第3話 無為の優しさ
「忌々しいなぁ」
斗真は仕事用デスクのワークチェアに深く腰掛けて、スマートフォンをいじりながら独り言を呟いていた。
手元には、画像を投稿し、"イイネ"を送り合うSNSのアプリが表示されていた。複数の男性と、少女が酒のボトルを片手に映っている写真。ハッシュタグには"Lady Challenge"と銘打たれている。
忌々しい。だが斗真がレディに惹かれたのは、確かにこういう部分があるからなのかも知れない。一見純朴な、春の木漏れ日のようでいて、どこか嵐のような隠れた激しさを持ち合わせた美しい少女。
斗真が緩慢な動作でデスクの引き出しを開けると、中にはキーホルダーも付いていない鍵が閉まってあった。斗真はそれを手にとって、ジーンズのポケットに入れた。
流石に夜は少し冷えるので、薄手のニットだけでは心許ない。斗真はダークグレーのテーラードジャケットを羽織って、部屋を出た。
階段を降りると、付き人の佐々木がリビングから顔を出した。
「斗真さん、こんな時間にお出かけですか」
「ちょっと野暮用。多分追い出されるからすぐに帰ってくる」
「追い出さ……って」
斗真の取り澄まさない発言に、佐々木は呆気にとられたが、すぐにシニカルに微笑んだ。
「ふふ、車を回しましょうか?」
「いや、僕一人でいい」
「"僕"。……彼女のところですね」
接する相手でころころ変わる斗真の一人称から、佐々木が行動を推察する。斗真は苦虫を嚙み潰したような顔をして佐々木を指さした。
「一人称で判断するのやめろよ。怖い」
「それを言うなら使い分けるあなたのほうが……ああいえ、野暮でした」
佐々木の歯に衣を着せているのかどうかいまいちハッキリしない皮肉めいた発言を、斗真はいつものことながら、愛のこもった毒で返す。
「お前ほんと首にするよ」
「はは、冗談やめてくださいよ。いってらっしゃい」
冗談で済む間柄だからこそ許されるやり取りを終えて、斗真は地下のガレージに向かった。目的地は割と近く、歩いていけない事もないが、近頃移動はもっぱら車だった。
ずらりと並ぶ高級車の中から、なるべく目立たない国産車を選んだ。斗真自身は嫌いではないが、何せ外車は目立つ。
斗真は車に乗り込と、手首を揺らして時計を見た。時刻は深夜二時を回っていた。軽く目を細めてから、ブレーキを力強く踏み込み、プッシュスタートスイッチを押してエンジンをかけた。
◆
深夜三時過ぎ。やっと店の営業が終わった。店は大盛況で、マミママはレディのおかげだと褒め称えてくれた。
レディが着替えて一呼吸ついていると、泥酔した蘭が後ろから抱き着いてきた。
「レディぃ……おつかれぇ」
「蘭こそお疲れ。お酒弱いのに頑張ったわね」
「頑張った! ドリンクバック稼いだ! すぐもらえないのが残念だけどー」
「週払いだっけ」
「今週の分は来週の出勤日にくれるってさぁ。そのときにーなんだっけ、りょーしゅうしょ? 書かなきゃいけないんだよね」
そうか、とレディは息を付いた。過激な店柄であるから時給も良い。新人だから客側が遠慮したのかもしれないが、然程べたべた触られることもなかった。このまま働けば、一週間後にはまとまったお金が手に入る。現金が手元にないのは不安だが、人間水さえあれば早々死なないはずだ。
「レディチャレンジのドリンクバック凄い事になってそうだね。レディは」
「あれってどこまでバックになるんだろ……今度聞いとく」
レディはすぐに計算できる時給にしか興味が無かったので、そこら辺のシステムについてはおざなりな理解しかしていなかった。どちらにせよバックシステムは不安定で、計算するときの指標にはならない。おまけ程度の存在だ。
ボーイの送迎車に乗って、帰路を辿った。蘭は他のスタッフともすっかり仲良くなったようで、車内でかなりはしゃいでいた。高い声に、レディが頭痛を覚えそうになっていると、見慣れた住宅街に車が入っていった。レディが住んでいる場所は中でもかなり外れにあるので、一番最後に降ろされることになった。
