第8話 マヤ②

 佐々木の車に斗真とレディ、アンナの四人で乗車し、蒼真と涼は佐々木の車の後ろをタクシーで着いてくる形で、一行は横浜の別邸に到着した。

 車を玄関の前につけると、玄関の前には家令の楠木が瀟洒に佇んでおり、車をガレージに移動させる佐々木以外の面々を案内する。

 すでにシェフが昼食の準備を始めているようで、二階に上がると途端に香ばしいかおりが鼻腔を刺激した。しかし完成には暫く掛かるとのことだったので、滴りそうになる涎を笑顔でこらえながら家族用サロンへ落ち着く形になった。

 改めて、背が高く恰幅のいい、髪の長い男性が氷室涼で、赤紫色のおかっぱ頭と中性的な顔立ちが特徴な関西弁の男性が菊亭蒼真。二人は斗真や佐々木と小学校の頃の同級生。横浜の近くの郊外に住んでいて、この屋敷にもよく遊びに来たらしい。

 サロンに入るとレディと蒼真はとりあえず向かい合わせに座って、上着などを脱ぎ始め、斗真と涼は、二人より少し離れたところで、立ったまま何か小難しい話を始めた。

 アンナは一度レディの荷物を持って部屋に向かった。片付けはあとにしてすぐに戻ってくるらしい。

 レディが上着を脱いで長い黒髪を手ぐしで梳かしたあと、真向かいに座る蒼真にどう会話を始めようかと考えていると、蒼真はサロンの内装をぐるりと見回して、嬉しそうに笑った。

「久しぶりやなぁ。変わってへんやん」

「えっと二人は関西出身……じゃないのよね。ごめんなさい」

「逆や逆。生まれは関東やっていっとるやん」

 蒼真と話していると関西弁のイメージに引っ張られて、関東出身だと聞いたばかりなのにうっかり間違ってしまう。

「ごめんなさい。ついうっかり。斗真と同い年なら、えっと二十三歳――」

「まだ誕生日きてへんけど、それになる年やな。小学校のときに親の都合で引っ越してな、もう長いこと関西おるから言葉染まったんやけど、イントネーションが変やろ」

 そう述べてにひひ、と笑う蒼真は年相応よりも若く、というよりは幼く見える印象だった。斗真や涼の大人っぽさと比較すると、まさか同学年とは思えない。

「たしかに少し違和感ありますね。エセ関西弁ってほどじゃないけど……ねぇ、蒼真さんの――」

「うわ、やめてさん付けとか! 敬語も無理!」

 どうやら当人も年上扱いされるのは得意ではないらしい。首をブンブン振ってアピールする。

「あごめんなさい。でも年上だから」

「斗真のことは呼び捨てやんか」

「それはそうなんだけど」

蒼真そうまそうくんってよんでや!」

「じゃあ蒼くんかしら」

「落ち着くーー! それがいい!」

 レディはじゃあそうするわ、と親しげな笑顔を向ける。

 蒼真の天真爛漫さは、レディの親友である蘭と少しばかり雰囲気が似ていて、レディはすっかり蒼真に対して気を許していた。

 あるいは蒼真のファッションセンスがレディの好みであるところも、好感度の足しになっていたかもしれない。レディは遠慮がちに手を伸ばして、蒼真が被っている帽子のつばに触れた。

「あーやっぱり、蒼くんの帽子、私も好きなブランドだわ。あそこ可愛いよね」

 刺繍されたブランドロゴをなぞりながらレディが小さく笑うと、蒼真が一定時間動きを停止した。レディが不躾だったかしら、と考えていると蒼真は瞳を輝かせてレディの手を握った。

「わかってくれる!? まりあちゃん流石やん!」

「えっ、ええ。……高いからあまり買えないけど……あそうだ! じゃあ、これプレゼントするね」

 レディはハンドバッグのジッパーにくくりつけていたキーホルダーを取り出すと、蒼真に渡す。

 蒼真の帽子と同じブランドのノベルティで無料の品だが、関東の店舗で期間限定配布だったので、関西に長いこといたという蒼真は持っていないだろうと思い至ったのだ。

 案の定受け取った蒼真は、女の子が喜んだそれと同じような声の高さで「はわわわーー!」と奇声をあげ席を立ち、レディの隣に座ると「まりあちゃん大好き!」と抱きついた。レディは異性にいきなり抱きつかれたことに驚きつつも、これが蒼真のキャラクターなんだと判断して、特別邪険には扱わなかった。

