第10話 聖母マリア

 深く、深く研ぎ澄ませてみても、はっきりわからないことはこの世にはいくらでもある。

 天気予報、株の値動き、女心、――死者の感情。

 斗真は眼鏡の位置を直した。家にいるときだけコンタクトを外したくてかけている眼鏡だが、長く伸びた睫毛がどうにも当たって心地が悪い。斗真は少々乱暴にエンターキーを押してふぅ、と息を吐いた。

 画面には手慰みにやっているネットカジノ。ディーラーと交換した札でフルハウスが揃ったので手持ちのチップを全てレイズする。掛け金が少なく、設定が甘いネットカジノはいつもこれで勝ってしまう。だが勝負というものは、全ての手が出揃うまでわからないものだ。

 "show down"と書かれた大きな赤いボタンを押すと、全員の手札がひっくり返るアニメーションのあとそれぞれの役が表示された。

「……あ」

「あ、負けてる。珍しい」

 いつの間にか背後からラップトップの画面を覗き込んでいた佐々木が厭味ったらしく声を上げた。斗真のチップは見知らぬ誰かに取られてしまった。対戦相手の中にストレートフラッシュを引き当てた人間がいたからだ。これだからネットカジノはあてにならない。

「良いじゃないですか、散々勝ったんだから。人生は勝ちと負けのトントンですよ」

「人生全てわかったみたいに言うなよ」

 興がさめてしまったので、斗真はネットカジノからログアウトしてラップトップを閉じた。ソファに深く体を預けて、パーカーのポケットに入れていた煙草を取り出す。一本取り出して咥えてから、ライターが机の上にあることに気づいて少々辟易した。

 身体を動かすことを躊躇ってる斗真に気づいた佐々木がすかさず自分のライターを取り出して火をつけた。こういうところは流石元ボーイの素早さだ。

「浮かない顔ですね。ミスレディにはっきり振られました? あのあとすぐ帰ってきたからびっくりしましたよ」

 てっきりまた泊まりだと思ったのに。蘭にねだられ、一緒に家に帰った直後、この雇用主に呼びつけられた佐々木は二度手間を嘆いた。佐々木が着いたときにはレディはタクシーで帰ったのか既に姿はなく、一人斗真だけが所在なさげにそこに立っていた。

 斗真は佐々木の内心に気づかなかったふりをして、吸った煙を吐き出す。

「まあね。でも振られるのは最初から織り込み済みだよ」

「強がりですか?」

「はは、そうかもね。ただ……」

「ただ?」

 佐々木の嫌味とも取れるような普段通りの発言に苦笑を返しつつ、斗真はタバコの煙を目で追った。レディがタバコを吸わないのに、灰皿が家にあるのは、亡くなったレディの祖父が吸っていたからに違いない。

 老人は若い少女の為を思って禁煙しようとは思わなかったのだろうか。急死してしまうくらい身体がよくなかったのなら、自分でも少しくらいは節制すれば良かったのではないか。そこまで考えて、斗真は死者に対して失礼だと自分を戒めた。

「やっぱり彼についてはよくわからないなぁ」

「あなたにわからなかったら俺にわかるわけないでしょ」

 斗真は振られた理由と、あの斗真自身を拒絶するような家を思い浮かべた。

 リビングと続き間のキッチン、寝室、書斎。廊下にはカトリック教会のイコンが飾られ、書斎には老人の趣味と思しき本が溢れていた。寝室には宗教を想起させる棚と、これまた老人の趣味と思しき雑貨たち。金糸雀の甲高い鳴き声と、強い紅茶の香り。

