第2話 レディーズメイド②
「レディ、クレイバスはご存知ですか? デトックス効果があるんですよ」
「しりません……」
まさか浴室にまでアンナが入ってくるとは思わなかったので、レディはそれどころではない。そもそもクレイなんて聞いたこともないし、何が良いのかもよく分からない。確かに身体は温まっているような気もするが、熱湯に入った時のそれと一体何が違うというのだろう。
淡く濁ったお湯にはアンナは何かパウダーのようなものを混ぜていた。それが"クレイ"というらしいがバスソルトではないの? 一体何が違うの? と美容に関しては適度に、そして経済的にがモットーだった庶民のレディでは到底理解できそうにない。
「入浴中は蜂蜜とヨーグルトのパックをお顔にして、髪はトリートメントを。すべて天然由来のモノを使用してます。ご安心ください」
何に安心しろっていうの? 私はマツキヨで三点セット七九八円の物でいいのよ――そう言いたい衝動を懸命に抑え、レディは顔のパックにかこつけて大人しく瞼を閉ざしているが、内心震えが止まらない。
まず、今日初めて会った他人――女性とはいえ――に肌をさらしながら入浴するなんて初めての経験で、羞恥心がレディの思考力を奪う。
それに次から次へと、”今ハリウッド女優で人気の”だの、"スーパーモデルが愛用している"などと言った価値のある美容を施されるものの、善し悪しが分かるほどレディに見識はない。いっそ土下座したくなるほどの勿体なさだ。猫に小判、豚に真珠とはまさにこれを言う。
「ものの良さが分からなくてごめんなさい……」
「お加減はいかがでしょう?」
「すごく気持ちいいです!」
多分ね、とは心の中で付け足しておく。普段のそれと何が違うのか聞かれたらなんて答えるか、その言い訳を考えるのが急務だ。
やっぱり物がいいと違いますわね、といかにもセレブぶったらいいだろうか。いや、似合わないことはやめた方がいいだろう。すぐにぼろが出るに決まっているからだ。
せめてこの入浴さえ早く終わってくれたら――最早置き人形のように瞬き一つ気だるくなったレディはアンナにされるがままだ。
「お湯から上がったら軽いマッサージと、乾燥の酷い季節ですからボディミルクを塗りましょう。そのあとはネイルですね……色が欠けている所がありますもの」
今まさに早く終われと願っていたレディの浅はかな希望を、アンナは容赦なく打ち砕く。
「え、まだやるの?」
「あら、今日はお嫌ですか?」
「……いいえ……」
慣れよう、慣れるんだ。今日嫌だと言っても明日は、明後日は、どうせいつかはすることになるのだから、早く慣れた方がいい。
――つい一時間ほど前だろうか。
アンナをレディに紹介した斗真は、そのあとすぐに大学の研究室から連絡を受けて、後をアンナに任せて家を出てしまった。そのまま二件ほど打合せをこなして、けれど夕飯は一緒に食べれるように帰ってくるとレディに約束を取り付けて。
アンナはすぐにレディの自室を案内してくれた。天蓋付きのクイーンサイズベッドと壁掛けの大きなテレビがまず目に飛び込んでくる広い室内。家具は可愛らしく白と赤が基調になっている、レディ好みの部屋だった。
ウォークインクローゼットの中身は何故か埋まっていて、レディが持ってきた服や小物などは全体の十分の一にも満たないほどだった。アンナ曰く、斗真に頼まれてアンナのセンスで服や小物は揃えたとのことだったが、ネックタグや、カバンの装飾を見たところどれもハイブランドばかりだったのでレディはもうすべてを把握する気すら失っていた。なんにせよ着こなせる自信がない。
洗面所やトイレお風呂もよく掃除されていて光り輝くほどだった。洗面所の洗面器以外はきっと大理石だったと思う。いや、忘れようその事実は。思い出したら胃が痛い――
とまあ一通りの案内を終え、一息つこうとソファに腰掛け、羽織っていたカーディガンを脱いだ瞬間、髪がカーディガンに張り付くような心地がした。
乾燥していたので、いつの間にか静電気を髪にため込んでしまっていたらしい。長いのでよくあることだったが――
「あら、きれいな髪が……静電気でしょうか」
「今日はちょっと乾燥してるわね」
少し梳いたほうがいいかとソファから立ち上がろうとした瞬間、アンナが飛び切りの笑顔でその行動を制した。
