第9話 偽りの赤

「あら、じゃあ白鳥様は今日も来店予定なの?」

 斗真との会話をマミママに伝えると、マミママはカラスの翼のようなまつげをバサバサはためかせながら、何度か瞬きを繰り返した。

 長いまつげからは人工的な色が漂っていて、つけまつげか、エクステか、一体どっちだろうとレディの細やかな好奇心をくすぐっていた。

 マミママのドレスはホルターネックで胸元の部分だけ布が大きく切り取られたワンピースタイプ。光沢のある黒が光の加減でキラキラときらめいて、ステージによく映える。大きく入ったスリットから覗く網タイツが上品さの中に色っぽさを演出していた。

 女のレディがため息をつきたくなるほど美しいマミママを見ていると、どうして斗真が自分を選んでいるのか不思議で仕方なかった。

 こういう大人の美しい女性のほうが彼には似合うんじゃないだろうか。なんで私なんだろう、と。

「レデイ?」

 不躾にマミママを見つめすぎていたか、ひどく不思議そうな顔で首を傾げられてしまった。レディは手を胸の前に出しながら慌てて首を振った。

「えっと、はっきりは。ちゃんと聞く前に帰ってしまって」

「すごい! すごいわレディ! 白鳥様って何度かお仕事の関係の方とうちの店にいらっしゃったけれど、誰のことも指名してこなかったのよ! お若いからそういう遊びに興味がないだけなのかと思ってたけど……それがいきなりレディをご指名、しかも二夜連続! きっといらっしゃるわ! それでなくてもイベントなのに忙しくなるわね!」

 マミママの悲鳴にも似た甲高い声は、まさに"嬉しい悲鳴"の表現が相応しく、レディの手を握りながらブンブン上下に振っていた。

「あの、私斗真に頼んで、ステージ手伝えるように――」

「いいから! いいの! 貴女はとにかく白鳥様の接客だけ集中して! 下手にご機嫌損ねたら大変よ。じゃあママはステージの準備があるから、白鳥様が来るまで休んでていいからね」

 破格の扱いをレディに示したマミママは足早にステージの方へと向かう。スタッフルームの扉の隙間からホールを覗くと、今日はセクシー女優をゲストに呼んでいるとかで、ステージの準備が慌ただしく行われていた。手伝わなくていいのだろうか、一番下っ端なのに。

「レディー?」

 レディが不安に駆られていると、マミママとレディの会話を聞いていた蘭がレディに声をかけた。

 ヘアメイクを終えたらしい蘭は鏡台から離れ、ソファーへと身体を滑らせる。

「白鳥様くるんだぁー?」

 声をかけられたレディは、何度かステージと蘭を見比べて、蘭の隣に座ることにした。休んでていいからね、と言われた言葉に甘えることにしたのだ。

「しっかし連日かぁ。レディはいいなぁ、金持ちに愛されてて」

「そんなことないわよ」

 やんわりと否定したが、斗真が類稀な経済力で、どこまでもレディを支援しようとしていることは明らかだった。わかりやすい援助を受け入れないなら店に通ってでも。金持ちの考えることはよくわからない。

「でも白鳥様ってさー結構ばっきーだよね」

「ばっきー?」

「束縛鬼ってこと」

 どうだったかしら、とレディは宙を見上げた。恋愛経験が乏しいレディにどのくらいからが束縛だと言えるのか判断がつかなかった。

「だって、席につかせっぱなしでオーラスアフター、しかも二日連続はばっきーでしょ?」

 蘭の基準では斗真の行為は束縛に当たるようだ。レディにとっては気の使う接客や、難しいステージをしなくていい上、もうある程度の醜態を見せてしまっているから楽にさせてもらっているようなものだが、蘭の目にはそう映らないらしい。