 同性の友達のような距離感を保ったまま、蒼真は心底嬉しそうにキーホルダーを掲げる。

「ええの? 限定やん!」

「うん。私二つ持ってるの。たまたま期間中に二回行く機会があって」

 レディ自身の買い物ではなく、蘭に付き合った形だったのだが、おかげでノベルティは全く同じものを2つ持っている。

「まりあちゃんめっちゃ優しいーー」

「あ、そういえばレディって呼んでほしいわ」

「レディ? なんで?」

 名前からも推測し難い珍しい愛称に、蒼真は大きな目をくるんと丸めて首を傾げた。その仕草が全く女の子のそれである。

「ずっとそう呼ばれてるの、逆にまりあって呼ばれ慣れてなくて」

「そういうもんなん? じゃあレディちゃんありがとうー大好き!」

 蒼真はレディを呼び直すともう一度抱きついてきた。流石のレディも二度目だから驚かなかったものの、少々苦笑いがこみ上げてくる

 距離感が人一倍近く、性別に左右されない男の子なんだろうと、とりあえずその認識を脳にインプットさせた。

 レディが蒼真の背中をぽんぽんと叩いてなだめていると、荷物を部屋にしまってから、サロンにやってきたアンナがレディに耳打ちする。

「レディ、飲み物はいかが致しましょう? ご指示ください」

「あっじゃあ私はアンナと飲み物の用意してくるから待ってて」

 レディが立ち上がると、蒼真も釣られるように立ち上がった。

「じゃあ俺はお手洗い借りてくるわ」

「蒼くん場所は……」

「なんとなーく覚えてる!」

「まあすごい。私なんてまだ少し迷う」

 レディのつぶやきをよそに自信満々の蒼真は軽くレディたちに手を振りながら部屋をあとにした。レディとアンナも顔を見合わせて、サロンから続き間になっている準備室へ向かう。



 そんな蒼真とレディの様子を眺めていた斗真は口に手を当てて目を見開いていた。

 見た目や声だけなら、仲のいい女子同士のスキンシップにしか思えないが、その実蒼真はきちんと男だし、女性を性の対象としてみないセクシャリティというわけでもない。

 少なくとも斗真にとっては嫉妬の対象となり得る相手だ。

「今の何? レディも警戒心なさすぎ」

 明らかに苛立ちをにじませる斗真の声に、涼が「どーどー」と宥める。

「怒るなよ、そうが中性的なのは昔からだろ」

「中性的ねぇ」

 斗真は近くの柱に寄りかかり、ふーと、息を吐く。今すぐタバコを吸いたい気分だが、サロンでは吸わないと決めている。

 ソファやカーペットに匂いがつくからと、かつて斗真の母がよく怒った場所だからだ。

「今流行ってんじゃん? ジェンダーレス男子」

「ジェンダーははっきりしてるだろ。指向も。趣味が女子っぽいだけで、他はマジョリティのはずだよ」

「そう割り切れる人間のほうが少ないからごっちゃになるんだろうが。ああ、まりあのことも責めてやるなよ」

「俺がレディを責めるわけ無いでしょ。でも……」

 レディに自身に他意がないこと、ましてや今日会ったばかりの蒼真に対し特別な感情がないことは火を見るより明らかだ。

 理屈はきちんとわかっている。それでも拭えないのが嫉妬という根深い感情なのだ。たかが執着と片付けられるほど、斗真の気持ちは軽くない。

「つかまだ別に、お前のものってわけじゃないんだろ? 嫉妬するのはお門違いなんじゃねぇの。しらんけど」

 涼の言葉は正論だった。斗真はまだレディと付き合っているわけではない。よしんば付き合っていたところで、今のやり取りを責めれるかと言われたら、おおよそ責めれそうにないが。