「静電気を除去するブラシで梳かしますから、動かないで。せっかくきれいな黒髪なのに、もったいないです」
「い、いいよ、自分で」
「私はレディーズメイドですから。お嬢様は」
嗚呼またその呼び方をする。お嬢様なんて分不相応な呼び方はやめてほしい。レディは振り返ってアンナを見据えた。
「ねぇお願いだからお嬢様って呼ばないで。私別にお嬢様じゃないもの」
「では、まりあ様?」
他に選択肢はないとでも言いたげな表情のアンナに、レディは指摘を躊躇った。
本名が聖園まりあなので決して間違いではないが、その呼ばれ方は果たしてどうなのだろう。受け入れがたい。
「ええっとね、間違ってはいないんだけど、どことなく宗教感が……。それに年上から様付きで呼ばれるなんて分不相応は……」
「うーん。では……」
「レディ! って呼んで、様もつけないで」
レディの懇親のお願いにアンナは頭を悩ませる。レディはあくまでも愛称であって、使用人風情がそこまで親し気に接するべきではないのだが、本人が求めているのだしと、アンナは熟考する。
「ううむ、無礼になりそうなギリギリのラインですけど、お嬢様を海外ではレディと呼ぶようですし、あなたがそう仰るのならそうしましょう」
「そうして。あ、で髪は」
「私がやります」
「……はい……」
結果呼び名だけは訂正できたものの、あとはアンナのいう通り動かなくなったレディ。
アンナはレディの髪をブラッシングした後、うーん、と考え込んだと思うと一つの提案をしてきた。
「一度湯浴みをなさいませんか?」
そう促されて、私そんなに汚れたかしらと不安になったレディは受け入れてしまった。アンナの言った湯浴み、これが本当に湯を浴びるだけだと思っていたレディが愚かだったのだ。
そうして冒頭に至る。まさか湯浴みの一言から、怒涛の美容タイムが始まるとは思っていなかったレディは既にもう限界寸前だ。
今レディは指先をアンナに差し出し、一通りやすりをかけてもらい、ベースを整えたところだ。あとは色を塗って、トップコートをかけて乾かしたら終了。
「爪のお手入れ、ご自分でもされてらしたんですね。ほとんどやすりをかけなくても、形がとても綺麗でした」
「一応女ですから、まあ」
レディは爪の手入れだけは欠かさず行っていた。なぜなら一番お金がかからない美容だと思うからだ。勿論、ジェルネイルなどまともなことをしようと思えがお金はかかるが、整えて表面だけ綺麗にコーティングするくらいなら、手間はかかっても千円以下で済んでしまう。
これが貧乏の知恵、女性としての楽しみの一つである。
「ネイルは何色がよろしいでしょうか?」
「えーっと……いつもは赤だけど……」
アンナの手元には何色も色が揃っている。一番目立つ色だから赤にすることが多かったが今日はピンクなど柔らかい色に挑戦してもいい――どうしようかと悩んでいると、レディの答えを聞く前にアンナが口火を切った。
「ちなみに」
「ちなみに?」
「斗真様はオレンジ色がお好みです」
さり気なく斗真の好みをサジェストしてくる有能メイドにレディはまた頬を引きつらせた。ここだけは譲るまい、と強い声色を作る。
「やっぱり赤にしてください」
◆
予定していた時間より少し遅刻して斗真からラインが来た。十八時半にはつきます、と短く打たれた文章を見て、レディはむしろ夕飯にはちょうどいいくらいだわ、とそのまま部屋でのんびり読書をしていた。
しかししばらくして、アンナから冷たい視線を向けられ、何かしでかしたかとドギマギしている。
「あの……何か?」
レディがアンナの方を見上げると、アンナは冷たい視線をやっと逸らし、目を伏せる。
「レディ、そろそろお着替えを」
「えっと。どこか行くわけじゃないわよね? 家の中でご飯食べるだけならこの格好でも十分……」
レディの現在の服装は、軽装だが決して寝間着や部屋着というわけではない。マキシ丈の花柄ワンピース、上は裾が短めのパーカーという井出立ちだ。レストランに行くならば着替える必要はあっても、家の中で食事をするのには十分だと判断していた。
しかしアンナは違いますと、首を振る。
「お出迎えの為のご準備です」
「へ? 誰の?」
客人が来る予定でもあったのだろうか。レディが首を傾げると、アンナは深いため息とともに語りだす。