ボーイと軽い挨拶を済ませて車を降り、家の鍵を鍵穴に指すと、酷い胸焼けに襲われた。目眩と共に視界が揺らめいて、鳩尾からなにか湧き上がってくるような感覚を覚えた。
すぐにそれが吐き気を伴う気持ち悪さだと自覚したレディは、慌ててドアを開け、靴も適当に脱ぎ捨て、トイレへと駆け込んだ。
明かりをつける余裕がなかったので、真っ暗な中、便器と思しきところを手で確認して、その中に胃の中のものをすべて吐き出した。一度吐き出すと繰り返すようで、何度も何度も嘔吐する。
レディは酒に強い。飲んでる間はどれほど飲んでも全く顔に出ない。けれど身体に少しも負担になっていないというわけではないようで、家について気を抜くとすぐに吐き気に襲われる体質だった。
「はっ……はっ……でんき……」
せっかく電気代払ったのに。止まっているわけでもないのに明かりをつける余裕がない。苦しい。苦しくて苦しくて仕方がない。
段々と暗闇に目がなれてきて、トイレのウォシュレットの電源の明かりなどで周りを判別できなくはないが、この暗さは流石に不安を煽る。どうにかして明かりをつけようと手を伸ばすが、立ち上がるだけの元気はない。
祖父がいれば、すぐに心配して駆け寄ってくれたはずだ。手探りで明かりをつけてくれただろう。――一人とはこんなにもままならないのか。
レディは涙を流した。吐き気の苦しさで泣いているのか、己が置かれた酷い孤独感に泣いているのか、よくわからなかった。
「うっ……ううう」
嗚咽のようなものが零れてきたその時、パチ、とスイッチを押す音が響いて、トイレに明かりが灯った。
先程は暗くて泣いていたのだが、今度は突然ついた明かりに吃驚して泣きべそをかいた。一人暮らしの家で勝手に明かりがついたら誰だって怖い。
レディが背後を振り返れずに怯えていると、その場に聞き覚えのある声が響いた。
「レディ」
男性にしては高めのトーン。涼しげな青年の声。落ち着いて振り返ると、整った顔が視界に飛び込んできた。
「……とう、ま?」
相変わらずのカジュアルスタイルに高そうな時計、綺麗な顔立ち。間違いない。婚約者などと嘯き、レディの家の半年分の家賃を払った御曹司、その人だ。
何が起こっているのか到底理解が追いつかないレディの頭に、斗真は追い打ちをかけるようなことを言う。
「お巡りさんここです。未成年飲酒の現場です」
「たっ、ただ吐いているだけよ! お酒は飲んでない!」
「ははっ冗談だよ。別に警察なんか呼んでない。でもこのきっつい酒の匂いでその言い訳はアウトだと思うよ」
冷静な斗真の言葉に、またからかわれた、とレディは憤慨した。隠しもせず舌打ちを思いっきりしてみせる。
「なんで斗真がうちにいるの」
「その前に鍵が開いていたことを疑問視しないの?」
「……鍵、あいてた?」
どうだっただろうか。鍵を回した記憶は勿論ない。慌ててドアを開けたら開いていたのか。気にする余裕がなかっただけなのか。
「あいてたでしょ。僕が先に入ってあけてたから。覚えてない?」
「気持ち悪くてそれどころじゃ……うっ」
今一度吐き気を覚えたレディは、便器に向かって吐き出した。便器の中の水が埋め尽くされるほどの吐瀉物が、明るいところで見るとなおのこと気持ち悪くて、レディは慌てて水を流した。
「……はぁ、なんでうちの鍵持ってるのよ」
「大家さんがくれたよ。半年分の家賃を支払った時」
あのクソ大家、とレディは心の中で大家さんを罵った。どうして家主の許可無く合鍵を渡すのか。
「それならそうとあの時言ってよ! 不法侵入罪で警察呼ぶわよ!」
「なら僕は君の未成年飲酒禁止法違反の罪も知っているからおあいこだね。さて取引しよっか?」
クソ野郎、とレディはこの短時間で二度目の暴言を心の中で吐いていた。取引なんて、そんなのレディに分が悪い。半年分の家賃を斗真が払っている以上、この家は斗真のものと言っても差し支えはないのだ。ここでまとめて返してやれるならいいが、先立つものはないので文句も言えない。
「……最悪。何もかもが最悪。気持ち悪い」
「それ、僕に対して? それとも自分のお腹に対して?」
「どっちもよ! ううっ……」
