第4話 愛のない愛情

 指定された身だしなみ以外にも、髪を多少巻いて、簡単にハーフアップにしたり、薄化粧を施したりと、大人の男性の隣を歩いて恥ずかしくない程度に自分を整えたレディは、家の前に横付けされた高級そうな国産車の助手席に乗り込んだ。

 本人に全くその自覚はないが、元々の顔貌が割と整っているので、薄化粧のほうがナチュラルで、若く瑞々しい美しさを際立たせていた。斗真は隣に乗り込んだレディの美しさに満足げに微笑んで、当然のように褒め言葉を口にする。

「かわいいね、レディ」

「本当に思って言ってる? 慣れてる感あるわよ」

 あまりに言い慣れているような声の抑揚に、レディは斗真を睨んだ。

「はは、ごめんね。慣れてないと言ったら嘘になるけど。でも本心だよ。君は何もしなくても美しいけど、お洒落するとうんと素敵になるね」

「そういう、褒め方心得てますみたいな言い方が、慣れてる感出てるの! 斗真って顔もいいし、性格もそんなだから恋人がたくさんいそう」

 どんな人が斗真の恋人になるのか想像して、レディは劣等感で辟易した。きっと、朝食に行こうと誘われたら、ある程度どこに連れていかれるのかも想像が及んで、どういう服装がふさわしいかも瞬時に理解できて、あまつさえ、その衣装がクローゼットにきちんと用意されているような、そういう大人の"レディ"に違いない。呼び名は同じなのにこうも違うとは。

「イメージ?」

「そう、イメージ」

 想像で自分を傷つけたレディの内心を知る由もない斗真は、酷く楽しそうに笑って車を走らせた。何がそんなに面白いのか、レディは思わず唇を尖らせる。

「にしても心外だなぁ。僕は今フリーだよ?」

「前はいたでしょ?」

「それはまあね。興味ある? 初体験から教えてもいいけど」

 ――初体験。それっていくつの時の話なんだろう。まさか中学生――と俄かに興味を抱いてしまった自分が嫌になったレディは、大きくかぶりを振った。

「やめとく。なんかいろいろとひどそう。セレブは乱れてるって聞くし」

「イメージ?」

「そうよ、イメージよ」

 それ以外わからないもの、とそれは言わずに黙っておいた。やはり斗真は面白そうに笑うので、げんなりしながら助手席のシートに体重を預けた。




 朝食に、と斗真が選んだのは、都心にほど近いおしゃれなレストランだった。ホテルのビュッフェではなかったことに何とか安堵感を覚えたが、案内してくれたウェイターの所作が洗練されていて、あまつさえレディが座るのに合わせて椅子を引かれたときは、あまりの分不相応に居た堪れない心地になった。あなたにサービスされるような階級の人間ではありません、と泣いて土下座したいくらいだ。

「何にする?」

 自分はすでに決めているのか斗真はメニューを一瞥もせず、レディに問いかけた。

 レディは、一通りメニューを眺めた。だが朝食にするにはどれも値段が張るし、どんな味なのか全く想像できなかった。

「斗真にまかせるわ」

 そう言ってごまかすようにメニューを置くと、レディは店内を見回した。

 平日の昼間だからなのか、それともここはそもそもたくさんの客をいれないのかはわからないが、店内は閑散としていて、人の話し声もまばらだった。数組いる客はどれも身なりから見て、中・上流階級の人たちばかりだった。斗真は"カジュアルな"といったが、レディにはとてもそうは感じられなかった。レディにとってカジュアルとは、Mのマークのファーストフード店とか、オレンジの看板が特徴の牛丼屋なのである。祖父は好まなかったが、レディは学校の友達と何度もそういう店に足を運んだ。確かに結婚を考えている女性を連れて行くのに適切な場所だとは思わないが、価値観の違いをレディは強く感じていた。

「……そういえば、斗真は仕事じゃないの?あ、学生だっけ?」

「どちらもある程度融通が利くんだよね」

「どちらも……?」

「僕は大学時代に起業してるんだよ。父親がね、学生を終えるまで家業は手伝わせないって意固地だったから、自分で稼ぐことにしたんだ。仕事は基本オンラインだからメールや電話が来ると対応はするけど、急ぎは今ないはず。大丈夫」