「斗真様を。歴代のご婦人方は、ご主人が帰られる際は、必ずお出迎えに参られました」
それがこの屋敷での妻の仕事ということらしい。前時代的ともとれるが、まずそれ以前の問題だ。
「……それって、その人たちはみんな奥様だったんでしょう?」
レディは読んでいた本にしおりを挟んでテーブルの上に置いた。
「それはそうですが」
「なら私は行きません。だって奥様じゃないもの。斗真は旦那様じゃないし」
「レディは花嫁修業中ではないのですか?」
アンナはレディがこれから斗真の花嫁になるための準備期間だと思っているらしい。それならば確かに出迎えを促すのもうなずける。
「それはだいぶ事実関係が歪んでると思うわ。彼は私の後見人だけど、恋愛のパートナーというわけではないの」
「斗真様は、レディを大切な方だとおっしゃっていましたが」
「とにかく行きません」
レディはいかにも妻らしいこと、同棲中のカップルのようなことはやらないと決めてここにきた。斗真がレディをどう思って側にいるかは既に明らかで、いずれはその想いに応えたいとも思っている。
しかし、レディはまだ以前の恋を少なからず引きずっていて、まだ斗真に向き合えない。中途半端な今の状態で、期待させるような言動は取りたくなかった。
◆
「あら意外、和食」
レディがこの家で初めて使うダイニングの長いテーブルには、ご飯に味噌汁、酢の物などの前菜類、焼き魚に煮物数品、陶板に少なめの肉料理となっている。
これはこれで懐石料理かと疑うほどの豪華さだが、フレンチかイタリアンを想像していたレディにしてみれば、少々意外だった。
レディを部屋まで迎えに来て、ダイニングまでエスコートした斗真は、質問を予想していたかのように自然と応える。
「うん。カトラリーを使うものより箸で食べれる方がレディにはいいかと思って、頼んでおいたんだ」
「ありがたいかも。違和感はすごいけど」
「クロスはそれでも取り替えたんだけどね」
確かにクロスは昼間見た薄い白のレースではなく、シックな色合いである程度厚みのあるものに取り替えられていた。いつの間にかそういった細かい指示まで斗真は使用人してから出かけたらしい。
しかし違和感の正体はクロスなどという細かい部分ではなく、部屋全体の内装だ。ロココ調、いや少し落ち着いたテイストはヴィクトリア調だろうか。洋館なので当然だが、内装が豪華な分、机に並べられたご飯や味噌汁が浮いて見える。
斗真の椅子をフットマンが、レディの椅子をアンナが引いてそれぞれ着席すると、レディはその違和感と暫く睨めっこした。
「でも……斗真は普通にテーブルマナーとか完璧よね?」
「ん? うーんまぁ、仕事柄そういうレストランに行くこともあるし、ある程度はね」
斗真は謙遜して述べたが、レディは目の色を変えた。カトラリーを使わないように、とわざわざ言って出かけるということは、普段はカトラリーをつかって食事を摂っているということだ。レディは早速斗真に気を使わせてしまったと自分の未熟さを反省する。
「私もちゃんとマスターする。ずっと和食じゃ斗真に我慢させることになるもの」
「気つかってるの?」
「向上心と言って。それより毎日こんな品数食べてたら、太らない?」
ここは旅館かしら、と言いたくなるほどのボリュームで用意された料理は、美味しそうに見えるが同時に胸焼けも引き起こす。
「今日は特別気合が入ってるような気もするけど、品数はたしかに普段から多いかなぁ。減らすようにするね」
「あいいの、斗真がそれで平気なら。私の分だけ少なくしてもらえば」
普段から少食だったレディは、この量を毎日食べてたら太ってしまう。出てきたものは食べるが、最初から少なくしておいてもらう方がベターだろう。
「せっかくだから今日は全部食べるわ」
「大丈夫? 残してもいいよ」
確かにレディは絶食をやめてからまだ日が浅いので、食欲が旺盛かと言われればそうではないが、せっかく用意してもらった料理を、居候の身分で残すような礼儀知らずな真似はできない。レディは持ち前の貧乏性を発病させながら顔の前で両手を合わせた。
「大丈夫よ、いただきます」
なんとか残さず食べきったレディは、胃袋が八分目をゆうに超えていることを認識しながら、丁寧に「ご馳走様」と手を合わせた。