「どちらにしろレディはものじゃない」

 斗真の表情には珍しく感情がはっきり滲んでいて、涼は愉快だなぁと口の端をそりあげた。

「揚げ足取るんじゃねぇよ。あそうだ、俺ら暫くここに滞在するからよろしく」

「はぁ? 世田谷の本邸にいきなよ」

 関東以外の地域にいる分家筋が集まるときは本邸に泊まると相場が決まっている。斗真は眉をしかめた。

「あの性悪猫と寝食共にしろって? 拷問かよ」

 十子のことを指して性悪猫と表現する涼を、「一応性悪でも母親なんだけど」と斗真が睨む。

「お前の好きな美人じゃないか」

「たしかに俺は面食いだけど歳上は無理。素直で可愛い年下がいいわ」

「ふーん?」

 意味深長に頷く斗真に、今度は涼が睨む番だ。眉根を寄せて三白眼を細める。

「あ? なんだよ」

「別に。滞在してもいいけど、本館は使わないでくれる? ゲストハウス使って」

「おいおい身内だろ?」

 親戚やそれに近しい関係の身内が別邸に宿泊する場合は、本館にあるゲストルームに泊めるべきだ。

 しかしこの家には今レディがいる。同じ屋根の下に年頃の男女を寝せたくはない。何より斗真自身良い気がしない。

 斗真はため息をつきつつ目を伏せた。

「悪いけど、今は俺一人の家じゃないから。年頃の女の子が生活する建物に涼みたいな男を置いておけない」

「俺だけか?」

 それならば甘んじて受け入れてやらんこともない、という態度で涼が問うと、斗真はいいや、と首を横に振った。

「蒼真も。二人でゲストハウスを使ってもらう」

「いやいや、俺はともかく蒼真は分家だぞ。お前の従兄弟でもある……本館に泊めるのが筋だろ?」

「何それ、身内の贔屓目ってやつ?」

 斗真は伏せた瞼を片方だけ開けて昏く涼を見据える。涼は先程細めた瞳を更に歪ませた。

「てめえなぁ」

 二人の間の空気が、ホテルで対峙したときのように冷たく張り詰めると、その糸を緩めるかのような柔らかな声がその場に響いた。


「あのー……」

 声の主はレディで、準備室からいつの間にか戻ってきていたようだった。レディは小さな手で斗真が着ているニットの裾を掴む。

「ん? どうしたのレディ」

 先程の張り詰めた空気はどこへやら、斗真は柔らかい笑顔を作ってレディに向けた。

「あのね、今日は結構暑いでしょう? 斗真の好きなレモングラスをアイスにしたから、一緒にどうかしら?」

「え、本当? 嬉しいな」

 レディが気を遣ってくれたことや、自分のの好みを覚えていてくれたことすべてが嬉しくて、斗真は少し前の嫉妬などすっかり忘れてしまったかのように頬を綻ばせる。

 斗真のその表情に、レディもすっと胸のつかえが下りて、柔らかい笑顔をそのまま涼に向けた。

「氷室さんハーブティーは大丈夫ですか? 苦手でしたら癖のないものを用意しますけど」

「お気遣いどーも。俺も蒼真も大丈夫だから同じのくれ。なぁ、……えっとレディだっけ?」

「はい?」

 レディが首を傾げると、涼は初めてレディに柔和な笑顔を向けた。

「ひーたんってよばねぇの?」

「ひー……? なんでですか?」

「んー、愛称かな」

「可愛らしい愛称ですね? 子供の時そう呼ばれていたんですか?」

 恐らく名字の【ひむろ】から取ったのだろうか。まるで幼稚園か小学生の子供がつけるような可愛らしい愛称は、筋肉質で身長の高い男には少々不釣り合いと言える。

 ――それとも、蒼くんと同じでそういう可愛らしい雰囲気が実は好きとか? 蒼くんと違い服装や態度には出さないだけで。

 すごく失礼なことを言ったかもしれない。慌ててレディが「大人の男性ですから、きちんと名前でお呼びしたほうが良いかなって」と取り繕うと、涼はにんまり笑ってレディの頭をポンポンとなでた。