 斗真はスマートフォンを手にもって、二、三度揺らして見せた。それが商売道具ということだろうか。

「すごい。起業って……社長ってこと?どうやって時間作ってるの?」

「うーん。毎日授業があるわけじゃないから、大学生って案外退屈だよ。高校生のほうが忙しかった気がする」

 ぼんやりとつぶやく斗真はあまりその時のことを覚えてないようだ。どこの大学に通っていたのか、今どこの大学院にいるのかは知らないが、彼の持つ独特の雰囲気から、それなりの偏差値を持っているに違いないとレディは予想した。

「そうなんだ……大学かぁ。行けそうにないわね……」

 もうすっかり授業は暗号で、今日も学校を休んでしまった。それに経済的な問題も、何も解決していない。斗真に訴えても、彼は"援助してあげよう"としか言わないだろう。

「どうして進学したいのか聞いてもいい?」

 落ち着いた声で斗真はレディに問いかけた。レディは過去のことを遡るようにして記憶を手繰りながら、どうして大学進学を選んだのかを口にする。

「祖父の希望よ。今は女性も社会で活躍する時代だから、学歴はあっても損がないって。学生は勉学が本分だっていつも……。だから私、生きていくことがこんなに大変だなんて知らなかった。あなたのいうとおり、世間知らずだったの」

「レディ自身にやりたいこととかはないの?」

「……とくには」

 何もない。庇護され、庇護者に喜ばれたくて将来を選択した。決してそこにレディの希望はなかった。そもそも働きたいとも、学びたいとも、さほどは考えていなかった。ただ、ただ日常を繰り返していたかった。

 そんな浅はかなレディに、順風満帆でこの世の春を満喫していそうな経営者の斗真を喜ばせる言葉は浮かばなかった。別に喜ばせる必要はないのだろうが、わけのわからないプライドがレディから言葉を奪った。

「立派なことじゃなくていいんだよ。たとえば、今食べたいものは?」

 剽軽に笑う斗真に、レディも自然と態度が緩んだ。

「オムレツが食べたい」

「好きなの?」

「朝はね。オムレツかスクランブルエッグなの。祖父が洋食しか食べない人で」

 思い出すと少し心が軽くなった。朝に弱いレディは、香りのとんだ紅茶で頭を起こし、祖父のために卵を焼く。オムレツか、スクランブルエッグ。その確率は、単純にレディがオムレツに失敗してスクランブルエッグになる確率だ。

「じゃあオムレツを頼もう」

「えっ、メニューになか――」

「どこの店にも卵は置いてあるし、ここのシェフは知り合いなんだよ。ちょっとくらいのわがままは聞いてくれるから」

 レディの言葉を柔らかく遮った斗真は手を挙げてウェイターを呼びつけた。


 斗真が店にわがままを言って用意させたオムレツは、レディがこれまでに作ったことのないような絶品だった。二人は食事をしながら会話に勤しんだ、

 五つの年の差はあっても、年若い二人の会話は弾んだ。好きなお笑い芸人が一緒だった。斗真は実際その芸人に会ったことがあって、一緒にお酒を飲んだこともあるらしい。レディにそんな機会はないから、その辺の人間関係の広さは圧倒的に異なっていたが。

 とにかくまるでデートのような一時を終えて、レディと斗真は帰ってきた。朝食を奢らせておいて、さあ帰ってください、とあしらうのは礼節にかける気がして、レディは"食後の紅茶はいかが? 今度は私が淹れるわ"と、初めてきちんと家に招き入れた。

 斗真にリビングにいるよう促して、レディはキッチンで紅茶の支度をした。朝はストレートだったから、今度はチャイにでもしようかと、普段使っているブロークンオレンジペコーではなく、煮出すのが容易なCTC製法の茶葉を取り出した。

 煮出す間、少し時間がかかるのでリビングの様子を見に行くと、とある机の前で斗真が棒立ちしていた。何があったっけ、とレディが考えをめぐらすと、そこには放置を続けている郵便物の山が雑然と置かれているはずだった。見られてしまった、とレディがおずおず斗真の背中に声をかけると、深い笑みを湛えた斗真がゆっくり振り返った。