つられて斗真も両手をあわせて「ご馳走様」と復唱する。鍛えているからカロリーの消費量が多いのか、斗真はそれだけ食べてもまだ余裕がありそうだ。
「食後の紅茶も一緒にどう?」
「えっと、私は嬉しいけど、気つかってない?」
「僕も飲みたいから」
レディが紅茶党であることを斗真は勿論知っているので、気遣いで申し出てくれていることは明らかだが、それを微塵も感じさせない柔らかな笑顔が、レディから遠慮という選択肢を奪う。
レディがぎこちなく頷いて返すと、斗真は立ち上がってレディの後ろに立った。椅子を引くつもりだろうか。紅茶を飲むんじゃなかったのかしら。レディが首を傾げる。
「家族用サロンに案内するから」
「……サロン、とは?」
聞き慣れない言葉にレディは頬が引きつる。サロン、美容室のことじゃないわよね。
「応接室のことです。レディ」
すかさずアンナがフォローする。なら最初から応接室と言って、と憤慨したくなるのをレディは必死に抑えた。
◆
「私は外に出ております。何かありましたらお声掛けください」
そう恭しく述べて、ティーセットの用意を整えたアンナは、部屋から退出した。何に気兼ねしたかは想像したくない、とレディは目を伏せる。
違うのに、そういう関係じゃないってはっきり言ったのに、彼女は絶対信じていない。
家族用サロンは、それぞれの寝室が並ぶ二階の南側の端に位置している、それでなくても広い寝室の倍はあろうゆったりした空間だ。部屋全体からほのかに柑橘系の香りと、柔らかな色の照明。エレガントなソファと、刺繍のクッション。テーブルは大理石でできている。ソーサーを置く音ですら緊張してしまいそうだ。
思えば今日は圧倒されっぱなしだ。ホテルとこの屋敷に行ったり来たりしていた数日が懐かしく思う程、この家での日常はレディにとっての非日常過ぎた。
用意された紅茶はやはりレディの好きな早摘みのアッサムだった。フレッシュな香りと濃厚な味わいがレディの心を少しだけ落ち着かせた。舌が慣れているせいかもしれない。
「ねぇ斗真、一つ聞いてもいい?」
レディの向かい側のソファに座り、同じようにカップを手に持っていた斗真は、優雅に微笑む。
「どうぞ」
「アンナってあらゆる美容のプロだったりするの?」
「え? あー……」
勘のいい斗真はレディの言葉に色々と察したらしい。少しだけ遠くを見たあと、お腹を抱えて笑いだした。
「はははっアンナ張り切ったんだね」
「もう全身ツルピカになったわ」
きっかけは髪に静電気を溜め込んだだけだったのに。ほんのちょっとシャワーを浴びてせめてトリートメントくらいなら話はわかる。わけのわからない美容液のような湯船に浸かって、顔や身体に何かを塗る必要は決してなかったと思う。
レディは肌ツヤの良くなった自分の手の甲をじっと見つめた。
「それはそれは」
斗真はカップをソーサーに置き、立ち上がるとレディの隣へと移動した。それなりの重みがソファにかかって、はずみでレディは少し離れたが、かえって斗真の居場所を作るような形になってしまった。
「なっ……何?」
急に距離感を詰められるとレディの頭は追いつかず、冷静な判断と行動ができなくなる。斗真はそれすらも計算ずくなのか、ずいとレディに顔を近づけた。
「触っていい?」
「だめ!」
「手もだめ?」
拒絶されたことなんて少しも気に留めてない斗真はさり気なくレディの手を捉えてしまう。
そしてレディが抵抗してこないことを確認してから、指の間を親指で撫ぜた。
ピクッと斗真の絶妙な力加減に反応してしまった自分が恥ずかしくなって、レディは思いっきり手を振り払う。
「ちょっと!」
振り払われたことよりも、レディの反応が好みなのか、斗真はくすくす笑って酷く楽しそうだ。
「ちなみに」
「ち、ちなみに?」
どこかで聞いた会話運びだなと思いつつレディは斗真の次の言葉を待つ。
「孤児のアンナは小さい時からうちで働いてたから、僕にとってはお姉ちゃんみたいな存在なんだけど」
「えっ、アンナって孤児なの?」
思わぬアンナとの共通点にレディは目を丸めた。斗真とアンナは同年代だろうとは思っていたが、斗真よりアンナのほうが少し年上らしい。
「うん。レディと違って死別じゃなくて、最初から、だけど」
「最初から?」