「……あそこに、彼女はあるのかな?」

「ある? いるじゃなく?」

 佐々木の当然の疑問に斗真は眉を寄せた。彼女はいる、あそこに間違いなくいる。しかしあの場所に、"レディの匂い"がない。

 斗真は姿勢を直して足を組み直した。

「レディはいつも不安定だ。それがただの魔性ならそれで構わないと思っていたけど、彼女が不安定なのは多分そうじゃない」

 自分で言ってて斗真は訳がわからなかった。額に手を添えてかぶりを振っていると、佐々木がため息を一つついた。

「斗真さんが一人の女にそんな風になるの日が来るとは……」

「これまでのことは、まあ悪かったよ」

 佐々木には、これまで女性関係で散々迷惑をかけたので、無かったことにしろというつもりは無いが、今は過去のことにとらわれていたくない。斗真は曖昧に微笑んでみせる。

「何がどう違うんですか? 俺にはそんな変わらないように見えますけど。」

「ん? あー、はは。まあ、佐々木の前にいるレディはどこにでもいる普通の女の子やってるよ」

「斗真さんと二人っきりのときは変わるってことですか?」

「うん、まあそれだけじゃないけど、実際面白いよ。レディは素直な感情の他に、信仰も持ってるしね」

 斗真はそう述べてまた一口煙草を吸った。突き抜けるようなメンソールが、夢見心地の脳を冷ましてくれる。三年前に見かけたときからレディはずっとそうだ。春の穏やかな気温のようかと思えば、風に煽られてはためく炎のような激情も持っている。どれが彼女の真実で偽りなのか、はっきり分かる部分は少ない。だからもっと知りたくなってしまう。

「身を任せておきながら、彼女の中に貞淑でないことは悪いことだって認識がある。今どき、シスターでもないのにねぇ」

「まだあのくらいの歳ならそういう女の子がいても珍しくないでしょう」

「でも、セックスのことを"悪魔のささやき"って表現する女子高生はそう多くないと思うよ。まぁでもそれくらい、宗教にすがらないと平静を保てなかったのかも……」

 そう思うと、酷く不憫に思えた。レディは年不相応に大人びたことを言うことも多いが、一応はまだ十八歳になったばかりの少女だ。誰かに甘えたり、縋ったりして良い年頃なのだ。それがどうだろう、彼女は不安定な一方で絶対に曲げられない何かを持っているように見える。

「信仰ってそういうもんなんじゃないですか。辛い時にしがみつくものっていうか。俺無宗教なんでわかりませんけど」

「俺だって無宗教だよ」

「あ、なんか久しぶりにそっちの一人称聞いた気がしますね」

 斗真の一人称は接する相手によってころころ変わるが、根はきっと"俺"を使うはずだと佐々木は冷静に分析する。

「レディの前では紳士的に、を心がけているからね」

「くっさ」

 佐々木はわざとらしく自分の鼻を指でつまんだ。

「佐々木」

「すいません、つい。ああ、裁判所から封書が届いてますよ」

「じゃあ予定通り書類揃えたら裁判所に提出しといて。石井先生に相談してやってくれればいいから」

「はい。にしたって退路を断つためにわざわざ遠回しなことしましたね。SNSにも乗ってたでしょう、彼女の飲酒写真」

「……そうだね、恨まれたいのかもな」

 斗真はタバコを消してソファから立ち上がると、パーカーを脱いで側に控えていたメイドにそれを渡した。Tシャツにジーンズという姿になった斗真は、クローゼットに向かい、少しフォーマルに見えるジャケットを羽織る。