 実際レディと斗真の間はいざしらず、他の人間にとっては急に現れた男がホステスをずっと独り占めしてるのだからそう見えてもおかしくはない。

「束縛とか蘭絶対無理。レディ気をつけなよ? あれで急に殴ってきたりして」

「殴ってくるようには見えないけど」

「だって、蘭の彼氏も見た目あんな感じだよ」

 蘭は男運が悪いのか、しょっちゅう彼氏に殴られていて身体に青アザを作っている。

 ベッドの上で平手打ちは通常営業だとか冗談めかして言われたときは警察に行ったほうがいいんじゃないかと思ったほどだ。

 そういう実害がある方が束縛と言えるんじゃないだろうか。斗真のどこに琴線があるのかはわからないが、強い言葉を言われたのはたった一度だけだ。レディがどんなに無神経に振る舞っても優しく受け入れてくれる。怒ると怖いなどとはとても思えない。

「別に派手とか、やんちゃそうには見えないのに、すぐ殴ってくるの。ヤンキーだから殴るとかじゃないんだよ」

 蘭は腕に大きく残る痣を撫でながら眉根を寄せて自論を展開した。言いたいことがわからないわけではないし、蘭の境遇を不憫にも思う。しかし、レディには、"そうかもね"とやんわり肯定してその場を取り繕う穏やかさの持ち合わせが足りていなかった。

「……斗真と話したことある?」

「ん? ないよ?」

「じゃあわからないでしょ。憶測で話すのは失礼よ」

 レディは自分でもよくわからない激情に包まれていた。蘭が奔放で自由な言動を取るのは今に始まったことではないのに、何故か異様に癇に障る。指の爪にささくれが出来てどうにもならないときのような、やるせないような苛立ちだった。

 しかし懸命に声と表情だけは取り繕って、友人に向ける微笑みを崩さないように努めた。こんなところで喧嘩しても迷惑にしかならない。

 蘭はレディの言葉をよく理解できなかったのか、ぽかんと口を開けて首を傾げた。

「オクソク?」

「想像ってこと」

 レディは、落ち着こうと深呼吸をした。

 蘭はもうかなり付き合いの長い友人のいつもと違う様子を見て、何かに気づいたようで手を叩いてから、その表情を伺った。

「もしかしてレディ怒った?」

「怒ってないわ」

 レディは懸命に目をそらしたが、蘭は不機嫌そうにむくれたレディの頬を見逃さなかった。

「怒ってるじゃん。蘭が悪口言ったから? 白鳥様を庇ってる? もしかして白鳥様を好きになっちゃった?」

「違う! ただ理由もなく乱暴をするような人じゃないと思うわ。私が理不尽なことを言っても、自分が悪いんだって謝るくらい――」

 レディは焦っていた。蘭にそう思われること自体よりも、自分が何故激情に包まれたかを冷静に考えると、あながち蘭の言葉は間違ってない気がしたからだ。

 そんなはずはない、決してこれだけは間違えない。レディは必死に首を横に振る。

「ムキになってる! ふふ、なんだぁ。レディも女の子なんだね!」

 蘭は白い歯をこぼしながら、レディの黒い髪を撫でたり抱きついたりとスキンシップを繰り返す。レディは恋愛のことでムキになったり、それでなくても人との会話で言葉を荒げたりは滅多にしないので、苛立ちを懸命にこらえようとしている姿が、蘭には心安く、可愛らしく見えたのだ。

 レディが強く否定すればするほど面白いらしく、何を言っても糠に釘を打っているのと変わらない。

「ふふ、レディ可愛いなあ。ま、蘭が偏見持ちなだけで、普通に見たら優良物件だもんね。鉄壁のレディもほだされるかぁ」

「なにその鉄壁って」

 最早なすがままになっているレディは、蘭の聞き捨てならない表現に耳を大きくした。

「だって今までどんな男にも絶対靡いてこなかったじゃん? 男からしたら、レディは美人だけど打ち解けないっていうか、高嶺の花っていうか? 鉄壁って呼ばれてるんだよー?」

