第3話

(3)

一週間後に部屋に遊びに来ていた石田が意外な事を言った。本当はもっと早く告げるべきだったがと前置きして「僕はキリスト教を信じている、いや、その信者だ」と聞いて二宮は驚いた。

 彼が信者を隠す必要もないのに今まで黙っていたのに驚かされた。彼も最初のうちは何も包み隠さず伝えていたが。あいつは坊主だとか右の頬を打たれたら左の頬も出すんだとか、何か意見を言うとキリストを押し売りするなとか、いじめの対象者にされてから沈黙を続けた。

 心無い者を導く人間が心無い者から軽蔑された。だから相手を選ぶようになった。これでは自分としては信者を名乗る資格のない人間だと思い込むと語る事をやめてしまった。

 二宮は石田の屈託のない明るさの闇に、そんな陰が潜んでいたとは知らなかった。この闇に光りを当てるべく二宮は石田を誘って三人で出かけ、由稀乃には積極的に話し相手になってやるように勧めた。

 これではあべこべだ、伝道師たる者の採るべき道じゃない、と言いながらも石田はたまに由稀乃と連れだって三人で出かけるのをまんざらでも無い風になった。

その彼女が今、柔らかな五月の風を受けている。手を伸ばせば彼女の風にそよぐ長い黒髪がすぐそばに揺れていた。草むらにしなやかに座る彼女の存在に、私の胸の鼓動は高まっていた。

 石田と私とで観音菩薩と呼ぶその深く染み渡る瞳から発する思慮に深い安らぎを覚えていた。彼女は私の視線に振り向いた。彼女が捉えた二つの瞳に私が映っていた。この瞳の中に喜怒哀楽から導かれた情炎が私の小宇宙として宿っているのだ。

 その中の彼女の現実は、空想はどう映っているのかと思いながら私は見つめた。視線を石田に移した。彼は一心に大空を行くいわし雲でもを追っているのだろう。大きく開けた口は何を語るでもなく、ただ視線をより遠くに投げかけていた。

 私は彼に気を緩めて静かに時を過ごした。咲き誇る花は何を語るでもなく風に震えてなびいていた。

常に心の距離を取る様に遠くから、ただ見る石田を見かねて由稀乃が二宮に打ち明けた事があった。

「あれ程説得力のある話し上手な人なのになぜ個人と一対一で特に女の人と対話するのがあんなに苦手な人は見た事がないわ」この世には男と女しかいないのに、と由稀乃は呆れたと云うより悲し過ぎる人だと言っていた。

 

 二宮も映画館でのあの一件以来、余りにもうぶ過ぎる石田に表向きは冷やかしていても、心の奥底では何とかしてやりたいと望んでいた。石田より社交的でない自分にはそれは望んでも不可能に近かった。まさに清水の舞台から飛び降りる覚悟を必要としたが、とても結果が伴わない犬死にに等しいから由稀乃に協力を求めた。

「あなたの優しさには心が打たれた」と由稀乃は不器用なあなたに代わって一肌脱ぐと言った。もろ肌は止めてくれと冗談に言うと「馬鹿ね」と頼もしく笑っていた。

この計画は成功した。彼はそれ以後自分がキリスト教の信者で在る事を隠さず、それどころか積極的に打って出る様になった。根はそう云う人間だから彼が立派な伝道者に成るのも、そう遠い出来事とは思われぬほど見違えてきた。

由稀乃が言うには、あの人は根っからのクリスチャンだと認識させられる事が、津々浦々に見受けられると言う。だが詳しい事は分からないが石田は二、三年前になったらしい。どうやら難しい哲学や宗教を勉強する内にのめり込んだらしい。特にキリスト教の道徳観には目を見張るものがあると、最初は仏教に傾倒していたが、外に向かって開かれたようなキリストの教えに感化した。

 諸行無常と説くより、求めよさらば与えられんと云うような教えに石田は短期間の内に、いや同じ仏教と云う宗教の土台が有ったからかも知れないがキリスト教に傾斜して行けた。

 由稀乃も二宮も宗教は肯定しても、最後は神頼みと云うやつが生に合わなかった。神は気休めであり拠り所ではなかった。

 二宮が一緒でない時に由稀乃も石田からキリスト教を告白されたらしい。彼女も二宮同様に全く動じなかった。却かえって今まで黙っていたのが不思議なくらいで「以外と純なのね」と笑って見せた。