「じゃあ涼だな。愛情たっぷりな感じで」

「愛情ですか……あはは」

 もちろんそんな物の持ち合わせはないが、そうはっきり述べるわけにも行かず、何と返したら良いのかわからなくて、レディは曖昧に笑ってみせる。

 しかし、レディの感情を知ってか知らずか、涼の方は全くの無遠慮で、レディに顔を近づけた。

「なぁレディ、お前周りに美人って言われない?」

「涼!」

 不躾な涼の態度を斗真が叱りつける。珍しく大きな声を出すので、涼ではなくレディの肩がびくっと震えた。

「冗談だって、怒んなよ、とうま?」

「……本家の被後見人には、節度ある態度をとって」

「わーってるって」

 そう言って涼はレディに対してニッコリ笑うと、また歯ぎしりを一つ鳴らした。





 晩春の夜は少し冷える。浜風が入るのと日中強めに日光が当たるので放射冷却が起きるからだ。

 もっと都市部ならばまだしも、横浜とはいえ郊外なので、夜に空調のない廊下を歩くときは厚手のカーディガンが欠かせない。

 そんな横浜郊外の屋敷で、レディは一人、一階の大広間に来ていた。


「うーん……最近夢に見るのは、ここな気がするのよね……」

 豪華な内装に既視感のようなものを抱く。

 レディは目を閉ざし、過去のことを振り返る。

 確かに幼い頃、帰省のついでにこの辺りを遊び場にしてはいたが、この屋敷には立ち入ったことはないはずだ。

 なのでこの既視感のようなものは、何度も夢に見たせいかもしれない。記憶と現実がごちゃまぜになって、存在していない情景を夢にしてしまっているだけなのかもしれない。

 何よりここに引っ越すまで一度だってあの少年を夢に見たことはなかったのだ。

 初恋の相手が斗真だったらいいのにと、都合のいい夢を見たがっているだけではないのだろうかと、自問する。

 あるいは、祖父に対する免罪符のようなものかもしれない。――私は決して中途半端な気持ちであなたから他の人に乗り換えようとしているわけじゃない、と、そう言い訳したいのかもしれない。

 レディは自分の体をぎゅっと抱きしめる。

「あの子が斗真なら、顔を思い出せないなんてことはないと思うし……」

 確かに初恋の男の子はいた。一緒に合奏をした思い出もある。周りにいた男の子たちが少し意地悪で、レディは何度も泣きべそをかいた。けれどその男の子はきっと斗真ではない。他人の空似だ。そもそも似ているかどうかすら思い出せない。

「……ダメね。しっかりしなきゃ」

 アンナはとっくにレディが斗真を好きになっていると言っていた。レディ自身も斗真が喜んでくれれば嬉しいし、触られると抗えない。

 けれどそれが本当に祖父のときと同じような恋の情なのかと言われれば、違うような気もする。

「快楽に負けて、とか、お世話になっているから、とか、そういう理由で受け入れたら、かえって失礼よ。だって斗真は――」

 本気で、愛そうとしてくれているような気がするのだ。

 だから私も、本気で応えたい。

 レディは自分の両頬をパンッと叩いて、大広間を後にした。


 階段を登り、自分の部屋に向かう道すがらで、斗真の部屋の方向から話し声が聞こえてきた。

 中にいるのは斗真と涼の二人のようで、涼の低い声と斗真の高めの声が、交互に響いた。少々声を荒らげているようにも聞こえる。

「喧嘩かしら……? 止めた方が?」

 慌てて斗真の部屋のドアノブを回しかけ、しかし全くの見当違いだったら困ると思い至り、もっと話しをよく聞いてからにしようと、ドアの向こうに意識を向けた。


「――だから、いい加減にしてよ。清華七家せいがしちけ協議のときに話した通り。一切の例外を認めるつもりはない」

 斗真は、レディが普段全く聞くことのない剣幕でまくし立てた。言葉の半分も意味を理解できないまま、とにかく涼が何かしら斗真に頼み事をして、斗真がそれを断っているという状況をレディはなんとか理解する。