「……レディ。この貯めこんでる郵便物の束、きちんと全部読んでる?」

「え、あ……その、忙しくて」

 まるで取り調べを受けているかのような重々しい空気にレディは目を泳がせた。その郵便物を放っておいたおかげで、昨日は電気が止まるという憂き目にもあった。今日きちんと全て確認するつもりだったのだが、なんやかんやで目を通す暇はなかった。

「水道、今日で止まるよ。明日の朝に閉栓作業にくるらしい」

「えぇっ嘘! 電気の次は水道? どうしよう、現金ないのに」

 そこまで口を滑らせて、慌ててレディは自分の手で口を抑えた。時すでに遅く、斗真の顔が強張っている。

「……電気の次?」

「昨日電気が止まって……は、払ったわよ!慌てて」

「普通、一回引き落とせなくても督促が来て、何度目かで止まるはずだよ。レディ、ずっと通知を無視してたの?」

「だって、よくわからないもの。難しいし、死亡手続きとか、やることも多くて……葬儀代で祖父の口座のお金は使い切ったし、私の現金も……」

「レディ」

 斗真の口調は怒っているように聞こえた。有無を言わせないような威圧感にレディがたじろぐ。

 暫くそうしてにらみ合っていると、レディがハタ、と気が付いた顔をして斗真を見上げた。

「……水、止まったらトイレできない?」

「タンクに残ってる水をちまちま使えばできないことはないかもね。でも紅茶は飲めないし、シャワーも浴びれないよ」

 斗真は呆れた声で肩を竦めた。レディはすっかり顔色を悪くしてしまう。

「昨日、バイトしたんだろ?その時のお金は?」

「……週払いなの」

 そう、昨日現金が手に入っていたならよかった。けれどもうレディの財布の中には雀の涙ほどの現金しか残っていない。小中学生のほうがもう少しもっているくらいだ。

 事情を察した斗真はため息をつきつつ首に手を当てると、

「ちょっと待ってて」

 とだけ言って、先ほど脱いだばかりのジャケットを羽織った。手には、きっと水道代の支払い用紙が入っている封筒が握られていた。

「ね、待って斗真、その封筒もってどこ行くの」

 玄関先で靴を履こうとする斗真の背中にレディは遠慮がちに声をかけた。神経を逆なでしてはいけないような、重々しいオーラを斗真はまとっていた。

「払ってくる。水道代」

「いっ……いやだやめて! 家賃も返してないのに!」

「そんなこと言ってる余裕がレディにあるの? 現実見て!」

 ぴしゃり、と強い言葉を放った斗真に、レディが初めて怯えを見せた。

 カタカタ震えながら、今にも泣いてしまいそうな声で、

「ごめんなさい……」

 と謝罪する。こういう大事な書類を放っておいてはいけないことを、レディは十分に理解できてはいなかった。

 レディを怖がらせてしまったことを背中越しに気づいた斗真は慌てて振り返って、まだ社会経験のない未成年に、むきになった自分の言動を恥じた。

「僕こそごめん。強く言ったね。大丈夫、怒ってないよ。じゃあ、今回は僕がお金を貸すってことにしよう。いつになってもいいから、レディは返す努力をして? それもダメ?」

「……だからダメって聞き方はずるい」

「帰ってきたら、紅茶をもう一回淹れてくれる? 僕のために。愛情をこめて」

「見せかけの愛でよければ」

 レディの天邪鬼に斗真は微笑みで返した。肩をすくめて玄関を出ていく斗真は何故かどことなく嬉しそうで、見せかけの愛がそんなに喜ばしいものなのかとレディは首を捻った。


 レディは斗真の帰りを今か今かと待っていた。そして時間が経てば経つほど自分を責め立てた。今朝、甘えていい理由はないと心に誓ったばかりなのに、朝食を奢らせて、水道代を払わせて、これが甘えてないならほかに何があるというのだろう、情けなくて仕方がない。