「し、知らなかったわ。そうなの。打ち解けない? 私って冷たいかな?」

 全く知らなかった自分の評価に、驚愕の色を隠すこともせず、レディは蘭に縋って問う。異性にどう思われようが構わないが、友達にまで冷たいだの鉄壁だの思われていたら困る。せっかく築いた人間関係を壊したくはないし、陰口を言われて平気なほどメンタルも強くない。

「んー? レディ裏表ないから蘭は一緒にいると楽だけどね。男からしたらって話。隙が多い方が手出しやすいしね。レディはその点隙がないから」

「そう、男だけならいいの……」

 レディの不安を手に取るように察した蘭は、ふんわり笑ってレディを抱きしめる。

「安心して、蘭はずっと親友だよ。似てるじゃん、うちら」

「うん。ふふ、見た目は正反対なのにね」

 黒髪ロングで普段は薄化粧が多いレディと、金髪に近い明るい茶髪のショートボブで厚化粧のいかにもギャルな蘭とでは正反対と言っても過言ではないだろう。

 レディはそれを見比べて、くすりと笑った。それでも仲が良いのは中学校から運良くずっと同じクラスなのと、何かと目線が近いからだろう。女同士なのに表裏なく一緒にいられるのは得難いことだ。

「レディが見た目に反して派手なんだよ。パッと見真面目じゃん。蘭はいちお見た目通りだもん。久しぶりに家に帰ったらママになんて言われたと思う? "クソギャル"だってさ! お前も大して変わんないじゃんって言い返しといた」

「蘭は個性的で可愛いし、素敵よ。私には出来なかったから」

「お祖父さんのためでしょ? 家族のために非行に走らないっていいことじゃん?」

 蘭の明け透けな言葉はレディの心の因果を簡単に軽くする。レディはくすぐったい気持ちになりながら、蘭の手をぎゅっと握った。ありがとう、という意味を込めて。

 そして蘭に対して掛ける言葉を模索した。レディは蘭の家庭事情を深く知っていたし、蘭はいつも明るく自由に振る舞っているけれど、その心に深い闇を抱えていることもよく理解していたからだ。

「蘭のお母さんは少し、魅力的すぎるだけだよ」

 蘭の母親は蘭を産んだ時シングルマザーだった。自分でスナックを経営しながら良い人を見つけては結婚をして、すぐに離婚して、もう三度は繰り返した。

 年をとっても魅力的な女性であることは間違いないのだろうが、少し人より倫理観に欠けている。

 蘭のことも娘というよりは妹や女友達のように扱う。かと思えば彼氏と過ごすために家から締め出したりもする。その度に蘭は傷ついて、誤魔化すかのように少しずつ派手になっていった。

 レディが中学生の時に初めて蘭にあったときは、ここまで派手じゃなかったと記憶している。

「うーん、良い言い方をすればそうかもね。恋愛依存症なだけだけど。そんなことよりさ、蘭は佐々木さんの方が好みだなぁ。こう一歩退いててさ、出来る大人の男って感じ」

 蘭がわざと明るい声色をつくって話題を変えた。

 レディはそのほうが良いか、と息を吐いた。これ以上は不毛だろう。レディは蘭に対して"うちに来たら"と言えるような財力や、社会的地位もない。

 いざとなったら匿うくらいはできても、レディ自身未成年なのに、無責任なことはできない。それなら友達らしく楽しい話題に付き合ったほうがよっぽど役に立てる。

 レディは一生懸命佐々木のことを思い出していた。確かに斗真に対してへりくだった態度を守っては居たような気がするけれど。

「どうだろう。ああいや、確かに斗真を立てようとはしてたけど、でもなんか結構」

「結構?」

「佐々木さんって思ったことばっさり言っちゃうタイプだと思うわ。斗真にも私にも容赦なかった」

「何それギャップじゃん! えー蘭ヘルプにつきたいなぁ。今日もだめかなぁ。レディから相談してよ」

「うーん、わからないけど、聞いてはみるね。場内もらえるかどうか」

 レディは望み薄だと思っていた。それを束縛だと思うわけではないが、斗真はあまり忙しく人に出入りされることを好まないようだった。でもお願いすれば、少しくらいは前向きに検討してくれるだろうか。レディのお願いならとワガママを聞いてくれるかもしれない。そのくらい甘やかされている自覚もあった。

