風船が、割れるまで

星陰 ツキト

覚醒


「うそ、だろ」

思わず、目を疑った。


おれの視力はいくつだったっけ、とか、これは夢なのかもしれない、とか、おれはいま本当に生きているのか、とか、わけのわからない方向へと思考が空回りするくらいには混乱していた。





ネオンに照らされたホテル街の路上。

夜の暗闇を情けなくも怖いと思ってしまうおれでさえ、目がチカチカするほどの明るさを常に保つこの非日常の世界のなかで。

うっかり迷いこんでしまった、闇を掌握した夜の王国のなかで。

ひとりで呆然と佇むおれは、どこか浮いていたように思う。

しかし、目の前の光景は、おれのからだを置いてきぼりにするには充分すぎるほどに強いショックをおれに与え続けていた。






ひとびとを狂わせるシャンパンではなくオレンジジュースを、とろけそうになるような熱いラブストーリーではなく人間の生きざまを描いた素朴なヒューマンドラマを、喧騒より静寂を、漫画よりひとむかし前の文学作品を、華やかなワンピースよりも黒のロングスカートを、赤い口紅よりもうっすら色づいたピンクの口紅を好む彼女が。


華やかで膝上10センチくらいのワンピースとヒールの高いパンプスで身を飾り、ぐるぐると巻かれた髪の毛を揺らしながら、真っ赤な口紅が塗りたくられたくちびるの端を精一杯ひきあげて、中年くらいの男から金を受け取っていた。

ひどく長いまつげをぱちぱちさせて、ただの数枚の紙を前に輝きをます瞳をもつその彼女の姿は、まるで、ただの、欲望をからだじゅうに貼り付けただけのメスのようだった。




左耳から右耳へと、抜けては戻ってくる無数の下品で卑劣な笑い声よりも、格段に恐ろしかった。

金がないから仕方なく体を売っているわけではないというのが、容易に感じ取られたから。

ただ意味もなく金がほしいというのではなくて、この、限られた人しか現れない夜のまちで、肉欲と金に溺れるじぶんに酔っているような、そんな雰囲気が彼女のまわりにはまとわりついていた。



きらりとなにかが光る。

しょぼくれた目を凝らすと、その正体はすぐにわかった。

彼女の、細さとくびれが強調された腰に手をまわした男の、薬指。

そうか彼女は、肉欲と金だけではなくて、愛にも溺れていたのか。

否、愛に溺れているのではなく、歪んだ愛に溺れるじぶんに溺れているようだ。


男と彼女のあいだには、金銭関係だけではなく、愛もあるように見えた。

みつめあうふたりの間には、熱がこもっているように見えた、から。

このホテル街にある、どこの部屋よりも熱そうなものが。

とはいっても、ただのおれの想像に過ぎないけれど。




密着するふたりをみているうちに、次第に、ゾクゾクとした今までに感じたことのないなにかがおれのなかに走った。

心臓を揺さぶるような、からだの奥から沸き上がるなにか。

わかってはいけないような、気付いたら最後であるような、恐ろしい獣。

今までは目覚めていなかったか、はたまた、見て見ぬふりをしていたような己の不道徳的な、興奮。




じぶんの恋人がほかの男と寝ていたことに対するものなのか、歪んだ愛のなかに生きている女がじぶんの恋人であることに対するものなのか、じぶんの恋人のふだんとは真反対の顔をみてしまったことに対するものなのかはわからない。

しかし、なにかが、おれのなかで芽生えていた。

いちど飼ってしまったら手放せなくなるような、そんな、中毒性のある恐ろしく魅力的ななにかが、おれを突き動かそうとしていた。


そして、それが脅威になる前にじぶんで殺すのではなくて、生かしておこうとしてしまうおれが、その夜のネオン街にただひとりで立っているのがひどく滑稽だった。



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