」


おれが答える前にすでに煙草に火をつける彼女の姿は、新鮮だった。

おれの記憶では、彼女が煙草を吸っているのを見たことも、彼女から煙草の匂いがするのを感じたこともない。


「いくらもらったの」


唐突におれの口からでてきたのは少々ぶしつけな質問かと思ったけれど、ここが夜のまちだということを思い出して安心した。


「ん? 今は三万、その前は五万。

だから今日だけで八万」


予想以上の金額に喉の奥がつまりそうになったが、慌てて平静を装った。

まったく躊躇わずに飄々と答えた彼女は、ふーっと、口から煙を吐いた。

八万もどうするのかと、意味もなく考えながら、煙が消えていくのを黙って眺めていた。


「しろくんは?

キャバとかの帰り?

それとももっとすごいやつ?

あ、もしかして、ホストやってたり? って、それはないか」


きゃははっという初めて聞いた彼女の高い笑い声は、おれを小馬鹿にしているのか、それともじぶんで言った冗談をただ面白がっているだけなのかはわからなかった。


肩をすくめて、さあね、と呟いたおれの声は、この世界ではひどく無力のようだった。

ふーん、と特に興味もなさそうな彼女は、またふーっと、さっきよりはいくぶん多い煙を吐いた。


おれはいまだに、目の前で煙草を吸う女がおれの彼女だということを信じられていなかった。

大学では引っ込み思案でおとなしくて友達は少なめの、清楚な彼女と同一人物だなんて。

だれが信じられるだろうか。


「さくらは、二重人格、なの?」


非日常のなかでは、どんな質問もあっさりとおれの喉を通って外に出ていった。

彼女は目を丸くして、――ぷっと吹き出した。


「まさか!

そんなんじゃないよ。」


普段の数倍も快活に、にぎやかに笑う彼女はけらけらと楽しそうにしていた。 

なにも返せないでいるおれを一瞥した彼女は、煙を吐ききってから、どこか諦めたような、それでいていたずらっぽい光を秘めたような、おれが今までに見たことのない不思議な目をしてこう言った。



「人間なんて、こんなもん、だよ。

まあ、わたしは極端すぎるのかもしれない、けど」











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