 うーん、と口元に手をあてて考えていると、スタッフルームの扉がコンコン、とノックされた。レディと蘭がほぼ同時に返事をすると、慌てた様子のマミママが入ってくる。

「レディ? 白鳥様きたわよー先にVIPの二番に案内しておくから、メイク整えたら出てきて」

「はい」

 レディはマミママの言葉に軽く返事をすると足早に鏡台の方へ向かった。




「いいよ」

 昨日のようにマミママが先に挨拶をしてから斗真の隣に座ったレディのお願い事に、誰も入れないことにこだわってたはずの斗真は意外にもあっさりと了承した。かえって拍子抜けして、レディの方が目を丸くした。

「え、いいの?」

「うん。お友達に場内指名していいよ。仲いいの?」

「う、うん。中学の時からずっと同じクラスで今も……あ……」

 レディは言い淀んだ。口を抑え監視カメラの方を確認する。レディと蘭が未成年だということを知るのは当人達以外ではマミママだけだ。ボーイ等も知らないので、下手なことを言うべきではない。

「はは。誰も聞いてないよ。じゃあ今日はその子も入れて四人でアフター行こうか」

「蘭の都合さえ良ければ……あの、本当にいいの? 誰も入れないようにってママに言い含めてたんでしょ?」

 お願いしたのは自分の方なのに、まさかこうもあっさり受け入れられるとは思っていなかったレディが逆に食い下がる。ヘルプ席に座る佐々木からの視線を感じたと思うと、斗真は意味深長な微笑みをレディに向けた。

「無粋な女に言い寄られるのも、ボーイに忙しく出入りされるのも嫌だから、ちょっと大げさに言っただけ。レディが呼ぶなら全然」

「言い寄られるの? モテるのね」

 それはこれまでにそういった経験があるから出てくる言葉だろうとレディは踏んだ。彼がどの程度こういうお店に通う人なのかはわからないが、確かマミママは一度も女の子に指名を入れたことはないと言っていたはずだ。少なくとも彼が女性を目当てにここに来ていたというわけではなさそうだから、彼はその気を見せてもいないのに、一方的に従業員側が好意を寄せてるということになる。

 斗真は片眉を上げるとロックグラスに口をつけた。カラン、と中の氷が向きを変える。

「客に若い男が珍しいし、居ても大概お金がないからね。相対的に僕がいい男だと勘違いするんだよ」

「だからって指名もないのに言い寄るものなの? 水商売の女の子って肉食系なのね」

 自分もまごうことなく水商売の女の子なわけだが、レディはそんなことをすっかり忘れて斗真に言い寄るセクシーな女の子たちを思い浮かべた。一体どんな言葉、どんな表情で彼の関心を惹こうとするのだろうか。大人の女性はどういう仕草をして自分の魅力をアピールするのだろうか。

 少なくとも、数日前にレディがしたような拙い誘い方ではないのだろうから、ますますこの男がわからない。

 レディが思考を巡らせていると、佐々木が乱暴な仕草でアイスペールにマドラーを突っ込んで、冷たい声色を作る。

「女なんてそんなもんでしょ。俺からすれば、女は男よりも即物的で愚かですよ。マルバツ問題みたいに条件に当てはめて、好きだの何だのって簡単に言うんですから。ま、顔が良くて若くてお金があれば、斗真さんの内面なんてどうでもいいんでしょ」