レディはまた便器に顔を埋めた。もう胃の中に吐き出すものがないのか、やや気分はましになっているが、今度は頭痛が酷くなってきた。長い時間車に揺られたからかも知れない。普段の生活で車を全く使わないので、レディはすぐに車酔いする。
「こんな無茶なお金の稼ぎ方しなくても、僕が全部面倒見てあげるのに」
斗真は右手でレディの手首を捉えながら、左手でその背中を撫でた。優しい声がやけに耳につく。
「いいって言ったでしょ!」
「どうして拒むの? ああ、結婚してくださいって言ったから? 君がどうしてもしたくないなら無理強いはしないよ。厚意を受け取ってくれるだけで、僕は別に構わないんだよ」
「私が構うっ」
斗真の穏やかな声とは対照的にレディは叫び散らしていた。こんな時祖父がいたら、優しくレディを守ってくれたのに。そんな事を思ってまた涙が出そうになる。
「ふふ、そう? まあ、もう少し待ってもいいよ。どうせ君はすぐに音を上げる。これまで君のお祖父さんがどんな苦労をしていたか、君は何も知らない。無力で、世間知らずの、"レディ"なんだから」
斗真の言葉はレディの心臓を抉るように突き刺してきた。鋭利な刃物をつき立て、何度も向きを変えて、内臓を、組織を破壊するような、現実的で、冷酷な言葉だった。今まさに祖父に甘えようとしたレディの浅ましさを、あっという間に顕にしてしまう。
「……あなた嫌い……」
「そう、それは残念だね。でも僕はそんな世間知らずのレディが好きだよ」
斗真は優しい声で愛情を表現した。穏やかで、窘めるような声。捉えられた手首にはほとんど力が入っていない。今すぐどうにかすることも彼には出来そうなものだが、レディに厳しく優しい言葉を浴びせるだけで、行動は何も起こさない。
「やめて」
「愛してる」
「やめてってば!」
情けなかった。自分一人でどうにかしようと思い立って、どうにもならず、もうこの世にいない誰かに甘えてしまう、この弱さが。
レディは吐き気が収まってきたので、トイレットペーパーを少しばかり取って口の周りを拭った。こんな言い方は可笑しいが、レディチャレンジなどというくだらない遊びのおかげで、綺麗な吐き方をレディは心得ていた。
口の周りは綺麗になったものの、涙のせいでぐしゃぐしゃになった化粧はどうにもならなかった。レディはその場で力なく蹲る。いつの間にか、右の手首は離されていた。
「……なんで死んじゃったの……」
「彼は高齢で、死因は老衰、天寿を全うした。神の身許に、お祖父さんの魂は……」
「知ったように言わないでよ!」
斗真は祖父がキリスト教徒だったことも知っている。レディは自分がすべて丸裸にされていくような感覚を覚えた。
「うん、そうだね。僕は君を表面的にしか知らない」
「その程度で好きとか、愛してるとか、笑わせないで」
「君は笑うのかも知れないけど、これが僕の本心だよ」
斗真の声に嘘は伺えなかった。本当にこれが本心なら、なんて軽薄な"愛"だろうか。
それでも――いやそれだからこそ、レディの弱さを引き出すのかもしれない。
斗真はレディの動かない背中を暫く眺めていたが、やがてもう吐いたりする気配がないことがわかると、膝に手をかけて立ち上がった。
「気持ち悪いのは落ち着いてきたみたいだし、僕はもう帰るね。僕がいると寝れないだろ?」
「……」
レディは黙したまま、何も言わない。憎まれ口の一つくらいは期待していた斗真は、酷く拍子抜けしてしまう。
「レディ?」
「……一人にしないで」
小さい声だったが、斗真には、はっきり聞き取れた。けれどそのあまりに素直な言葉の選択に、聞き間違いかも知れないと訝った斗真は、おもむろにレディに近づいた。
「レディ――」
「もう一人の夜は嫌なの……お願い……おねがいよ……」
語尾は涙と嗚咽に覆い尽くされて、よくわからなくなってしまった。レディは泣きながら振り向いて、斗真の足に縋った。斗真はしゃがんで、優しくレディを受け入れた。レディにはもう吐いたあとだとかそういうのを全く気にする余裕はなかった。ただ逞しい胸に縋って、泣いて喚いた。
