「俺の名前知ってる?」

 デッキに並べられた椅子に半ばひざかかえるように座り込み、雪季セッキはまだ明るい空を見上げた。

 既にドレスは脱ぎ捨て、動きやすさを優先に、たけの短いパンツに肌触りの良いコットンシャツ。羽織はおってはいないが、薄い青のジャケットもかたわらに置いてある。動きにくいハイヒールでは当然なく、すべり止めの効いたスニーカー。

 長い髪は、特殊な接着材で地毛につけ毛をしているため落とすのに手間がかかる。風呂に入るときにしようと、今は軽くたばねるにとどめている。


 潮風に前髪をかき回されながら、さてどうしたものかと、胸の内で呟きを落とす。


 雪季が殺人業を始めたのは、そろそろ十年近く前になる。両親を殺した男に誘われてというのは我ながら難儀な事だとは思うが、そういうこともあるだろう。

 はじめての仕事が高二の夏だから、この仕事よりもあの男との方が長い付き合いという事実に気付いてげんなりとした。


 河東カトウアキラ


 実家の財産と妙な人脈を思う存分に活用して、資本主義者の中を笑顔で突っ切って何かとさらって行く男だ。

 そして、何度となく雪季の仕事対象になりながらも生きび――雪季がしくじったというわけではなく、ことごとく依頼を無効化しているところが腹立たしい――顔を合わせるたびに雇ってやろうと声をかけてくる厄介者。

 雪季の、高校時代のクラスメイト。


「あの高校を選んだのが痛恨の極みだ」

「母校に対してなんて暴言を」

「高校自体に恨みはないが、そこでお前と出会うことになった以上、選択を誤った」

「ひどいな」


 言いながらも笑っている。

 さっきまで携帯端末で何かやり取りをしていたと思ったが、一区切りついたのか、のんびりとストローをくわえていた。


「止まったのか、鼻血」

「まったく、ひどいことをしてくれる。どんなに頑張ったって鼻はきたえられないんだぞ」

「耳じゃなかったか?」

「ん? どうだったかな。両方? 試しに鍛えてみたら?」

「目を潰されなかっただけ感謝しろ」

「怖い怖い」


 言いながらも明るく笑ったかと思うと、ふっと、笑みを消した。途端に、空気が変わる。

 顔立ちが整っているせいか、この男は、へらへら笑いをやめると妙な威圧感を放つ。もしかすると、それを自覚していつも笑っているのかもしれない。

 雪季は、思わず背筋を伸ばしてしまい忌々いまいましげに舌打ちした。

 英は、そんな雪季にぐいと顔を近付けた。思わず身を引きかけて、囁き声に動きを止める。


「君は今、フリーだよな?」

「誰かが依頼を壊してくれたおかげでな」


 受け取っている前金では、この船のツアー料金を差し引くとあまり残らない。こうなることを見越して、客ではなく従業員として乗り込むべきだっただろうか。

 仕掛けに手間取った時の自由度を考えてのことだったが、船出と同時に仕事を失った今となっては、ただひたすらこの男にまとわりつかれるだけになる気がしてならない。

 そんなことを考えたせいでいくらか恨みがましい声になったが、英からの茶々は入らなかった。

 代わりに、妙に淡々とした囁きが返る。


「畑違いかもしれないが、仕事をたのみたい。俺の護衛だ」

「あ゛?」

「…そんな、コンビニの裏にたむろしてる高校生男子みたいな声を出さなくてもいいじゃないか」


 いい加減、小テーブルを挟んでの会話がまどろっこしくなったのか、隣の椅子に移ってくる。

 そもそも、なぜ向かいの席を選んだのかといえば、携帯端末の画面を雪季にのぞかれないようにするためだった。今は、もうその必要もないと判断したのだろう。

 英の黒い端末は、白いテーブルの上で沈黙している。


「もう一人、殺し屋が乗り込んでいるらしい」

「…依頼を潰せばいいだろう」

「ウチの調査部が優秀だからといって、今判ったところだ。相手を直接叩いた方が早い」

「頑張れ」

「俺を殺せば受け取れるはずだった報酬分、払うよ」


 奪えば得られるはずの金額が守るものに変わるとは妙なものだと、雪季はため息をついた。


「そもそも、何だってそこまで命を狙われるんだ」

「仮にも俺の命を狙ったのに、調べてないのか?」


 呆れたように見られ、つい口がとがる。

 それなりに古い家柄で、妾腹だの婚外子だのといった血縁者がわらわらといて、英自身も腹違いの兄弟が何人かいるだといったことは知っているが、だからといって何度も命を狙われるほどの事情までは知らない。

 雪季の仕事は、くまで、英の命を奪うことだけだった。そのために行動範囲や多少の仕事関係者を調べたりはするが、血縁内の紛糾までは管轄外だ。


「興味がない」

「それなら、ようやく興味を持ってもらえたと喜んだらいいところかな。…本当に知らないのか? 高校の時ですら色々と噂になってたのに」

「全く知らないわけではないが、殺されそうになるほどの何があるのかまでは知らない」

「あー…」


 なるほど、と呟く英の声に、端末の着信音が重なった。

 衛星電話のはずなのでまだつながっているが、雪季の端末はそのうちつながらなくなるだろう。そうなってから英に会っていれば、依頼中止の確認も取れずに仕事を遂行していただろうかと少し考える。

 ゆっくりと暗くなってきて、代わりに、船の照明が煌々こうこうと存在感を示し始めた。


「ざっくり言えば、じーさまが死んだら、今のところ俺の取り分が一番多くなりそうってところかな。で、金魚売キンギョウリって名前らしいけど、知ってるか、スノーホワイト?」


 無言で席を立つが、両肩をしっかりとつかまれ、腰を落とす。ならばと、冷気でも漂わせられないかと思いながら睨みつける。


「それで呼ぶな」

「雪季って呼んでも怒るだろ。俺の名前も呼んでくれたことないし」

「…あるだろ?」

「いーや、ない。俺の名前知ってる? 英雄の英って書いてアキラだからな?」


 ああそっちか、と思う。それはないだろう。親しくもなかったただのクラスメイトを、下の名前で呼ぶいわれもない。

 それよりもと、記憶を探る。

 仕事の名前は、本人が名乗るなり周りが決めるなり、なんとなくついていたりするが、大体は殺し方に関連している。

 雪季のそれは本名からだが、金魚売は絞殺が多く、その時に使う薄布が金魚のようだとかそんなふざけた由来ではなかっただろうか。


「名字があんまり好きじゃないんだよな。途中で変わったからいまいち馴染みもないし」


 そういえば高二の夏休み明けだったと思い出す。雪季自身に「スノーホワイト」という名が増えた時期で被ったから覚えていたのだろう。

 それで、と英は肩をつかんで離さないままに目を覗き込む。


「護衛、頼めるかな?」


 自分の命がかかっているというのに、随分と平静だ。

 死なないと思っているわけではないだろう。死んでもいいと思っているわけでも、ないように思える。ただ――たのしそうだ。

 雪季は、やや見上げるような体勢で、自分とは全く違う道を歩んでいる男を見つめた。


「護衛術は学んだことがない。保証はしない」

「ありがとう、助かる。ああそうだ、荷物は運んでもらってるから」

「…は?」

「元々、この船旅は君の説得のために使うつもりだったんだ。泊まる部屋、俺の同室に変更してある。いやあ、ちょうど良かった」


 もう一度殴ってやろうかと、雪季はこぶしを握り締めていた。

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