 暫くすると斗真は帰ってきて、レディに封筒と、領収書を渡してきた。

「それが払い終わった証だよ。ハンコがあるだろ?」

「うん。もし水道が止まったら、これを見せればいいのね」

「そういうこと。……いい香りがするね、チャイ?」

 スパイスの独特の香りが鼻腔を刺激したのか、斗真は顎をあげて匂いを確認すると鋭く言い当てた。レディは神妙に頷いて、斗真の脱いだジャケットを受け取った。

 二人はリビングに戻り、斗真はやはりサイドチェアに腰掛けた。今はきちんと客人なので、ソファのほうに座ってほしいのだが、先ほどの怖い斗真を思い起こすと、一々波風を立てたくなかった。

 三種類のスパイスと、細かくすりつぶして丸めた茶葉をたっぷりのミルクと一緒に煮出すチャイは、スパイスと紅茶の香りが複雑で深い味わいを見せる。CTCのアッサムはまるでモルトのような芳醇さとコクがあるので、ミルクティー向きだ。

 二人は無言で紅茶に一口付けた。テレビでもつけようか、この空気をどのような会話で切り崩そうかレディは考えて、やはりずっと気になっている質問を口にした。

「斗真は、どうしてわたしにそこまでしてくれるの」

「そんなの、好きだからに決まってる。僕の貢ぎ体質を心配してるの? 大丈夫、お金なら一人じゃ使えきれないほど余ってる」

「私、だって、斗真のことを何も……やっぱりだめ」

「レディ。僕の援助を受け入れたくないのは分かったよ。なら、この家にたくさんあるアンティークの雑貨を売ってお金にしようとは、やっぱり考えられない?」

「それなら、――それなら、生活保護を受けても変わらない。私はここを、祖父の記憶を守りたいの」

 ――やはりダメだ。

 レディは静かに首を振った。紅茶の一杯程度では、やはりダメだ。もともと無償で与えるつもりだったものなのだから、斗真はそれで十分だというだろうが、レディ自身がダメだと言ってうるさかった。それに斗真が差し伸べてくれる厚意を、――これから与えようとしている様々なものを、断りきれる自信がレディにはない。レディが言っているのはただのわがままで、世間知らずの子供の言葉だ。

 お酒の匂いが残ってしまう以上、夜のお店は週末しか働けない。平日もどこかで働こうとは考えているが、まだ何の見当もついていない。もしすぐ見つかっても、給料がすぐに入ってくるわけではない。斗真にいつ、家賃や水道代をすべて返せるのか――レディは下唇を噛んで立ち上がった。

 レディの突然の行動に驚いた斗真は、飲みかけの紅茶を嚥下して、カップをソーサーに置いた。優雅な所作は、音を一切立てなかった。

 ――美しい人。

 都会的で洗練されていて、下心のようなものの片鱗すら見せない。何の他意もなく、まともな見返りも望まず、こんな小娘に優しくする人。くだらない"愛"とやらのために。

 レディは笑ってしまいそうになるのをこらえて、斗真のニットの裾を引っ張った。

「どうしたの?」

「立って」

 レディは斗真を立ち上がるように促した。言われるがままに斗真が立ち上がると、至近距離でお互い向かい合うような形になった。レディは、斗真の身長がかなり高いことに気づいた。先ほど外に出かけたときは、自分がヒールを履いていたので、気づかなかったのだ。

「こっちきて」

 遠慮がちにレディは斗真の手を握った。そのまま一度廊下に出て、寝室へと歩み進める。昨晩二人で過ごしたベッドの前に来てやっと手を離すと、レディは斗真に座るように促した。

 斗真は不思議そうに首をかしげながら、ベッドの縁に腰掛けた。レディも、なるべく接近して斗真の隣に座った。

「ねぇ斗真」

「なに? レディ、一体急にどうしたの? 手が……震えてる」

 斗真は優しくレディの手を取って握った。紳士的な行動は、昨晩レディを甘やかしたそれを彷彿とさせる。

「私はあなたにわがままを言ってる? 自分勝手なことを?」

 レディは握られてないほうの手で斗真の顔に手を伸ばした。端正な頬に触れ、髪を少しだけ払うと、ちらりと耳にピアスが見えた。少々意外だった。斗真は確かに女性の扱いがスマートだったけれど、どこか誠実に見えたからだ。嫌味がないユーモアのセンスはあっても、軽薄な男には思えなかった。だから、剽悍なアクセサリーに、これまで見えなかった斗真の一面が見える気がしてレディの胸が高鳴った。