 佐々木はまるで、"お前に対してそう思っている"とでも言いたげにレディを見た。これまで斗真の周りに居た数多の女たちと同じようにレディを見ていた。急に支援を申し出てきた付き合いの浅い男を、レディが簡単に家に上げるところを佐々木は見ている。

 レディもその視線の意味にはすぐに気がついた。しかし自分から悪い女になろうとしたのだから、佐々木の視線は正しいのだ。むしろ一通りレディの意図には気づいているはずなのに、肯定的な斗真の態度のほうがどうかしてる。惚れた弱みだろうか。

「佐々木……なんでレディの前でそういうこと言うかな」

 斗真が柔和な言葉で佐々木を窘めようとする。レディは意に介さず真っ直ぐ佐々木を見返す。

「あら、内面にもマルバツ問題が当てはまるのかもしれないでしょう。斗真の何を見て言い寄ってるかなんてその本人にしかわからないわ」

「いや、レディ?」

 いやに強気に言い返すレディに斗真が焦る。しかしレディが今にも泣きそうな目をしながら、頬を膨らませるので、斗真は深く問いつめることを辞めた。

「まあいいか。お酒頼みなよ、何飲む?」

 なんでも良いよ、と視線を向けてくる斗真に、レディはまた考えた。昨日も最初の一杯に迷った。こういうときはどうしたら良いのか、蘭に密かに聞いておいてよかった。

「斗真と同じの飲む」

「えっ僕は良いけど。これ結構強いよ?」

 ブランデーだし、と小声で付け加えた斗真に対し、レディは何を今更という意味を込めて横目を遣う。アルコール度数が強いかどうかは、さしたる問題ではないのだ。とにかくレディは斗真に昨日のような金額を使わせたくない。ボトルから飲むなら、一気に開けるわけでもないので調整が効く。

「いいの。蘭呼ぶついでに、グラスもってくるね」

 レディはそう言って席を立った。なにか言いたげな佐々木の視線を知らんふりして。





 結局蘭が来てからシャンパンは二つほど入ったけれど、昨日ほどの会計にはならなかったようで、レディはほっと胸をなでおろした。レディが伝票を見る前に斗真がカードを出してしまうので詳細はわからないが、テーブルの上に転がる空きボトルの数だけでも歴然と違うので今日は少しセーブできたはずだ。レディに売上を期待するマミママには悪いが、斗真の厚意にこれ以上あぐらをかきたくない。

 四人でアフターに行くと、もともとお酒に強くない蘭がすぐに酔っ払って足元がおぼつかなくなっていた。斗真がレディの隣から離れないので、自然と佐々木が蘭の面倒を引き受けることになっていた。

「佐々木さーん、もう一軒行こ! 蘭飲み足りない! あ連絡先教えてよ―」

「遠慮しておきます。もう一軒行きたいなら俺じゃなくて斗真さんにねだってください」

「えー?」

 酔った蘭とそれに絡まれる佐々木を眺め、レディは内心でご愁傷様です、とだけ言っておいた。元々蘭は天真爛漫だが、酔っ払うと自由度が上がる。こうなった彼女を止められるのは、圧倒的な暴力だけだろう。佐々木はどうやら口でははっきりいうものの手が出るタイプではないようで、しっかり振り回されている。

 微笑ましいなどと思いながら、ふと隣を歩く斗真の顔を見上げると、少しも酔っていないように見えた。確かにレディも昨日よりは素面に近い。

「僕の顔なんかついてる?」

「何も。ニキビ一つない綺麗な肌ね」

 レディは思ったままを素直に述べた。褒められることには慣れてるだろうに、斗真は少し照れ臭そうに微笑んだあと、レディに褒め言葉を返す。

「レディほどじゃないよ。そんなに綺麗な肌はしてない」

「またそういう……」

 レディは小さく息を吐いた。斗真の褒め言葉にすっかり慣れてきている自分に辟易していた。一緒にいる間甘い言葉をどのくらいかけられたかわからない。

 レディは歩くスピードを落とし、前を歩く蘭たちから距離を取った。レディの歩幅に合わせて歩く斗真も自然とつられ、やがて二人の会話が蘭たちに聞こえないところまで離れてから、レディは立ち止まった。

