第9.5話 野良に咲く花
自分の居場所がどこかを決めるのはその人自身だ。だから、そこから動きたくないと思えば幸福になって、そこから出られないと思ったら不幸になる。
そのことに気づいた時、蘭は毎日家に帰ると言う当たり前のことを放棄した。
今を楽しめればそれでよくて、楽しめない家にいるのはただのバカだ。学校だって、それ以外だって、自分の心のありようで世界はいくらでも変貌する。
「私の自由をレディに分けてあげたいよ」
そしたらきっとレディはあんなに辛い顔をしなくて済む。でも彼女は自分の首輪を愛しているから、決して蘭のようにはならない。
「なんの話ですか?」
斗真のエスコートで夜の街に消えていったレディの背中に向かって、ポツリと漏らした蘭の言葉に、斗真から何かを頼まれた佐々木が首を傾げた。
「レディの首輪の話。で? 二人になっちゃったけど?」
佐々木は"首輪"がなんなのか分からないようでやはり首を傾げたが、蘭はそれ以上何もヒントを与えるつもりはないので、誤魔化すようににんまり笑った。
「ああ、貴女を送ります」
佐々木はポケットから車のキーを取り出すと蘭にアピールした。蘭は既に酔っ払っているが、佐々木は一滴もお酒を飲んでいないので完全なシラフだ。
「ん、どこに?」
「ご自宅でしょ? どこに帰るつもりですか」
そう問われれば答えを見つけられずに蘭は考える。空を仰ぐも街の明かりが星を消しているのか、何も見えない。
お店を出て、一軒まわって、今は多分三時過ぎくらいだろうか。実家に帰っても鍵が閉まっているかもしれないし、彼氏の家は、まだ彼氏は起きてるかもしれないが、こんな時間に酔って帰ってきた蘭を容赦なく殴るだろう。実際昨日も殴られた。
そう、世界は自分の心のありようでいくらでも変貌する。良い方向にも悪い方向にも、だ。
蘭は急に自分が情けなくなって、「ふふっ」と自嘲を漏らした。
佐々木はそんな蘭を一瞥した後、ふぅと溜息をつく。
「とりあえず、駐車場に行きましょう」
「どこに駐めたの?」
「柳町の、銀行の近くです」
「すぐそこだー行こ行こ」
蘭はにっこり笑って佐々木の腕に自分の腕を絡めた。
◇
駐車場につくと、時間帯の問題か既に車はまばらだった。
そんな中、佐々木の車はすぐ目立つところにあったし、高級外車なのでやたら目立っていた。
「ふえーすごい、高級車だ!」
蘭がボンネットに指を滑らせると、滑らかな金属の感触が返ってきた。よく手入れされたいるのか泥汚れ一つ付いていない。
「まあ。でも、白鳥家が所有してた車を格安で買ったので、実はそんなに」
佐々木がそう言いながらドアノブを握ると、鍵が自動で解錠された。キーレスのリモコンを出した様子さえないのに、と蘭が目を丸くすると、佐々木は、
「新しい車は大概こうですよ。高級車って、新しくないと価値ないので」
と蘭にとって遠い世界の常識を教えてくれた。
「へぇー、これ元々斗真さんの車だったってこと?」
「いや、誰のものでもなかったんじゃないですかね」
誰のものでもない車を持っている意味は果たしてあるのだろうか。
蘭は、お金持ちはよくわからないなぁと首を何度か振って、ベントレーの助手席に乗り込んだ。
車に乗り込むと、佐々木がすぐにギアの隣にあるボタンを押す。それがエンジン始動のボタンのようで、ピピッと電子音が鳴り響いた。
暗い車内にタコメーターや、ナビの明かりがついて、目を安心させた。すぐに外の景色も白いライトが照らす。
佐々木にどこに向かえば良いのかという目線を向けられた蘭は、また少し考えることになった。
「……ねぇ佐々木さんは、蘭を送ったあとどうするの? 斗真さんの所戻る感じ?」
「いえ、今日は直帰です。これ俺の車なんで、白鳥家に寄らなくても」
「じゃあ蘭のことお持ち帰りしてよ」
