第53話『二人のエリシア』
志村の後ろにいたエリシアは、咳き込みながらも、観覧席に視線を移す。
観覧席には、彼女の予想通り、自分とまったく瓜二つの少女が存在していた。
驚きよりも、まるで夢でも見ているかのような非現実感が上回る。
だがこれは夢ではない。現実という決して覚めることのない、悪夢の続きなのだ。
観覧席はそれを象徴するように、仲間割れをしている人型の魔獣に溢れ、さながら、治安最底辺な路地裏を彷彿とさせていた。
混迷渦巻く地獄絵図。エリシアは恐怖で身が竦みながらも、この悪夢のような光景と、こちらを見ているもう一人の自分を見て、確信する。
「やはり……夢じゃなかった」
エリシアはこの場所を知っていた。いや、彼女の記憶では、
人種という垣根を超え、人であるレミーに助けられ、友達になった。そして彼女のアドバイスに従い、市長を説得して『翼人の集い』を布教させるべく、地下へ足を進める。
この時点で、エリシアはレミーに疑問を持つべきだった。
なぜ一市民である薬剤師が、市長の動向を把握しているのか? と。
物腰の柔らかさと、優しい笑顔。そして亜人にも平等に手を差し伸べる寛容さ。表向きの振る舞いに、エリシアは惑わされ、その疑問をその場に置き忘れてしまう。
結果的にレミーは傀儡として操られていただけ。そこに彼女の心はなく、肉体という器を利用されていたに過ぎない。だがそれでも、エリシアにとって騙されていた事には変わりなかった。
あの優しい笑顔も、
そして差し伸べた 温かな手も、
全部、嘘だった。
人に村を襲われ、
人に家族を引き裂かれ、
人に家も、文化も、民族のアイデンティティも奪われてしまった、エリシア。
傷心しきった彼女は、翼人の神にすがった。
人型の魔獣に襲われる中、身を守ることすら放棄し、ただひたすら祈りを捧げ、現実逃避に邁進する。祈りは必ず届き、報われるものと信じて……
そして幸か不幸か、意外な形で、その願いは成就してしまう。
突如、意識が遠のく。気がつくと彼女は別の場所におり、そこで目を醒ましたのだ。
場所は地下の配管作業員用 簡易宿泊所――まったく見知らぬ部屋に、エリシアは倒れていた。
しかもなぜか体液まみれ。すぐ側にはグロテスクな水疱の肉塊が鎮座している。極めつけは、上顎のない白いワニの躯だ。それが自分の近くに、重く横たわっていた。
エリシアは目の前の光景に茫然自失となる。自分の身に なにが起こったのか分からず、次第に眼は驚きと恐怖へと滲んでいく。
挙げ句には、見慣れぬマスケット銃(?)を持つコボルトと、地下に似つかわしくないエプロン姿のシェフが、心配そうにこちらを見つめているではないか。
そんな二人を目にし、エリシアの心が限界を越える。
――きっとまた、騙される。
――また 恐ろしいことをされるに違いない。
――殺される。
三つの思考が心の中でぐちゃぐちゃに絡まり、エリシアは悲鳴を上げてパニックに陥る。
コボルトの志村と駄菓子屋の亭主は、慌てふためき、必死に『俺たちは敵じゃない!』『ここは安全だから!』と宥めに宥める。
悲鳴にも体力を使う。
種族にもよるが、数時間継続して悲鳴を上げられる種族は、そういない。志村と駄菓子屋は、怖がらせないよう距離を保ちつつ、エリシアの体力が消耗するのを待ったのだ。
彼女が叫び疲れ、少し落ち着いたのを見計らい、志村たちは慎重に語りかける。ここでなにが起こったのかを、優しく丁寧に説明したのだ。エリシアが水疱の中で浮かんでいた事。白鯨ならぬ白鰐に追われ、ここで仕留めた事。
――そして、偽の魔王こと、ゼノ・オルディオスの痕跡を辿り、この地下へやって来た事も……。
この場に居合わせた三人は、最初は なにが起こったのか分からず、ただただ顔を見合わせて沈黙する。
そして次に出てきた言葉は、難題を前にした純粋な疑問だった。「いったい なにがどうなっている(の)?」――と。
しかし仲良く首を傾げていても、なにも始まらない。とにかく起こった状況を時系列順に整理し、互いの情報を交換しながら、一つ一つを慎重に紐解いていく。
そして点と点が繋がる――この荒唐無稽な事象の羅列にも、仮説がつくようになったのだ。
エリシアと
そして簡易宿泊所にあったこの水疱は、本物のエリシアを閉じ込めると同時に、偽物との意識を繋ぐ魔導具の類ではないか?――と。
薬剤師のレミーに導かれ、エリシアが地下を歩いていた際、記憶が飛んだ瞬間があった。レミー曰く、軽い
しかも ひきつけを起こした地点が、ちょうどこの近く――水疱があった配管作業員用 簡易宿泊所と一致する。
荒唐無稽で非現実的ではあるが、なんとか立てられた一つの仮説。
もちろん この仮説には無理がある。
奴隷であるエリシアを人質にとる意味がない。勇者を誘き出すための
フェイタウンの市民ですらない、他国の身分 最下位である奴隷――エリシア。
そんな彼女を、ここまで手間のかかる事をして、殺すこともなく、意識をそのままに体だけ偽物と入れ替えたのは、なぜ?
