第14話
「ハルと野村大使の面談には両国の関係が緊張した場面も出現しているわ。三月十四日に大使がハルを訪れた例がそのひとつね。松岡外相がベルリンを訪問し、その帰途に立ち寄ったモスクワで日ソ中立条約に署名した直後のことだったとハルが記している」
「この中立条約で北からの脅威を除いた日本は南方に進出するのではないか、が米国の関心だった。ちょうど日本海軍の艦艇がタイ方面に向け進行中との情報を得ていたハルが、日本に両国間に和平を実現する覚悟があるのか、と質したと回顧録に記している」
「その一ヵ月後の四月十六日にハルは野村大使に米国の四原則を告げているわ。それは、1.領土と主権の尊重、2.他国の内政に不干渉、3.通商を含めた平等の原則、4.平和手段による場合を除いた太平洋に於ける現状維持、だった」
「その際に野村との間で交わされた重大な会話をハルは回顧録に記している。四原則を一読した大使が、平等の原則は今後の協議にしたい、と告げると、ハルは、その原則は和平交渉の前提であり協議の対象ではない、と即座に拒否したとある」
「ハルは、日本が四原則に合意することが日米和平交渉の前提、だと告げていたのよ。この四原則は真珠湾攻撃の直接の引き金となったハル・ノートにもそのまま盛られたように、満州事変に際して当時のスティムソン国務長官が唱えて以来の米国の基本的な外交方針で、米国が譲歩することはなかったわ。ハル・ノートを手渡した当時の米国は、交渉を始めるためには日本は四原則に合意すべきだ、和平交渉はまだ始まっていない、という認識だったことになるわね」
「ところが、そのような基本的な前提を日本の軍部が受け入れないことを承知の野村は、四月十六日にハルが念を押したことを日本には伝えていない。マジックで野村の外交電報を傍受したハルがそれを指摘している」
「ジム、私にはこれが両国の和平交渉に対する認識の違いを生んだ根本の原因だと思われるのよ。日本政府は満州事変以来米国が掲げる四原則を承知していた。ところが野村大使が本省に送った着任直後のハルとの会談結果報告には四原則厳守への言及がなかった」
「リズ、そのため日本側に米国は条件次第では譲歩するかもしれないという期待感を持たせてしまったのでは、というのが君の見方かね?」
「そうよ。だからハル・ノートに相変わらずこの四原則が明記されているのを知って落胆した日本側は、ハル・ノートが米国による最後通牒だという追いつめられた結論に走ってしまったのでは?」
エリザベスのこの指摘は的を射ているかもしれないと塚堀は頷いた。
その後に日米間では事態は次のように推移した。
五月十二日に野村が日本の対案を提示した。それは、1.蒋介石が日本との和平交渉に応じるよう米国が要請し、蒋介石が米国の提案に応じない際には米国は中国政府への支援を止める、2.日米間の通商の復活、3.日本による天然資源獲得への米国の援助、だった。これを手にしたハルは三国軍事同盟の維持が日本の提案の背後にあると見抜いていた。
五月二十七日、ルーズベルト大統領が国家非常事態を宣言し、六月二十一日の野村・ハル会談では、ハルが米国が自衛のために欧州での参戦した際には日本は米国に対して軍事行動を取らないことを要求している。
六月二十二日にドイツによる突然のソ連侵攻が起き、米国は南方への侵攻の準備をするという日本の機密電を傍受している。
七月二十四日、インドシナ半島南部への日本軍の侵攻を察知した大統領は在米の日本資産の凍結令を閣議で決定した。その夕刻にホワイトハウスを訪れた野村大使に大統領が仏領インドシナの中立化を提案した。しかしすでにヴィッシー政府との間に協定を結んでいた日本はインドシナ南部への侵攻に踏み切った。
八月六日、資産凍結に直面した日本は打開のために、1.日本への通商制限の解除、2.南西太平洋からの米軍撤退、3.日中間の直接交渉実現のための米国による協力、4.日中間の紛争解決後には日本がインドシナ南部から撤兵する、5.インドシナからの日本軍撤兵後の日本の権益を認める、という改定案を提出し、近衛首相と大統領のトップ会談を提案した。
これに対して八月十六日に米国は四原則の固持を再確認し、九月三日には、変わらない日本軍部の好戦的な姿勢を口実に、首脳間の交渉は結果を期待できないとしてトップ会談を拒否した。
九月六日に日本は再提案を提出したが、そこには三国同盟遵守が盛られていた。ハルの否定的なコメントに応えて二十七日にその改定案を日本は提出したが、そこでも日本は中国からの撤兵を拒否し、三国同盟の固執を主張していたためにハルが失望感を表明している。
十一月七日、野村大使を補佐すべく日本は来栖三郎を特派大使に任命し、十一月十五日に来栖が着任した。来栖を交えて十七日、十八日に会談が持たれ、米国は石油禁輸、経済制裁を三ヶ月間解除し延長条項を設ける暫定取決め案を提案した。しかし、この暫定案は打診された蒋介石が強く反対して頓挫している。
「ハルは野村大使の英語力に不安を抱いていたことを回顧録に記録しているわね。時にはバランタインが日本語でハルの提案を野村に告げたとあるわ。ハルとの面談には大使は他の大使館員を同席させなかったのかしら?」