 明らかに出かけ支度を始めているので、佐々木は首をかしげた。今日は日曜日、院も仕事もないし特に予定もなかったはずだ。

「どちらへ?」

「神の御前へ」

 斗真はそう言うとメガネを外し、髪をかきあげた。





 その教会は住宅街の外れにあった。聖マリア教会という名前が門扉に刻まれ、幼稚園を併設している。

 門の向こうには直ぐに等身大のマリア像が安置されており、聖域に足を踏み入れようとする凡夫に微笑む。

 日曜日ということもあってか普段閉ざされている聖堂の扉も開け放たれており、人もそれなりに出入りしていた。

 斗真は慣れない場所に足を踏み入れることに若干の緊張感を覚えつつ、人の流れに倣って聖堂に立ち入った。

 するとちょうど入口近くに立っていたふくよかなシスターが、見慣れない顔だからか優しい笑顔を向けて斗真に話しかけてきた。

「こんにちは、はじめまして」

 斗真はぎこちなく笑いながら、「あの」と切り出す。

「今日がミサだと聞いて」

「はいそうです。どうぞ。主はすべての子に救いをもたらします」

 シスターが中に入るよう促す。斗真は頷きつつ聖堂の中を見回した。

 全体的には左右対称のレイアウトで長椅子が配置されている。奥には祭壇と、その上には十字架と金色に染った磔のキリスト像。

窓はステンドグラスになっていて、聖母マリアや聖ヨセフ、ピエタ像も配されていた。

 斗真にはそれらがただの美術品にしか見えない。しかし信心深いレディやその祖父にとってはそれだけでは無いはずだ。そうでなければ、触れるのを咎められたりはしない。

 斗真はシスターの背中に声をかけた。

「あの、シスター。聖園みそのさんという方をご存知ないですか。ここでよくお祈りをしていたと聞きました」

「はい。彼はよく――」

「聖園さんかぁ。しばらく見かけんなぁ」

 シスターの言葉を遮って、近くの長椅子に腰かける老人がぼんやりと十字架を見ながら呟いた。

「しばらく?」

 斗真が老人の言葉に違和感を覚え、首を傾げると、シスターは斗真の腕にそっと触れて首を振った。

「彼は、忘れているんです」

 シスターは力なく笑うことしか出来なかった。斗真は老人が座る長椅子に傅くような格好でしゃがみ、視線を懸命に合わせた。

「おじいさん、聖園さんとはお知り合いですか?」

「ああ知り合いだとも、共に敗戦を見た仲だ」

「そうでしたか。お隣に失礼しても?」

「どうぞ。若い人と話ができるのは嬉しい」

 斗真が老人の隣に座ると、シスターは軽く会釈して他の信者のもとを回った。信者は老人が多いように見えた。斗真のように若い人も数名見かけたが、ほとんど外国人と、ハーフらしき子供ばかりだ。

 きっと日本で結婚して、子供を産んでも、信仰は続いているのだろう。

 意識的だろうと無意識的だろうと、大凡の日本人が仏教徒だ。だがキリスト教徒の絶対数が少ない日本にいても、彼らは決して自分の信仰を間違えたりしない。レディや、その祖父もそうだったのだろうか。

 斗真が周囲を見回しながら考え事をしていると、隣の老人がぽつぽつ、と聖園さんについて語り始めた。

「聖園さんは聖母に対しての信仰が強くてな」

「その、ようですね。彼はどうしてそこまで聖母に思い入れが?」

 信仰がどのように出来上がるのかイマイチはっきりしない斗真は曖昧な質問を繰り出すしかなかった。

 老人は焦点の会わない瞳で聖堂内のマリア像を見遣った。

「本来ならば、聖母へは崇敬を、三位一体の神に崇拝を。だが彼のそれは、崇拝を思わせる熱狂ぶりだった」

「不勉強で、崇拝と崇敬の違いが……」

「簡単だとも。崇拝では偶像崇拝禁止の原則に反する。しかし崇敬は敬うこと。聖母は恐れ多くも神を産み落としている。その偉業を敬うのは良い、とまあ、そういう話だ」

 それは、聖母に祈りを捧げたい人の言い訳なのではないだろうか。斗真は老人の言葉を曖昧に理解しながらそんな感想を抱いた。教義の中で生きる人々にとっては、当たり前過ぎて意識していないが、不都合を都合よく変える仕組みが、宗教には漫然と存在している。

「マリア様は人間なんですね」

「そう。聖母マリアは原罪を免れた珍しい人間だが、決して神ではない。神はあくまで三位一体で、マリアはイエスの母でありながら、イエスに救われるべき子でもあるのだよ」

 斗真はレディの言葉を思い出していた。祖父の大切にしていたマリア像に触れようとした時、彼女は炎と共に心を揺らめかせて、"人は原罪を免れない"と言っていた。

 原罪が何なのか斗真はよく分からないので、後から調べようと頭にとどめた。

「ま、聖園さんに言わせれば、それも違うというのかもしれん」

「あの……」

「始まるぞ、祈りなされ」

 この会話では、斗真の質問に答えがかえってきていない。そう言いたくて食い下がった言葉を、老人はピシャリと制した。

 すると、すぐに聖歌が流れ始めた。ミサはキリストの死と復活を記念している。これはカトリック教に限ったことで、プロテスタントでは聖餐式に当たるらしい。

 斗真には美術品と、それにまつわる歴史の知識がある。そういう教育を受けてきた。だが信仰があるかと言われれば、それはまた別の話だ。つい一時間程前佐々木に宣言したとおり、斗真は無宗教なのだ。