「ねぇ斗真」

「二人になろうか」

「え?」

 レディが見上げると、涼しすぎる斗真の顔が優しく微笑んでいた。さりげなくその右手がレディの左手を捉えて、指を絡ませてくる。

 レディの心拍数が上がった。このあとどう取り繕って、どんな表情で、どんな言葉を述べたら正解なのか、経験の少ないレディにはわからない。

 俯いて動けなくなっているのを了解だと捉えた斗真はやんわり笑って、少し前を歩く佐々木に声をかけた。




 斗真が佐々木に蘭を家まで送るよう指示を出して、レディの手を取り連れてきたのは、遅くまで開いている会員制のバーだった。

 照明を落とした個室に大きな白いソファ、磨き上げられた重厚なテーブル、どこからともなく香ってくる不思議な甘い香りが、タバコやお酒の匂いを打ち消してくる。

 ワインを注文した斗真は一通りの用意が終わるのを待ってから、レディに乾杯を求めた。もうお酒を飲む気は無いのだが、これも通過儀礼かと思ったレディはグラスを少しだけ傾ける。

「今日は昨日よりも酔ってなさそう」

 内心を軽く見透かしているような斗真の物言いに、レディは自分の頬が火照るのを感じた。

 レディはウェイターから渡されたおしぼりで、手を何度か拭って誤魔化すように折った。まだ数日しか水商売をしてないのに、すっかり板についてしまったのか気がつくとおしぼりを三角折りにしていた。

「そんな困り顔してどうしたの? レディとこんなに長く一緒にいられて僕は嬉しいのに」

「私は違うわ」

「つれないね」

 レディは怖かった。立ち去ろうとする斗真に縋り付きそうになったり、斗真のことで友人の蘭に苛立ってしまったり、斗真の行動に一々心拍数が上がる自分が、どこか自分自身じゃなくなってしまうような気がして、恐ろしかった。

「やっぱり、よくないわね。こういう関係って」

「え?」

 斗真が軽く目をむいた。驚かせてしまった。

 "違うの"と、取り繕ってしまいそうになる自分をなんとか殺して、レディはひねり出すように言葉をつくっていく。

「軽々しいことをした私が悪いの、ごめんなさい」

「あれ、もしかして僕にとって良くない話?」

 斗真はわざとらしく焦ったフリをしていた。レディの性格から考えても、そろそろ何か言ってくるだろうと想像はついていたのだがレディにそれは知る由もない。

「たぶん……」

「レディ? 確かに僕は君に恋愛感情を持ってるけど、君に持ってほしいと言ってるつもりはないんだよ」

「そうは言っても」

「ま、僕は悪い男だから、君が僕の献身に絆されてくれたら勝ちかな、位には思ってるけどね」

「……斗真にとって、私はゲームかなんかなのね」

 それもそうか、とレディは安堵の息をついた。まさか小娘一人にこの男が本気になるわけもない。彼は見た目も、財力も十分で、性格も穏やかで、とても女性に困る人には見えない。ただ今回は珍しく、レディが言いなりにならないので、きっとムキになってるだけだと、レディは推測する。

 振り向かせたら、落としたら、ゲームは終了。手の内に収まってしまったおもちゃには、すぐに飽きが来る。

 斗真は肩をすくめただけで否定も肯定もしなかった。いや、否定をしないということはそれが答えなのだろう。

 レディはグラスを染める赤い液体を見遣った。自分のネイルと同じボルドーが、照明の柔らかい光を反射していた。

「斗真は素敵な人よ、普通の女の子ならとっくに大好きになってたと思うの」

「レディは違うの?」

「ええ、他に好きな人がいるわ」

 レディはこれまで言ってこなかったことを、比較的はっきり伝えた。大きな瞳で斗真の反応を伺うと、特に驚いた様子はなかった。予想済みだったか、それともただのポーカーフェイスか。レディにそれを見透かすような術はない。