「日本軍がインドシナ南部に侵攻したためにハル・野村会談が中断した六月末までの会議には、日本から出張したふたりが同席している。そのひとりは陸軍大佐の岩畔豪雄だった。この軍人は日本のスパイ養成機関だった中野学校の設立にも関与した諜報将校だった」
「そのイワクロ・ヒデオをハルは好意的に回顧しているわ。満州や中国北部での共産勢力の動きに関して有意義な情報を提供したと謝意を表明している」
「会談が中断して日本からの出張者が帰国してからは会談には野村が単独で臨んだようだね」
「だからか、ハルも野村大使が正しく理解するようにゆっくり喋ったと記しているわ。大使が本省に打電した機密電を見ていたハルは、電文が会談の際の発言と微妙に相違することに不信感を抱いていたことを回顧録に記している」
「不可解なのは、野村大使の下には海軍兵学校の後輩だった海軍大佐の駐在武官がいながら、国務省刊行の日米外交史にもハルの回顧録にもその名が出てこないことだ。この当時海軍大佐だった横山一郎は日米戦争史の前面に二度登場している。終戦の年の二月から六月にかけて米国は日本国民に降伏を呼びかける短波放送を流したことがあった。その七回目の六月十六日の放送で横山が名指しで呼びかけられた。横山は少佐時代にエール大学に語学留学し、そのままワシントンの大使館に武官補佐官として駐在した。この最初の駐在期間が満了する直前に、当時米海軍大学校の教官だったエリス・ザッカリアスを訪ねている。この日本相手の短波放送の担当だったのが日本語にも通じたザッカリアス海軍少将だった。首都からロードアイランド州のキャンパスまで自ら運転してきた横山少佐をザッカリアスが歓待し、ふたりは日米の将来を二日間にわたって語り合った。放送はザッカリアスが当時の出会いを引き合いに出し降伏に力を注ぐように訴えたものだった。横山は戦艦ミズーリ号の甲板上で日本が降伏文書に署名した際の政府団員のひとりとしても最後列の左端に白い海軍の軍装姿で写っている。軍人としても凡人ではなかった。このように語学に通じ米国の事情にも詳しい横山の名が米国側の記録に一度も現われない。ハルが和平交渉の場に軍人が陪席するのを嫌ったからだという見方があるが、岩畔大佐の例がある。不可解な野村の行動だ」
「ジム、交渉事には必ずふたり以上で臨み、お互いの理解を確認してそれを記録に残す。これは民間での商談でも基本とされているんじゃない?」
「リズ、その通りだよ。ひとりが交渉に当り、他のひとりはカウンターの条件提示の補佐をしながら記録を取る。基本中の基本だね」
「だったら、国を代表してハルと合い向かう際に大使が単独で臨んだのは暴挙と批判されてもやむ得ないことかもしれないわね」
「大使館には戦後にその米人夫人の逸話が映画化されて広く知られるようになる寺崎英成もいたんだ。一等書記官で諜報に係わっていたからか、野村がハルや大統領との会談に帯同した記録は国務省資料やハル回顧録には記載がない。先に引用した井口貞夫参事官もいた。この人は戦後に駐米大使を務めている。野村大使が不在だった際に井口が国務省を訪れた記録が国務省外交資料に収録されている。しかし、井口がハルとの夕刻の会談に同席した記録はハル回顧録には皆無だ。野村は将官に昇級する前提だった海軍大学校を卒業せずに大将に登りつめた優等生だった。大学校を経なかった理由は、だれが俺を教えるのか、ということだったと語り継がれている。この自信過剰が随員を伴わない単独行動を生んでしまったのかもしれないね」
「大使の英語力の不足と随員を伴わなかったために独断に陥ったと思われるのが、六月末から七月末までの一ヶ月の間に起きた一連の出来事ではないかしら」
「リズ、その一連の動きを振り返ってみよう。六月二十一日(日本時間二十二日)にそれまでの面談結果の総括版ともいえるハルの改訂案が野村に手渡された。ところがこの二十二日に独伊による対ソ戦が勃発したために外務省はそちらに手を取られ、ハル案を審議したのは七月十日だった。このハルの改訂版は後のハル・ノートの原型といわれるように米国の四原則から脱したものではなく、内容に不満だった松岡外相は、ハル提案を記録した覚書を米国側に返却するように大使館に訓令し、七月十六日に若杉公使が国務省のハミルトン部長を訪れている」
「それは国務省の外交資料にも記載されているわ」
「一方、七月二日の御前会議の決定に沿って日本政府は南部仏印への進駐をフランスのヴィッシー政府との間で折衝していた。マジックによって米国政府はこの間の日本の動きを察知していたんだ」
「ハルが避暑と療養のために首都を離れていたことから、大使は二十日午後に海軍トップのスターク大将との面談を試みた記録が外交資料にあるわ。日曜日でスタークが不在のためにスタークの部下だったターナー海軍少将を午後三時に訪れ、スタークへの伝言を託している。この時も大使にはだれも同行していなかったようね」
「野村がスターク大将に伝えるようターナー少将に託した内容は、ヴィッシー政府との間に協定が結ばれ数日中に日本軍が南部仏印に進駐する、しかしこれはそれ以上の南進を目論んだものではなく、米政府が強硬な対抗措置を取ると日本を開戦に追いつめることになると訴えたのだ」
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