書き換わる瞬間


 しばしの静寂が訪れる。

 葵が警戒しながら踏み出す。


「何をしてるか知らないけど、無差別に攻撃するのを止めてもらうからね」

「おっとぉ、お嬢さん、シェイクスピアをご存知ではなぁい? 演目の最中は、静かに、マナーを守って観覧頂きたいものですな!」

「悪いけど、見ての通り体育会系だからね。演劇の鑑賞マナーなんて知らない」


 スパルトイはやれやれと肩を竦める。


「そうやって、彼女も倒したのでしょう? ほら、昨日あなたたちが頭蓋を砕いたスパルトイ。コードナンバーは確か、J0-k-C7anでしたな。ああ、わたくしのコードナンバーは、S1-k-P2re。名乗るなら、マキューシオ・ヴァン・ド・モンダギュー! もちろん芸名でございますともっ……って、お嬢さん、聞いておられます?」


 葵は気にせず歩を進め、莉雄もそれに合わせて歩を進める。


「お待ちを! お待ちくださいお客様方! 演目中は舞台に上がらぬがマナーでしょう! そうでしょう! それぐらい赤子とてわかる事! 借金取りでもなければそんな暴挙は許されません!」


 が、スパルトイが何かしてくる気配はない。


 そうこうしている間に、火災報知器のけたたましい鐘の音が響き、同時に大量の水がふりまかれる。どうやら、刹那がスプリンクラーを動かしたらしい。

 もちろん、大ホールの中にも水がふりまかれる。

 それを受けてか、葵は莉雄に目配せする。莉雄がその視線に気づいた時には、葵は何も言わずに走り出していた。


「ああっ! ああっ待って! 困ります! いやほんとそういうの困る! ってか、あなた女の子でしょう!? 虫を怖がりなさいな! ってか、蚊に刺されないとかズルい!」

「知るか!」


 葵が一直線に舞台へ迫る。

 莉雄が葵に叫ぶ。


「待って、何か罠があるかもしれない!」


 その言葉に葵が立ち止まり、スパルトイが含み笑いをしながら言う。


「おお、そちらの少年は鋭い……ええ、わたくし、トッテオキをまだ残しておりますぞ! ですが、切り札は切ってこその切り札! どんなに夜が長くとも、いずれ朝は訪れる!」


 そして、言い終わる前に脱兎のごとく走り出す。


「すなわち、後方へ向かって前進あるのみ! 過ぎたことを嘆いても新しい不幸が来るだけですからな!」


 高笑いと共に、スパルトイはどこかへ走り去っていった。


 一瞬、葵も莉雄も固まる。葵が咄嗟に叫ぶ。


「逃げた!!」


 二人は咄嗟に舞台に上り、スパルトイを探したが、もうどこにも姿は無かった。スプリンクラーの水だけが空しく舞台の上で跳ねていた。



 スプリンクラーの水はすぐに出なくなった。

 二人のみならず、床に倒れている多くの生徒がスプリンクラーの水でずぶぬれになっている中、途方に暮れながら、莉雄と葵は慶の元へと戻ってきた。

 慶はそこら中ぱんぱんに腫れあがって、掻きむしったのであろう血だらけだった。

 莉雄は、喉の奥に大きな鉛でも詰まっているような感覚に襲われながら、何とか思いつく言葉を口にする。


「ごめん。その……逃がし、ちゃって……罠かもしれないって、糸織さんを止めなかったら、もしかしたら捕らえられてたかもしれないのに。失敗、しちゃって……ごめん……解毒剤も、なにも、手に入らなかった」


 莉雄は慶の傍にしゃがみ込み、赤く腫れて熱を帯びた手を握る。

 慶はうめきながら、苦しそうに言う。


「いや、多分……解毒剤は、持ってなかったろうな。これ、蚊を操るんじゃなく、蚊をけしかけてた、だけなんじゃないか……と思う。蚊の統率力なさすぎだし、そもそも一定数、刺したらもう来なくなったし……」

「いや、でも、何か、手段とか有ったかもしれないのに……」


 慶はゆっくりと起き上がって莉雄に言う。


「そう思うならさ、次回ちゃんとやればいいんじゃね? とにかく……今はそうだな。水たまりになってるこの状況だし、この後ボウフラが大量発生しそうだよな」

「そんなの、どうでも……あれ?」

「なんだ? どうした?」


 莉雄は慶の姿を見ながら疑問に思った。そういえば、握っている手も熱くない。水にぬれたからではない。


「腫れ、引いてる」

「え? あ、ほんとだ。まったく痒くない」


 そうこう言っている間に、周りの生徒たちも続々と起き上がる。皆、腫れは一様に引いており、挙句には先ほどまで何が起きていたのかも分かってない様子であった。

 何が起きたのか分からない三人を脇目に、生徒たちが次々と「火災が」「スプリンクラーで消火された」「煙でみんな危なかったんじゃないか」「誰か怪我人は居るか」と、今回の事態が火災であったかのような認識に変わっていることに、三人は気づいた。


 慶が莉雄に聞く。


「おい……無関係な生徒たちの記憶、今書き換わったよな?」

「うん。そんな気がする」


 と、ふと見れば葵が、少し遠くで大柄な男子と話している。莉雄はその話し相手が誰かすぐにわかった。


「お? 莉雄も大丈夫だったか? 小鳥遊も大丈夫そうだな」


 源口みなぐち 大翔はると……莉雄の親友……だが、あまりにもタイミングが良すぎる。莉雄はそう思わずには居られなくなっていた。

 何も知らない、いや、覚えていない慶が大翔に言う。


「おいこら源口! 昨日の体育祭に続いて今日もサボリだったのか? ってかどこ行ってたんだよ」


 その言葉に葵も続く。


「そうだよ、今日は大変だったんだから!」


 大翔がその言葉に、葵の顔を覗き込みながら聞く。莉雄は、既に自分が疑っているからなのか、その光景に寒気のようなものを感じた。


「ん? 大変だったって、何があったんだ、葵?」


 葵はスパルトイの事を言いそうになったのをぐっとこらえて、咄嗟に言葉を取り繕う。


「何言ってんの! 火災でしょ! ほんと、スプリンクラーが止まってから来たの、服が濡れてないからバレバレなんだから!」

「はは、そうだな。どっかで水浴びてこようかな? 暑いしな」


 大翔は笑いながら葵に叱られるように話している。


 何事も無いかに見えて、莉雄だけが、大翔が記憶の操作に関わっているという、疑いを深め続けていた。


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