 それでもこの厳かな空気と美しい歌声には、胸に迫るものを覚える。どうして人は信仰するのか、縋り付き、奇跡を願うのか。

「形がないのに、なんで……」

 歴史と伝記に裏打ちされているとは言え、なんの保証も根拠もないのに。宙を手で掻くような曖昧なものに頼らなくちゃならないほど、世の中は絶望に満ちている――。

 聖歌隊の歌とともに司祭が入場すると、司祭は挨拶を述べた。

「父と子と精霊のみ名によって」

「アーメン」

 その場にいる司祭以外の全員狙いすましたかのように言葉を返す。隣の老人も然りだった。

「主、イエス・キリストによって、神である父からの恵みと平和が皆さんとともに」

「アーメン」

 司祭の言葉に、会衆が答えるのを二度ほど繰り返すと司祭の挨拶は終わりだ。

 司祭の挨拶が終わると、次は回心だ。第一形式で行われると、隣の老人が小声で教えてくれるが、斗真にはもちろん何が何だか分からない。

「皆さん、神聖な祭りを祝う前に、わたしたちの犯した罪を認めましょう」

 そう司祭が述べると、会衆はみな沈黙して頭を下げた。斗真も隣の老人に倣って頭を下げ、沈黙する。

 暫くの間そうしていると、司祭の声が響く。

「全能の神と」

 声に斗真が思わず頭を上げると、皆も頭を上げていた。そして全員が揃って同じ言葉を口にする。

「兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください」

 斗真はじっくり会衆の言葉を聞きながら意味を考えていた。人間はみな罪を犯す。原罪を免れず、悪魔に逆らえない。レディはこうも言っていた、"自分はもう悪くたっていい"と。

 それは諦めているのだろうか。ここに集った人々と同じような信仰を持ちながら、罪深い自分を諦めている。聖人たちに祈ってほしいとレディは願わない。こんな強い信仰を持ちながら、汚れることを選んだ。貞淑を捨てるという行為によって。

 ――僕は悪魔なの?

 ――いいえ、悪魔は私の中にいるわ。

 汚れてもいい、悪くなってもいい、それでも、最後の気持ちだけは間違えたくない。嘘は、大切な人のためだけにつく――。

 斗真は膝に肘を置いて顔の前で手を合わせた。ならその大切な人は誰なのか、斗真の脳裏には一人しか浮かばない。やはり自分の予想は間違っていなかった。彼らの秘密、信仰、そして――。全てを理解できなくても、今ここに共有できる何かを手に入れた気がした。

「全能の神が私達をあわれみ、罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように」

「アーメン」

 その後も司祭のありがたい言葉に、会衆が言葉を返すのが続き。立ったり座ったりを何度かした後、みんなが祭壇に向かうので、斗真も勇気を振り絞って祭壇へ向かった。

「洗礼は?」

「受けていません」

「御聖体は洗礼を受けているものしか食べれない。だが君は司祭に祝福していただける」

「なるほど……」

 老人の助言に頷きながら御聖体を受け取る列に並んだ。ほとんどの人は洗礼を受けているのか、司祭から何やら白いパンのようなものを受け取っていた。これが御聖体だろうか。

 斗真の直前に並んでいた老人の番が来た。老人は前の人がパンを受け取る間に手を合わせて頭を下げた。

「キリストのおからだ」

「アーメン」

 司祭と簡単に会話を交わして、老人はパンを受け取り、脇に避けながらパンを口に含んだ。斗真は何が正しいのかわからないので、そのまま前に進み司祭に素直にお願いする。

「洗礼を受けていないので、祝福をお願いします」

「もちろんです」

 司祭は手をかざすと何やらありがたい言葉を述べてくれた。祝福の言葉のようだった。

 そのまま老人と共に席に戻ると、また沈黙と祈りの時間が訪れ、その後も歌やらありがたい言葉やらが続き、閉祭の挨拶を終えるとまた聖歌が響いた。会衆も合わせて歌い司祭がいなくなるのを見送る。

 ミサが終わり、人がパラパラと帰り始めたあたりで老人は顔を上げた。金色に輝く磔のキリストを目に焼き付ける。

「――聖園さんは聖母によく似た孫娘と一緒に来るようになってから、より聖母へのめり込んでいる。戦争を経験した同胞はらからでなければ、異端者扱いしたくなるくらいだ。……側にいるだけでそんなに変わるものかね」

「そばにいるだけで?」

「彼はな――」

 もう見えないんだ、と老人は力なく項垂れた。





 それはおそらく罪悪感。これはおそらく倦怠感。レディはひたすらに疲れていた。

 ベッドに身体を投げ出して怠惰に過ごしていた。寝起きの紅茶を入れる気力すらわかない。

 黒いストレートの髪がシーツの上で脈打ち、自分の腕に絡むのが、鬱陶しくて仕方がない。いっそ蘭のようにバッサリ切ってしまおうか。

「お腹すいた」

 まだ真っ当な欲望があったか。斗真のアフターのおかげで食事がとれてはいるものの、それ以外ではレディは紅茶と酒以外何も口にしていなかった。

 週払いの給料さえ入れば、まとまった食事が取れるのだが。斗真の置いていったお金に手を付けて後から返せばいいとわかっていても、どうしても手をのばすことが出来ない。

「中途半端……」

 だから罪を犯す、だから奇跡も起きない。あるのは絶望と諦観、そして執着だけだ。

 ふと見つめた先には、祖父の祭壇があった。彼は小さな教会と呼んでいた。教会はいつでも受け入れてくれるが、シスターはともかく司祭は持ち回り制なのでいつもいるわけではない。なら聖書を読み静かに心を神と通わせるなら自分の部屋で十分だと彼は言っていた。

