第4話
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彼女はこの季節に成ると写生の為にまめに出歩いた。花が咲き乱れて新緑が冴えるこの一番美しい季節が気に入った。
由稀乃は秋の文化祭に出展する作品作りで、此処暫く嵯峨辺りで描き貯めたスケッチ帳を持って二宮を訪ねた。彼女は梅雨に入る前にある程度の構想を固めておきたかった。彼女の最初の目標は都会の貸し画廊で個展を開く事だった。
由稀乃の来訪を母親はもう馴れた手付きで出迎えた。二宮は由稀乃とは高校時代から付き合っていた。彼女を家に連れて来たのは大学受験に失敗して浪人になってからだ。それで家族は知った。
いきなり連れて来るなり簡単な挨拶で、直ぐに部屋へ行った息子に、母は呆気に取られていた。
その日は春を告げる暖かな陽射しに包まれて穏やかに時が過ぎようとしていた。朝一番に合格発表があったのに息子からは午後になっても何の知らせもなかった。帰りの遅いのを案じていた頃に彼女に連れられて息子は帰って来た。彼女は美大に合格したが息子は落ちたのだ。
普通の大学と専門の大学とは云え、やはり息子の落ち込みを彼女が支えてくれた。その時に初めてガールフレンドとして我が家で由稀乃は受け入れられた。
インターホンで母親が彼女を迎えた。母親は彼女を気に入っていて息子の将来を託しても良い希望さえ抱いた。
最近は余り来ないから母はこの来訪を喜び、そして彼女がハッキリした目標を決めているのに対して「内の息子はあれ程絵が好きなのに文学部に進むなんて」と呆れていた。
息子が進むべき進路を変えたのはあの男のせいだと挙げ句の果てに愚痴るようにもなった。
これには二宮も母に対して強い反感を持った。母も言ってはいけない事だと後で胸に閉まったようだが、二宮は目覚めた自我を否定されたようにムキになりかけた。それに引き替えあなたは芯のしっかりした人なのね、と母が由稀乃に語っていたのが面白くなかった。 二宮は後悔のないように、人生は迷いの中から自らの身体を究めて行く持論を立てていた。いっぱしの口をきいて十七、八で何が解るの、と、親からすればそれは危なっかしくて見てられなかった。 解らないから迷うんだと云えば「だから先人の意見に耳を傾けるのよ。でなければ由稀乃さんのように先が見えるまで現状維持を心がけなさい」と暗に息子に伝えたかった。
その息子が今日は唯一得意な分野で腕を振るえるのが母には嬉しかった。また頼って来る由稀乃を快く迎えた。二人は二階に上がると自室に閉じこもった。
開け放たれた窓から梅雨前の五月の風が流れていた。二宮は由稀乃から出されたスケッチ帳を丹念に見ていた。ここ暫く会えなかった苦労の産物を拝見していた。
以前より細かいデッサンの線に確実に自分に迫っていると、二宮は心を奪われた。それより自分が志した文学の道はまだスタートラインに立ったばかりだった。
この先、分岐点に立つたびに新たな道を求めるのは良いが、無い物ねだりのように結局何も身に付かなくなる恐怖を、このスケッチ帳を見て湧き上がって来た。
絵を見る彼の真剣な眼差しを、そんな思いも知らず由稀乃は傍で見詰めながら、彼の批評を求めていた。
長い時間を費やしたにも関わらず結論を出さずに、スケッチ帳を無造作に閉じるとそのまま床に置いてしまった。由稀乃は呆気に取られてその動作を見詰めた。
「どうなの?」と傍で囁く由稀乃の言葉に二宮は我に返った。
「デッサンの一本一本の線が細かく正確に描き込まれるようになっている」これは硬い鉛筆でなく細い毛筆でも描けそうなしっかりした筆圧を、認めざるにはおかない程の成長ぶりに目を見張った。文学で石田に追いつくまでに、絵で彼女に追い越されれば俺は一体何をしているのか、このままつまらん回り道で終わらせたくないと焦った。
「もっと全体を見てほしいの」と彼女は訴え掛ける。その切なさに
二宮は応えるすべをなくしていた。
「あなたならこの絵がまだ確立にはほど遠いと分かっているのでしょう、だからそんないい加減な批評で私をごまかすなんて、あの時のあなたはどこへいってしまったの。おかしいじゃないの」黙ってないで答えてほしいと訴える彼女の言葉に一理はあった。だから二宮は己のいびつさに苦しめられた。