蘭にとってそれが一番簡単で、わかりやすい答えだった。愛情の有無はどうでもよくて、最悪多少の乱暴も受け入れる。一宿一飯の恩義のためのセックス。楽で簡単で、痛くない。
「むしろ気持ちいい」
最後の思考が声に乗って言葉になった。蘭は慌てて自分の口を抑えた。酔ってる。
佐々木は蘭の言葉に驚いたような表情をした後、少し考えて首を横に振った。
「ダメです」
「なんで? 蘭って魅力薄い? レディほど美人じゃないし胸もないけど……」
蘭がそう言いながら自分の胸を軽く揉むと、佐々木に下品だから辞めなさい、と手を叩かれる。
「そうじゃなくて、未成年ですしちゃんと家に返します。親に捜索願でも出されたらたまらない。俺ブタ箱は嫌ですよ」
「蘭が帰らなくても、ママは怒んないし、むしろ都合いいんじゃないかな」
それに今日は土曜日だから、母親の彼氏が間違いなく来ている。蘭が家にいたらいたで追い出しただろうし、今帰っても締め出される。そもそも帰りたくもない。
佐々木はネイビーレザーのステアリングをさすりながら、しっかり思考して、言葉を選ぶ。
「……子供を心配しない親はいないと思います」
「なら佐々木さんが出会ったことのない人種なんだよ。はじめまして?」
蘭のしっかり傷ついた笑顔を見て、佐々木はどう言葉を選べば正解なのか分からなくなった。
◇
行き先を告げない蘭のために佐々木が車を走らせて、十分くらいだろうか、緑地公園に隣接する駐車場に車を停めた。
夜風の吹く中ぼんやり周りを照らす自販機でコーヒーとお茶を買った佐々木は、酔っているんだから水の方が良かったかもしれないなと若干後悔しながら車に戻った。
助手席に座る蘭にお茶のペットボトルを渡して、自分は缶コーヒーを開けた。プシュ、という音の後溢れそうになるコーヒーを口で受け止める。
「すいません、気が使えなくて。傷つけたかったわけじゃないんですけど」
「ううん、蘭こそめんどくさくてごめんね。実際もう一ヶ月帰ってないの、でも連絡なーし」
蘭は笑いながら背中を座席に預け、ペットボトルの蓋を開けた。案外簡単に開いたそれに、口をつけるべきか戸惑う。
「一ヶ月の間、どこに居たんですか?」
「彼氏んち」
「ならそこに送ります」
「そうなるよねーでも、こんな時間に行ったら殴られるんだよなぁ」
帰るとまずとても怒っていて、浮気をしてたんだろうと詰められる、そんなことないと言い訳しようとすると、嘘をつくなど殴られる。蘭は嘘が嫌いなのに、信用がない。
蘭自身にも問題があることはわかっている。もっと彼氏や家族と話し合うべきなのかもしれない。でも、蘭に選択肢は多くない。
「なら逃げたいって思ったって、神様は怒んない」
「……そうですね、怒らないと思います」
佐々木の声は穏やかで、少し困っていた。
蘭は悪戯っぽく笑って、佐々木の鼻を人差し指で押す。
「同情してくれる? お持ち帰りする気になった?」
「そうやって悲劇のヒロインやってるんですか? いつも?」
「ヒロイン? ……はははっ!」
佐々木の皮肉とも言える言葉に、蘭は腹を抱えて笑う。悲劇のヒロイン、ヒロイン。
バカらしい、こんな女がヒロインな訳がない。ヒロインはもっと素直で可愛らしくて、恵まれているものだ。例え環境に恵まれなくても、必ず素敵な王子様が優しく助けてくれるものだ。
家族を全て失って、金持ちに救われる親友のような。彼女こそまさに悲劇のヒロインに違いない。
ヒロインは逃げたりしない。きちんと困難に立ち向かう。蘭にそれはできない。
楽でいい、倫理的に狂ってようと、人になんと蔑まれようと、今更気高く生きようだなんて思えない。
「何がそんなに面白いんですか……」
「ううん、ははは、あーだめ、お腹痛い」
「今までのが全部冗談だとか言うなら流石に怒りますよ」
「違う違う、嘘は一つも言ってないよ。蘭、プライドないから」