斗真の言葉の意味がわからず、レディは首を傾げた。動物である以上勝手に生まれてこれるわけではないので、間違いなく両親は存在しているはずだ。少なくとも母親はいなくては生まれてこれない。
レディの純粋な疑問に、斗真は思案した。外で聞き耳を立てているであろうアンナのために、少しばかり言葉を選ぶ必要があった。
「そのご両親には残念ながら望まれなかったということだよ」
境遇が近いレディは、それだけで状況を察することができた。苦虫を噛み潰したような顔を作る。
「……アンナは僕の母さんのレディーズメイドになついてたんだ。よく言ってたよ、私もレディーズメイドになりたいって。残念ながら僕は一人っ子だったからね」
妹でもいれば違ったんだろうけど、と斗真は遠い目をする。
「だからアンナはずっとお嬢様のお世話をするのが憧れだったんじゃないかな」
「うっ……だからあんなにてんこ盛りだったのね」
事情を知ってしまったら、もう邪険にできそうにはない。実際レディの世話をするアンナは非常に楽しそうだった。
面倒などと言わず今後も付き合うか、キレイになることは悪いことではないのだし、とレディが内心で自分を納得させている間、そっと斗真に捉えられた指先に気づかなかった。
「レディは優しいね。ん……」
斗真は何か物言いたげな間を作った。
「なに?」
心ここにあらずだったレディは、慌てて斗真の視線の先を追う。
「残念、オレンジにはしてくれなかったんだ」
「……っなに!」
いつの間にか斗真はレディの爪をじっと見つめていた。美しく整えられた爪は真っ赤に染まっている。レディのいつもの色だ。わざわざ確認してくるあたり、自分がいない間にレディがアンナに世話されることも、その爪の先が整えられることも、斗真は予想済みだったというわけだ。
なにか言っておいてくれても良かっただろうに、性格が悪い。
斗真はレディの指先に唇を寄せて、ほんの少しだけ音を立てた。ちゅ、という小さな音が広い室内にやたら大きく響いたような気がした。
背筋に一筋の刺激が走るのと同時に、レディの心臓の音まで跳ね上がった。熱っぽい視線がレディの指先から瞳までをなぞってくる。
恥ずかしい、そんな目で見ないで、それ以上近づかないで。狭くはないのに、ソファが小さくなったような気がする。
「この赤もそそるけど」
「そそ……って、下品な言い方しないで!」
そんな目で自分の爪を見られることが殊更に恥ずかしくなって、レディは音を立てて立ち上がった。あれほど緊張して使用していた大理石のテーブルに膝をぶつけながら、必死に斗真から離れる。
「こっ、後見人はありがたいし、郷に入っては郷に従えと言うからなるべくここでの生活に慣れるように努力もする! でも! それとこれとは話が別よっ」
「それとこれって?」
レディが何のことを言っているのか本当にわからない斗真が口を開けて呆然とすると、レディは恥ずかしさでいっぱいいっぱいになった、感情の昂ぶりをそのままに叫ぶ。
「私はまだあなたのものじゃないってこと!」
「……え?」
斗真がさらに不思議そうに首を傾けたことで、レディは更に恥ずかしくなった。なんてことを言ったんだ、自分から。
「おやすみなさい!」
レディは慌てて部屋から飛び出して自分の部屋へと向かった。
ドアの外で待機していたアンナが酷く驚いた表情で一瞬斗真を見て、視線で追いかけますと述べたと思うとレディの背中を追いかけていった。
残された斗真は直前までのレディの感触を思い出しながら、考え込んだ。レディは実の祖父に恋をして、その恋と死別して、まだ日が浅い。急ぐ必要はない、ゆっくり自分を男として意識させようと、そう思っていたのだが。
「あれは照れ隠し」
斗真はレディの飲みかけの紅茶の色をじっと見つめた。
これまで斗真と性的な行為をしても、やたら大人びていて、いっそ全てに諦めているかのように清々しく、絶望に満ちた表情を浮かべていたレディ。
それが斗真から向けられた視線に、恥じらいを感じる程度には、意識してもらえてるんだろうと思えば、喜びのようなものさえこみ上げてくる。
「……ずるいなぁ、レディは」
斗真は顔が熱くなったのを感じた。そのほんのちょっとのつぶやきは、彼を移す紅茶の水面以外、誰の下にも届かなかった。
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