「僕の周りにはもっと不遜なわがままを言う女の子もいたよ。レディは全然……うーん、君はもっと男慣れしてると思ったけど、案外そうでもないんだね」

「ビッチだって言いたいの?」

「違うよ。君はたぶん僕が見てきた中で最も貞淑な女性かもしれない。まぁそれはどっちでも僕は構わないけどね。例えばベッドの上で君が急に女豹になっても驚かない自信がある」

「難しいこと言わないで、ハードルが上がった」

「なんの? ……ああ、もしかして、ベッドに誘ったのは? 昨日みたいに子供っぽく甘えたいわけじゃないんだ?」

 レディの意図を簡単に理解する斗真にそれ以上言わせまいと、レディは斗真の胸を押して、ベッドへ倒した。

 行動を予想していたかのようにすんなり倒れた斗真は、悪戯の機会を伺う子供のように無邪気な笑顔でレディをじっと見上げた。

「私はあなたをどうとも思ってない。赤の他人」

「うん」

 ――これでいい。私は今から悪い女になるのだ。

「あなたは私が好きなのかもしれないけど。だから、そう、だから、私は斗真のお金を目当てに、斗真の気持ちを利用するのよ」

「……悪ぶらないと、セックスもできないなんて、レディの性格は難儀だな」

「うるさい、黙って」

 レディは斗真に覆いかぶさるようにしてキスをした。ぎこちなく舌を入れようとすると、斗真がレディの後頭部に手を当てて、行動を制限した。激しく貪った後、力の抜けたレディを押し返してベッドに転がした。

 斗真はそのまま口の端をあげて、レディの膝に手を入れると一度抱き上げて、頭が枕の上に載るように身体の位置を直した。そのまま流れるように組み敷いて、レディの髪をゆっくり撫でた。

 レディは呼吸を整えて、目を伏せた。

 ――心を、閉ざして。

 怖いのも、痛いのも、きっと一瞬。大丈夫。できる。――ごめんなさい。

 レディは心の中で謝った。レディの心中をどのくらい見透かしているのかはわからないが、斗真は軽く笑って、レディの細い首とその下で赤く火照る肩を掌でなぞった。

「あ……」

 自分から変な声が出た。レディは思わず口を抑えた。流石に高校三年生だ。全くそういったことに無関心だったというわけでもなく、周囲の友人にアダルトビデオを見せられたこともある。けれどそれらすべては視聴者を喜ばせるための演技だろうと思っていた。まさか自分から出るとは思わなかったのだ。

「レディ、大丈夫。集中して――」

 集中、何に? 言葉にしなかったレディの思考を斗真はすっかり見抜いていた。

「ゆっくりするから。落ち着いて、ちゃんと感じて。――僕の手が、唇が、君のどこに触れているか」

 レディは言われた通り神経を研ぎ澄ませた。斗真の右手は今、優しくレディの左頬と耳を。左手は体のラインを触れるか触れないかの力加減でなぞった。反射で勝手に自分の体が仰け反った。そこは別に性器でもないのに、人に触られるとこんなに極端に反応してしまうのか。レディはもうよくわからなかった。

 初めての感覚に耐えながら、目を見開いて震えるレディ。斗真は優しく微笑んで、右の目じりに唇を落とした。ちゅ、ちゅ、と軽いそれは金糸雀の鳴き声にも似ている――なんて穏やかな思考は、右耳とその首筋の間に舌を這わされたことで打ち払われてしまった。

「――っ!」

 声にならない声だった。逸る呼吸のせいで酸素が不足して、視界がぼんやりした。新鮮な空気を求めて口から手を離すと、待っていたかのようにその手に指を絡められて、耳の横に置かれた。その瞬間、少しだけ斗真の体重がかかったような気がした。

 無防備になったレディの顔を、斗真が意味深にじっと見つめたと思うと、おもむろに口づけをした。レディが仕掛けた子供っぽいそれよりずっと手慣れていて、何度か角度を変えたかと思うと、ざらりとした感覚が口の中に入ってきた。斗真の舌だった。思わずレディは口内の奥に舌を引っ込めたが、絡めとられるように舌でなぞられ、どうにも言うなりになってしまった。レディの小さな抵抗など、斗真には何の抑止力にもならなかった。