 学問から入った彼は信者であって伝道者じゃないんだ。そう思えば彼はそんなに重荷を背負う事はないんだと、二宮も由稀乃も気負う事は無いと石田に常々言い聞かせていた。だが本領発揮する石田は、自分一人で意固地にも十字架を背負うと頑張り、言って聴かせても納得させるのは簡単じゃなかった。


六月に成るとあれ程爽やかな風が、今は湿っぽく肌にまとわりつくように吹きだす。青空が片隅に追い払われて曇り空から時々陽が差し始めた午後、ツバメは川面を舐めるように低く飛び交ってる。

 颯爽と街を闊歩していた新人たちは、すっかり影を潜めて賑やかに新たな群れに興じていた。ある者は大学のキャンバスで、ある者はオフィス街の雑踏の中を歩いている。

 その中に石田も混じっている。その姿は入学時のあの重苦しい雰囲気が雲散していた。明らかに一つのコンプレックスから立ち直った兆しが見えていた。二宮は目ざとく彼を見つけると大きな声を掛けた。彼は驚いて暫く辺りを見回してから二宮を見つけると駆け寄って来た。

 相変わらず難しい本を肩から提げたカバンとは別に小脇にも抱えていた。どうやらそれらの本は近くの古本屋で見つけたらしく、すっかり金を使い込んでしまったと頭を掻いていた。表題を覗き見すると哲学書だった。

「聖書はどうした?」とからかってやった。余り苛めるなとムキになったところが可愛かった。それでもいつもなら由稀乃の存在を確認する石田が気に留める様子もなかった。二宮も深く留めなかった。 

 彼女は今新しい作品作りでスケッチ帳を持ってデッサンに行っている。良いのが描けるといいが、とふと空を見上げていると、石田が肩を小突くように急かした。二人はいつもの河原に寝そべった。

「入学したとたんに何もすることがなくなった。あの予備校時代の不安に駆られて理解する前に詰め込んだ物はなんだったんだろうね」母親が噛まなきゃあ消化出来ないでしょうと遅刻しそうなのに朝食を勧めた母に「だから要らないって言ったのに無理に勧めるからだ」と母をののしった。あの時の朝食の片づけを終えた母の姿と今タブって仕方がなかった。

 あの一年は何だったんだろう。あの狭い門の向こうに何があるかと考えるより、ただ一直線に大学の門を目指した。石田も二宮も今は有り余る時間を目一杯自分たちに振り向けている。

「二宮、お前はどうして美大へ行かなかったのだ?そしたら本格的に絵の勉強に打ち込めたのに。それとも俺が文学の講釈を垂れたのがいけなかったのか・・・」

石田は反省した。

「気にするな、俺は自分で決めた。お前こそ俺に付き合って浪人までさせてしまった」

「それこそ考えすぎだ。実力を過信過ぎた報いだ。気にするな。それよりは進路を変えたお前の方こそ心配したぞ」

「自分の好きなものほど人からああだ、こうだと言われたくない」

「まあそれで上達出来ればそれに超した事はないけれど・・・。あっ!俺、まだお前の絵見た事ないからさ」

「俺の家に遊びに来た時に部屋の隅に何枚かあったろう」

「ああ見たけど、あれって随分昔の絵だろう。由稀乃さんの最近のは見たけれど。お前は今はどんなもん描いてんのか解らんじゃん」

頭上から稲光を浴びた様に、二宮はこの言葉に鋭く反応した。

「彼女の絵?どこで見た!」

「そんな怒鳴らんでもいいだろう」と以外な二宮の反応に思わず彼は腰が引けた。

 石田と由稀乃で俺の知らない世界が存在するなんて、それは余りにも不自然だったからつい語気を荒らげてしまったが、努めて冷静に装って「あっ、スマン驚かせて」と二宮は俯いた。

石田はこの時の二宮の言い知れぬ愁いを一瞬嗅ぎ取った。何だろうと不思議な感覚にとらわれたが、その場は瞬時に千差万別する空の雲同様、文字どおり雲散霧消して何も残らなかった。




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