多くの疑問と 不可解な謎は残るが、どれだけ議論を重ねても、答えは得られないだろう。
だがこれだけは確かだ。エリシアの言うことが事実であれば、地下にゼノ・オルディオスの気配が漂っているのも頷ける。そして地下訓練場の状況を鑑みるに、増援は必須――それも早期に。
そして一連の答えを知るには、
三人は真相を探るべく、エリシアの記憶を頼りに、地下訓練場へと向かった。
――――――――――――
―――――――――
――――――
―――
――…………
――そして、
観覧席にいた偽のエリシア。まるで怯える小動物のように、恐怖でガタガと震え、視線を強張らせていた。だが本物のエリシアを目撃した瞬間、様子が一変する。彼女から恐怖が すぅと消え、まったくの無の表情へと漂白された。
エリシアという振る舞いを止め、エリシアであることを棄てたのだ。
それを見た志村と駄菓子屋の亭主は、確信する。自分の後ろに居るエリシアこそ、紛うことなき本物。そして観覧席からこちらを冷たい眼差しで見つめるエリシアが、ゼノ・オルディオスがこさえた―― “なにか” であると。
そして感情のない
突如、背中に感じた殺気。交戦中だったサーティンやベールゼン・ブッファが、同時に振り返る。遅れてルーシーが異変に気付いたが、対処しようにも幾分距離があった。
ルーシーは気にしてなかったが、男性陣ふたりは、エリシアがレミーと同じように操られている可能性を、十分に考慮していた。
言葉や態度には出さなかったが、常に背後に気を配り、いつ裏切られても良いように警戒していたのだ。だが激化する戦闘によって、それに気を留める余裕すらも喪失していた。ここに来て、その隙を突かれた形となる。
偽のエリシアは、ゼノ・オルディオスとの二重の声色で警告を放つ。『動けばこのガキが死ぬぞ』――と。
「双方動くな! とくに犬っころ! 馬鹿なことはするなよ。この娘の命が惜しければ、おとなしく その銃を捨てろ!!」
その場にいた全員が、動きを止める。コボルトの志村も例外ではない。仕方なく、彼女の言葉に従った。彼は猟銃をゆっくりと、床へ置いて手を挙げ、降伏の姿勢を見せる。
それを見たゼノ・オルディオスは、挑発する意味も込めて彼を侮辱する。今まで散々戦いを邪魔されたのだ。
「よしよし、いい子だ。犬はそうして、従順かつ素直な生き物でなくてはな。さぁ! お前達もだ! サーティン! ベールゼン・ブッファ! そしてルーシー! かわいいこの娘に、二度と癒えぬ傷がついてしま――」
しかしゼノ・オルディオスの言葉は、スローイングナイフによって遮られる。擬態したエリシアの眉間――そのど真ん中に、無骨なナイフが突き刺さったのだ。
ゼノ・オルディオスが大きく
スローイングナイフと同じように、ロングレンジバレルから放たれた散弾が、ゼノ・オルディオスの頭部に注がれた。その攻撃力は凄まじく、彼女の顔半分を削ぎ落とし、急所であるコアを露出させる程の威力だった。
スローイングナイフを投げたのは、ヴェルフィとジャスミンを肩に担ぎ、レミーを背負った人物――観覧席に上がったばかりの偉丈夫。裏社会のご意見番、マーモン氏である。
彼はその光景を目にしただけで、仲間が置かれた状況を見極め、即座に行動へ移したのだ。ヴェルフィの装備であるナイフを拝借し、それをゼノ・オルディオスに投擲した。
ヴェルフィのスローイングナイフは、職業から隠密性に特化している――魔力を込めれば視認性を困難にさせる
ルーシーは戦線を維持するため、誰よりも先に防衛に打って出る。理性のない人型の魔獣に、こちらの都合を考慮する知性は持ち合わせていないからだ。
ハンドキャノンで人型の魔獣を引き留める。サーティンとベールゼンは、後方をルーシーに預け、人質となったレヴィ救出を行う。彼らは風属性の魔法を使い、高速でゼノ・オルディオスとの彼我距離を詰める――そして各々の武器を振るい、加速を活かして斬り掛かった。
ゼノ・オルディオスは、頭部が欠損しているにも関わらず、他人事のように「やれやれ」と気鬱な吐息を漏らす。そして頭部のコアを庇いつつ飛び退き、二人の攻撃をやり過ごす。
彼女は空中で一回転しながら着地し、マーモンに警告を投げつけた。
「マーモン! 確かに『善人は殺さない』と言ったが、それが絶対とは限らんだろ! 私が言うのもなんだが、あくまで主人の命で動く悪人なんだ! それをまともに信じるバカが、どこにいる!!」
悪人らしからぬ、まさかのド正論な説教である。
だがゼノ・オルディオスは分かっていた。例えこちらの言葉が偽りだったとしても、マーモンは自分の技量ならば、必ずや救えると信じていたのだ。
その証拠に、ナイフは人型の魔獣の間をすり抜け、見事 眉間の中心に命中させた。
サーカスのナイフ投げでも、こんな神業を披露する者はいない。混雑し、人が行き交う中にある
ゼノ・オルディオスは心の中で人知れず、『やはりこの男、只者ではない……』と、マーモンの実力を噛み締めていた。もっとも、彼だけではない。サーティンやベールゼンも、未だその瞳に闘志がある。
この街を自分の命に替えてでも守る、揺るぎない決意の
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