 どれくらい長い時間キスされたのか、レディに判断がつかなくなった時、やっと唇は離された。とろん、と思考力が弱まるのをレディは自分自身で感じ取った。まるで麻薬みたいだ、斗真のキスは。恐怖心を感じるほどの快楽だった。

「……こんなの、やだ」

「ん?」

「優しくしないで……お願いだから」

「はは、怖いくせに。普通、優しくされて喜ぶと思うんだけど、どうして? 好きになりたくないから?」

 そんな、どこで経験してきたのかわからない一般常識などに興味はない。今、レディは優しく抱かれたくなかった。揺らぎたくなかった。自分は、悪いことをしているはずなのに。

「絶対ならない」

「それならそれでいい。でも僕は君が好きだから、優しく愛したい」

 "愛"? こんなものは愛ではない。愛とはもっと、春の穏やかな気温のような、花の柔らかな香りのような――。

 こんな、何もかもをなぎ倒してしまうような、強い感情ではない。雨を伴う激しい嵐のような快楽ではない。愛とは、大きな背中、レディを求めさまよう乾いた手のひら――。

「ダメだよ」

「っあ! 待って、待ってそこは――」

 優しくレディの身体を触っていた斗真の指が太腿の間に迫った。覚悟していなかったわけではないのに。慣れない感覚に襲われて、レディは涙を流しながら首を横に振った。今はだめだ、今は――。

 レディの逡巡も、葛藤も、斗真にはお見通しだった。むしろこのために、斗真はレディに命令したのだ。"集中して"と。図らずも素直に応じて、感覚を研ぎ澄ませてしまっていたレディは、少し触られるだけでも達してしまいかねないほど、熱がそこに集中していた。

「君から仕掛けたんだ。今頭をいっぱいにしていいのは、僕のことだけ。大丈夫、レディが怖いことは何もしない」

「ちがう、そうじゃ……待って、――――っ!」

 耳を劈くような高い声をレディは上げた。迫りくる快楽と、それに対する恐怖心。怖い、気持ち良い、両方が混ざり合ってよくわからなくなった。

 記憶に残ってる、最後の視界は、綺麗な斗真の顔が、悲痛にゆがんだその瞬間だった。





『たぶん追い出されるから、すぐに帰ってくる。……んじゃ、なかったんですか?』

 レディが寝息を立てていることを確認して、斗真は煙草を吸うために家を出た。ついでに、なりっぱなしのスマートフォンの着信に出ると怒号とまではいかないが、明らかに怒気のこもった低い声が、皮肉を言って斗真を詰った。

「それが大収穫で。僕もまさかの展開だけど」

『まだ彼女と一緒に? このまま本当に結婚するんですか? 相手未成年ですよ』

「うーん……一緒にはいるけど。結婚はまだ先の話だね」

『なのに二晩一緒にいるんですか? あなたは……まあ、あなたらしいんですけど、彼女も彼女ですね』

「あ、怒るよ、そういうこと言うと。まぁ、レディが魔性には違いない。とにかく家のことは任せた。週末ミーティングあるし、明日は帰るよ」

『そうしてください。"あしながおじさん"』

 ぶつ、と通話が途切れた。佐々木め、言いたいことだけ言って切りやがったなと、心中でいつもの愛のこもった毒を吐きながら斗真はスマートフォンの電源ボタンを押した。

 吸い終わった煙草の吸い殻を、中では吸わないのに取り付けてある蓋つきの車載灰皿に捨てた。

 車のドアを閉め、レディの家に戻ろうと後ろを振り返ると、平屋の建物がどこか暗く鬱蒼として見えた。まるで外部からの侵入者に吠える番犬かのように、家全体が斗真の存在を拒んでいた。

 いや、そう感じてしまうのは、自分の中にふつふつ湧き上がる罪悪感のせいかもしれない。長い間守ってきたであろう可憐な花を――決して散らしはしなかったが、あまりに甘ったるい誘いに負けて、花びらをほんの少しばかり摘まんでしまったのだから。

「……今更、死んだあんたに何ができる」

 斗真は悪態ともいえる言葉をつぶやいた。もう覚悟は決まっている。うまくやってみせる――花盗人は、罪ではないのだから。

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