 それでもミサやバザーなどには積極的に参加して手伝ったりもしていたのだ。そう言えば今日はミサだったと身体を懸命に起こす。

 もう交わりの儀にすら間に合いそうにないなと思いながら、いっそミサが終わる時間に行って神父様と話をしたり片付けを手伝ったりしたほうがいいかもしれないと考え至る。

 レディがドレッサーの前に座り軽い薄化粧を施し、髪を梳いているとスマホの着信音が鳴り響いた。

 画面には【マミママ】の文字。何かあっただろうか、お店のことで。準備とか、間違いでも。それとも斗真との仲を聞かれる? レディは躊躇した。なんとなく出たくない気持ちになりながら、三コールくらいそのまま見守っていて、はっと慌てて通話ボタンをタップした。

「もしもしマミママ? レディです」

『あ、レディ!  お休みのところゴメンね。ちょっと出てこれる?』

「は、い……?」


 マミママに指定されたのは、教会にほど近い場所にある個人経営で、カフェとレストランの間のようなお店だった。

 芳しいコーヒーの香りと、焼き立てのパンの香りが空腹のレディの胃袋を刺激した。ともかく、ここならマミママと話し終えてから教会に向かってちょうどいいかもしれないと前向きに考えることにする。

 レディが店内に入るとすぐさま手を降ってきたマミママのところに小走りで向かい席に座ると、ウェイトレスが水を持って席にやってきた。ご丁寧に、

「ご注文はお決まりですか?」

 と笑顔のサービス付きだ。

「ここは私が奢るから、好きなのを頼んでいいわ」

「はあ……では紅茶を」

 そもそもなんのために呼ばれたのか定かで無いのを一旦忘れて、ウェイトレスに注文を伝えると、レディは座る姿勢をピンと正した。

「それで何か?」

「せっかちね。……見て、うちの店に、こんなのが届いたの」

 そう言ってマミママがテーブルの上に置いたのは、一枚の写真だった。レディがシャンパンの瓶を持ってにっこり笑っている写真だ。瓶のラベルは輝くピンク色で大きく”KRUG"と書かれている。

 写真の背景はお店のVIPルームだとわかりやすいし、レディはドレスも着ている。これは斗真が初めて来店した日の最後に撮った写真だ。だが、肝心の斗真は写ってない。斗真とクリュッグロゼを挟んで撮ったはずなのに。

「……これ、斗真と撮った写真です。斗真だけ上手く切り取られてるけど」

「やっぱり。クリュッグロゼをレディにプレゼントしたのは白鳥様だけだものね……」

「あのこれって」

「あのね、同封されてたメモがあって、貴女の生年月日と、学校名が書いてあったわ。これよ」

 メモは粗末な紙で、とても手紙といえるようなものでは無いが、書いてあるレディの情報に嘘偽りはなかった。

 レディは驚きを隠せず、目を見開いてマミママを見据えた。マミママは困った顔で自分の頬をなでた。

「封を開けたのがボーイだったものだから……」

 そこまで言われれば、レディにも事の重大さが理解できた。つまり、バレてしまったのだ。まだ就学中で、水商売では働けないこと、お酒を飲める歳でもないこと。

 レディはため息をついて、マミママの次の言葉を待つより先に、自分から頭を下げた。

「ごめんなさい」

 写真なんて撮らなければ良かった。斗真に対して警戒心が足らなすぎた。そんな酷いことをするわけがないと勝手に思い込んでいた。最初と同じように疑ってかかればこんな風にならなかった。これはレディが斗真に絆された、その油断が招いた結果だ。