「でもずっとそうやって育てられたんだぞ」

 涼はなおも斗真に食い下がっているようだ。

「現当主も、それに俺も、頼んだり強制したりはしてない。菊亭側の都合だろ」

「冷めた言い方するなぁ。お前が分家を蔑ろにするのってさ、やっぱり――」

「関係ない。それに一度決めたことを覆すなら他の分家の了承も必要だよ。菊亭だけ特別扱いはしない」

 斗真はきっぱり言い放つと、そのまま深くため息を付いた。

 涼も食い下がるのを諦めたのか、ふーんと不機嫌そうな声で答えている。

 レディは耳を澄ませながら、分家やら当主やらという言葉を一つずつ追いかけてみるものの、肝心なことを聞いてないような気がして、やはり分からないままだ。

「冷たい御学友だこと」

「その冷たい御学友のところにいないで部屋に帰ったら。――もう夜も更けた」

「いい月夜だろ」

 二人の声が落ち着いたトーンに戻ったことで、レディはホッと安堵の息を吐いた。

 はじめの時点では仲裁に入ったほうが良いのではと疑うほどの剣幕だったが、お互い大人なのか話し合いでなんとかできるのかもしれない。

「ゲストハウスには、二人メイドをつける。昼はともかく夜は本館をうろちょろしないでくれる? レディを怖がらせたくない」

 斗真の言葉にレディは自分の頬が熱くなったのを感じた。レディのいないところでも、斗真がいかに大切にしてくれているかわかる。

「人を害獣みたいに扱いやがって」

「間違ってる?」

「しっかたねぇなぁ。まぁ、"立場"を、弁えてやるよ」

「嫌味な言い方するね。必要最低限の役割は果たしてるつもりだよ。時代錯誤な慣習は俺には必要ないってだけ」

「なんだそれ。ただ夢見ていたいだけだろ。一番子供なのは蒼真じゃなくてお前じゃねぇの」

「何とでも言えば」

 最後まで二人の会話の意味はわからなかったが、これ以上喧嘩をすることはなさそうだし、いつまでも聞き耳を立てては失礼なので、レディはその場を離れようとした――次の瞬間、涼の口から聞き捨てならないセリフが発せられた。

「なぁ斗真、のこと、そんなに好き?」

 ――え、誰? マヤちゃんって?

 レディは震えながらもう一度ドアの向こうに意識を集中させた。今すぐここを離れたほうが良いような、あるいはきちんと知っておきたいような、恐怖と好奇心がレディの中で二律背反する。

「涼」

「初恋だろ。俺も、お前も」

「はは、涼も初恋してたんだ」

「愛し方に違いがあったってだけ。俺とお前はほとんど変わんねぇよ。いい人の面被って、中途半端な夢を見るのはやめろ」

「中途半端じゃないよ。今でも……」

 嗚呼、どうしよう、聞きたくない。

 レディは耳を塞ごうと両手を顔の横にやったが、もう間に合わなかった。

「――俺にとっては、夢じゃない」

「……っ」

 レディは自分の中で何かが弾けてしまうような感覚を抱いた。

 今のレディに斗真を縛り付ける権利なんてないのに、――何故か焼け付くように胸が痛い。

 レディが斗真の部屋の扉から離れて、真向かいの自分の部屋に入ろうとすると、横から歩いてきた人影とぶつかった。 

「わっ」

 その人影はぶつかってきたレディの身体を、難なく支えた。その中性的な声からその声の主が誰だかすぐに分かって、レディは顔を上げる。

「っ……蒼くん」

「大丈夫? 慌ててたみたいやけど――」

 憔悴した心地のまま、蒼真の腕にすがりつきそうになって、レディは小さく首を振る。

「私は平気。涼さんなら、きっと斗真の部屋にいるわ。今話し声が聞こえたの」

「あ、ほんま? ゲストハウスにおらんかって、探してたから助かるわ」

「そう、良かった……じゃあ、おやすみなさい」

「うん、おやすみ」

 蒼真と笑顔を交わし、なるべく平静を装ってレディは自分の部屋に入った。

 すると中で衣装を片付けていたアンナがクローゼットの扉を締めるところだった。

 少々焦った様子に見えたレディを訝しげに一瞥して、首をかしげる。

「大丈夫ですか?」

「――ドレス、片付けてくれてありがとう。私はもう寝るわ」

 そう言ってレディがベッドに向かうので、アンナは素早く部屋の電気を消して、ベッド脇の間接照明だけをつけた。

「ではレディ、私も失礼します。また朝、いつもの時間に参ります」

「お疲れ様。おやすみアンナ」

 アンナが部屋を出ていったあと、レディは暫く天井を見上げたままその足音が遠ざかるのを待った。

 やがて自室と廊下に静寂が訪れたのを確認してから、のそのそとベッドを出て、間接照明の明かりだけを頼りにクローゼットの扉を開ける。


 ウォークインクローゼットの一番手前には、明日クリーニングに出す予定の純白のドレスが、マネキンに着せられている。

 斗真の愛情が詰まったドレス。そう思っていた。だから着たら喜んでくれると思ったし、実際喜んでくれているように見えた。

 しかしそれが違うとわかった。初恋なんて誰にでもあるだろう。実際レディはつい最近まで実の祖父と近親愛を築いていた。斗真を責める筋合いはない。ただ――

 ――今でも、俺にとっては夢じゃない。

 レディはドレスの裾を握って、その場に蹲った。

「誰よ、マヤちゃんって……」

 もし斗真が今でもその初恋の相手を思っているのなら、これは愛情ではなくただの義務だ。その事実がどうしても心を抉る。


「……私は? 私は、何? なんなの?」

 斗真の愛情を信じたい。きちんと向き合いたいと思っているのに、もし彼が一度も、本心を口にしていないんだとしたら。

 ――どんな顔で見せかけの愛情に応えたら良いのだろう。

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首輪つきのレディ 紅葡萄 @noircherry44

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