 暫くそのまま見つめ合ったあと、不敵に微笑んだ斗真はレディの手をとった。

 指先の赤に口づけを落とされると、昨晩や、その前のことを思い出してしまいそうになる。体の熱が、情熱が、レディを滾らせてしまいそうになる。それを下唇を噛んでこらえた。

「もしそうだとしたら、君は本当に悪い女の子だね。僕を弄んだの?」

「そうよ。言ったでしょ。悪い女なのよ、私は」

 レディの突き放すような強い声色に、一瞬、斗真が笑顔を失った。

「じゃあ二番目でいいよ。レディの都合がいい時だけかまってくれたら十分」

「そういうことはできないわ」

 レディは首を振って手を引こうとした。斗真から少しでも離れたかった。けれど優しく捉えられているはずの手は何気に強く握られていて、斗真から距離を取ることが出来なかった。

「どうして? 別に不都合はないよね」

 斗真の唇は蠱惑的にレディの判断力を弱らせる。その考えられないほど深い許容の言葉に、レディは揺らぎそうになる。

 しかし負けてはいけない。きっとその先にあるのは自分の悪魔だ。一線を超えてレディが堕ちてくるのを、今か今かと待っている。地獄から手を伸ばして首をもたげている。

 ――私はもう悪くたっていいの。善良に生きたって奇跡は起きなかったんだから。でも最後のこの気持ちだけは、間違えたくない。

「ねぇ、私達は今どういう関係? 友達? 恋人? セックスフレンド?」

「セックスは最後までしてないでしょ? そもそも、レディはどうなりたくて僕を誘ったの?」

「悪くなりたかっただけよ。ほしいのは都合のいい関係。お金と、身体だけの」

 最初はそのつもりだったのに、徐々にそうではなくなっていく自分が怖い。結局お金の方には手をつけれてないし、レディは損得勘定だけで動いていると自分自身で思えなくなっている。そんな心を隠してしまおうと、レディはこれでもかと首を振る。

「レディが欲しい関係でいいんじゃない? ――何に迷ってるの?」

「それは……」

 レディは言葉を失った。何に、迷っているかなんて、そんなのレディ自身さえわからない。

 その様子を見て、何かを察した斗真が笑顔を深くした。

「レディの良心は、甘ったるくて優しくて、そしてとっても残酷だね」

 言うが早いか、項垂れるレディの手を勢いよく引いた斗真はそのままバランスを崩して倒れ込もうとするレディの腰を掴んだ。

 瞬きのその一瞬で唇が触れ合ってしまうのではないかと思うほどの至近距離に顔を寄せて、斗真は視線を鋭くレディを射抜いた。

 レディは避けることも逃げることもしないまま沈黙を作った。

 たっぷり二十秒はその沈黙が続いた。レディは見抜かれていることをわかっていながら首を横に振った。

「嘘をつけばいいのに。たった一言、好きっていうだけでいい。僕のためにもなって誰も不幸じゃない」

「そんなのだめ、だめよ」

 かぶりを振るレディに対して、斗真は目を細めながら思案していた。この先レディが放つであろう言葉は、簡単に当てることが出来た。なにせそれは、一度聞いた言葉だったからだ。

「嘘は、大切な人のためだけにつくわ。大切な人は人生で、世界に、たった一人でいいっ!」

 レディは語気を強めた。知っておいてもらわなくてはならない、自分の心を。どんなに優しくされても、どんなに触れ合っても、決して絆されはしない。大切な人はこの世で一人だけ。――その一人は、斗真、あなたじゃないのよ。




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