――祖父が死んでから、レディが泣いたのは、これが初めてのことだった。
◆
朝目が覚めると、しゃがれ声が、"レディ、金糸雀が鳴いているよ"と声を掛けてくる。穏やかな朝日、愛らしい鳥の歌声。レディの欠かすことのない毎朝。のそのそと起きて、よくわからない頭で紅茶を淹れようとして、温度の維持に失敗する。香りのとんだ不味い紅茶が、レディのモーニングティー。それらすべてが、悪くなかった。美味しくなくていい、ただ穏やかに毎日を過ごすことができるなら。
「――レディ、金糸雀が鳴いているよ」
同じ言葉でも、声が全く違った。祖父はこんなに綺麗な声はしていない。酒はそこまで好んでなかったが、大好きだった葉巻のせいか、人よりうんとしゃがれ声だった。今朝、レディに声を掛けてきた男の声は男性にしてはトーンも高く、涼しげだ。目覚まし代わりに聞くには、祖父よりも耳障りが良いかも知れない。
レディはふっと息を吐いた。ぐるりと寝返りをうつと自分で何か淹れたのかマグカップを持った青年が鳥籠の前に立っていた。
「可愛いね。お祖父さんの趣味? それともレディの?」
「……あの人の趣味よ。私が初めて会ったのは、三代目だったから」
「三代目?」
「うちで、繁殖させてたの。番を飼って」
「へぇ。金糸雀の雛は飼育が難しいんじゃなかったかな。この子は何代目?」
「五代目よ」
「それはすごい」
斗真は素直に感嘆のため息をついた。チュッチュッと金糸雀が斗真に媚びて鳴く。
「そろそろ番を飼わないと……そんなお金ないか」
絶望感を枕に投げ出した。何もかも祖父がいるときのようには行かない。レディは無力で、世間知らず。斗真の言ったとおりだ。自嘲気味に笑うしか無かった。
斗真はベッドの縁に腰掛けてレディの頬に優しく触れた。そして寝相で乱れた髪を一本一本ほぐすかのように丁寧に直した。
「レディ。シャワーを浴びておいで。あのまま寝てしまったから、少し気持ち悪くない?」
「でも学校……」
「いや、今の君が学校に行っても、生活指導の先生に呼び出されるだけだよ。ひどいアルコールの匂いだから。また婚約者って嘘ついて僕から休みの連絡を入れておいた」
余計なことを、と思ったが正直助かった。これ以上私的な理由で休む連絡を本人から入れると、お小言の一つも言われそうだったからだ。
「……たいへん。これじゃ平日はあそこで働けないわ」
「僕の提案を受け入れる気が出てきた?」
「ううん。平日働けるバイト探さないとね」
「強情だなぁ」
レディはもう昨晩の一時ほど斗真に対して嫌悪感や疑念は抱いていなかった。一晩同じベッドで過ごしたのに、彼は何もしてこなかったからだ。愛の言葉まで述べていたのに、レディが無神経に縋っても、優しく髪を撫でて穏やかな声で"大丈夫"と囁くだけで、それ以上は何もしなかった。
けれど、だからこそ何もかも甘える訳にはいかない。祖父はもういない。レディは一人だ。ぽっと出の赤の他人に、頼っていい理由はどこにもない。
レディは浴室に向かった。シャワーのレバーをひねると、最初に冷たい水が出てきて、暫く待つと暖かくなる。
昨晩甘えてしまったのは、もう仕方ない。何もかもぐちゃぐちゃで、何ならその場にいた斗真が悪い。そこまで考えて、レディは、ハッと気がついた。どうしてあのタイミングで家にいたのか、そう言えば聞いていない。
まさか空き巣に入ったわけもないだろう。彼にとって価値があるものなどこの家には存在しない。それにレディの具合が良くなるのを見計らって帰ろうとしたところを見ると、レディが酔って帰ってくることを見抜いてた可能性がある。
ストーキングはしていないと言っていたし、先に斗真が家にいたのだから、尾行されているわけではないのかもしれないが、発信機とか盗聴器の類をつけられてはいないだろうか。いや、そんなまどろっこしいことをする人には見えない。けれど人は見かけによらないし、レディに優しいのは表面上かもしれない。
「……疑心暗鬼……」
昨晩ほどではなくてもやはりいろいろ考えてしまう。適温に暖められたお湯のシャワーの中、レディは見上げ、白いシャワーヘッドを見つめた。