ならこの狂ったような爆笑はなんなのか。佐々木は蘭にバカにされていると思い込んでいたが、やがて一つの可能性に思い至る。ああこの子は、自分を蔑んで笑っているのだ。
まだ少女と呼んで差し支えないはずの女の子が、自分を大切にできずに笑う。佐々木は、蘭を直視できなくなった。
「ちゃんと、ちゃんと親か、児童相談所に相談してください。一応貴女はまだ未成年で、保護されるべき立場です」
「ははは、あー面白かった。ねぇ、佐々木さん? 都合いいとか思わないの? 行きずりの女とヤれてラッキーとか」
「思いませんよ。俺を過小評価しないでください」
佐々木にだって男の欲がないわけではない。蘭が魅力的ではないというわけでもない。明るい彼女は魅力的な女の子だ、だが話を聞けば聞くほど、軽々しく振舞っていいとは思えない。
自分は大人だから、これ以上少女に世の中を絶望させたくない。
「そっか。じゃあ、うーん、そうだな、彼氏んとこかな」
えっとね、と場所を説明しようとする蘭に佐々木がかえって食い下がった。どうして家族ではなく、殴ってくる男の方を選ぶのか。
「なんで自宅に帰らないんですか?」
「親のセックス聞きたくないから、かな?」
「耳栓すればいい。親が仲良くて元気なのは良いことでしょ」
「男の方知らない人だもん。親が女になってる瞬間とか、嫌じゃない?」
蘭の言葉に、どうして母親にとって"蘭が帰らなくても、ママは怒らないし、むしろ都合がいい"のか、佐々木はやっと理解して、ああ、と髪をかきむしった。
そもそも蘭は父親の存在を仄めかさなかった。居ないからだ。居るのは何処の馬の骨かもわからない男だけ。
佐々木は深呼吸してから車の窓を開け、タバコを胸ポケットから取り出すと火をつけた。蘭の方を見ないようにして、夜の緑地公園を眺めながら、何が正解なのか深慮する。
そして振り返って蘭を見ると、口で彼氏の家の場所を説明するのが面倒なのか、ナビを操作して目的地を入力しようとしていたので、その手を掴んで止める。
「……どうしても帰るところがないなら、うちに泊めてもいいですけど、一晩だけです」
「あれ?急に言ってること変わった」
蘭はもう諦めていて、彼氏の家に行って殴られながら泊めてもらおうと思っていただけに、佐々木の何歩かわからない程たくさんの譲歩に驚きを隠せずにいた。
「いや、行き場のない未成年放っておいて自殺でもされたら困るなと」
「心配してくれたんだ。優しいね」
優しさを大人から向けられることに慣れてない蘭は本当に嬉しそうに笑った。
「佐々木さんありがとう、大好き」
屈託のない笑顔と、少しの嘘や打算もない言葉。白鳥斗真という雇い主の近くでずっと打算にまみれた女たちを見てきた佐々木にとって、蘭のような存在は新鮮すぎた。
「でも寝るのはソファですよ。シャワーと毛布は貸します。俺の生活を邪魔をしないように努めてください。いいですか、同じベッドは無しです」
佐々木は何度も言い聞かせるように蘭に条件を提示した。同じベッドで寝たら間違えてしまいそうだ。蘭は魅力的な女の子なのだから。
「建前、じゃなさそうだね。ガチなトーン」
「だから過小評価しないでくださいって言ってるでしょ。ガキに欲情するほど飢えてない」
「今はそれでいいよ。でもいつか佐々木さんの中で蘭のことどうでも良いと思えなくなるといいな」
蘭はまた思った通り素直な言葉をぶつけた。酔ってないはずなのに体温が上がる気がして、佐々木はタバコを持っている手で自分の顔を覆う。
「そんな日は……来ない方がいいです」
「建前の声してるよ、あはは」
蘭は不思議な暖かさを覚えながら、ペットボトルに口をつけた。
◇◇◇
この後家に着いたら、佐々木さんは斗真から呼び出されて迎えに行くことになります。
佐々木さんは受難タイプ。
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