「大問題になる前に、私は辞めた方が良いってことですよね。今ならまだ、マミママは何も知らなかったで通せる」

「わかってくれる?」

「はい。ご迷惑おかけして本当にすいません」

 レディはもう一度深くお辞儀した。謝っても謝りきれない。どれだけ彼女にとって損失だろうか。レディには最大限、気を使ってくれたのに。

「いいの、分かっててお願いしたのは私だから。蘭にも辞めてもらわなくちゃいけないけど」

「蘭にまで……」

 確かにマミママは二人がまだ働けない年齢なことを知っていて、女の子の数が足りないからと受け入れた。いつかこうなるかもしれないというリスクは受け入れていただろう。

 けれどそれ以前に、馴染みがあるレディたちが生活に困っていると言われたから、少しでも助けようと思ったに違いない。その優しさを全部無下にしたのだ。

 蘭だって一人で勇気がわかないレディのために、お酒が得意じゃないのに付き合ってくれて、なのに辞めさせられることになるなんて。全てレディの中途半端な行いのせいで。

 レディは震えて俯くことしかできなかった。マミママがレディの頭を優しく撫でる。

「あの子、水商売向いてるから卒業したらまた声かけるつもり。あんまり気にしないで。レディは?」

「遠慮しておきます。多分向いてないです、私」

 斗真という客がいなければ今頃毎日吐いていただろうし、レディは蘭と違ってちょうどいい男性の断り方や甘え方を知らない。

 項垂れているレディの前に先程のウェイトレスが紅茶を差し出した。レディがカップを手に取ると、ふわりと紅茶独特の香りが広がった。

 レディが淹れる紅茶は勿論、斗真が淹れる紅茶にすら遠く及ばない粗末な香りだが、それでも心を落ち着かせるには少しは役に立つようだった。レディはなるべく丁寧に紅茶の味を味わって、カップを置いた。

「白鳥様は、本当にお仕事でしかうちを使ったことがないの。彼よりずっと年上の方がうんと気を使うくらいだから、きっとご自分の事業を成功されているんでしょうね。だからたくさんの女の子が彼に言い寄ったけど、やんわり断られるだけ。レディみたいに特別扱いされるのは本当に初めてだったのよ」

「斗真は、私に優しくしてくれました。すごく……」

「白鳥様は貴女を独り占めしたくてこんなことをしたのかしら?」

「わかりません。私を困らせたがるような人じゃないんです」

「庇うのね。裏切られたようなものなのよ」

 マミママはため息のようなものを漏らした。呆れているような、諦めているかのような、力の無さ。

 嫌がらせのようなことをされて憤りがないわけではない。それでも、それでも斗真を悪人とは思えないレディもいた。斗真はレデイに常に優しかった。彼は愛情を口にしながら決して軽々しい振る舞いをしなかった。そんな男を、どうしても悪人とは思えない。

 それに昨日彼を振ったのはレディの方だ。"好きといえばいい"という言葉をあしらって、これまで散々優しくしてくれた人に、冷めた態度をとった。

「振ったのは、私ですから……恨まれてもしょうがないっていうか」

「ええ? お金を使ってくれる客を普通は振らないのよ?」

「あ、あはは……やっぱ向いてないですね、私」

 普通の、水商売の女の子なら、彼の言葉を受け入れて、嘘でも"好きだ"と言っただろうか。さらなる投資を、支援を望んで。毎日会って、愛の言葉を嘯いて、見返りにたくさんのシャンパンを入れてもらって、美味しいものを食べさせてもらう。

 懸命に想像してみたが、レディにはとてもできそうになかった。汚れてもいいと思っていたのに。こんな風に中途半端だから、裏切られる。

 遠い目をし始めたレディに、マミママはじんわり微笑むと、自分のカバンから封筒と領収書を取り出した。

「お給料、働いた分だけだけど持ってきたわ。領収書を書いて欲しいんだけど」

「……私、受け取れないです」

「気にしないで受け取って」

「領収書は書いてもいいので、それは受け取れません。マミママへの迷惑料としてお支払いします」

 何度かの押し問答の後、レディの確かな強い意志を感じたマミママは引くことを選んだ。

「あなたがそれでいいなら……頬、こけてるわ。ここでパンでも食べていったら?」

 レディが少し痩せたような気がして、マミママは心配で仕方がなかった。メニュー表を差し出すと、レディは首を横に振る。

「これから教会に行くので、大丈夫です」

「教会? そうなの?」

 無宗教のマミママには教会に行けば何かしら食べさせてもらえるという意味にしか聞こえなかったが、レディにそんな意図はなく、教会を手伝いたいので食事の時間はないという意味でしかなかった。

 いまいち噛み合わないまま、二人の中では成立していた。レディは改めて謝罪してから席を立った。




◆◆◆


ここから少し長く鬱展開

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