肌の表面の汚れだけではなく、この心に根付いたくだらない浅ましさごと、洗い流してくれたらいいのに。
レディが浴室を出ると、紅茶の香りがリビングから広がっていた。朝の紅茶はいつもレディが寝ぼけ眼で淹れて、香りを飛ばしてしまうので、こんなに芳しいものは普段嗅がない。この家に今いる斗真が上手に紅茶を淹れてくれているとわかって、なぜか頬が自然と綻んでしまった。
リビングの扉を開けると、祖父の特等席だったサイドチェアに斗真が腰かけて、ティーポッドの中で行われる葉のダンスを眺めていた。
「……その椅子は」
「ん?」
「なんでもない」
もう亡くなった人のことだ。レディは目を伏せて、自分は二人掛け用のソファに座った。斗真に悪意は全くなく、広いソファに腰掛けるのを遠慮しただけであろうことは明らかだからだ。
訝し気にレディを見る斗真に、愛想のいい笑顔を向ける。
「紅茶、いい香りがする。……ありがとう」
レディが礼を述べると、斗真も微笑んで返した。
本当にいい香りがする。斗真の家にレディが訪ねたときは、給仕の女性が紅茶を淹れていたから、彼自身に心得があるとは思わなかった。
やがてジャンピングを終えた葉は、たっぷり水分を吸ってティーポットの底に沈んだ。
頃合いを見計らっていた斗真は優雅な所作でポットの中をスプーンで一混ぜし、しっかり温めていたティーカップにティーストレーナーを乗せ、ポットから紅茶を回し注いだ。量ったようにちょうど二人分を注ぎ終わると、最後の一滴が入ったほうをレディの前に置いた。
「ベストドロップをどうぞ」
「やっぱりわかってるのね。大人ってすごい」
大人の皆が皆、紅茶のゴールデンルールを知っているわけではないのだが、身近に大人が少なかったレディには比べる術がなかった。祖父も知っていたので、大人は皆知っている、と判断するに至ったのだ。
素直にカップを受け取って、一口飲むと深い香りが広がった。ベストドロップには味が凝縮されていて、それそのものには強い渋みもあるが、濾し方がうまかったのか全体としてまとまった味わいになっていた。
「僕は君の紅茶に対する造詣の深さに感心するけどね。実は、朝食の一つでも作ろうかと思ったんだけど、冷蔵庫の中身があまりなくてやめたんだ。折角休みにしたんだしどこかに連れてった方がいいかなと思って。体調はどう?」
昨日あれだけ嘔吐したレディが朝食を果たして食べられるのか、斗真は体調を慮った。
レディは実はかなり吐きなれていた。酒の飲みすぎで具合が悪くなるのは、家に帰ってきたその一瞬だけなので、今ではもう酒なんか消えうせたかのようにけろりとしている。アルコールの匂いだけが、昨晩の激しさを物語っている。
「もう平気だけど……どこかって?」
「ホテルのビュッフェとか。もっとカジュアルなのがいいなら、僕の懇意の店もある」
「どちらにしても高そうね」
レディが紅茶を口にしつつ言ったので、声が多少カップに反射してくぐもった。
「払わせる気はないんだけど。もしかして、こういうのもダメ?」
力なく笑う斗真の柔らかい問い方に、レディは邪険にできなくなってしまった。斗真は顔が無駄にいいので、尚更始末が悪い。
「ダメって……いう、聞き方は、ずるいと思います」
「ぷっ、なんで急に敬語? じゃあ、モーニングデート。紅茶を飲んだら着替えておいで。僕は車をつけて待ってる」
斗真はカップの中身をあっさり飲み終えると、ジャケットを片手にテーブルの上に置いていた車のキーとスタイリッシュな牛皮の長財布を手に取った。
先に部屋を出ていこうとする斗真の背中に、レディが慌てて声をかける。どこに連れて行く気なのかは知らないが、ドレスコードなどがあったら困る。
「私ドレスとか持ってないんだけど平気?」
「ワンピースは持ってる? ジャケットはカジュアルでも大丈夫。靴は高くなくていいからヒールが入っているものを」
「わかった」
最低限の服装を指定されて、それならなんとかなりそうだとレディは頷いた。
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