何に拘っているのかともう一人の自分が激しく罵った。それを諫められぬ自分の歯がなさがいたたまれた。
どこか当てどなく彷徨ってる二宮の視線を彼女は鋭く捉えていた。そこに彼女はおそらく遠い昔の自分を見ているような気がすると深い孤独感に襲われた。
このままでは彼女は俺を見限る、そう直感すると深い深淵の中に心が留めどなく落ちてゆく恐怖が、全身を包み込むと激しい悪寒が背筋に走った。
「何も言いたくないなんて昔のあなたはどこへ行ったの?」
彼女は沈黙の行方を探るように問いただした。長い静かな時間だけが過ぎてゆく。疲れたように彼女は視線を落とした。その白いうなじが堪らなくいとしくなった。
彼女とは絵で繋がっていた。最近はそれ以上のもので繋がっていると確信してぼくは新しい道を模索した。今その根底が揺らぎ始めていた。有ってはならぬが、思い当たる節がひとつだけ浮かんだ。
石田には二つのエリアが在った。教会を中心にして牧師とのエリアと急速に親交を深めた二宮とのエリアだった。この二つのエリアは石田の生活環境の中にあり、キリスト教には無関心の二宮がこのエリアに踏み込む事はなかった。
石田と親交を結んでも彼の信ずる宗教とは棲み分けていたのである。二宮は神は象徴として肯定しても自我の確立を求める心の中には踏み込んでもらいたくなかった。それを心得ている石田は二宮には信仰をひけらかす事も勧誘する事もなかった。まさに友情だけで結ばれていた。
彼との議論でもクリスチャンを意識する事は一度もなかった。予備校時代にも進路に就いて議論した時も、ただ純粋に何のために大学へ行くか、この点では二人とも文学の教養を深める事では一致していた。
ただ石田は元々文学志向であったが、二宮は絵画に深い技巧と関心を身につける努力をしてきた。それが石田と接近してから、その知識への尽きぬ興味の差を急速に埋めようとした結果、志望校を一緒にした経緯があった。
石田も一時の感情に左右されず、今まで進んで来た道を振り返って、自分の意志をハッキリさせた方が良いと忠告していた。それでも一からやろうとする彼の新しい分野への好奇心の旺盛さに感銘を受けたが、急激な舵取りで座礁さしてしまったようで「由稀ちゃん、二宮が受験に失敗した原因は俺にもある」と告げていた。
「それってどう云うこと?」
訳を訊くと例の映画鑑賞の一件とリンクさせて由稀乃は笑った。随分とお節介な優しさなのね。人の行動をいちいちそんな風に取り繕っていれば身が持たないわよ。
「身が持たないって事は行き着くとこまで行く?ってこと?」
「石田くん、あなたがクリスチャンになったのは分かるけど、あなた宣教師には向いてないわね」
「でも入信した以上は布教活動はもとより全ての行動は神の意志に添って行く」
「あなたは救いを求めて、救われたい一心で入信したんでしょう。そんな人に人を導くことは出来ないと思う」
「でも二宮は進路を変えた」
「彼は変えていないわ」由稀乃はどこかでまた彼は絵画に回避すると決めつけて見守っていた。それよりなんであの人は本を読むようになったのだろう?
「ルノワールやゴッホも本は読むだろう」と何気なく言った石田の言葉に誘発されてフランス印象派の画家の内面を恣意した結果、二宮はフランスからドイツ、ロシアへと流れてゆく過程に存在した作家や書物に興味を持った。と石田は由稀乃の疑問に答えた。
感性に基づき動かそうとする絵筆の原動力にある程度の知識が引力として働く、それはあり得ない事ではないと突き詰め始めた事が切っ掛けになった。こうなると彼は次第にのめり込み志望校まで変えてしまった。
これが彼にとって良いのか悪いのか今は分からないが、ある意味で石田自身の持つ純粋さと共鳴するものに、彼を近づけさせたのも一因であった。この性格はお互いがお互いをカバーしなければ成らないと云う、運命的なものをあんうんの呼吸の中で汲み取った。
「そうなの、それであの人はド壺にはまり込んだのね」そう言いながら由稀乃は遠い空を眺めた。
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